4ミュージック・ポートレイト「宮沢りえ×野田秀樹 第1夜」 2014.08.21

何か改めて会うのは恥ずかしい。
いらっしゃいませ。
アハハハ…。
「秀樹の部屋」?そうらしいよ。
何かインチキくさいイタリア人みたいな。
元はトップアイドル。
その後演技の世界で生きると決めた実力派女優。
小劇場ブームの立て役者で常に日本の演劇界をけん引してきた演出家。
ともに芝居の世界で戦い続ける2人が大切な音楽を持ち寄り語り合います。
どげんしたとか?何か知っとる。
このデジャビュ的…前世?女優宮沢りえ41歳。
話題の舞台に数多く出演。
今日本の演劇界に欠かせない存在です。
しかしモデルからトップアイドルになった10代の頃は本当の自分と他人が思う自分とのギャップに悩んでいました。
18歳で写真集「SantaFe」を発表。
りえの人気は頂点に達します。
しかしその後私生活で大きな転機が。
りえは渦中の人となり日本を離れる決意をします。
その後再び日本へと戻ったりえは映画女優として高い評価を受けます。
念願だった野田の作品に出演。
舞台の魅力に取りつかれていきます。
更に36歳で出産。
母となり表現の幅は広がりました。
役者演出家そして劇作家。
演劇の現場でマルチに活躍する野田秀樹58歳。
1980年代時代の寵児と呼ばれずっと演劇界の最前線で戦ってきた野田。
彼を作り上げた音楽とは。
高校の頃からその演劇の才能は評判となっていました。
東大に進学し劇団夢の遊眠社を結成。
疾走感あふれる舞台は高く評価され小劇場ブームの立て役者となります。
しかし人気絶頂の中突然右目を失明。
ロンドンで芝居作りに挑戦するも酷評の嵐。
再起を懸けた3年後の作品は高く評価され客席は満員に。
見事リベンジを果たしました。
どんな困難に遭おうともそれを全て表現に変えてきた2人。
芝居の世界でともに戦う事で強い絆が生まれました。
心に残る音楽を通して2つの人生を見つめていきます。
父親はオランダ人母親は日本人のハーフでした。
両親はりえが生まれてすぐに離婚。
母が昼夜問わず働くためにりえは伯母夫妻の家に預けられていました。
母親と暮らせない寂しさを癒やしてくれたのがこの曲です。
全員が聴いてたしそのころ私は母親が私を育てるために自分の仕事があったので伯母のとこに預けられてた時期があって。
いとこと住んでたんですね。
テレビで「トップテン」とか歌番組をいとこと見ている時の一番の記憶で。
お年玉をためて初めて買ったのがこのレコードだったんです。
買ったんだ。
このころ既にクラスメートと違う人生を歩んでいました。
母親と暮らせない上に容姿も違う。
ハーフゆえのいじめ。
やっぱり髪の色からもう結構浮いてましたね。
だから宇宙人みたいな感じで見るおばあちゃんとか。
何だろう。
外国の子だっていう。
私が小学校の時なんかはすごく目立ってたと思います。
その土地からすると。
まあかわいかったというのもありますし。
言っちゃったね。
ごめん。
こっちが言わなくちゃいけなかったね。
かわいかったんだろうね。
一方野田秀樹は1955年長崎県西海市の炭鉱の島に生まれます。
父親は三菱セメントに勤めるホワイトカラー。
家にはまだ珍しかった時代からテレビもあり最先端の暮らしを送っていました。
少年時代野田の心に響いた曲はそのテレビと父親の記憶に結び付いています。
いいですね。
これはね僕は長崎に生まれてるでしょ?それでね4歳から5歳になるぐらいの頃に東京に出てきて多分初めて東京から長崎に帰った。
東京に暮らしたあとに。
その夏にちょうど窓を開けたらお星様が見えたんですよ。
それでそのころちょうどこれがはやってたんじゃないの?それがすごく残ってて。
それと同時に父親が星の話をしてくれた直後で今見てる星が実はもう消えて無くなってるのに光だけ届く事があるんだよというその話はすごい鮮明に覚えてる。
何かねものすごくさみしくなったの。
まだ小学校3年生ぐらいだったんだけど。
それがすごいずっと覚えてる。
何か初めてそういう事を感じたものと…。
何だろう生きるとかいう事を感じたのとちょうど重なる曲なの。
多感だった幼少期。
このころの経験が2人を表現の世界へ導いていきます。
