10月の半ばを過ぎたばかりだというのに富士山頂の気温は一日中零下4度5度の寒さだった。
夏の間生息していた生き物たちも冬が近づくにつれ次第に姿を消していく。
富士山頂で冬を越す生き物はほとんどいない。
(千代子)園子を捨てていく。
そげん思われても構いません。
「お母様はお父様と一緒に闘ったのよ」とそうこの子に言いたい。
夢がかなったんですね。
(風の音)キャッ!
(到)どうだ?千代子頭痛の方は。
もうだいぶよくなりました。
ここにお鍋をかぶっているようなそんな程度に。
これお前が生けたのか?はい。
清さんが麓で採ってくれたんです。
少しは彩りがないと。
うまいもんだ。
今日は薪炭室の整理整頓をやってしまいますね。
何がどのくらい残ってるのか一度表にしてみますわ。
隙間風が入るところに目張りしてしまいますね。
日本で初めて天気予報が発表されたのは明治17年。
そこから近代化するまでに多くの歳月を必要とした。
気象衛星が実用化されたのは1978年。
昭和53年である。
また風力計が止まったのですか?これからは氷との闘いだ。
到さん。
私に観測を手伝わせて頂けませんか?え?確かに気象学は難しい学問ですが機械がやる事を書き留めるぐらい私にだってできます。
何だ急に?その訳はこれですわ。
よ〜くご覧になって。
あなたのお顔ひどく疲れ切って…寝不足よ。
このままでは一冬越す事なんて到底できないわ。
昼の間だけでもあなたの代わりに私が観測を致します。
あなたは夜に備えて寝ていらして。
いや。
今でも十分進んで雑用をよくしてくれてる。
これ以上お前に手伝ってもらう事はない。
第一お前に観測ができるものか。
あなたに見て頂きたいものがあります。
これは今さっき観測したばかりの数値です。
あなたが観測したものと比べてみてもらえますか?風速気温…。
気圧まで…。
確か測定した値に器差補正温度補正重力補正を加えるのですよね?誰に教わったのだ?あなたから教わりました。
俺から?観測のしかたはここに来てあなたの後をついて回って覚えました。
観測の専門知識はあなたが和田先生から頂いた「気象観測」という本で。
あの本を…。
いつの間に…。
すみませんあなたにお断りもなく。
でも私ここに来てあなたを手伝おうと決めてましたから。
あらかじめ勉強を。
あきれたやつだよお前は。
示している値に必ず目の高さを合わせて読み取る事。
それから体温が伝わらないように寒暖計にはなるべく体を近づけず息も止める事。
温度の変化を防ぐためにこの付着温度計の値を先に読む事を忘れないように。
はい。
水銀を上下させるねじは非常に繊細に出来ているからゆっくり回す事。
はい。
しかし気圧の読み方まで勉強したとは恐れ入ったな。
まずは風の強さを体で感じる事。
そしてあの風杯が風に即した動きをしているかどうか注意して見る。
もし何かおかしいと思ったらすぐに知らせてくれ。
はい。
じゃあ戻ろう。
キャッ!あっ!?命綱を決して忘れない事。
はい。
ではとりあえず横になるが何か分からない事があればすぐに呼んでくれ。
はい。
・
(風の音)おやすみなさい。
千代子。
千代子。
もっと寝てらしたらよかったのに。
いや。
すっきりした。
静かだな。
言葉がないわ。
圧倒されて。
いつか園子にも見せてあげたい。
出来ました。
これで私も野中観測所の一員ですね。
(和田)誤算でした。
この新聞…。
この記事が出るやいなや大きな反響が寄せられました。
その多くは到君特に千代子さんの勇気その志をたたえるものです。
では…。
