1ニッポン戦後サブカルチャー史 第4回「70年代(1)深夜のラジオと音楽革命」 2014.08.22

(「オールナイトニッポン」のジングル)さあ今夜もいってみよう!ナウなヤングのフィーリングにぴったりの「ニッポン戦後サブカルチャー史」。
第4回は「70年代」。
若者たちは深夜一人ラジオからの声に耳を澄ませました。
深夜ラジオは遊びと情報に満ちた解放区。
まずは当時の名曲を!はっぴいえんどで「はいからはくち」!ラジオとリンクするように音楽シーンも大変革。
フォークソング全盛期を迎え更に新しい音楽が次々と産声を上げた。
日本語のロックが誕生し大論争を巻き起こした。
そしてユーミンこと荒井由実がデビューしたのもこの時代。
高度経済成長期が終焉を迎える70年代。
若者たちは時代の閉塞感を打ち破りたいという思いを音楽に託していた。
そんな70年代へいざなうナビゲーターは…。
これめちゃくちゃ面白いんですよ。
演劇界の奇才が今宵も愛と独断の異色のサブカルチャー論を展開する。
そして…。
王道ではなくてサブカルチャーだったと。
サブカルチャーをこよなく愛するジャニーズ風間俊介。
更にしょこたんにフランスからやって来たマンガ好きジリ・ヴァンソン。
教科書には載っていないサブカルチャーの歴史をたどる特別授業。
クールジャパン前夜一体何があったのか。
JOABNHKEテレから…え〜諸君。
諸君何聴いてるか知らないけどさ。
え?ん?この「ニッポン戦後サブカルチャー論」をやるにあたって私は今日大変な思いをして準備してるんだよ。
昨夜このターンテーブルとミキサーそしてこの大量のレコードを家から車に積み込むのに汗だくになってたんだよ。
そういう事を鑑みるに…怒られちゃった!ちょっとこれが一体何だか分かりますか?分からない。
何だか分からない?レコード?レコード。
レコードってでっかいんですね。
中身までは…。
えっこれCDで持ってる。
(中川)おしゃれだなあ。
「ナイアガラ」っていうこのレーベルがあるのが大瀧詠一さんの…。
大瀧詠一さん!私にとってもCDだなあ。
個人的なレーベル。
(ヴァンソン)斬新なジャケットが…。
こういうレコードを僕はなぜ聴いたかっていうとそれは何で知ったかっていう事じゃないですか。
君たちは音楽をどういうメディアで今は知るんですか?今ですか?今…。
ネットで調べて「あっこれだ」って言ってポンッて買うって感じです。
なんだと?怒られてる。
(ヴァンサン)テレビのタイアップとかだね。
何かドラマとかアニメとかの気に入った曲でそれがきっかけ。
僕たちの時は主にラジオだったんですよ。
(「オールナイトニッポン」のジングル)「は〜いこんばんは。
『オールナイトニッポン』GoGoGo&GoesOn!はい夜更けの音楽ファンこんばんは。
朝方近くの音楽ファンご機嫌いかがですか?君が踊り僕が歌う時新しい時代の夜が生まれる。
太陽の代わりに音楽を。
青空の代わりに夢を。
新しい時代の夜をリードする…」。
70年代若者たちはラジオの深夜放送に夢中になった。
それはここでしか聞けない情報が満載の「解放区」だった。
・「こんにちはこんにちは西のくにから」科学万能を高らかにうたう大阪万博で幕を開けた1970年代。
しかしそんな明るいムードとは裏腹な事件が続く。
3月には日本中を震撼させた赤軍派メンバーによる「よど号ハイジャック事件」。
11月には作家・三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺。
このころ高度経済成長の光と影が激しく交錯する。
その「光」の代表がテレビ。
所得の向上に伴い70年には…ラジオはそのあおりを受け深刻なリスナー離れが進んでいた。
60年代末にラジオ局が打った逆襲の一手。
それが若いリスナーをねらった深夜の番組改革だった。
スポンサーがほとんどつかない深夜番組。
低予算のためディスクジョッキーは局内のアナウンサーやディレクターが務めるしかない。
彼らは金を使わず知恵を使った。
「『真夜中のリクエストコーナー』!」。
(ジングル)「え〜今夜もこの時間がやって来たね!君たちのリクエストカードを読みながら3曲ぐらい今日もかけていこうとそういうわけでねまず最初の人」。
それまでの堅いアナウンサー口調とは異なるくだけたしゃべりが衝撃を与える。
「ある日僕は『あとで職員室へ来い』と先生に言われた。
僕は職員室へ行き『先生何でしょうか?』と聞くと『あぁ君このごろ伸びてきたじゃないか』。
『えっ!あっこれからも先生頑張ります!』。
『バカ。
頭刈ってこい』」。
まるで友達のように語りかけてくるディスクジョッキーの声を若者たちは食い入るように聞いた。
深夜だからこそ若者だけの話題や小さなムーブメントもどんどん取り上げられた。
