9先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 戦国のプロデューサー「千利休」(後編) 2014.08.19

ある町にちょっと風変わりな居酒屋がございます。
その名も「知恵泉」。
今回のテーマは世の中を動かす…戦国時代圧倒的なプロデュース力で天下一の茶人となった千利休に学びます。
戦国の覇者織田信長や天下人豊臣秀吉に仕え一服の茶で人を世を動かし続けた利休。
飛躍のカギとなったのが意外な演出力でした。
誰も思いつかない仕掛けを次々に作り出し人々を魅了していきます。
利休の手にかかればどんな企画も大成功。
歴史に残る前代未聞のイベントで世の中を大きく動かしました。
万人のどぎもを抜いた「黄金の茶室」。
絢爛豪華な茶室に隠された利休の演出とは。
更に新たなブランドまで立ち上げてしまうマルチな才能。
そのプロデュース力に多くの人々が引き込まれていきました。
利休は一体どんな知恵を使って天下一の茶人へと上り詰めていったのでしょうか?その知恵を一緒に読み解くのがアートディレクターの佐藤可士和さん。
デザインの力で世の中に新しい価値を打ち出してきました。
業界の常識を覆した斬新なCM制作。
大手企業やメーカーのロゴ開発も手がけ誰もが記憶に残す印象的なデザインを生み出してきました。
佐藤さんのデザインはブランドとしての価値を作り上げ多くの経営者たちを成功に導いています。
今夜の「知恵泉」は戦国のプロデューサーと現代のブランド仕掛け人が競演するその後編です。
先週に引き続きまして千利休の知恵を味わって頂きたいと思います。
そして先週最後にお約束したようにこの「利休焼」というのをちょっと作ってみたんですけれども味わって頂けますでしょうか?
(はな)すごいおいしそうですね。
旬のアジが手に入りましたのでゴマをまぶして焼いてみました。
是非とも召し上がって頂きたいと思います。
すごいゴマの量。
一般にですね利休焼というとゴマが好きだったそうなんですね利休は。
ですのでゴマをまぶして焼くというのが利休焼だっていうふうに言われてはいるそうなんですが。
味わってみて頂けますでしょうか。
(筒井佐藤はな)いただきます。
うん!いかがでしょう?おいしいですよ店長。
ありがとうございます。
立派にメニューになりますかね?インパクトのある味ですね。
そうですね。
ゴマが。
うん!これ先生どうなんでしょう。
「利休」という名前を冠してるものたくさんありますよね。
言うならば利休を慕うあまり出てきたんだと思うんですけどね。
利休の百年忌以後だんだん利休箸だとか利休下駄とか利休頭巾とかそれから利休雪駄とかそういう名前でどんどんどんどん出てきましてとうとう利休焼まで出てきて。
利休っていう名前がやはりいかに私たちの生活に浸透しているかっていう事がありますよね。
利休まんじゅうってあるじゃないですか。
こういう温泉まんじゅうみたいな小さいので利休まんじゅうってあるんですよ。
あんなのももう徹底して利休の名前が欲しくて出来上がったものなんですね。
何か「利休」が付くとちょっと高級感が出てきますね。
いわゆるブランディングといいますかブランド力ですよね。
ブランド力ですね。
ですよね。
私も乗っかってみました。
でもおいしゅうございました。
この魚屋の息子からですね当代一の茶人にまでいった利休ですけれども先週さまざまな知恵を見てきましたね。
前回ご紹介した二つの知恵。
それは利休の名を広く後世に知らしめるものとなりました。
戦国時代利休の知名度は今ほどではなく利休の前には今井宗久や津田宗及など大豪商の茶人たちが立ちはだかっていました。
彼らの武器は貿易によって入手した「唐物」と呼ばれる希少な茶道具。
当時の茶の湯はこうした唐物をめでる事に重きが置かれどれだけ名物の茶道具を持っているかが一流の証しとなっていました。
しかし利休の実家は堺の魚問屋。
