NHKスペシャル「知られざる衝撃波〜長崎原爆・マッハステムの脅威〜」 2014.08.20

69年前に長崎を襲った爆風を大学の実験室で再現しました。
午前11時2分。
長崎の上空で爆発した原子爆弾。
街を襲ったのは…そして…。
猛烈な爆風が人々に襲いかかりました。
その年だけで7万人が亡くなります。
死因のおよそ半数は爆風によるものと見られています。
しかしどのような爆風が街を襲い人々の命を奪ったのか詳しい事は分かっていませんでした。
去年爆風を解明する新たな手がかりが見つかりました。
被爆直後の被害の様子を写した写真とそれを基に作られた1枚の地図。
そして爆風の威力を示すドーナツ状の赤い帯。
爆心地から離れるほど爆風による被害が激しかった事が明らかになりました。
最も濃い赤で塗られたエリアは…そこには当時鉄筋コンクリートで造られた頑丈な建物がありました。
ここで教師や動員されていた学徒など138人が命を落としました。
爆風は校舎の中の人々をどのように襲ったのか。
実験から爆風が校舎の中を僅か0.1秒で突き抜けていた事が分かりました。
上空503mの爆心から広がる爆風。
この時地面を水平方向に進んでいく壁のようなものがあります。
これが長崎の街を破壊した強力な衝撃波…アメリカがマッハステムの破壊力を事前に計算し意図的に利用していた事も明らかになりました。
原爆投下4か月前に開かれた極秘会議の文書です。
69年前長崎の街を壊滅させた衝撃波マッハステム。
今明らかになる長崎原爆の脅威です。
おはようございます。
おはようございます!登校してきた子どもたちは毎朝おじぎをしてから校舎に入ります。
原爆で大きな被害を受けたこの小学校で長い間続いてきた光景です。
正門の脇には被爆した校舎の一部が残されています。
戦後修復されましたが建物の中には被爆当時の痕跡が残されています。
爆風と熱線で切断された鉄の窓枠。
真っ黒に焼け焦げた木片。
被爆する前の城山国民学校です。
学校には南と北の2つの校舎がありました。
あの日子どもたちは自宅待機を命じられ北側の校舎にいたのは主に教師たち。
南側の校舎は三菱兵器製作所の事務所として使われ社員や学徒たちが働いていました。
原爆が落とされた瞬間校舎にすさまじい爆風が襲いかかりました。
138人が死亡。
生き残ったのは僅か20人。
頑丈な鉄筋コンクリートの校舎の中でどのようにして多くの人が亡くなったのか。
これまであまり語られてきませんでした。
城山国民学校で奇跡的に生き残った人が見つかりました。
おはようございます。
おはようございます。
当時17歳。
女学校を卒業後三菱兵器製作所に動員されていました。
あの日たまたま校庭にあった防空壕を掘る作業をしていて助かりました。
すさまじい爆風が防空壕の中にまで襲ってきたといいます。
このくらいのとこまで歩いてきましたんですね大体。
防空壕からはい出してきた金谷さんが目にしたのは爆風で破壊された校舎と助けを求める同僚たちの姿でした。
長崎に投下された原子爆弾…広島の原爆の1.3倍の破壊力がありました。
被爆直後の犠牲者の死因はおよそ半数が爆風によるものでした。
倒壊した建物の下敷きになったり爆風で吹き飛ばされた人が大勢いたためです。
爆風によって鉄筋コンクリートの建物が壊滅的な被害を受けた面積は広島のおよそ10倍に及びました。
被爆直後の長崎で爆風に注目して調査を行った科学者がいました。
竜巻の強さを示す国際的な尺度Fスケールを考案した竜巻研究の第一人者です。
去年藤田博士の遺品の中から原爆の爆風の威力を解明する手がかりとなる資料が発見されました。
見つかったのは34点の写真。
爆風が破壊した街の状況を意図的に狙って撮影していました。
更に写真を基に作られた地図が見つかりました。
色の濃さで爆風の威力を表しています。
最も濃く塗られているのは城山国民学校があった爆心地500mのエリア。
なぜ爆心地から遠ざかるほど色が濃くなっているのか。
長崎原爆資料館の…奥野さんが注目したのは城山国民学校周辺の写真に写り込んでいる木の状態でした。