そこでかかる音楽はヒットソングばかりではなく独自の価値観で「面白い」「新しい」と感じるもの。
70年代の深夜放送を代表するディスクジョッキーの一人…深夜放送黄金期を迎える前夜60年代末のある曲のヒットに深夜放送の未知の可能性を感じたという。
・「おらは死んじまっただおらは死んじまっただ」・「おらは死んじまっただ天国に行っただ」
(亀渕)あんな歌昼間でなかなかかけるのは勇気の要る事だったんですよ。
あんな変な歌をねそれこそサブカルじゃないですけどあんな歌かけていいのかみたいな。
深夜1時から5時まで放送あったんですが4回か5回聴取者から電話があって。
そのころ交換いないんで受付に電話がかかってくる。
警備に電話がかかってくるんですね。
「あの今の曲は何だ!」。
「『帰って来たヨッパライ』」。
「もう一回かけろ!」と言って4回…確か4回かけたのを覚えてますね。
テープを早回しした奇妙な歌は急遽シングルカットされ年間チャート2位の大ヒットとなる。
やがて深夜放送は若者が心を通わせつながる大きな広場になってゆく。
70年に終結したナイジェリアのビアフラ戦争。
ディスクジョッキーの亀渕昭信はこの戦争で生まれた100万人もの難民の支援策について話していた。
「ビアフラにお米を送ってあげるなんていうのはどうかしらね。
例えば自分ちから5合ずつ全部全員でお米を送るなんてのもしゃれてんじゃない?じゃあね今週は『オールナイトニッポン』にカメのところはリクエスト全然要らないからそのかわりに外務大臣にバーンと例えば『ビアフラの子供たちにお米を送ってあげましょう』なんて書いて出すとねこれ非常にいいんじゃないかと思います。
ビアフラにビャーッと着いたら何十人かのあの痩せてる子供たちが助かるかもしれないと思うんですね。
どうだろう?全然駄目かな?」。
この何気ない呼びかけから僅か3日のうちに外務大臣宛てに2,000枚もの支援を訴える葉書が届いたのだ。
外務省はこの声に応え国内の備蓄米5,000tを送る事を決めた。
連合赤軍が人質をとって立て籠もり警察と銃撃戦を続けた。
それは僅かにくすぶり続けていた政治と闘争の時代の終わりを告げる象徴的な事件だった。
「彼らは何のために闘ったのだ」。
おりしも高度経済成長でサラリーマン人口が急増。
「いい大学いい会社へ」が幸せへの近道と悟ったかのような若者たちは「しらけ世代」と揶揄された。
深夜放送はいつしかそんな彼らのささやかな抵抗の場となる。
曲のリクエストだけでなく身近な出来事や思いをつづって投稿。
人気番組に届く葉書は週2万通にも及んだ。
そんな投稿葉書から次々と名物コーナーが生まれる。

(「燃えよドラゴン」)
(谷村)「こんばんは!」。
(ばんば)「こんばんは!」。
(谷村)「人が変わっております。
ばんば先生よろしく」。
(ばんば)「どうもばんばんです」。
(谷村)「ペンネーム星の王女様。
学校での席替えの時先生。
『目が悪いとか都合の悪い人は手を挙げなさい』。
天才。
『先生私目が悪いんですけど』。
先生『じゃあ一番前に行きなさいね』。
秀才。
『先生南側じゃ暑くて勉強の能率が悪いんです』。
先生。
『それじゃ北側に行きなさい』。
ばか。
『先生僕酔いやすいんで窓側にして下さい』」。
(ばんば)「でもこれなかなかしゃれてますよね」。
(谷村)「しゃれてるんですよ。
これしゃれですね。
いいですよ」。
「『お母ちゃん妹が欲しいよ!』。
『コウノトリに頼みなさい』。
『コウノトリはどこにいるの?』。
『2階で寝てるわよ』。
・「ビバヤングパヤパヤ」・
(呼び出し音)・
(リスナー)もしもし?「鶴光でおま!あんた誰や!」。

(リスナー)つるちゃんでおま。
「あんたは何ですかいくつですか?今」。

(リスナー)二十歳過ぎました。
「あっという事はもう男には抱かれたんですか?それで今どんな格好や?」。

(リスナー)今Tシャツとトレパンはいてます。
「ほないくで。
『いく』言うて下さい」。

(リスナー)あっ…はい。
「いく」。
70年代ネットのない時代。
深夜ラジオには若者たちが集い昼間の大人の世界とは全く異なる空間を作り出していた。
今話の中にあったけれども今までのアナウンサーのように…何ていうんですかねアナウンサーというのは基本正しく間違わないっていう事じゃないですか。
ところがこのパーソナリティーと呼ばれるような人たちがラジオをやる事によってもっと違ったキャラクターみたいなものを前面に出した方が面白いというふうになったわけだよね。
で僕はそういったラジオを聞きながら…ただねこの間亀渕さんに会った時に「リクエスト葉書書きましたか?」って言われたんですよ。
僕はもう静岡県の田舎町に住んでて遠いんですよ。
有楽町が。