家には茶道具一つなく裕福な他の茶人たちに比べて圧倒的に不利な立場にいました。
そこで利休が思いついたのが演出による見せ方でした。
利休が茶会に度々用いた花入があります。
しかしその花入にはなぜか花が生けられていません。
招かれた客人たちが近づいてみると花入の口すれすれの所まで水が入っているのです。
利休は言います。
「本日はどうぞ皆様の想像の花を自由に生けて下さい」。
花入があれば花を飾るのが当たり前。
そんな常識を見事に覆す茶会でした。
利休は茶室造りでも人々の心をつかみます。
利休が初めて茶室に設けた「にじり口」。
かがまなければ入れないほどの小さな入り口です。
入り口を小さくする事によって茶室を外の世界と切り離し全く別の空間に仕立て上げました。
更に一つの茶碗を皆で共有する「回し飲み」まで編み出します。
そこには人々の心をつかむ巧みな仕掛けが隠されていました。
誰も思いつかない演出と仕掛け作りによって茶人利休の名は広く知られていくようになったのです。
発想力で勝負するんだ。
はなさん利休の見方というのはどうでしょう変わってきたと…。
そうですね何かもうとにかくアイデアマンだなと。
ないんだったら自分で自分のアイデアしだいで作っちゃえという何かそういった新しい発想がみんなを驚かせたんじゃないかと思います。
どっかやっぱチャーミングなところがあるというか次々とこういろんな発想を生み出して。
先生のお話だと500も逸話があるっていう普通そんなになかなか語られないっていう。
多分語りたくなるようなすごいチャーミングなところがあったのかなと思いました。
先生この利休の生き方というのはまさに下克上の世の中で勝ち上がっていったというふうに言われる事がありますよね。
と思いますね。
だから武士の世界にはそれなりの下克上があったけれども文化の世界にもありえたと思うんですよね。
例えば信長の時代っていうのは今井宗久津田宗及千利休だったんです。
もう明白に格は決まってるんです。
それが秀吉の時代になってくるとガラッと変わってしまう。
全体的な茶の文化あの新しい文化そうしたものの世界で下克上を果たせた人物だというふうには考えていいと思うんですね。
そうして天下一の茶人へと上り詰めた千利休ですけれどそこには一体どんな知恵があったんでしょうか?利休の圧倒的なプロデュース力に目をつけたのが豊臣秀吉でした。
秀吉といえば1,000人もの配下を伴って花見を催すなどとにかく豪華で派手好きの天下人。
一方の利休は派手な事を好まず侘びを追究する茶人でした。
好みの違いがやがては利休の命を奪う原因となるほど2人の価値観は異なっていました。
しかしこの対極する者同士がコンビを組む事で空前絶後の大イベントが次々と実現していったのです。
その一つが天皇の御前で催された…関白となった秀吉が朝廷に近づくため催した茶会で利休も後見人として秀吉に同行しています。
その中で使われたのがかの有名な黄金の茶室でした。
組み立て自在でどこにでも持ち運ぶ事ができた茶室。
秀吉の命で利休が設計に関わったのではないかと言われています。
長年にわたって茶の湯の歴史を研究している熊倉功夫さん。
黄金の茶室は利休が秀吉をプロデュースするために生み出したと考えています。
天井から壁柱に至るまで全て黄金尽くし。
畳表には当時はまだ珍しい舶来品のビロードが使われました。
茶道具一式も全て金で新調。
絢爛豪華な茶室の出現に宮中は大騒ぎとなり一目見ようとする人々が後を絶ちませんでした。
黄金の茶室は秀吉の派手好みを見事に実現しその威光を見せつけました。
しかし利休は自身の美意識をも黄金の茶室で実現させたといいます。
実際茶室が使われた小御所の中は軒が深くほんのりとともされた明かりの下ではまばゆい茶室も幽玄の美を漂わせます。
それは利休と秀吉異なる才能がぶつかり合う事で生み出されたものだといいます。
異なる才能と組む事によって利休は更なる高みへと到達したのです。
更に利休と秀吉が組む事で前代未聞のイベントも実現しました。