被爆から僅か10日余りで撮影された藤田博士の写真。
そこから浮かび上がってきた横から吹き抜ける強い爆風の存在。
なぜ爆心地から離れた500m付近で威力が強まったのか。
熊本大学の協力で実験を行いました。
建物が受ける圧力を調べます。
実験の監修は爆風による破壊現象に詳しい専門家に依頼しました。
実験するのは城山国民学校で最も大きな被害が出た南側の校舎です。
原爆が投下された時三菱兵器製作所の事務所があった南側校舎の2階と3階には100人が働いていました。
南側校舎の一区画を再現した模型を爆心地500mに相当する場所に設置。
原爆の爆心上空503mに相当する高さに爆薬を仕掛けます。
(モニターからの爆発音)壁の壊れ方を高速度カメラで捉えました。
破壊される直前。
壁が爆風の圧力で大きく押し込まれています。
模型が受けた圧力の最大値は760キロパスカル。
1m四方辺り76トン。
この事から城山国民学校の南側校舎の壁一面にはおよそ8,400トンの力がかかっていた事になります。
更に裏側の壁の壊れ方にも特徴がありました。
爆風によってまず表側の壁が壊れ始めます。
この時裏側の壁はまだ残っています。
表側の壁が壊れ始めておよそ秒後裏側の壁が押し出されるように破壊されました。
表側に水平方向から激突した圧力が裏側まで突き抜けたと考えられます。
爆心地500mで高まる水平方向の圧力。
その動きを目に見えない空気の流れを捉える特殊な装置で撮影しました。
爆心から広がっていく爆風の様子です。
地面にぶつかった爆風はドーム状に反射します。
爆風が重なり合う部分に注目します。
爆心から広がる上からの爆風。
そして地面で反射した爆風。
2つは重なり合って2倍以上に圧力を増し水平方向に進みます。
この地面と水平に動く圧力の壁は距離が進むにつれ更に高さと力を増していきます。
これがマッハステムと呼ばれる衝撃波です。
マッハステムが長崎の街を襲った様子を再現しました。
空中で原子爆弾が爆発。
爆風はボールが膨らむように広がっていきました。
地面に反射した爆風はドーム状に拡大。
地上ではマッハステムが同心円状に広がります。
赤い帯がマッハステムが破壊を引き起こしたエリアです。
長崎の原爆の場合爆心地から300m付近でマッハステムが発生。
500m付近で破壊力がピークに達しました。
明らかになった城山国民学校の破壊の詳細です。
午前11時2分原子爆弾が爆発。
その0.9秒後にマッハステムが城山国民学校に到達。
8,000トンを超える力で南側校舎の壁を水平方向に突き破り僅か0.1秒で校舎の裏側へと突き抜けました。
建物の骨組みは残りましたが南側校舎の中にいた100人のうち96人が亡くなりました。
マッハステムに襲われた校舎の中で何が起きていたのか。
その時の学校の様子を記録に残していた人がいました。
生き残った20人のうちの1人です。
これはおやじが残してた原爆関係の資料でございましてね。
戦後荒川さんは生存者や遺族を訪ね歩き87歳で亡くなるまで城山国民学校の被爆の記録を作り続けました。
今回遺品の中から荒川さんが聞き取り調査を行っていた頃のメモが見つかりました。
「原爆の記録」。
この中に南側校舎の事も書き残されていました。
「爆風によって窓が吹き飛ばされガラスのかけらが鋭い刃物となって飛散し屋上と天井が崩れ厚い漆喰が崩れ落ちた。
これによって多くの人が爆傷熱傷死した。
この校舎を片づける際崩れたコンクリートの間から何人もの遺体が発見された」。
城山国民学校の教室の窓は格子状の枠にたくさんのガラスがはめ込まれたものでした。
窓の格子から秒速10mで水平方向に飛び出したガラスが人々に襲いかかりました。
更に吹き飛ばされた教室の壁。
崩落したコンクリートの天井。
猛烈な衝撃波マッハステムが校舎を次々と凶器に変えました。
損傷が激しく身元の分からない遺体が多くありました。
遺体は家族に知らされる事もないまま校庭で荼毘に付されました。
原爆を落としたアメリカはマッハステムの破壊力をどのように把握していたのか。
国立公文書館に当時の機密資料が残されていました。