だから葉書出して届くのかなと思ってたんですよ。
あぁ素朴な疑問。
果たしてほんとに。
小学生っぽい。
かわいい。
せめて静岡放送っていうのがあって「SBS」。
そこに葉書は出してたという。
何か有楽町って…。
私の頃はちょうど14歳の時にパソコン買ってもらってネットが普及しだしたかなぐらいの頃だったんですけどネットやりながらラジオも聞いてでそういう自分が何か大人になった気がして。
でも独りじゃなくてちょっとかっこいい事してるみたいな感覚がありましたね。
このころってテレビって一家に1台ですよね?一家に1台ですよ。
ラジオは結構簡単に手に入ったんですかね?独りで聞くものとして当時としてはありましたね。
こういう小型のやつをずっと聞きながら競馬中継聞いてるオヤジとかね。
それはどうでもいいけど。
深夜放送もね部屋に1個というのはありました。
ところでなぜ我々は深夜放送を聞いたかって事だしそれから「深夜」っていう時間はいつ獲得するかなんですよ。
子供の時って起きてられないしそもそも。
それから怒られるでしょ?ところがやっぱりある時期に「深夜」獲得するんですね。
「深夜」っていう時間を。
つまり個人的な時間なんですよ。
自我が目覚めた時なんです。
それはいつかっていうと中学生問題なんですよ。
「14歳の国」っていうのは僕の書いた戯曲なんですけどその年齢だからこそ獲得する時間がありこれは親からの距離でもあるんです。
親からどれだけ離れるかっていう事が。
でも14歳っていう数字にすごく意味が確かに感じます。
楳図かずお先生も14歳が子供の終わりって言ってたしマンガで例えてすみません。
「エヴァンゲリオン」とかも全部思春期で揺れて大人への拒絶だったり自分の悪いとこが…って悩んじゃったりっていう。
抑えきれない衝動みたいのが…。
それは「中二病」って言うじゃないよく。
そこら辺まさにそうなんですよ。
洋楽聴くのもそうなんですよ。
洋楽聴いたり今まであまり親から与えられた何かではないものを自分で獲得するっていうのが中学2年生14歳ぐらいであると。
で僕が14歳の時に最初に買ったレコードをちょっとかけていいですか?おっ知りたい。
それは「ザ・ショッキング・ブルー」というグループの「ヴィーナス」っていう曲なんですけど。
(中川)すごいこのジャケットが…。

(中川)今聴いてもかっこいい!・「Agoddessonamountaintop」・「It’sburninglikeasilverflame」・「Thesummitofbeautyandlove」で洋楽に出会ってそのあといろいろ買うわけですよ。
これもう深夜放送なんかでも聴いてたんですけれども実はあるラジオ番組がありましてそれをいつも聞いてたんですね。
そのタイトルが「アイワ・ディスク・フラッシュ」という番組で聴いてレコード集めてたんです。
あっあった!これですよ。
これを買ったんですよ。
レッド・ツェッペリンの…71年。
ジャケットかっこいい!このジャケットの何がすごいかというとですねこの…。
(ヴァンサン)取れないところ。
貴重なものですから。
出せないとこ。
何がすごいかっていうと回るっていう。
それだけですけどね。
なるほど。
仕組みがもうオシャレだったって事ですね。
回る。
(中川)動く絵本みたいに。
面白い。
確かに手元に置いておきたいですねこれ。
(ヴァンサン)手作り感があるっていうかそのころのこういうレコードのサイズがあるからこそできた事であって今もうCDだってちっちゃいですし結局iPodとかに入れるものもデータだからもう完全に音楽だけって感じになってるんですよね。
それ入れちゃったらCD本体ってもうあんまり…。
そういうような遊びもできなくなっちゃってるっていうかほんとにメインの目的のみが残ってるという感じですね。
じゃあツェッペリンちょっと聴こうよ。
これは有名な曲です。
これは3枚目も僕は…。
だから最初に聴いたツェッペリンだから非常に好きだったんですけど一生懸命ギターで練習したっていう記憶がありますよ。
こういう洋楽はやっぱりその時ラジオでしか聴けなかったんですか?テレビではそんな流れてこない?そんなに流れてなかったね。
そうなんですか?うん。
70年代の名物ディスクジョッキーの中で異彩を放つのが林美雄。
スポンサーがつかない午前3時から「パックインミュージック」を担当。
サブカルチャーを紹介し続けた伝説のDJである。
林がかける曲は当時のヒットチャートとは無縁の曲ばかり。
それはまだ大きな流れにはなっていないがこれまでとは違う何かだった。
例えばこんな曲だ。
・「まわりを気にして生きるよりゃひとりで」・「勝手きままに…」放送禁止や発売中止など数々の伝説を残した「頭脳警察」。