りえは小学5年生でモデルの仕事を始めます。
これをきっかけに念願だった母親との暮らしが実現。
「ああやっとお母さんと暮らせる」。
幸せをかみしめた時母親が聞かせてくれたのがモーツァルトでした。
母親と一緒に住めるようになって。
すごい小さなマンションだったんだけどやっぱり母親と一緒にずっといられるって事が普通にうれしくって。
初めて自分が何か生き物を飼いたいって言って実現したんですよ。
それが熱帯魚だったんだけど。
そのうれしさと青い世界の中に熱帯魚が泳いでいるのを見ながら母親がよくかけてたのがこの曲だったので。
この曲をどっか街で歩いてて聴くとその熱帯魚と何かこう幸せだったっていう記憶がファ〜ッてよみがえる。
普通の子どもとしたら母親と一緒にいる事なんか普通だったんだと思うんだけど私は離れてた時期があったから余計に幸せでうれしくて。
…っていう記憶の曲ですね。
このころりえはいじめの対象となっていた外見にコンプレックスを持っていました。
しかし仕事の現場である日そのコンプレックスが解消したのです。
「おいしさにこだわればケンタッキーフライドチキンです」。
髪の毛が赤いとかちょっと自分たちと違うというので小学校の時いじめられてたりもしたんですよね。
まあうちの母親はずっと髪の毛の色についてすてきだって言ってくれてたけどほかに言ってくれる人がいなかった時にヘアメークさんに「すごいきれいな髪の毛の色ね」って。
「これはどうやって染めてもこんなふうにはならないのよね」って髪の毛やってもらった時にすごいうれしくて。
「あっ母親が言ってた事は間違いじゃないのかな」と思って。
容姿はコンプレックスだったから。
「みにくいあひるの子」の話に近いよね。
もともとやっぱりきれいだからコンプレックスがそっち側に変わるんで。
例えば僕なんか背が低いという事が「ああよかった。
背が低くてよかった」という瞬間には一度も会ってないもん。
そうですか?だから声でかいんですよ俺。
その人を取り巻く環境って本当に運命を変えてしまうっていう。
人の持つ価値観なんて実はそんなもんだもん。
モデルの仕事にやりがいを感じるようになったりえ。
ならばそのモデルでトップを目指そうと考えます。
その時目標にしたのが資生堂のコマーシャルで活躍していた山口小夜子。
日本人ならではの美しさで1970年代ニューズウィーク誌で世界のトップモデル6人にも選ばれました。
私はとても山口小夜子さんに憧れてたんですね。
山口小夜子さんという人のしゃべらなくても表現するっていう。
それは作品含めてなんだけどその事にすごい憧れを感じて。
お化粧してもらって山口小夜子さんの映像に憧れた世界に自分がいれる高揚感というのは子どもながらにもあったし。
お化粧してもらってきれいな洋服を着て写真を撮ってその写真を見た時にうれしかったというのは自分が否定していたものが周りの力によってそうじゃないものに変わる事を確認するみたいな。
それがまあ映像でもスチールでも平面のものでもすごくうれしかったというのはありましたよね。
一方野田少年は1971年日本でもトップクラスの進学校へ入学。
本格的に芝居を始めます。
芝居を始めたきっかけは高校の同級生が「演劇部が潰れそうなんだけど入ってくれない?」って言われたのがきっかけなの。
僕サッカー部入ってたんだけどサッカー部そのころ今ほどサッカーって人気なかったからボールがすごい少なくて放課後2時間ぐらいやってんだけど1年生って1回か2回触れるだけなの。
なんて無駄な放課後だって思ってて。
それでね「先輩いる?演劇部に」って聞いたら「いや潰れそうだからいない」。
それで「しめた」と思ってそれで入ったの。
2年生の時には役者だけでなく初めて自分で作品を書き上げます。
男だけの芝居ってなかなかないんだよね。
なかなか選べなくてある夏休みの前の日に2年生の夏休みの前に演劇部員全員で台本を1本ずつ書いてこようと。
自分たちの。
それで夏休み明けたら俺しか書いてなかった。
だからよかった悪かったの問題じゃなくてそれしかやるもんがないからこれでやろうという事になってやったのがきっかけ。
それタイトル覚えてます?覚えてるもちろん。
