第75回 石田 弘 氏

4. これからはダサい感じでやろう!~『オールナイトフジ』での発想転換

−−その後『ミュージックフェア』を手掛けられますよね。

石田:フォーク・ロックがだんだんメジャーになってきて、「林春生」のペンネームで「雨の御堂筋」や「京都の恋」、「サザエさん」のテーマソングなどを作詞した林良三さんという当時の『ミュージックフェア』のプロデューサーから「『ミュージックフェア』でもこれからはフォークやロックが必要だから入ってくれ」と言われて、僕が入ったら『ミュージックフェア』がだんだん『“ニュー”ミュージックフェア』になっていっちゃったんですよ(笑)。

−−『ミュージックフェア』にも面白いエピソードがいっぱいありそうですね。

石田:いくらでもありますよ。エルヴィスによって知ったビル・モンローとブルーグラス・ボーイズが最後に来日したときも『ミュージックフェア』に出しちゃったんですからね。マニアック過ぎますよね(笑)。彼らを森山良子と共演させて「アイ・ソー・ザ・ライト」とか歌わせて、途中で石川鷹彦を入れてソロ回しをしたら、石川君のほうが向こうのギタリストよりも上手いもんだから「うちのギターじゃなくておまえがソロをやれ」って(笑)。彼もいい思い出なんじゃないかな?

−−確かにある時期から『ミュージックフェア』にも外タレやフォーク・ロック系のミュージシャンがたくさん出るようになりましたよね。

石田:なぜフォークやロックの歌手が出演してくれるようになったかというと、テレビがステレオ化するにあたって、会社にミックスダウンスタジオを作ってもらったからなんです。そこにSTUDERを置いてマルチスタジオにして、トラックダウンをできるようにしたので、先ほどお話したドゥービーのライブもミックスできたんです。だから「テレビは音が悪い」と言っていたニューミュージック系の歌手も出るようになったんですね。

−−石田さんはコンサートフィルムも作られていますよね。きっかけは何だったのですか?

石田:テレビのステレオ化時代が来る数年前だと思いますが、後藤由多加さん(現 (株)フォーライフ ミュージックエンタテインメント 代表取締役)が電話をかけてきて、「拓郎とかぐや姫がつま恋で5万人コンサートをやるからフィルムで撮ってくれないか?」と頼まれたんです。この前も久しぶりに「つま恋コンサート」を彼らはやってましたが、そのときも拓郎から「NHK BSでやってくれ」と電話がかかってきて、「フジの社員の俺がそんなことできるわけないだろう」と言ったら、「フジ辞めたんじゃないの?」だって(笑)。結局、『ミュージックフェア』でADをやっていた奴が今外部にいてNHK BSのディレクションをやっているから、彼がやったんだけど、話を戻すと、つま恋や拓郎の篠島コンサートを撮ったり、かぐや姫の映画を作ったりと、コンサートの音楽ドキュメンタリーをある時期から作るようになったんです。最初は『ウッドストック』を観て色々と研究したんですが、資金もないしカメラの台数も少ないですから、かなうわけないんですよね(笑)。

−−(笑)。それはパッケージとして発売するためのものだったんですか?

石田:もともとはユイ音楽工房が夢番地やサンデーフォークといったコンサート業者相手にフィルムコンサートでビジネスしたんですよ。あと、音楽CMも作りましたね。一番最初の音楽CMはシンコーの草野さんの発案でした。チューリップが「心の旅」を出すときにシンコーの草野さんが「TVでスポットをやりたい」と言って、それで作ったんですよ。だから最初にそういうフィルムを作ったのがチューリップなんです。

−−今で言うビデオクリップですよね。

石田:そうですね。最初はビートルズの『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』からヒントを得て、チューリップがレコーディングしてリハをして、コンサート会場に入って、さあ行くぞっていう25分くらいのコミカルな映像をコンサートの緞帳にかけて、緞帳が上がると演奏が始まるという演出を考えたんですよ。そうしたら当時、東芝の社長さんが「こんなことができるのか!」と喜んでくれましてね。そういったフィルムから生に繋げる演出は今、色々なアーティストがやっているでしょう? それを観ていた後藤さんたちから「つま恋や篠島の映像を作ってくれ」と頼んできたんですよ。

−−石田さんは常に新しいことをしてきたんですね。
石田 弘4
石田:だから売れないんですよ。30代は全くアウトローです。メジャーな番組をやってもすぐ終わらせちゃうから、だんだんやれなくなってしまいました(笑)。


−−それがだんだんとバラエティー番組の方も手掛けるようになるんですか?