・「ふざけるんじゃねえよ動物じゃねえんだぜ」日本のパンクロックの先駆けである。
続いては鈴木慶一とムーンライダース。
・「謎解きながら、霧の中に」その後35年にわたって日本のロックシーンを支える事になるバンドの初期。
そして…。
「RCサクセション極めつけ!『雨あがりの夜空に』RCサクセション」。
・「この雨にやられてエンジンいかれちまった」まだ売れていないが面白いものを自分の耳と足で捜し出す。
林はそんなDJだった。
・「どうしたんだHeyHeyBabyバッテリーはビンビンだぜ」1967年林はTBSに入社。
同期には新人時代から輝いていた久米宏がいた。
その久米が病に倒れた時にピンチヒッターとして林はマイクの前に立つ。
後に当時の心境を語っている。
「決してしゃべりの巧みなアナウンサーではなかったし人を笑わせるテクニックもそれほど持ち合わせていない。
さりとて人間的魅力も放送上の個性になるほど培っていなかった。
そんな人間が深夜のしかも多感な若者相手の2時間を扱って何ができるのか。
案じたとおり自分でやってみて自分の放送がつまらなかった」。
ある日目にした1本の映画が林のスタイルを決めた。
林はその映画に感銘を受け主題歌を番組でかけたいと思った。
しかしレコード化されていなかったため自ら撮影所を訪れ録音する事にした。
林と親交の深い同期のアナウンサーだ。
日の当たらないところが好きなのかな林って結構。
だからメインではないものを大事にしたいみたいな。
何かどっかに琴線に触れてこれいいな……みたいなところ絶対ありますよね。
特に深夜放送って聞いてる人もすごく限られているわけだからその人に向けて「どうだ!これいいだろ」みたいなもので1対1っていう感じで。
友達に「ちょっとこれいいから聴いてよ」みたいな感じなんです。
林は時代に埋もれてしまいそうな音楽や映画人物を紹介する事が自らの使命だと考えるようになった。
それは大量生産・大量消費の時代へのアンチテーゼだったのかもしれない。
「パックインミュージック」は知る人ぞ知る番組として徐々に話題になり名物コーナーも生まれた。
「『苦労多かるローカルニュース』です。
今日午後1時半ごろ立川市でダンプカーに轢かれそうになった我が子を見つけた母親がダンプカーに体当たりしてこれを大破させるという奇妙な事件が起こりました。
この勇敢な…」。
リスナーが創作したニュースを林がアナウンサー口調で真面目に読む事で独特なナンセンスを生み出した。
一風変わった林の番組は音楽業界や映画業界のスタッフからも注目された。
彼らはいつしか林のスタジオに集まるようになりそこは最新情報の行き交うサロンとなった。
ほんとにそのころはレコード会社のプロモーションする人たちがね朝までいましたからね。
つきあってましたからね何か知らないけれども。
みんなそのころのプロモーターって音楽好きな人たちばっかりだったからね自分のとこの曲じゃなくても「これいいですよね」とか言って音楽の話で盛り上がってたんですよ。
だからそういう新しいものを珍しいものをどんどん集まってきたという事がありますよね。
そんな林のラジオからは時代を切り開くさまざまなヒット曲が生まれてゆく。
中でも格別な存在は…。
彼女の才能にいち早く気付いた林は幾度もスタジオのゲストに呼び曲を紹介し続けた。
(林)「八王子の歌姫日本ニューミュージック界の華麗なる女王!ユーミンこと荒井由実!」。
(荒井)「今年はいろんな仕事ができてとっても楽しかったなあと思います。
いろいろ人の曲も書いておかげで来年は印税がたくさん入ってくるし。
え〜次の曲いきたいと思います。
『あの日にかえりたい』」。
深夜に林が特別に聞かせてくれる音楽や映画の話。
それはまさに時代の方向を指し示すアンテナだったのだ。
・「泣きながらちぎった写真を」面白そう!すごい!林美雄さんという…。
林美雄さんは小学生の時からアナウンサーになりたかった人なんです。
で久米宏さんの今名前が出てきましたけど久米宏さんはもちろんアナウンサーになりたかったという事はあったかと思いますが林さんとはちょっとまた種類が違うんですね。
林さんの場合はアナウンサーしかないっていう。
そのお手本は何かっていうとね恐らくNHKなんですよ。
NHKのアナウンサーなんです。
その非常にうまいアナウンスという事を林さんは目指したんですね。
そうするとでも時代は変わったわけじゃないですか。
1967年に「パックインミュージック」が始まったと。
その前に土居まさるさんがいた。
そして亀渕さんが…亀渕昭信さんがいた。
土居さんはアナウンサーだったけどああいうふうに友達に語りかけるような口調でしゃべった。
その中で自分はNHKのアナウンサー目指して正統派ですよね。