それは「アイと死をみつめて」。
今一番言わない事じゃないですか。
違う違う。
それは不条理劇なの。
「アイ」というのも自分の「私」の「アイ」なの。
もうその時からあるんですね。
言葉を操るというか。
その当時って演劇とか演劇だけじゃなくてね時代が文化を解体しようっていう時期だったからね。
子どもの頃から大好きだった言葉遊び。
それを駆使した作品で独自の世界を築き始めた野田。
その琴線に触れたのは意外な曲でした。
高校3年生の時に自分で芝居を作った時に初めてお芝居に音楽を使ったその曲。
この曲だったんですか。
一番最後に使った。
へえ〜。
これはね人間が人間を究極で食べちゃう。
食べちゃった時にここの肩にこけが光るというそういうお話なの。
最後に食べたという事に自分が気が付いて罪を背負ってる時に流れてくる曲で一番最後に使った。
これでもやっぱり普通の高校生じゃないですよね。
その当時というのはみんな普通じゃないようにしようと頑張る。
文化的なものが好きなそういう時代だったしね。
僕だからそういう意味で言うとそのころはロックとかあるいはジャズ喫茶とかが全盛だったんだけどそこに行ってはちょっと「ああ俺はこういうのあんまり好きじゃないな」って。
むしろこういうダニエル・リカーリなんか使うという事自体がその時期はちょっと…。
反発もあるんでしょうね。
今度あさひが丘にリハウスしてきました白鳥麗子です。
このコマーシャルへの出演をきっかけにりえの人気は大ブレークします。
「娘のハミングが聞こえる住みかえをリハウスといいます」。
翌年には「ぼくらの七日間戦争」で映画初主演。
初めて演技に挑戦しました。
何で私がそこまでしなきゃいけない訳?それが学級委員の務めでしょ。
ちょっと何よあんたたち!さっきから聞いてるとふざけないでよ!慣れない芝居に挑戦するりえ。
戦う彼女を応援してくれたのは映画の主題歌でした。
私時代の人はみんな今テレビの前で…。
…ってやってる。
絶対やってる。
そんなブームっていうか。
「ぼくらの七日間戦争」っていう映画は本当にすごかったんですよね。
何かやっぱり時代といわゆる思春期の子が絶対に通り過ぎる…反発。
理由なき反抗ね。
まあそういう。
白鳥麗子っていうコマーシャルをきっかけにお芝居の仕事が来るようになって。
でも私は山口小夜子になりたかったのでまだまだ背が伸びると思ってたしまだパリコレに出れると。
パリコレのランウェーを歩くというのが一番の最終目標だったので。
セリフとか本当に嫌だったし。
自分がうまくないって事が分かってるから。
だから「ぼくらの七日間戦争」やってもまた必ずモデルに戻ると思ってたんだけれど何か世の中の仕組み的にはそうじゃなかったらしくやっぱりお芝居…お芝居っていうか歌とかアイドル的なものを求められていったんですよね。
仕事で求められるものに応えるうちアイドルとしての階段を上り詰めていきました。
そしてそのアイドルの殻を突き破るセンセーショナルな作品を発表。
ドラマに出ればりえのセリフが流行語に。
ぶっとび!17歳の時には「紅白」にも出場。
斬新な演出が大きな話題となりました。
しかしこのころりえは演じている自分と本当の自分とのギャップに戸惑いを感じていました。
実像と虚像というのは我々が感じるのとやっぱり全然違うんだと思うんだけどどんなふうなの?扉を閉めた瞬間に「違うの!」みたいなのとかさ。
例えばドラマで「ぶっとび〜!」とか言ってただ楽しいっていうドラマをやっておうちに帰ったりするとそのころ我が家がサロンみたいな状態になってた時があったんですよ。
10代後半から20代ぐらいまで。
いろんな人が集まって。
もちろん役者からアーティストとかあと歌を歌う人とか。
そこに集まってくる面白い大人たちの話を聞いてそっちの方が落ち着くっていうか。
自分たちが戦ってきた時のエピソードとかを聞くのがすごい楽しかったしそれを聞いてまた「ぶっとび」しに行くっていう振り子の振れた時期だったとは思います。
自分に戻れる時間りえが聴いていたのは爆音で鳴らすブルーハーツ。
これ初恋の男の子にカセットテープでもらったんですよ。
中学の時にね。
自分の体と心に何が起こっているのか理解できない時が私あって。
