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火刑戦旗を掲げよ! 作者:かすがまる

第1話 いいから新聞を読ませなさい

「坊ちゃんはつくづく、変な子だなぁ」

 髭を蓄えたその行商人は、呆れたものか驚いたものか定かでないため息を吐いた。

「辺境回りじゃ、どこでも子供たちは玩具に首ったけなのに」

 彼は都市部の便利な生活用品や薬を地方へ売り歩く傍ら、木製の人形や独楽なども運んでいる。嵩張らず軽いので、売れればそれなりの儲けになるのだ。押し並べて貧困な村々にあっては易々と売れることもないが、どこにも1家や2家くらいは小金を持った家がある。

 目の前で玩具に見向きもしない少年も、そんな小金持ちの家の1人だ。5、6歳くらいだろうか。黒髪碧眼の愛らしい顔立ちで、小奇麗な服は村の自製品ではない。さもあらん。彼はここの村長の息子だ。

 北に天境山脈の山並みを大きく仰ぎ見るこの村の名は、キコ村。

 大陸東部を支配するアスリア王国の、北東辺境に位置する村落である。戸数は70戸ほどか。封土としてはヘルレヴィ伯爵領の末端ということになる。メコン麦とシエラ麦……いわゆる貴麦と雑麦の畑作を生業とする点はありふれているが、休耕地での家畜の他に小規模ながら牧場を運営していることが小金の元だろうかと、行商人は当たりをつけている。この地方の馬は軍馬としての需要が高い。

「そうそう、これなんて人気商品なんだよ。ほら、組み合わせると3匹の馬が並んで……」

 続けようとした説明は、小さな溜息を聞かされることで消え入った。接客で磨きぬかれた感覚が、少年の退屈と呆れを認識させたからだ。どちらも商売にはご法度である。

「その、まあ……坊ちゃんの言う物もあるにはあるんだけど」

 どうにも勝手が違うと戸惑いながらも、荷物の中から一巻きの羊皮紙を取り出した。ハシバミ色の筒状を赤紐で結び、固定してある。王都で発行された新聞だ。最近の主要な出来事を網羅した“地方向け”の内容で、行商人にとっては常連客へ運ぶだけで利益を生む手堅い一品である。

「買い取れないのはわかってます。この場で読ませてもらえれば、それで構いません」
「いや、ほら、封をしてあるよね? これは発行元独特の結び方で……」

 フッ、と鋭く鼻で笑う少年。それも衝撃だったが。天使のような顔に浮かんだ皮肉げな笑みを、行商人は呆然と見るよりなかった。

「初めてのお使いじゃあるまいし……結び直しくらいお手の物でしょう?」

 返事も待たずに羊皮紙を取り、慣れた手つきで紐を解いてしまった。日差しの向きが気になったのか行商人と並ぶように移動し、胡坐をかき、眉根を寄せて新聞を読み始める。それが余りにも堂に入った風であったから二の句が継げない。

「おやまあ、王女ご懐妊とは笑止千万」「あの肥満体で司教に出世ですか。司教服も特注ですね」などと、ブツブツと何事かを呟きながら熟読する様子は、どこか都市の酒場なりで管を巻く男たちを思わせる。それを声変わりもまだまだ先の子供が行っているのだから、違和感も甚だしい。

「どうもありがとうございました。またよろしくお願いします」

 読み終えた少年は行儀良くお辞儀をし、スタスタと去っていく。結局、行商人は一言も発することなくそれを見送るのだった。去り際に渡されたのは、羊皮紙と紐、そして1枚の白銅貨である。それは地方における新聞の立ち読み価格として適正であり、告げずともそれを支払った事実が、行商人を追撃しているのだった。

 現実へ回帰したる後、彼は慌てて少年を追いかけた。何か予感があったわけではない。物珍しさでもない。勿論、商機を見出したわけでもない。しかし惹きつけられていた。

 その少年は多くの点で周囲から際立っていた。

 村の子供らに群がられつつ歩いているが、ドタバタと不器用な集団の中で唯1人飄々としていて、細道のぬかるみを器用に避けている。各家お手製の粗末な服装と裸足に囲まれて、彼だけが都会仕立ての服と革靴だ。埃まみれのボサボサ髪を尻目に、肩口で切りそろえた黒髪がサラサラと揺れている。

 ワイワイと賑やかな集団は大きな楠の下へと到着した。日に日に暖かみを増していく春の日差しも、その周囲では枝葉の細やかな陰影として揺れている。一行は大樹の根元にワッと集まり、集積されていた荷物を手分けして分配しはじめた。木製の小椅子、黒く塗られた木板、白墨、襤褸切れ。