正統派を目指してた人がいきなり深夜放送やれって言われて久米さんが病気で倒れたから深夜放送やれって言われてじゃあ何ができるかって。
自分の面白さだけでできるかというとこれできなかった。
だからじゃあ新しいものを発見しよう。
この「発見者になる」っていう事。
発見者になる発掘者になるという事を目指した。
それがラジオでできた。
ラジオだったらできるだろうと。
(中川)それこそお話聞いてると70年代のラジオを今再放送ずっとするチャンネルみたいのがあればいいのにって思うんですけど。
ラジオこそナマモノで今CSとかで昔の歌番組「ベストテン」とかをやってくれるようにやっとなってきたんですけどラジオこそ時代がまんま出てるし雑誌だったら古本屋さんで集めたりできるけど手に入りようがないのでずっとやってるチャンネルがあれば若い世代の子がより時代を感じ取って知らない名作・名曲に出会えるのにって思うんですが何でやらないんですかね?それはね大きな問題は各ラジオ局がテープを残しておくっていう考え方が全くなかったっていう。
(中川)あっないんですか?もったいない!全然なかったんです。
林美雄さんはそういう正統派だったからこそさっきのうそのニュースああいうものを読むのは非常にうまかったんですね。
それから僕の友達がラジオ番組やってて「東京03」っていうふうに電話番号を読み上げてたら晩年の林さんが突然スタジオに入ってきて「そこは違う。
東京03」。
だって「ゼロ」は英語じゃないですか。
「さん」というのは日本語で英語と日本語が混在してるというのがおかしいと。
アナウンサー的なねそういう事を言ってそれ以来彼は「東京03」って言うようにしたって言ってるんですけど。
その林さんの過去のテープ聞いてたら林さんも「東京03」って言ってたという話があります。
でもそれくらい…何ていうんですか正統派な人が紹介する世界は王道ではなくてサブカルチャーだったって事ですよね。
そうですね。
だからもう…何ていうんですか大きなメディアに乗るものだったら自分は紹介する必要がないという事じゃないですか。
例えば午前3時からって一体誰が聞いてるのか分かんないというような番組で紹介するものっていうのは大きなメディアで紹介されたものを紹介してもしょうがない。
林さんはエンターテインメントには結構全てに精通してたんですかね?苦手な分野ももちろんあったとは思うけれども演劇音楽それから笑いに関してもそうですしタモリさんを紹介したとかね。
恐らくラジオで最初にタモリさんが出たのは「パックインミュージック」の林さんの番組じゃないかと思います。
(中川)すごいアンテナですね。
そうです。
サブカルチャーを通じてっていうそこにサブカルチャーがあってそれは正統ではないっていう事を林さんは感じつつそれは学校の教科書にも載ってないあるいは学校の先生も教えてくれない親も教えてくれないそれを林美雄さんは見つけてきて「こういう面白いものがあるよ」という事なんだけど何よりもそこでラジオで伝えようとしてた事はそれは自分で発見しなきゃいけないんだっていうその視点ですよね。
僕もそう思ったんですよ。
林さんのラジオを聞きながら探さなきゃいけない。
与えてくれるもんじゃないという情報とか文化というものは。
与えられるもんじゃなくて僕自身の目で見つけていかなければいけないという事だと思うんですよね。
すごい。
じゃあ感性を育てるっていう事を思ってくれていたんですかね?それを意識的にそう考えていたかどうかは分からないけども。
押しつけでもなく面白いと思うものを「知ってる」「知らない」で全然違うしそのツボが「ある」「ない」でもまた違うし。
何だろう…。
それを発見しろっていう。
それはレコード屋行くしかないんだという事なんでしょう。
レコード屋行ってどうやってどれだけ卵を探すかっていう。
最近僕レコード屋行ってすぐ疲れるという事が分かったんですけど5分で疲れるっていう事が。
若い時は1日中これやってても平気だったの。
それぐらい探してた。
そういう事をしろって事なんですよ。
発掘っていうのはエネルギーが必要なものでっていう事。
そうです。
自分はこれが好きってそこに集中して楽しんで興奮してるところからまた何かが生まれてくるし。
何も知らない何も興味がない平坦な感覚じゃもったいないっていう事ですかね。
でも中川さんなんかは見つけそうだよね。
あっいえいえでもラジオで…。
「見つけそうだよね」というのも…。
「ラジオ深夜便」がすごい好きで。
NHKの。
戦後の音楽を朝の4時台とかにすごいやってくれてたんで夜更かし小学生だったんですけどそれで昭和に興味が出てそこからまた派生していろんなこっちも面白いのかとか。
何か星座みたいにつながってく面白さみたいのはラジオから教わったのはありますね確かに。
それ小学生だった?
