第0話 聖なる炎の祝祭の日
1人の男が燃やされていた。
うず高く積み上げられた薪の中央に丸太が立ち、鉄鎖でもってそれに固定された人間を、油を含んだ猛火が嬲りに嬲っているのだ。火炙りだ。火刑だ。炎が轟々と音を立て、熱を吹く。肉を焼く。命を奪う。
観衆は沸きに沸いていた。老いも若きも、男も女も、富める者も貧しき者も、誰もが目と口とを大きく開いて吠えていた。興奮の坩堝だ。正気の消し飛んだ光景の中にあって、たった3人の男女だけが、その顔を周囲とは違う感情色に染めていた。
「さあ、炎よ、立ち上るのだ! これは浄化である! 炎の断罪である!」
その内の1人。豪奢な司祭服を着た太った中年男が、これも豪華なお立ち台に直立して、衆人環視の中に朗々と濁声を響き渡らせていた。
「畏れ多くも聖定の勇者を謀りて殺めた男である! それは悪魔の所業であり、この男が魔人であることの何よりの証! 我らの悲しみは神の悲しみ! 我らの怒りは神の怒り! これは裁きである!!」
身振り手振りの激しさに、汗と唾とが飛び散った。しかし口から止めどなく吐き出される言葉。それはこの火炎の巷に注がれる油だ。煽りに煽られ、人々の咆哮には絶叫すら混じり始めている。狂える宴だ。悪魔が実在するとして、それを讃える集会があるのならば正にコレであろう。
真っ青な顔で見下ろしている少女がいる。先の3人の内の1人。広場に面した建物の、観覧するのに最も適した2階の窓辺という特等席で、瞬きすることも出来ずに細かに震えている。その身を包むのは清楚にして最高級のドレスだ。身に付けた装飾品もまた同じ。周りを固めるのは護衛の騎士か。
「神よ、ご照覧あれ! そして祝福あるべし! この男の企みを暴き、我らに魔人討伐の栄誉を与えてくれた王女に! 賢明なる王女に! 愛する勇者を失ってなお毅然たる彼女に祝福を!!」
唸りを上げるような熱気が窓の方にも向けられて、少女は小さく跳ねた。凄まじい怖気に襲われたのだ。まん丸に広げられた眼は白々としていて、きつく結ばれた唇は紫がかっている。
「……こ、こんなもの……私のせいじゃ……」
声もなく呟かれる言葉。それは大なる熱量の前に晒された水滴にすら及ばない。
「わ、私のせいじゃ……ない……こんな……」
誰に聞かれることもなく、どこかへ届くこともなし。絶え絶えな息を舌の上で辛うじて編み上げたようなそれは、ぽとりと、知らず後ずさりした少女の足元へと落ちた。
「こんな……気持ちの悪いもの……」
最後の1人にその言葉が届いていたなら、その1人は憤死していたかもしれない。人1人を丸焼きにする火の山を、兵士たちに組み伏せられ、石畳に頬を押しつけられながら見上げる女性がいる。村娘のような服装だが、盛り上がった筋骨は素人のものではない。近くに落ちている剣は使いこまれたものだ。
見開いた双眸の瞳は紅色。それが目立たないほどに白目は血走り、食いしばった奥歯がギシリギシリときしんでいる。鬼のような形相を作る顔は生来の浅黒さを持っている。銀の髪が火の色を反射する。少数民族の出自のようだ。
彼女はこの場でただ1人、炎の中に殺される男を救おうとしたのだ。
その結果がこの有り様だった。身じろぐこともできず、ただただ見据えることしかできない。踊り出さんばかりの観衆の、興奮した足音を震動として受け止めつつ、地獄のような光景を己が魂に焼き付けて。
そら……灼熱の橙色の中心で、黒い柱のように見えるものが遂に崩れ去った。どっと歓声が上がる。踏み鳴らされる靴音。振り乱される手足。骸の無惨も楽しむその喧騒。女は一言も発しない。
「おお! 裁きは下された! 我らの炎により、魔人は今まさに滅びたのだ!!」
この場をオーケストラに模すならば、その司祭服の男は指揮者か。熱狂をその手と口で操っている。
「今日この日こそが栄光の記念日となるだろう! 神の子らよ、歌うがいい! そして祝おうではないか! この日この時に至るまでの苦難は既に過去のものである! さあ、共に杯を交わそう!!」
白いローブ姿の者たちが人々に酒杯を配ってまわる。あらかじめ幾つもの酒樽を持ち込んでいたようだ。まるで祭である。いや、実際にこれは祭なのだ。火勢が静まったる後の空白を陽気な管弦楽が埋める。歌が歌われる。踊りが踊られる。心身に宿った熱量を持て余して……夜を通して。
1人の男の死を。
死の前後を盛大なる宴として。
都市全体が1個の篝火のように夜空へ凱歌を上げている。
そんな全てを他人事にして、幾つかの黒い線が都市から外へと伸びている。用水路や下水路だ。それらはどれも一筋の大きな流れに合流している。流れは緩やかだ。周囲に滋養を振りまき、一方で周囲からの滋養を集めもして、やがて大海へと届くのだろう。
星空の暗さのみを映すその水面の下で……夜影よりもなお暗い……闇色の小魚が咀嚼を繰り返していた。あちらに、そちらに、無数のそれらが泳ぎつつ食事をする。食べられているのは大小に散った炭色の何かだ。都市の中でゴミのように捨てられたそれは、元は1人の男の形をしていた。
塊には群がって啄み、水流に散じた欠片は各個に頬張って、小魚たちは死骸の炭を余さず喰い尽くしていった。それはいっそ丁重ですらある。大事に大事に体内へ納めきって……夜も明けぬ間に歩き始めた。
歩くのだ。1匹、また1匹と水中より姿を現したそれらには足が生えていた。魚の身体に不格好な2本足。ひょこひょこと岸に上がり、草をかき分けていく。その速度は河を離れれば離れるほどに速まる。初め不出来な半魚人のようであった姿は、次第に形を変え、鼠にも似た闇色の疾走者として駆けている。
月光を背に野を越え丘を越えていく様は、まるで地を掃く一陣の風のようだ。炭を孕んだ闇色の無数は、やがて森の中へと突入していく。蠢く生物たちの気配を気にもとめずに、一目散に駆け至ったそこは、妖しくも恐るべき岩窟。駆け込む。奥には灯火の揺らめきがある。走る。一切の音を立てない殺到でもって……闇の小片たちは竈の上の壺へと跳び込んでいったのである。
掠れた声で、歌が紡がれはじめた。
「魂燃えて幾歳……魂消えて逝くとて……」
影が形をとって千切れとれたように、フードを目深にかぶった小柄な人物が現れた。竈へ屈むなり、緑色の不可思議な火が起こって壺を舐めはじめた。
「血は知……朱は呪……恩と怨……縁と厭……」
火の色は緑から青へ、青から紫へ、紫から黄へと目くるめく変化していく。壺の内の闇は煮られていく。しかしそれは熱くない。尋常の火でもなければ、尋常の材料でもないのだ。
魔法だ、これは。
やがて歌も枯れ、多色の火も費え、壺もひび割れて。
ドロリとした液体がこの世に生じ終えた。小瓶に封じられたソレ。
ソレが尋常の世に出ることをもって、この物語は幕を開けるのである。
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