何か夜とかもベッドに入るとあまりにもたくさんの情報とか出来事が自分の心を超えてあふれてしまってたんですよね。
きっと毎日。
寝るとある人に言われた言葉とかその言葉がものすごい本当に音で流れているんじゃないかっていうぐらい耳の中をモヤモヤモヤモヤって今日の一日の出来事がず〜っと覆いかぶさってくる感じがあって。
それにちょっと耐えられなくなるとイヤホンでこれを大音量でこのアルバムなんですけど聴くと安らかに眠れるっていう。
何か…。
ちょっと今考えると病んでたのかな。
みんなそうなのかなって分かんないけど。
・「リンダリンダ」・「リンダリンダリンダ」17歳。
自分は何者なのか。
どこに向かうべきなのか。
同世代の若者が抱える悩みの中にりえもいました。
高校時代芝居に没頭していた野田は一浪して東大に入学。
演劇研究会に入り一層芝居にのめり込んでいきます。
野田の才能はすぐに評判となりました。
一緒に芝居がしたいとほかの大学からも人が集まり…まだ大学2年の時でした。
学生寮のホールを改造して劇場にしここを拠点に活動します。
す〜っと入っていいよ。
学生演劇のカリスマ野田秀樹。
その名がとどろいていきます。
自信はあったんだよね。
自信だけ。
言っちゃった。
才能よりも自信。
これ結構世の中の人に励みになりますよ。
やっぱり自信を持つ事じゃない?だから怖くなかったんだよね。
まあ若いってのはそこが特権じゃない。
上の世代より何が自信あるってあいつらより長く生きれる。
根拠はそこですか?あいつらの方が先に墓場に行く。
そこですよ。
あの時ってもっと今よりももっとナイフみたいな人でしょ?役者さんに対してどんな感じだったんですか?ひどい人だったんじゃないですか。
自分はひどいとは思ってなかったけど。
つまりね自分ができる事が何でできないんだろうなって思ってたタイプなんです。
本当は2cmの違いなんて変わんないのに「違う」とかさ。
うわ〜。
「絶対に違う」とかさそういうのが。
でもその時に鍛えられたらもう何が来ても怖くないだろうな。
その分自分も身体的には鍛えてたからね。
その何て言うか貯金で生きてます。
そうですね。
若きカリスマが引かれたのは25歳で夭折した天才トランペッター。
野田の世代としてはかなり渋めのジャズでした。
う〜んいいですね。
かっこいい。
これいいよ。
まだ僕芝居始めて大学で始めて微妙に人気は出てきたけどあんまり生活は豊かでなく生きてた時にですね僕は新宿の1丁目の辺に住んでたんだけど。
そこに今は無くなっちゃったけどレコード屋さんがあったの。
そこで1枚ジャズを買って。
時々お金に余裕がある時。
それを家に帰って聴くのがすごい楽しみで。
貧しいんだけどジャズだけは増えていくみたいな。
そういう時代で。
クリフォード・ブラウンって人はちょうど自分の年齢に近かったって事もあるんだけど。
亡くなった年が。
亡くなった年齢がね。
それでこれは特に好きだった。
野田が描く夢と現実が交錯した…俺はカスパーの一族に帰依するためにここへやって来た。
高い身体能力を生かした…そして言葉遊びをふんだんに盛り込んだ展開の面白さ。
タクシー待ってんじゃないんですよ。
私だってタクシー待ってんじゃない。
自分を呼んだの。
あらゆる面で独創的な遊眠社の舞台は若者を中心に…劇団結成10周年の公演では1日で26,000人余りを動員。
その人気ぶりは社会現象とまでいわれました。
評判は海外にまで届き32歳の時イギリス・エディンバラの国際芸術祭に招待されます。
世界中から一流の芸術家が集められる伝統ある芸術祭。
演劇の本場イギリスで芝居をする魅力に目覚めます。
公演は大好評。
その時の高揚した気持ちに戻れるのが舞台でも使った名曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」。
リアクションは初めてのスタンディングオベーションというものをもらって。
日本でそのころほとんどやってなかったから。
「ああこれがその…それなんだ」っていうような。
実はその時は本当有頂天で。
批評もよかったし。
