64年東京五輪最終聖火ランナー死去 坂井義則さん69歳、脳出血
1964年東京五輪の開会式で、最終聖火ランナーを務めた坂井義則(さかい・よしのり)さんが10日午前3時1分、脳出血のため東京都文京区の病院で死去した。69歳だった。戦後復興の象徴となった坂井さんは、2020年に開催される2度目の東京五輪観戦を夢見ていたが、思いは届かず。晴れ舞台となった国立競技場閉場の年に、人生の幕を閉じた。
戦後復興の象徴として、国民に勇気を与えた名シーンの主人公が帰らぬ人となった。生前の坂井さんは「前回は最高の特等席でしたから、今度は普通の観客席で五輪を見たいです」と、2度目の東京五輪を迎える夢を語っていたが、かなわなかった。
次男の厚弘さん(40)によると、坂井さんは3月28日、練馬区の自宅で脳出血で倒れて以来、入院。意識が戻ることはなく、10日未明に息を引き取った。昨年9月の東京五輪招致決定から1年。今年5月に閉場した国立競技場のフィナーレを追うように旅立った。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された約1時間半後に広島県三次市で誕生。早大1年時の64年、陸上400メートルで五輪出場を目指したが選考会で6位に終わり、代表の座を逸した。
しかし、組織委が誕生日などに着目。後にマラソンの瀬古利彦氏を育てた早大競走部・中村清監督が「フォームが美しい」と推薦したこともあり、リレー走者に抜擢(てき)された。
雲ひとつない晴天となった64年10月10日。トーチを受け取った坂井さんは7万2000人の観衆が待つ国立競技場へ。スタンド最上部の聖火台へと駆け上がり、見事に点火の大役を果たした。
大学卒業後はフジテレビに入社し、五輪報道に携わった。選手5人が死亡する人質事件が起きた72年ミュンヘンでは変装して選手村に潜入。現場リポートをスクープした。
退職後は、自らの体験談を語り、聖火トーチを触ってもらうなどして、五輪の素晴らしさを伝え続けた。地域の子どもたちとはラジオ体操などを通して積極的に触れ合いの場を持った。
厚弘さんは「父はあまり話さない人でしたが、2度目の五輪招致が決まった時は本当にうれしそうでした」としのび、「ひつぎには、眼鏡と好きだったたばことお酒を入れてあげたい」と語った。トーチはエグゼクティブプロデューサーに就いていたフジクリエイティブコーポレーション社で保管しており、祭壇に供えられるかどうかは未定だ。
◆坂井 義則(さかい・よしのり)1945年8月6日、広島県三次市生まれ。中学から陸上を始め、三次高3年時に国体の400メートルで優勝。66年のバンコク・アジア大会では1600メートルリレーで金、400メートルで銀。68年にフジテレビ入社。05年に退社。