(和田)私も立場上もろ手を挙げての賛同は難しかったのですが実は千代子さんの妻としての覚悟に非常に胸打たれ今だから言いますがまさに夫婦の手本婦女子の鑑だと感心しておりました。
(勝良)いやこの間はえらいけんまくだったのが今日はほくほくえびす顔だ。
どうやら世論が後押ししたらしい。
(清)僕の学友も驚いていました。
あの日本一の山富士山の頂上に夫婦で滞在冬季気象観測に挑んでいると。
前代未聞の挑戦だと。
(とみ子)おかげでこちらはこのありさま。
本当にもう琴子ときたらいやいやばっかりで困ってしまうわ。
到や清は聞き分けがよかったのにこの子は気ばっかり強くて。
母親似のようですね。
ハハッ。
聞こえてますよ。
野中家の女性は皆気が強いんですよ。
母上しかり姉さんしかり。
一番気が強いのは千代子ですよ。
本当にあの子は皆の反対を押し切って富士登頂を成し遂げてしまうんですから。
図らずして世のご婦人方を勇気づけたようですね。
驚くぞ。
春になって2人下山したら。
(清)しかし春の前には冬が…。
もうすぐ11月。
あの小さな小屋で嵐のような雪や氷をしのげるか。
僕は行ってみて正直心配です。
(園子)お母様お母様。
お母様!園子。
あなたなのね?園子。
いいの寝ていらして下さい。
だいぶお疲れみたいだもの。
大変でしょう?富士山は。
ええそうなの。
本当はもうずっと頭が痛くて息が苦しくて体もとても重いの。
お父様の前で無理して平気なふりなさるから。
あなたに会いたい園子。
私もよ。
今日は穏やかだな。
ええ。
さっき読んだお前が作った歌。
あああれですか。
ちょっと思いついたので。
いつか園子にも詠んで聞かせようかと。
じゃあ俺も一首詠むか。
え?山の神?ああ。
つまりお前の事だ。
今や観測所を牛耳っている山の神野中千代子が雪山で風にあおられすってんころりん転ぶ歌だ。
まあひどい。
フフッ。
キャッ!ああ。
ハハッ。
また山の神がすってんころりんか。
もうそんな事ばっかりおっしゃってたら今度はあなたの歌を詠みますよ。
うんと変な歌にしますからね覚えてらっしゃい。
(風の音)水銀が動かない!?すいません起こしてしまって。
ちょっと見て頂けます?ガラスにひびが入って真空がなくなったようだ。
え?機械の構造が高所に耐えられなかったのかもしれない。
では観測記録は?今日で途切れてしまう。
なに気圧だけだ。
私が壊したのかしら…。
え?私のねじの回し方が悪かったんじゃ…。
だから何度も言っただろう。
お前のせいじゃない。
ここは富士山頂だ。
日本中いや世界中探しても4,000m近い高所で冬の気圧を観測した例はない。
つまり予想だにしない事が起きるんだ。
(風の音)雪が…。
目張りをしましょう。
はあ…。
千代子!おい千代子。
大丈夫…。
どうした?どこが苦しい?大丈夫ですから…。
おい何してる?ごはんの支度を…。
いいから今日は寝ていろ。
なっ。
紅葉が…枯れてしまったわ。
急に室内が乾燥したからだ。
ほら。
空気が乾燥すると体にも障る。
多分お前もそれで。
いいえこれは高山病よ。
まだお山の空気に慣れていないだけ。
間もなくよくなりますわ。
では千代子こうしよう。
とにかくお前は寝ていて観測時間になったら俺を起こしてくれないか。
それだけでも俺は助かる。
元気になったらまた手伝ってくれ頼む。
では少しの間だけ。
あなた。
あなた。
ちょうど2時間だ。
優秀な時計でしょう?ああありがたい。
(戸をたたく音)何かしら?
(戸をたたく音)・
(重三郎)野中先生!開けてくんにゃあか!お見舞あに登ってきたずら!待って下さい今開けます!