(中川)小学生でしたね。
おばあちゃんが泥棒が来ないようにラジオはつけっぱなしにしておくからって言ってずっとNHKのラジオがついてたので。
それちょっと不思議な理論ですけどね。
聞いた事ない理論を今知りました。
でもそれで昭和の音楽に興味が出たりとかはありました。
僕は「オールナイトニッポン」とか「パックインミュージック」とかを朝の5時ぐらいまで聞いて5時から僕の住んでた静岡県では「早起きもう一度劇場」っていう謎な番組やってましてね古い落語とか聞けるんですよ。
朝5時まで聞いたあとにそれを聞きながら勉強しててラジオはいろいろ面白かったなという事は今思い出しました。
「ラジオ深夜便」の話で。
やっぱりマンガだったりとかここの品ぞろえは自分と合うという店を見つけるというのが好きなんですけど今だんだんネットで買えるようになってくるとそれがなくなってくるじゃないですか。
そうすると何か…何かこう簡単に見つかるようになったらだんだんだんだん探さなくなってくる。
発見もそうですしラジオではまさにそうなんですけど自分がした発見をまた他の人に知らせるっていう楽しさもそういうもののおかげですごい伝わってくるというか今でいうと例えばfacebookとかでシェアするって何かを見つけてそれを皆に知ってもらいたいからというのをまさに当時はそういうラジオの番組を持てる方ができてた事で。
当時はやっぱりラジオでしか意思疎通がとれなかったというかできなかったんですよね多分きっと。
小さなコミュニティーじゃなくて大きなコミュニティーはネットとかないからラジオで送って読まれて紹介されたら初めて「あっ認められた!」という感覚はあったんですよね。
75年6月11日以降これ1時台になったんですよ。
つまりスポンサーがつくようになった。
そうしたら多少林さんの放送内容も変わっていくわけです。
時代も変化していったというのがあって林さんのご家族の方にもお話聞いたんですけどある時代にちょっと聴取者からの葉書に絶望した時期があると。
希望を失ったと。
それはつまらなくなった。
ただリクエストが書いてあるだけだったりして何かいろんな事に対して発言してくるっていうようなかつてだったらあったような手紙がなくなってしまったという事を言ってるわけですね。
というふうに林さんは感じてそれで1980年。
1980年の9月30日をもって林さんは「パックインミュージック」から去るんです。
9月30日。
考えてみるとそれは67年に「パックインミュージック」が始まって13年ですけどその後も80年代まで「パックインミュージック」は続きますがやっぱりその間の時代の変遷とも関わっていくだろう。
そういうのもあって時代は変わっていったという事は言えるんじゃないか。
だから林さんはラジオを通じて自分の好きなものを語りかけていくという事に希望を失ってやめたんじゃないかなと思います。
「自らの視点を持て」という林美雄のメッセージ。
それはまさに70年代に起きた価値観の変化「集団から個へ」を象徴するものであった。
70年代初頭は暗いニュースも目立った。
71年ニクソン・ショックで1ドル360円時代が崩壊。
国内の物価が上昇。
73年には原油の減産と値上げによるオイルショック。
庶民の暮らしは圧迫され閉塞感がまん延していった。
そんな時代音楽シーンではアイドルの歌謡曲やグループサウンズに加え新たな潮流が生まれていた。
まずフォークソング。
関西フォークの雄岡林信康に始まり吉田拓郎がフォーク人気を決定づけた。
更に時代の閉塞感を打ち破ろうと次々と新たな音楽的実験も生まれた。
その一つがロックだ。
このロックを日本に持ち込んだ先駆けの一人が内田裕也。
ロックは英語で歌うもの。
日本語はのらない。
それが内田の主張であり通説だった。
一方そんな通説に対する革命をもくろむバンドも現れる。
彼らの音楽は大論争を巻き起こす。
そう。
ロックを日本語で歌い上げたのだ。
日本人なんだから自分たちで分かる言葉で作んなくちゃいけないって言ってね。
それははっぴいえんどが残した功績なんじゃないかなと思いますね。
当時最先端のカルチャーを紹介していた雑誌「新宿プレイマップ」には大瀧詠一と内田裕也による日本語ロック論争が掲載されている。
かんかんがくがくの中日本語ロックは産声を上げた。
日本的叙情の込められたですます調のロック。
くしくも70年代日本の製造業が躍進し海外へと進出。
メード・イン・ジャパンの名声が広がる一方「ものばかり輸出して顔が見えない」と批判もされ始めていた。

(歌声)はっぴいえんどはそんな時代に日本語によるロックを創造した。