1945年4月から始まった目標検討委員会の記録。
日本への原爆投下が話し合われたこの場でマッハステムに関する議論が重ねられていました。
会議の責任者アメリカ陸軍のファレル准将はマッハステムが引き起こす爆風の効果を事前に計算しておくよう指示していました。
そのころアメリカは威力の強いマッハステムが発生する新型の爆弾を開発していました。
後に長崎に落とされる事になった…アメリカの核戦略を研究しているウェラースタイン博士。
目標検討委員会のねらいはマッハステムの効果をいかに高めるかにあったと言います。
マッハステムによる破壊を効率的に行うためにアメリカが検討を重ねたのが原爆を爆発させる高さでした。
住宅を全壊させる圧力5psi。
この破壊力を広い範囲に及ぼすためには爆発させる高度が鍵を握っていました。
例えば1,000mで爆発させた場合。
マッハステムは爆心地から遠く離れた所で発生。
その圧力は5psiに届きません。
一方100mだとマッハステムは爆心地付近で発生します。
しかし5psiを超える圧力が及ぶ範囲は1.4kmにとどまります。
アメリカは周到な計算の末に原爆を長崎上空503mで爆発させました。
5psiを超えるマッハステムは爆心地1.7kmにまで及んだと見られています。
原爆投下から1か月余りがたった長崎。
アメリカ軍が上陸し原爆の効果を確かめる調査が始まりました。
日本人の医師や科学者も動員し建物の調査や被爆者への聞き取りを詳細に行いました。
この時の報告書が見つかりました。
城山国民学校の校舎の見取り図に誰がどこで亡くなったのか記号で記されていました。
黒い丸は即死。
半分だけ塗られた丸はしばらくたってから死亡した事を表しています。
記号には番号が振られています。
その番号ごとに名前と死因が一覧表にまとめられていました。
「33番タナカアイコさん。
22歳死因爆風。
7番フジワラワヤタさん。
30歳男性圧死。
34番ヤマザキサチコさん。
20歳遺体の判別不能」。
原爆をどの高さで爆発させればどれくらいの被害を与えられるのか。
長崎で集めたデータはその後のアメリカの核開発に利用されました。
長崎を襲ったマッハステム。
その猛烈な衝撃波は建物の形状によって圧力を増幅させ被害を拡大させていた事も分かってきました。
城山国民学校の1階の奥まった場所には校長室がありました。
ここで会議をしていた5人の教師のうち4人が亡くなりました。
爆風の破壊力はどのようにして校長室にまで及んだのか。
校舎を襲った爆風の圧力をさまざまなデータを基に正確に再現しました。
秒ごとの圧力の変化を色で表します。
原爆が爆発した0.9秒後。
上空503mの爆心から広がった爆風が校舎の3階に到達。
手前から迫ってくるのは地上を水平にはってきたマッハステムです。
0.04秒後マッハステムが激突した北側校舎の壁一面が高い圧力を示す赤に変わりました。
この時壁にかかっている圧力はおよそ1万2,000トンです。
校舎を断面から見てみます。
マッハステムが校舎に当たった瞬間後ろから次々と押し寄せる圧力が建物に襲いかかっています。
北側校舎に到達したマッハステムは壁を壊す代わりに窓を突き破って校舎の中に侵入していきました。
そして0.1秒で校舎の突き当たりに到達。
壁に反射した瞬間高い圧力を示す赤に変わりました。
反射した爆風は更に後ろから押し寄せる爆風と合流して破壊力を強め校長室へなだれ込んでいきました。
更にこの時マッハステムは建物に囲まれた中庭にも侵入していました。
袋小路に入り込んだマッハステムは校舎の壁を競り上がり周囲の壁にも強い圧力を及ぼします。
校長室はこの中庭にも面していました。
廊下からの爆風に加え中庭からも猛烈な爆風が校長室を襲いました。
こうして校長室は大きな被害を受ける事になったのです。
戦後城山国民学校の被爆の状況を記録し続けた…校長室でひん死の重傷を負いながらただ一人生き残りました。
荒川さんのメモにはその時の校長室の様子が記されていました。
「木下先生。
後頭部傷ガラス刺さっていた」。