(重三郎)いや〜うわ〜。
はあはあはあ…。
熊吉さん…。
千代子お二人に砂糖湯を。
はい。
(重三郎)ようやっと落ち着いたずら。
ごちそうさんずら。
いいえ。
この悪天候の中よくいらっしゃいました。
ああおら與平治の甥の重三郎っちゅうもんずら。
與平治さんからよく伺っています。
(重三郎)いや〜勝手知った山と思ってたんだけど冬のてっぺんがこんなもんとは…。
(熊吉)あの…これ。
あらお野菜。
これは助かる。
最も足りない物だ。
これ東京の和田先生から言づかったずら。
「貴殿の観測国民周知の事となれり健闘祈る様子知らせよ」。
和田先生が…。
ほかには何か家から手紙などは?それがよ急に決まった登山でよ。
とんかく無事を確認してよこれらの物を渡してくんにゃあかと。
それでは今夜手紙をしたためます。
どうかお二人はゆっくり休んで下さい。
大丈夫か?千代子。
寒いか?薪をつぎ足そう。
だんだんストーブも効かなくなってきたな。
いよいよ冬到来だ。
そんじゃあおらっちはこれで。
ご苦労さまでした。
そんでよ奥さん。
鶴吉んとこ女の子ずら。
まあそれはうれしいお知らせだわ。
おめでとうございますとお伝え下さい。
へえ。
お体にゃ気ぃ付けて。
熊吉さんもお達者でね。
またお会いしましょう。
さあ天気が変わらぬうちに早く。
つらかったろう千代子。
千代子!ひどい熱だ。
もう誰にもはばかる事はない。
ゆっくり休め。
立てるか?すみません。
結局足手まといに。
申し訳ありません。
いいからとにかく休め。
治るまで決して動くな。
いいな。
さあ千代子懐炉だ。
これで温まれ。
とうとう声が出なくなったか。
どれ口を開けてごらん。
前より腫れてきてる。
やはりへんとう腺だ。
これでは食べ物も喉を通るまい。
早く引くといいが…。
(風の音)ひどい暴風雪だ。
おいどうした?「喉の腫れ物をお切り取り下さいませ」。
「このまま放置致さば私は息詰まりて死ぬやもしれず」。
俺は素人だ。
素人の俺が切ればお前を殺してしまう事になるかもしれん。
「どのみち死ぬなればあなた様の手にかかりて死にとうございます」。
できるだけ大きく口を開けろ。
そして痛くても決して動くな。
うっ…ゴホッゴホッゴホッ…。
いいぞ千代子。
血膿が出てる。
あと数か所腫れてる。
辛抱しきれるか?ゴホッゴホッゴホッ…ゴホッゴホッゴホッ…。
かゆを作ってみたがあっという間に冷たくなる。
梅干しもすっかり干からびて…。
下がらないな。
喉の腫れは引いたのに。
それとも俺がしくじったか…。
聞こえるか?俺の声が。
(園子)だから心配ですって言ったの。
お父様の前で平気なふりばかりなさって。
ごめんね園子。
もうあなたのもとに帰れないかもしれない。
お約束したでしょう必ずお迎えに来るって。
もし私が死んだらお父様はどうなるのかしら?いってしまうの?お母様。
(園子)私たちを置いて?もう遊んで下さらないの?鶴さんは?一緒に折って下さらないの?もう…体が…。
お母様!お母様!千代子。
ほら鶴だ園子の。
園子が待ってる。
早く元気を出せ。
山の神だろうお前は。
千代子。
ありがとう。
お前が来てくれて俺は随分救われた。
観測も飯も飾ってくれた紅葉も。
何よりお前の笑った顔。
1人だったら今頃俺は…。
分かってるむちゃだった。
そんな俺を心配してくれてこんな所にまで…。
千代子。
頼む。
このまま逝くな。
もう一度目を覚ましてこの小屋を取りしきってくれ。
頼む。
逝くな。
(園子)お母様。
しっかりなさって。
ねえ何のためにお山にいらしたの?お父様を助けるため一緒におうちに帰るためでしょう?生きて!戻ってらして!お母様!園子…。
そうね…園子…。
声が…。
これ…。
そうだ園子が待ってる。
夢でね…園子が…。
夢?怒るのよ。
あなたの前で無理して平気なふりして…。
だからこんな事にって。
園子がそんな事を?通じないのねここは。
さあ水を。
ゴホッゴホッ…。
平気なふりや空元気…通じない。
ああそういう所だ。
でもあの夕日。