それは今の音楽シーンにつながる扉を開く実験だった。
メンバーの一人細野晴臣は次なる音楽革命に乗り出す。
新たに結成した…おのおのがミュージシャンでありながら音楽全体に気を配るプロデューサーでもあった。
レコード会社に取りしきられたそれまでの音楽作りから離れミュージシャンが主導となるプロデュースを目指したのだ。
そこに現れたのが荒井由実。
デビュー前既にシンガーソングライターとして自分のスタイルを確立していた。
細野たちはその魅力を更に引き出すための音作りを徹底的に追求。
次々と名曲が生まれる。

(松任谷由実)全くない音楽だったと思います。
それは私の作品や声というだけじゃなくてほんとにサウンドによるところが大きかったですね。
73年といえば同棲するカップルの貧しい暮らしや純情を歌ういわゆる4畳半フォークの全盛期。
ところが荒井は優雅で洗練されたメロディーに乗せてきらびやかな都会に生きる女性の情景を歌った。
ビブラートを利かせない乾いた歌唱法も異色で「ぶっきらぼうで冷たい」と言われた事もあった。
しかし時代は彼女に味方した。
万博後落ち込んだ乗客を取り戻すため国鉄が全国展開したキャンペーン「ディスカバージャパン」。
「私を再発見する」ために女性の個人旅行を勧めたこのキャンペーンは大ヒット。
女性が主役のカルチャーが生まれるきっかけともなった。
そんな時代の音楽として荒井由実の新しい女性目線の歌ほどふさわしいものはなかった。
そして彼女はニューミュージックの旗手となった。
・「この道はまるで滑走路夜空に続く」すごい!
(ヴァンソン)いいなあ。
やっぱり歴史というかそれまでの教科書的なものを塗り替える新しいページを作る人ってすごいですね。
天才ってやっぱり時代時代で現れるんですね。
かっこいいなあ。
特に細野さんですね。
(中川)細野さんすごい!まず日本語のロックをやろうとした細野さん。
それからYMOを作ったのも細野さんでしょ。
そういった意味では発明家ですよ。
それでね大事なのははっぴいえんどにしろ当時荒井由実ですね。
荒井由実さん。
彼女たちはじゃあ新しい音楽を作ろうとしたという時に何かに対抗するわけですよね。
何に対抗してたのかっていう事は大事じゃないですか。
はっぴいえんどと荒井由実というような人たちがまず一つ対抗しようとしてたのは例えば日本の歌謡というシステムじゃないかと思うんですよ。
例えばそれは芸能って言われる世界の音楽産業。
その音楽産業の仕組みというものからどうやって逃れたらいいか。
そこで音の作り方が全然違うんじゃないかと。
外国のレコード聴くと演奏のレベルが高くてその中に簡単な事を言うとボーカルが埋もれたような感じで入ってるじゃないというのをレコード何枚も持っていってスタジオに入ってからミキサーさんにそういうふうに録音してもらったという記録が残ってるんですね。
そういうのが一つあったと思うんです。
ここからが重要なんです。
それではっぴいえんどのメンバーの一人である大瀧詠一さんがNHKのFM放送で10年以上前に「日本ポップス伝」という番組をやってたんです。
これはめちゃくちゃ面白いんですよ。
・「VACATION楽しいな!」去年亡くなった大瀧詠一がDJを務めた「日本ポップス伝」。
明治時代から現代に至るまでの日本の流行歌の軌跡を分析したまさに出色のサブカルチャー論。
(大瀧)「いや〜これは迫力ありますね。
美空ひばりから弘田三枝子という流れが一つの日本の戦後のポップスの流れだというふうに私は個人的に思ってるんですがこれは歌といい訳詞といい演奏がまたすごいんですよね。
実はこの演奏がすごいのはやっぱりジャズブームがあってその流れがあってミュージシャンがずっといいミュージシャンがいっぱいいたという事を証明してるんですよ」。
大瀧さんがここで唱えたのはフォークソングの元祖はどこにあるのか。
三橋美智也さんなんですよ。
これもう間違いないと大瀧さんが言ってるんです。
この曲なんです。
・「わらにまみれてヨー育てた栗毛」日本の民謡を歌謡の世界に持ち込んだ人なんです。
・「町へ行く」三橋美智也さんの「達者でナ」。
これがフォークソングの元祖だと。
フォークソングの祖はこの曲である。
これは1960年のヒット曲です。
それから12年後1972年「達者でナ」に対する一つの答えがフォークソング…まさに「達者でナ」はフォークの祖だったんだなというのが出ます。
72年にフォークの一枚のアルバムが40万枚売れてそれから15週連続ヒットチャートのトップだったんです。
それが吉田拓郎さんの「元気です。
」。
だから「達者でナ」って言われたわけじゃないですか。