天正15年京都北野天満宮の境内で開かれた最大級の茶会。
世にいう「北野大茶湯」です。
秀吉がその権力を世に見せつけるために開催したイベントでした。
利休はこの大茶会でこれまで政治に利用される事の多かった茶の湯を縁のなかった一般庶民にも広めました。
神社には茶会を呼びかけた当時の立て札が保管されています。
そこにはこれまでにない画期的な内容が。
「茶が無ければ『こがし』でも構わぬ」。
それは身分や地位を超え誰にでも茶の湯のチャンスを与えようとするものでした。
後年になって描かれた茶会の様子です。
境内には1,500とも言われる茶席が立ち並び全国から1,000人を超える人々が集まりました。
むしろを敷いただけの者。
傘を地面に突き立てる者。
思い思いに茶を楽しむ様子が伝わってきます。
歴史に残る大茶会を成功へと導いた秀吉と利休。
それはどちらが欠けても実現しえないものでした。
異なる才能を持つ者同士が組む事によって想像以上の結果が生み出されていったのです。
とうとうイベントまでプロデュースしてしまうんですね。
非常に大がかりなイベントのプロデューサーでもあったと。
どのエピソードもコンセプトがすごい明快っていうかすごいはっきりしてますよね。
だから全部金にするとか。
すごいたくさんの人数で誰でもいいからやるとか。
ものすごい分かりやすい。
仕上がったものはでもすごく美しく出来てる。
そこがやっぱすごいのかなと。
何かそれがやっぱりたくさんの人の心をつかむんじゃないですかね。
やっぱり秀吉がいたからこそできたものですか?黄金の茶室にしても北野大茶湯にしても利休の発想だったのかどうかという問題はもちろん残ると思うんですね。
ただ私は秀吉を考えてみますと自分こそ天下一だぞというふうに言わせるとするならば何があるかと考えた時に非常に新興の文化であった茶の湯をこう取り上げたんじゃないかと。
相談は利休は受けただろうから。
いろいろと考えた結果京都であっと言わせるとするならばじゃあ金を使ってみようかたくさんの人を呼ぼうかというような事を発想した。
それが非常に大成功した。
Win−Winのいいパートナー関係だったという事だと…。
だと思います最初は。
佐藤さんどうでしょう?全く違う全く趣味の違う人間と組む一緒になる魅力っていうのはありますか?僕もいろんな経営者の方と実際に仕事をしていてもともとやっぱり違うから呼ばれるんだと思うんですよね。
自分に…全部自分でできてしまえば違う才能を呼ぶ必要はないわけですから。
やっぱり何でもそうですけれども何かイノベーションが起きる時というのは違う人たちといいますか違う価値観がつながったりした時に初めて…何て言うんですかね更に新しいものが出来るんだと思うんですよ。
自分で考え…自分にも思いもよらなかった事が最終的に出来た時が一番面白いですよね。
例えばねある会社の社長が経済人がこういう事をしたいと言った時に佐藤さんの世界まで踏み込んでくるとやはり拒絶するでしょ。
そうでもないですか?でも拒絶はしないですね。
そこを楽しくうまくやれるようにだいぶなったんですけど。
若い時の方が今先生がおっしゃったように一生懸命夜も寝ないで考えて持っていったものを例えば「これはよくない」って言われたとするじゃないですか。
そしたらすごいショックですよね。
何日も寝ないで考えたような事を否定されたらね。
そしたら畜生とか悲しくなったりするじゃないですか。
だけどだいぶ経験も積んだのでそうすると例えば仮にそういう事をしたとしても仮に「これはよくないよね」と言われたとしたら何かそこでバサッて一回もうスパッて捨てれるというか「ああそうかもな」というふうに思ってみるとまた新しい事が生まれて「あっ全然こっちの方がいいかもしれない」という経験をいっぱいしてるんですよね。
それは楽しいです。
それはねやっぱり利休も一緒ですよ。
若い頃はやはり非常にもう激しかったんですよ。
でも60ぐらいになってきた。