「はい、では始めたいと思いますが……」

 楠の幹に立て懸けた木版もまっ黒に塗られていて、満遍なく曇ったような汚れがある。用途は明らかだ。これは教室だ。何某かの教育が行われようとしているのだ。

 それはわかるが、しかし、わからないとも行商人は思う。戦争の匂いも薄らいできた昨今の世の中だが、賊も出れば難民も流れ、まだまだ日々の暮らしに汲々とする者は多い。貧民のための教育など王都ですら御目にかかれやしない。

「何やら余計な見学者がいますね」

 だというのに、ここでは……こんなド田舎と言っていい場所では教育が行われているというのか。しかも教える側に立っているのは最年少に近い少年である。教えられる各自が扇状に、前後重ならないよう工夫して位置取らなければ姿も見えない小躯である。

「む……何やらそこはかとなく不快感が」

 あるいはこれが絵物語にあるような妖精の世界なのかもしれない。商品として扱うには値が張り過ぎるが、そんな本を貸本屋で読んだことがある。今や酸いも甘いも知る髭の行商人ではあるが、彼にだって夢見る子供時代はあったのだ。その視点で見れば……。

「学べる時間は貴重です。邪魔する者には相応の報いを」

 そら……妖精たちがこちらを窺い、そろそろと近寄ってくるではないか。行商人は微笑み、両の手を広げてみせた。世知辛い風に晒されてきた身に、何か暖かな予感が生じたのだ。

 誤解であった。

 小鬼たちに囲まれ、邪険に小突かれたり髭を抜かれたりした行商人は、平謝りするとともに見学料を払うことと相成ったのである。その料金は白銅貨1枚であった。

 安いものだ。授業を聴くにつけ行商人は確信していった。安い。子供らは恐らく無料で受講しているのだろうが、例え毎回白銅貨を支払うにしたところで、都会でも盛況を博すだろう授業内容であった。読み書き計算がその内容だが、提示する例題や問題が実に俗っぽく、珍奇なのだ。

 例えば読み書きについて。一般的な教育施設は教会の影響を強く受けており、反復練習する文言は経典の内容を平易に崩したものであることが専らだ。神話や説話の類である。しかしここでは違う。

「続けて読んでください。『やればできる。やらねばできぬ。とにかくも』」
「「やればできる。やらねばできぬ。とにかくも」」
「『できないときは、あしたまたやれ』」
「「できないときは、あしたまたやれ」」

 俗っぽいことこの上ない。わかるなぁ、と膝を叩きなる行商人である。

「書き取りをしましょう。『兄弟が欲しければ早く寝ること』」
「先生ー、どうして早く寝るといいの?」
「親にも都合があるからです。子宝の魔法は秘密の浪漫です」

 爽やかな笑顔でとんでもないことを教えている少年である。もしも夜に聞いたことのないような悲鳴や唸り声を聞いた場合は報告すること、などと付け加える辺り確信犯だ。股から出てきて数年という分際で何と下世話な、と思いつつも、しかし集まった報告は聞いてみたい気もする行商人であった。  

 計算の例題は教育現場では珍しく、一方で商取引では頻繁に見かける題材だった。10袋のメコン麦を元手にどれだけの物品を手に入れられるか……それは1人の村人と都市の商店街が、貨幣を武器に熾烈な戦いを繰り返す物語であった。

「うう……決めた! 俺は月商会でメコン麦を売ってから、川商店で魚、花商店で服を買う!」
「私は星商会と太陽商会とに分けてメコン麦を売って、川商会で服、草商会で貝を買うわ!」
「はい。決めた方は取引を全て計算した上、残金と物品とを四角で囲ってから板を提出してください。手の開いた人は採点するところを見学するように」

 同業者としても舌を巻かざるをえない内容だ。子供たちは仮想の商店がそれぞれに設定した細かな取引価格や割引、おまけなどを全て考慮しつつ、最も得をするべく計算を繰り返す。注目すべきは、一部の子供は加法減法のみならず乗法すら使っていることだ。あるいは除法を使える子も混じっているのかもしれない。商家の徒弟でもあるまいに……末恐ろしいことだ。

 いやいや、何よりも、それらを教え込んだと思われる少年こそが既にして恐ろしい! 