「今まで日本の芝居に対するイメージ重苦しくゆっくりとしているというイメージは墓場にたたき込め」っていうそういうすごいすてきな批評をもらった。
すてき。
やはりこの「カヴァレリア・ルスティカーナ」をシーンに使ったというのは電信柱に耳を当てて物語が聞こえてくるっていうそのシーンに使っただけなんだけど。
聞こえるだろう?いろんな話が。
ヒマラヤスギからはヒマラヤの雪男雪女もろもろ。
熊野の杉からはスサノオノミコトの伝説。
そんなものを集めてどうするんだ。
この伝説の電信柱たちをよしのひもでくくりつけてその上にわくら葉を敷いていかだが出来たらこのこはく色した海を漂流していくんだ。
そのあと帰ってきてからもこれを聴くと何と言うかなエディンバラの城のとにかくすてきな…。
いくつか夢のような街というのがあるとしたらそのうちの確実に自分の中の一つでその情景がこの曲と結び付いて出てくるのね。
音楽ってすごいですね。
そうそうだから音楽が人生を変えるっていうのはミュージシャンじゃない限りめったにない…僕はないと思うんだけどただその音楽が人生の情景とか匂いとかそういうものを浮かべるというのは確実にあるよね。
そして自分にしか分かんないんだよね。
そうですね。
どんなに伝えても「今こういう事なんだけど」っていうのは言えないんだよね。
このあと野田を予想もしなかった突然の試練が襲います。
初めてのイギリス公演のあと野田はニューヨークの国際芸術祭にも参加。
疾走を続ける日々でした。
しかしその生活は突然音を立てて崩れます。
ジムでのトレーニング中に突然右目が見えなくなったのです。
網膜に血液を送る動脈が血栓で詰まり細胞が死んでしまう…野田の右目は一生光を失う事になったのです。
見えない衝撃に打ちのめされた時ジムには楽しげな青春の歌が流れていました。
その日は朝から台本を調子よく書いていて。
であの…。
役者もやってるから少し体も鍛えとこうと思って近所に近所は駒沢なんだけどジムみたいなとこ行って。
中にグラウンドもあるんだよね。
グラウンドもちょっと走ろうと。
調子いいんだよね。
ず〜っと走ってて。
でちょっと疲れたから休もうと思った時に実はジムの中の遠い所にこの曲がかかってたんですよ。
それでどういうやつだったかってリズム体操。
「これからリズム体操を行います」。
エアロビみたいなやつだよな。
「リズム体操じゃあちょっとやってみよう」と思ってやり始めてそれからしばらくして今の曲のどこかで突然スポ〜ンと見えなくなった。
自分ですぐ分かるんだよね。
治らない。
治らないっていうのが自分で本能的に分かる。
それですぐ病院行って。
最初お医者さんさ余裕持ってたけど目をのぞき込んだ瞬間にさ「あっこれためよ」って言ったんだよね。
普通さコメディーとかで「ためよ」って言うの聞いた事あるけどさ実際に「ためよ」って言うのは初めて聞いた訳よね。
それ中国の先生ですよね。
「ためよ」って「駄目よ」って事ですかとか聞いて。
「ためよこれためよ」って言って。
「30分以内に見えなくなる…ためよ!」。
それでさ何でもいいから袋をかぶせる。
要するに酸素を減らして血管に送る。
血がすごく行くようにして詰まったものを押し出せって事。
「何でもいいから袋ない?」って言ったらそばにあったのがコンビニの袋。
それで「30分!」って言われてる深刻な事態でコンビニの袋をここに掛けて「フゥ〜はい吸って!」。
…ってやってんの。
それでさ俺やってる自分がおかしくてさ。
「30分でためよ」って言われたよなって思いながら「コンビニの袋かよ俺」って思いながらさ。
アハハハ!笑えるでしょ?ごめんなさい。
本当に人生の何て言うか不幸なものと喜劇性って本当にこう…。
紙一重。
実際にやっぱりこうやってしゃべると誰でも笑うもん。
失明という肉体的な危機。
それに加え野田はこのころ仕事上でも大きな葛藤を抱えていました。
夢の遊眠社の団員と芝居への姿勢にギャップが生まれていたのです。
野田は結成当時と同じ思い。
みんなといつも一緒にいて共に芝居を磨き上げていきたいと考えていました。
しかし団員たちは将来を考えテレビに出て有名になりたいと思っていたのです。
野田の演劇人生は大きな岐路を迎えようとしていました。