石田:もともとバラエティーもやっていたんですが、これもかっ飛びすぎて当たらないんですよ(笑)。めちゃくちゃお金かけたのが土曜7時半のゴールデンタイムにやったハウス食品の『アップルハウス』という番組で、加藤和彦と竹内まりやが司会でした。それで『スネークマン・ショー』が面白かったから桑原茂一さんを呼んできて、色々なアイディアを出してもらったんですが、全然当たらなくて、色々と反省するわけですよ(笑)。なにしろオープニングテーマなんかレッド・ツェッペリンのアルバム『フィジカル・グラフィティ』のジャケットそっくりのアニメを作って、出演するゲストたちが窓から顔を出すようにしたものに、バグルスの『ラジオ・スターの悲劇』を真似して作った曲を流したんです。それじゃ当たらないですよね(笑)。

 それでこれまでは半歩リードしたようなことばっかりやってきたけど、番組を当てるために「これからはダサい感じでやろう」と思ったんですよね。だんだん情報過多の時代になってきてテレビがそんなかっこつけて先走ったことやるよりも、後にのっかるほうか当たるんじゃないかと思うようになってきたんですよ。その頃『素敵なあなた』という日テレの『今夜は最高』みたいな一時間番組を土曜の夜中にやっていたんですが、あるとき上司に呼ばれて「『素敵なあなた』の枠で生番組をやれ」と言われたんです。

−−それが『オールナイトフジ』になるわけですね。

石田:そうです。それで予算がないから、とりあえず女子アナでも並べるかと思ったんですが、当時の編成局長、今の会長ですが(笑)、日枝さんから「もっとアパッチなことを考えろ!」と言われたんですよ。

−−そこで女子大生に目を付けたと。

石田:その当時「女子大生亡国論」ということが言われていたんです。つまり、時代が一億総中流意識になってきて、みんな娘を女子大に入れるものだから、私立の女子高がやたらと女子大を増やしていった時期なんですね。あげく「うちの娘はアメリカの大学へ留学させたい」なんて言う家庭が増えていったから、「テンプル大学日本分校」ができて、「アメリカ行かなくてもアメリカの大学入れちゃう!」という現象が起きてしまったんですよ(笑)。そんな時代になっていったんですね。これは面白いなと思って、「よし! 有名校から無名校、ピンからキリまで含めて女子大生を並べて学園祭ノリのバカ番組を作っちゃおう!」と。「私たちはバカじゃない!」「いや、バカだ!」みたいな番組をね(笑)。ちなみに出演した女子大生が「私たちはバカじゃない!」っていう本も出したんですよ。

−−(笑)。

石田:それで司会を秋本奈緒美にしたんです。彼女はビーイングからデビューしたんですが、日本語でジャズをやるとかいって話題になっていたんですね。それで彼女を司会にして、女子大生を並べて、でも話が進まなかったらつまらないから片岡鶴太郎を助け船で呼んできて始めたんです。どうせ夜中の番組だから指定時間なんてどうでもいいじゃないか、朝6時までは何でもできると「終了時間未定」として、スタジオの機能を全てフロアーに降ろし、どうやって番組を作っているか全部分かるように見せたんです。ゲストもスタジオ内のバーで待機させてね。それで「何時に何をやるか分からない」と言われたので雑誌みたいに目次を作ったり、サーフィンが流行っていたので全国の波情報を流したりしながら、女子大生のバカ番組を始めました。番組を始めたときに「3ヶ月で文春とか新潮とか堅めの週刊誌に叩かれでもしない限り、深夜の番組が話題になるわけない」と僕は思ってたんです。だから叩かれたら勝つと。逆に叩かれなかったら続かないとね。

−−それで見事に叩かれたと(笑)。

石田:そうです。「フジテレビの軽薄番組」とか言われて、「よし!」と思いましたね。それで叩かれた3週間後に『リブ・ヤング!』の頃から繋がりのあった『週刊プレイボーイ』に頼んで、女子大生たちに「オールナイターズ」という名前をつけて、「○○で叩かれたお馴染みの女子大生、グラビアに初登場!」ってバーンと出したんですよ。番組を当てるために、そういうサイド攻撃を常にやらせてましたね。あと、当時はパッケージビデオが少しずつ売れるようになってきたからフジテレビも映画を作ったり、ビデオを出すようになっていったんですね。そのときアダルトビデオのディレクターをやっていた頃の記憶が蘇り「一番売れるのは今の時代だってアダルトビデオだ」と番組の中で映画のビデオやスポーツ関係のビデオと一緒にアダルトビデオの紹介もやったんですよ。でもただ単に紹介するだけだとウケないから、山崎美貴とか3人の女子大生に紹介させてね(笑)。

−−すごく恥ずかしそうにアダルトビデオを紹介してましたよね(笑)。

石田:台本にはコメントを書かないで、アダルトビデオを紹介する直前にコメントの紙を渡すんです。そこにはフリガナ抜きで「陵辱」とか「悶絶」とか書かれていて(笑)、「わかんない!」「読めない!」とか言っている横で、バーで待機しているゲストがモニターに流れるアダルトビデオを観ているときに、そのゲストの顔をアップで映すんですよ(笑)。そうするとビックリしちゃったりね(笑)。

 それで番組をやっているうちにその3人組の人気が出ちゃったので、「こいつらでレコードを出そう」と「おかわりシスターズ」という名前でデビューさせたんですが、どこのレコード会社も相手にしてくれなくて、最終的に後藤さんのフォーライフが「自分のところでやってもいい」と言ってくれて「恋をアンコール」という曲を出したんです。そうしたら東京単の番組にもかかわらず、オリコン14位とかになっちゃったんですよ。そのときにビデオクリップを作ろうと思って、ただ作ったんでは面白くないから、ボストンに行くことにしたんですよ。ボストンはアメリカでもハーバードとか、有数の名門大学がある教養のある街だから、頭の良さそうな街でバカな女子大生の恋心を映像に撮ってこいってね(笑)。そのアンバランスさがウケたのかもしれないですね。