その時に秀吉という違った世界の武将から「こういう事をやりたいんだけど」と言われた時に「待てよ」というふうにして拒絶してしまうだけじゃなくて一度考えてそしてそこでそれを取り込んでいってどうすればいいかという事と多分一緒だと思いますね。
利休にとってのメリットというのは自分の考えてた面白い事を実現できるというメリット?秀吉公を使いながら自分でやってみたいなという気持ちはもちろんあっただろうしそこがお互いに接近させてむつまじい仲を保てたのは。
この利休の追究した茶の湯ですけれどもついに新たな価値基準を生む高みにまで到達していくんですね。
さあ最後の知恵味わって頂きましょう。
利休以前茶道具といえば唐物。
中国や朝鮮で作られた茶道具こそが名物とされていました。
茶の湯を政治に用いた信長は許可なく茶会を開く事を禁ずる政策を推し進めます。
そして武功を立てた家臣たちには褒美として名物の茶道具を与えていました。
天文学的金額で取り引きされていたという茶道具。
武将たちは実際どれほどありがたがっていたのでしょうか。
茶道具の価値を巡る興味深いエピソードが残っています。
信長の重臣であった滝川一益は武田攻めの褒美として一国を与えられます。
しかし一益は知人に宛てた手紙の中で不満を漏らしていました。
茶を入れるだけの小さな器が一国一城に匹敵するほどの価値を持っていたのです。
こうした一部の富裕層だけが独占する茶の湯の在り方に反発したのが利休だったといいます。
こういう現象を生んできました。
そこで利休が行ったのが価値の大転換。
従来の唐物に代わる茶道具を身近なものに置き換えていったのです。
例えばこれまで茶席に使われる花入は中国の青磁が定番でした。
しかし利休はそれに代わるものを思いつきます。
自ら竹林に入り竹を切って自作の花入を作ったのです。
身近な竹を取ればよいという利休の創作は一部の権力者が独占していた茶の湯の閉鎖性に風穴を開けました。
利休の弟子山上宗二はその行為を驚きの念でつづっています。
それは従来の価値観を根底から覆す茶の湯の大革命だったのです。
利休は茶道具とは関係ないものも積極的に茶の湯の世界に取り入れました。
こちらは利休が愛用したという竹を編んだ花入。
しかしもともとこれは花入ではありませんでした。
ある時京都の桂川で鮎を取る漁師の姿を目にした利休。
目を留めたのは漁師が腰につけていた魚籠でした。
漁師から譲り受けたこの魚籠を利休は花入に見立てたのです。
不ぞろいの編み目が見せる造形の面白さ。
使い込まれた独特の色合い。
実用品の中に新たな価値を見いだした事で茶の湯は広く一般人にまで開放されたといいます。
利休の時代から400年以上茶碗を焼き続けてきた樂家。
彼らを茶碗作りに導いたのが利休でした。
樂家初代長次郎が焼いた黒樂茶碗です。
黒くゴツゴツとした茶碗はろくろを使わず手びねりで作ったもの。
それまでの華美な茶道具とは全く異なるものでした。
長次郎はもともと茶碗は作っておらず獅子や瓦を焼く職人でした。
利休はその芸術性の高さを見抜き茶碗を焼く事を勧めたのです。
利休のディレクションと職人のセンスによって生み出された黒樂茶碗。
茶の緑を一層引き立てました。
それは唐物至上主義を否定する茶道具の下克上でした。
世の中に新たな価値基準を提示した利休。
利休の美意識は世間をも左右するほど強大なものになっていたのです。
ほんとに私たちが今目にしてる竹にお花が挿してあったり籠が花瓶代わりに使われていたり全部利休のアイデアから生まれたものなんですね。
しかもそれは従来の価値観を転換したものだったという事なんですね。
「ありがとう利休」って感じです。
佐藤さん利休は見てみますと一部の人にしか楽しめないという課題を非常にクリアーに分かっていた人間なんじゃないかと思うんですがどういうふうにご覧になりました?やっぱりあるいいものを開放したいというかやっぱり何かクリエーティブをやってる人たちってどこかそういう思いもあると思うんですよね。