一方りえは18歳の時世間をあっと言わせる写真集を発表します。
落ちぶれると脱ぐっていうイメージだったんですよね。
その当時って。
変わったねあれはね。
そこも鮮明に覚えてるよ。
僕はね神戸にお芝居しに行ってて。
劇団夢の遊眠社で。
朝起きて一人で下で新聞をバッて広げたら何か宣伝がパッと写ってて。
飲んでたコーヒーをプッってやる感じあるじゃない?あの感じ。
ちょっとびっくりして。
それで寝てる劇団員を全部電話で呼び出した。
大変な事がこの世に起きていると。
いや光栄です。
野田さんがそんなだったなんて。
あれも全くやらされた感とかがなくて。
サンタフェっていう街に行って最初は洋服を着たショットとかを撮ってて。
本人がいいって言ったら脱いでもいいしやだって言ったらそれはもう洋服だけの写真集にしましょうという約束をしてたみたいで。
それはりえちゃんの性格じゃ脱ぐわな。
ちょっと脱いでみたんですよね。
そしたら…。
サンタフェっていう街はとってもいい街だったし今思うと本当に女性の肉体として一番美しい時だったと思うんですよね。
それは20代30代でそれなりの魅力はあるんだと思うけれど。
私は今でもすごく誇りに思う作品だし。
このころ私生活でも大きな転機を迎えたりえ。
僅か2か月の間に幸せの絶頂と正反対の絶望を味わい渦中の人となりました。
マスコミの人たちが言う事とかがもう…。
これを我慢してここで日本にいて聞き続けているのは不健康な気がしてきちゃって。
まあロスにとりあえず旅行で行こうって母親となって。
母親はいつも辞めたい時はいつでも辞めなってずっと言い続けてたんですよね。
「もうあなたの好きにした方がいい」って言って。
「じゃあちょっと当分日本から離れたい」って言って。
何かもう仕事に対する欲とかも全然なくなってて。
でロスにうちを買って住んでたんだけど何にもする事ない。
学校行く訳でもないし。
とにかくこう海行ったり近所を散歩したり。
二十歳を過ぎてロス暮らしを始めたりえ。
心を揺さぶったのは「帰れない二人」という歌でした。
現地で出来た友達とかを呼んでかけてるのが絶対的に陽水さんだったんですよね。
不条理なものに対してもし向き合った時にも何か笑い飛ばせるって言ったらおかしいけどそれを面白い事にしてしまうっていうパワーのある人だなって思ってたんですよね。
「がむしゃら」っていう言葉とか全くなくて。
きっともちろん曲を作る一曲のものを作るというのは相当エネルギーと苦悩があるんだと思うんだけどそういうものを全く見せない大人なアーティストっていうのに触れているのがすごく楽だった。
結局その時に分かったのは自分は表現する事がやっぱり好きなんだな。
何もしないでいられないんだなっていうのが本当によく分かって。
それまでは芸能界別に一生はやらないなとかすごく思ってたんだけど。
結局演じる事で放出する事がとても体質に合ってるんだなっていう事に気が付いて。
表現の世界で生きていく覚悟。
いばらの道を歩んできた2人は次回ついに舞台の上で出会います。
2014/08/21(木) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「宮沢りえ×野田秀樹 第1夜」[字]

女優宮沢りえと演出家・野田秀樹が人生の10曲を語り合う。アイドル時代傷ついたりえを癒やしたのは井上陽水。若き野田が右目を失明した時響いていた田原俊彦の哀愁でいと

詳細情報
番組内容
女優・宮沢りえと演出家・野田秀樹が人生の10曲を語り合う。トップアイドル時代、周囲の加熱した報道に疲れた宮沢はロサンゼルスで静かに暮らす。癒やしと力を与えられたのが井上陽水の「帰れない二人」だった。80年代「夢の遊眠社」で時代のちょうじとなった若き野田は突然右目を失明する。悲しみの瞬間に響いていたのは田原俊彦の青春ソング「哀愁でいと」だった ▽ブルーハーツ・TMネットワーク・ピンクレディ ほか
出演者
【出演】宮沢りえ,野田秀樹

ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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