ほかではとても見られない。
ほかの人は味わえない。
あなたが夫でよかった。
一緒にいられてよかった。
確かに大変な土産話が出来たな。
妻の喉を突く夫はそうはいない。
本当ええ。
きっとみんな驚きますね。
帰ったら話そう。
そうですね。
帰ったら…園子に。
(とみ子)琴子!本当にあなたっていう人は…!・
(戸が開く音)・
(勝良)これ何を騒いでいる?玄関先まで聞こえるぞ!何だこれは?手紙ですよ糸子姉さんからの。
園子が風邪ですって。
風邪?悪いのか?いえほんの鼻風邪程度ですって。
少し長引いてるらしいんですけど。
心配だな。
こちらに呼び戻すか?でも汽車や船を乗り継いでの長旅になりますからあちらで治した方が。
・
(割れる音)
(只圓)何て言うてきた?野中家は。
(糸子)もうちょっと気候がようなってから連れてきたらどげんかって…。
どのみちもう行けないわ。
急に熱が出よったな。
まあ子どもにはよくある事ですけん。
もうしばらく様子ば見ましょう。
(糸子)きっとお母ちゃまも今頃頑張っとるけん。
だから園子ちゃんもあんまり心配かけたらいけんよ。
ねっ。
早うようならんとね。
(園子)よかったお母様お元気になって。
園子。
園子心配かけたわね。
もう大丈夫。
心配かけてごめんなさい。
うれしかったわこうしてあなたと話せて。
見て頂きたかったの。
え?お母様に私の大きくなったところを今のうちに見て頂きたくて。
それどういう…。
園子ねえ待って。
園子!
(風の音)どうした?また夢でも見たか?いえ…何でも。
12月に入ると最低気温が零下20度を超える日が続き野中観測所は厚い氷の壁に包まれた。
熊吉が運んでくれた野菜も残り僅かになっていた。
・うっうっうっ…うん!到さん。
待ってろすぐ終わる!敷居を削る!敷居を?このままでは扉が開かなくなる!そうなったら本当に閉じ込められてしまう!内側から引けば簡単に開くように。
寒くて寝られないか?温かい。
(割れる音)電池が…!割れてしまったの?電池が。
そしたら風力計は?気圧も駄目風速も駄目…。
もう気温しか…。
そんなの気象観測と言えるのか?なに電池はまだある。
やれる事をやるだけだ。
表の様子を見てくる。
・
(倒れる音)どうなさったの?しっかりして到さん!どうなさったの?しっかりして!到さん!ねえ到さん!・「短すぎる秋の日差し」・「浴びて輝く横顔を」・「今まぶたに焼き付けよう」・「二度と忘れないために」・「嬉しいことも悲しいことも」・「すべてが愛しくて」・「二人にしかわからぬ」・「言葉を超えた言葉」・「今日もまた交し合うの」・「二人を分かつ時が」・「たとえ巡り来ようと」・「永遠に生き続ける愛」2014/08/23(土) 21:30〜22:30
NHK総合1・神戸
土曜ドラマ 芙蓉の人〜富士山頂の妻(4)「生きて」[解][字]
千代子(松下奈緒)と到(佐藤隆太)二人だけの富士山頂での生活が始まった。到を支え高山病を隠して気丈にふるまう千代子を両親のもとに預けてきた娘が夢に現れて励ます。
詳細情報
番組内容
千代子(松下奈緒)と到(佐藤隆太)二人だけの富士山頂での生活が始まった。2時間おき1日12回の観測で睡眠も取れない到を助けようと、千代子は密かに観測の仕方を学び、交代を申し出る。夫の寝顔に、このために山頂まで来たのだと涙ぐむ千代子。高山病を隠して気丈に振舞う。両親のもとに預けてきた娘が夢に現れ、千代子を叱たするように。千代子はついに寝ついてしまうが、生きよという娘の声に、到の必死の思いが重なる。
出演者
【出演】松下奈緒,佐藤隆太,三浦貴大,勝村政信,市毛良枝,堀内正美,平田満,余貴美子,【語り】益岡徹
原作・脚本
【原作】新田次郎,【脚本】金子ありさ
ジャンル :
ドラマ – 国内ドラマ
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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