何かすごく特権階級だけにとどまってるものを何かその価値を開放したいとか。
あとやっぱりさっき「東と西を入れ替えてしまうような」ってものすごいダイナミックな価値の転換をやられていてこれがクリエーターかというような感じですよねほんとに。
先生茶道具までも下克上なんだというところが非常に面白いなと思ったんですがどうなんでしょう?この発想というのは。
文化の下克上という事に通じると思うんですけどいわゆる茶の湯の世界における今まで信長までの茶とは違った自分の茶だよという。
発想が新しかったんですよ。
それを庶民多くの人たちが受け入れたんですよ。
結果一般の庶民も茶の湯を楽しむ事ができる時代がやって来たと。
そうですね。
皆さんが熱狂するような形で茶の湯が受け入れられていったわけですよね。
その証拠というんでしょうか実際に見てみたいと思いませんか?はい。
実は今日利休がプロデュースしたものそこから生み出されたものを先生にお持ち頂いてるんですよ。
もちろん時代は少し下がりますが100年くらい利休の時代よりは100年下がりますけれどもこれは樂家の四代一入という人が作りました黒茶碗でございまして。
非常に貴重なものですよね。
利休がプロデュースし瞬く間に世間に浸透した黒樂茶碗。
それまで茶碗といえば華やかでろくろを使った端正な形が主流でした。
茶の湯の世界に衝撃を与えた茶碗です。
すごい。
雰囲気がありますね。
これは筒井先生の個人のお持ち物で。
そうですけど。
触っても大丈夫なものですか?もちろんどうぞ。
いいですか?触らせて頂いても。
あっ軽いですね見た目より。
ほんとに私の手にすっぽりと収まる。
この丸みが気持ちいいですね。
ほんとに手が吸い付くような形してます。
え〜すっごいきれい。
これがやっぱり町人たちにまで広がって裾野がほんとに広がってきた時のお茶碗。
すっごい気持ちいいですよね。
黒いのに柔らかい感じがして。
触った感じが見てるのとは随分違いますね。
すごい女性らしい。
これは全然一般のものとは違うという感覚は手から伝わってくるんですか?すばらしい茶碗をたくさん実際触ってるわけじゃないので分かんないですけど見ているよりも持った時の方がストッとこういうふうに。
見た目は結構力強い感じするのに手に取るとふわっと柔らかい感じがして。
結構びっくりしました。
長次郎という人はもともとこういうものを焼く職人ではなかった。
でも何で目をつけられたんでしょうか?やっぱり腕でしょうね長次郎の。
利休はやはり道具だけではなくて人を見極める才能もあった。
…だと思います。
人を見抜く力って利休はあったんじゃないかなと思うんですね。
それが利休をして名を高からしめた一つだと思いますしそれからやはり自分でクリエートしていくうえにおいて…クリエートしていくと同時にものに対するネーミング。
例えば…「木守」とは利休が持っていた名物の赤樂茶碗でした。
しかしこの茶碗もともとは残り物の茶碗だったといいます。
ある日利休は長次郎に焼かせた茶碗を並べ弟子たちに好きなものを持って帰るよう言います。
そして最後にたった一つだけ残った茶碗に利休は「木守」という名前を付けました。
木守は秋に実った柿を全て収穫せず来年もよく実るようにと一つだけ取り残しておく実の事。
来年の実りを連想させる木守を皆が欲しがるようになったといいます。
利休は残り物でも名付け方一つで名物道具に変えてしまう抜群のセンスを持っていたのです。
「木守」というふうに銘を付けた事によってこの茶碗が非常に特定のものに特別なものになっていくんですよ。
これがやはり利休のネーミング力というかそういうものだったと思います。
それにみんな反応するものですか?名前付けただけで。
そうだと思いますよ。
やっぱりなるんじゃないですか。