「Befine」って言われたんです。
恐らく。
そしたら「I’mfine」って言ったんですよ。
(笑い)だからまさにこれはそのとおりだなと思った。
これは重要だなと思うんですよ。
ここが1972年がフォークソングの…そのあともいろんなフォークソングが出てきたんですけどやっぱりこの「元気です。
」が頂点。
あのフォークソングの頂点だった。
そのあとにもいろいろな方がいらっしゃいましたけど一番だなと思います。
ちょっとだけ聴いてみましょうか。
4曲目か。
・「ひとつのリンゴを君がふたつに切る」・「ぼくの方が少し大きく切ってある」恐らくこのアルバムで一番いいのはこの曲じゃないかと僕は思ってるんですがというのはギターの音が非常にすばらしいと思ってます。
この曲はいいなとすごく思ってます。
このアルバムの中には「元気です」という曲はないんですよ。
ただアルバムのタイトルが「元気です。
」なんですよね。
だからそこには12年の時間を経て日本の一つの音楽の歴史みたいなものが流れて「達者でナ」に対して「元気です。
」を持ってきちゃったという事はあったんです。
何の因果かたどりついたという感じですね。
というのは…そんな近々に?割と最近発見した出来事なんですよ。
その翌年1973年に「ひこうき雲」なんだよ。
はあ〜じゃあやっぱりフォークの頂点が来てそして新しいニューミュージックが登場するという感じなんですかね。
そうです。
荒井由実さんといえば多摩美卒ですけれども僕も多摩美にいた時期がありましたので荒井由実さんが体育の授業に出てるのを見た事があります。
すごい!みんなうわさになりました。
荒井由実がどうやら体育の授業に出るらしいと。
みんな見に行ったという。
その在学中にはもうデビューしてたんですか?してました。
もう有名だった?うん。
荒井由実さんの音楽聴いてるとこのあとにやってくるバブルとかの颯爽としたオシャレな価値観のスタートなんじゃないかという気にさせられるんですよね。
去年「ひこうき雲」が大ヒットまたした時にもう新曲だと思ってた人って若い世代の人すごい多かったですよね。
当時40年前に少女だった荒井由実さんが作ったって事をずっと知らなかった若い世代の人もいるしニューミュージックもっと聴いてみたいなと思うんですけどその何が「ニュー」だったのかなって分からないまま聴いてるんですよね。
何かに対抗はしてたわけじゃないですか。
はっぴいえんどが対抗する何かがあったしその対抗するというよりは自分が好きな音楽をやったのが社会と全然違った。
社会というか今の傾向と全然違ったという人たちもいたはずなんです。
ただニューミュージックの「ニュー」に関して言えばさっき言った旧来の音楽産業とフォークソングという…フォークソングの大きさというのはかなり大きかったんだ存在として大きかった。
その中でニューミュージックというのはそれとは違うものというふうに考えたんだろうと思われます。
ええ今日ちょっと内容濃すぎないか?黒板がここまで埋まった事は今までなかったですし。
70年代深夜の解放区だったラジオ。
そしてそこから流れてきたのは音楽界の革命でした。
それは単に音楽というジャンルにとどまらず日本人の価値観ライフスタイルにも影響を与えるパワーを持っていたんですね。
それではまた来週。
Seeyounextweek!バイバイ。
あのころがあるから今がある。
2014/08/22(金) 23:00〜23:55
NHKEテレ1大阪
ニッポン戦後サブカルチャー史 第4回「70年代(1)深夜のラジオと音楽革命」[字]

70年代、ラジオの深夜放送は若者たちの解放区だった。伝説のDJ林美雄とは?そして音楽界にも革命が起きていた。日本語ロックのはっぴいえんど、荒井由実鮮烈の登場。

詳細情報
番組内容
学生運動の時代が去り、大阪万博で華々しく幕を開けた70年代。若者たちの「解放区」となったのが、ラジオの深夜放送だった。砕けた口調で若者たちだけの話題や新しい情報を語りかける番組が衝撃だった。鋭敏な感覚でサブカルチャーを紹介し続けた伝説のDJ林美雄が残したものは?そして音楽界にも革命が起きる。日本語ロックのはっぴいえんどに、荒井由実の登場。「シラケ世代」とはいわせない、70’Sカルチャーの軌跡。
出演者
【出演】劇作家・岸田戯曲賞作家…宮沢章夫,【ゲスト】風間俊介,中川翔子,ジリ・ヴァンソン,【語り】小松由佳

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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