「校長先生は大きな角材を首と腰に受けてうつ伏せになって倒れていられた」。
「爆風によって隣室との間仕切り壁と棚が倒壊しその下敷きとなって圧死された。
小河原先生も圧死。
校長の裾を握り助けを求めながら亡くなりました。
後日裾から手を離そうとした時には強く握りしめられた手の皮が裾にくっついて離れませんでした」。
マッハステムは頑丈な建物にぶつかる事で複雑な反射を繰り返し校舎の中の隅々まで破壊し尽くしました。
空襲に備え会議をしていた教師たち。
九州各地から動員され兵器工場で働いていた若い女性たち。
どこにも逃げ場はありませんでした。
あの日城山国民学校の防空壕にいて助かった…三菱兵器製作所に動員されていた金谷さんの職場は南側校舎の3階にありました。
女学校を卒業したばかりの10代後半の4人が机を囲み経理の仕事をしていました。
あの日金谷さんは11時から防空壕を掘る当番が当たっていました。
原爆が落とされる僅か数分前事務所を離れ防空壕に向かいました。
そして午前11時2分。
爆風で重傷を負いながら校舎から逃げ出してきた…その後亡くなりました。
しかし奥サナヱさんは姿が見当たりませんでした。
黒い丸63番。
奥サナヱさんの最期がアメリカで見つかった報告書にありました。
「爆風による即死」と記されていました。
たまたま職場を離れたために助かった金谷さん。
なぜ自分だけが生き残ったのか戦後あの日の事をずっと考え続けてきました。
毎月9日。
城山小学校の子どもたちは被爆校舎に向かって祈りをささげます。
黙祷。
あの日何が起きたのか。
子どもたちは当時を知る被爆者たちの言葉に耳を傾けます。
先月ある遺族が初めて城山小学校を訪れました。
爆風で亡くなった奥サナヱさんの妹です。
鹿児島で暮らす遺族のもとには奥サナヱさんの遺骨はありません。
「動員先の長崎で死亡した」と終戦直後に知らせを受けましたが亡くなった場所がどこなのか今年まで知りませんでした。
(金谷)妹さんでいらっしゃいますか?どうも初めまして。
ご遠方から本当もう…。
いろいろお世話になりました。
遺族を迎えたのは奥さんと机を並べていた金谷弘子さんです。
この日初めて対面しました。
69年前金谷さんは校庭から奥さんがいる3階を見上げる事しかできませんでした。
あの日同僚から聞いた奥さんの姿を遺族に伝えました。
奥さんはいつも笑顔で金谷さんに話しかけてくれたといいます。
「平和になったら私のふるさと鹿児島に遊びにおいで」。
この日奥サナヱさんの妹は校庭の土をふるさと鹿児島へ持ち帰りました。
家族にも知らされずアメリカが利用した調査報告書に記号と番号で残されていた138人の命。
人々を襲い長崎の街を壊滅させた衝撃波マッハステムは周到に計画されたものでした。
被爆から69年。
城山国民学校の残された校舎はあの日の記憶を静かに伝えています。
2014/08/20(水) 00:30〜01:20
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「知られざる衝撃波〜長崎原爆・マッハステムの脅威〜」[字][再]

69年前、長崎に投下された原子爆弾。大量破壊をもたらしたのは、爆心地から遠ざかるほど爆風が威力を増す現象「マッハステム」だった。知られざる衝撃波の脅威に迫る。

詳細情報
番組内容
69年前、長崎に投下された原子爆弾。被爆直後の死者のおよそ半数は、爆風が原因と見られているが、詳しいことはわかっていない。去年、爆風による破壊を解明する手がかりが見つかった。爆心地から遠ざかるほど爆風が威力を増す「マッハステム」という現象を捉えた一枚の地図。取材を進めるとアメリカがマッハステムの破壊力を事前に計算し、意図的に利用したことが明らかになった。長崎を襲った衝撃波マッハステムの脅威に迫る。
出演者
【語り】上田早苗,【朗読】西東大

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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