 授業を終えた子供らがそれぞれに散っていく間も、行商人はソワソワとしてその場を動かなかった。楠の根元では未だ数名が少年を囲んでいる。授業後の質問にも対応するとは何とも丁寧な話だ。全員が去るまで待ち続ける。

「代金分ですし文句もありませんが……暇ですね、あなたも」

 面白くもなさそうに鼻を鳴らして、少年もまたどこかへと立ち去ろうとする。行商人は己を客観視した時の珍妙さを思いつつも、揉み手しつつ並び歩くのだった。

「いや、見事な授業だったね。この村はどこかの商家と関係があるの?」
「あなたのような行商人すら季節に1度来ればいい方です。田舎ですし」
「そりゃ、ま、そうか……じゃあ、どうしてあれほどの算術を……」
「計算ができると騙されにくくなります。お得に生きる知恵ですよ」

 衒いも何もあったものではない。それどころか、これは商人に対する皮肉だ。物を知らない田舎者から安く買い叩き高く売りつけるのは行商人の常識である。

「ええと、じゃあ、お父さんが以前に商人で?」
「生粋の農民ですよ。母もそうです。この辺りは開拓されてまだ30年と経っていませんが、村人の多くはもう少し領都に近い村々の出身です。意味わかりますよね?」
「それは……御苦労なさったんだねぇ」

 アスリア王国は今でこそ西のエベリア帝国と拮抗する領土と勢力とを保持しているが、それはここ数年の急速な復興による成果だ。いわゆる“聖炎の祝祭”以降の話である。それ以前は飽くことなき戦乱の50年だ。

 30年前となるとエベリアの侵攻に押されに押されていた時期だ。アスリア王国は南部に辛うじて抵抗戦力を残していたような劣勢で、中央部や北部はエベリアの色に染められていた。戦時の占領とは往々にして統治の前に掠奪が伴う。それを避けるためには南部へ走るか、辺境へ散るかしかない。ここは後者を選択した人々が開いた村の内の1つなのだろう。

 しみじみと村の来し方を思い、行商人はハタと気付いた。違う。自分が確認したいのはそういうことじゃない。少し開いた距離を早足で追いついて問うた。

「ちょっと聞きたいんだけど、坊ちゃんってどの位まで算術が使えるの?」
「商家の番頭が勤まるくらいは」
「ええ!?」

 驚きの声を上げる行商人に初めて視線を向けて、ゾクリとくるような酷薄な笑みを浮かべる少年。

「利口に生きるなら商人ですよ。まだしばらくは内治復興の時勢が続くでしょうし、成功も失敗も己の力量次第という点が素晴らしい。何より、馬鹿の尻拭いやら阿呆の我侭やらで殺されることもない」

 5、6歳のはずだ。辺境の農村の子供のはずだ。そうにもかかわらず、行商人は少年の碧眼に底知れない深みと畏怖すべき凄みとを見た。職業柄多くの人間と面会してきたが、これほどの迫力に晒されたことは記憶にない。

 いや……1人だけ近い人物がいた、と思い出す。しかし日常において思い返すまいとしていた人物だ。彼にまつわる逸話は多い上に不確かで、世の主流とされる評価は行商人を不快にさせる。

 曰く、王女に懸想した挙句、教会の祝福を受けた勇者を陥れて死に至らしめた大悪人。血に飢え、敵味方なくその刃で殺めることを愉悦としていた狂人。戦争の混乱に乗じて人間社会に害を成そうとしていた魔人。忌まわしきその名はサロモン。

 まだ髭を綺麗に剃っていた頃、行商人はアスリア王国義勇軍の陣中にてサロモンと会ったことがある。物資の納入時のこと。補給担当軍人が代金を満額支払わず、戦中の倣いであると言って剣槍で脅しつけてきた。サロモンはその場に現れるなり「業務上横領である」として担当軍人を処断、その後に「他の物品も買うので割引けないか」と商談に入ったのである。よい取引だったと記憶している。

 サロモン。当時で既に三十路は越えていたろうか。その彼が一剣を振るう前後に見せた圧倒的気配……それが最も近いように思われる。剣すら持てるはずもない少年だというのに。

「坊ちゃん……名前は何ていうの?」

 サロモンと名乗られたなら、それはそれで納得したのかもしれない。

「マルコです」

 違う名だ。当たり前だ。しかしその名は消えない印象でもって行商人の脳裏に刻まれた。そして生まれた仄かな予感は、彼にしては珍しく誤っていなかったのである。即ち。

(私はマルコを知った。世界はまだマルコを知らない。この不均衡は僥倖ではあるまいか。天駆ける竜には手が届かなくとも、未だ地に伏せる幼竜であるなら……その鱗の1つにでもつかまれたならば、凡人でも天の風景を見ることができるのかもしれない)

 後年、風雲急を告げる大陸にマルコが軍を率いて勇躍するその時、腹心の1人としてラウリという男の名が挙げられることとなる。有力商家の手代であるも貴族の不正の片棒を担ぐことを良しとせず出奔、辺境を行商人として回っていた男だ。

 マルコとラウリ。

 この春この辺境においては、2人の間柄は利発な子と愚鈍な父のようにも見えていて、とても世に武名を馳せる主従の過去の姿には見えないのであった。
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