「木守」って言われた瞬間に柿を次のために一つ残すというそういうストーリーが全部そこにバーッと集約するので急に世界ができて木守という…それは佐藤さんのクリエートするものの中でもやっぱり名前ってブランド力に大事な事ですか?すごい大きい。
ものすごく重要なものですよね。
ほんとにその名前の付け方でその商品とかブランドの立ち位置が決まってしまったり。
ほんとに子供に名前付けるみたいなものですよ。
だからかなり大きな作業だと思うんですよね。
そして利休がその名前を付けますと多分「何だ自分たちのよりあれ欲しいな」と思いだすと思うんですよ。
単純ですよね。
単純だけどそうなんですよ。
じゃあもう利休の名前自体にブランド力がだんだんついてきたんでしょうね。
徹底してついたんだと思いますけど。
今日はさまざまな利休の知恵見てまいりましたけれどもさあ筒井先生今の私たちが利休から学べる事どんな事が挙げられますでしょうか?やっぱり創造力だと思いますね。
いわゆるイメージの世界じゃなくて創り出していく部分だと思いますけど最終的には。
価値を作っていく事って自分たちが生活していったり生きていくうえですごく大きな事で例えばみんなはこれを幸せだというかこれがいいと言っていても考え方によっては私にとってはこれは価値がないとか私にとってはさっきの木守の話じゃないですけれどもこっちの方がよっぽど価値があるという事をすごく自分の中でぶれずにコントロールできるとすごく人生って幸せだなと思うんですよね。
はなさんはどんなふうに味わって頂けましたでしょうか?毎日余裕がなくなると人をもてなす人を楽しませたり笑わせたりする事をちょっと忘れてしまう時があるんですが利休のように毎日少しだけでも人を驚かせたり楽しませたりする事が自分にもできたらいいなと思いました。
さて利休はこのあと皆さんがご存じのような結末を迎えていくわけですね。
最後にこういう人生をたどったというところをご覧頂きながら今日はお別れとしたいと思います。
自らのブランドまで創出し世の中の価値基準まで作り替えてしまった利休。
その強大な影響力に恐れをなしたのがパートナーであった秀吉でした。
名だたる武将たちに茶の湯の師匠と慕われていた利休。
一茶人を大名たちが取り巻くのは秀吉にとって鼻持ちならぬ事でした。
更に利休がつくり出した黒い茶碗も狭い茶室も派手を好む秀吉の意に沿わないものでした。
極め付けは大徳寺山門に安置された利休の木像。
それは利休が多額の寄付をした礼にと寺が置いたものです。
格式高い京都の寺に利休の像が祭られた事を知った秀吉は京都から利休を追放します。
そして利休に切腹を命じたのです。
茶の道を究めたいとただひたすらに突き進んだ利休。
日本文化の礎を築き70年の生涯を閉じました。
2014/08/19(火) 05:30〜06:15
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 戦国のプロデューサー「千利休」(後編)[解][字][再]

戦国時代、圧倒的なプロデュース力で天下一の茶人へと登り詰めた千利休。その成功の鍵は、秀吉など「異なる才能」と組むことにあった。世の中を動かした利休の知恵に迫る!

詳細情報
番組内容
圧倒的な“プロデュース力”で天下一の茶人へと登り詰めた千利休。利休を成功へと導いたのが「異なる才能と組む」という知恵だった。天下人・豊臣秀吉とコンビを組むことで、プロデュース力にますます拍車がかかっていったのだ。庶民から朝廷にまで巻き起こした茶の湯の一大ムーブメントとは?利休が立ち上げた新たなブランドとは?異なる才能を取り込むことで、新たな価値を提示し続けた利休。現代にも通用する利休の知恵に迫る!
出演者
【出演】アートディレクター…佐藤可士和,茶道資料館副館長…筒井紘一,はな,【司会】井上二郎

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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