池上彰の戦争を考えるSP 第5弾〜悲劇が生み出した言葉〜 2014.08.17

今年もまたこの季節がやってきました。
『池上彰の戦争を考えるSP』第5弾です。
まずはある少女の物語です。
「Happybirthdaytoyou」「Happybirthdaytoyou」いかがですか?あんなに明るかった笑顔がほとんど表情がなくなっていってしまう…。
あんな小さな子がつらい思いするっていうのは絶対にいやですね。
実はこれですね子供の支援を行っている国際組織1人の女の子がシリア紛争の激化によって1秒ごとに変わっていく様子というのを取材のもとに描いたものなんです。
戦争というのはね子供や女性から笑顔を奪うものなんだということを改めて私たちは知ることになりますよね。
まずは69年前に終わった日本のあの戦争について考えます。
こちらの模型をご覧ください。
こちら模型が出てきました。
さぁこれがね今から69年前まで日本は中国大陸そして太平洋で戦争をしていたんですね。
この赤い点線ですけれどもこれを示したものです。
千島列島のほうからずっとアリューシャン列島ですよね。
そしてソロモン諸島からずっとこちらインド洋までですね。
というふうに考えたってことですよね。
まずは真珠湾でアメリカ軍を叩いておこう。
でいよいよ戦争になりますと…。
アメリカがオーストラリアに補給をしてくる。
その補給路を遮断するためにこのあたりも日本軍がおさえよう。
どんどんどんどん戦線が広がって気がついたらここまでになってしまったということになるわけですよね。
さぁその太平洋戦争は1945年8月15日終戦を迎えるわけですね。
で私たちはこれを終戦の日といいますが今日はですねさぁそこで本仮屋さん。
はい。
6月23日…わからないです。
実はこれ沖縄戦が終わった日ということなんですね。
つまりアメリカ軍が上陸したのが1945年の4月1日。
そして日本軍による組織的な抵抗が終わったのが6月23日というわけで沖縄の人にとって戦争が終わったのは6月23日ということになります。
アメリカ軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年4月1日。
「ざわわざわわざわわ」「広いさとうきび畑は」「ざわわざわわざわわ」私は今摩文仁の丘にいます。
最後の激戦地となった摩文仁の丘。
黙祷。
沖縄県民9万4,000人が犠牲になった戦闘。
平和祈念公園には沖縄戦の犠牲者国内外あわせて24万人の名前が刻まれています。
沖縄県民にとって6月23日は特別な日です。
この式典にはキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使も参列していました。
沖縄戦では6月23日はアメリカ人にとっても大切な日です。
年老いた元アメリカ兵の方々も訪れていました。
凄惨を極めた沖縄戦。
このあと池上が模型解説。
これだけの広い範囲を日本軍が支配するということで戦争が始まったんですがこの日本軍の計画実は重大な転機となりましたのが。
ミッドウェー海戦です。
それまで連戦連勝だった日本海軍が壊滅的な大敗を喫したのがこのミッドウェー海戦だったわけです。
更に…。
ガダルカナル島撤退。
ここでアメリカ軍の本格的な反撃が始まるというわけです。
さあそして1944年7月。
サイパン島の陥落。
サイパン島が陥落すると当時のアメリカ軍のB29という爆撃機はここから日本の本土を直接爆撃できる。
それだけの距離を飛ぶことができるわけですね。
サイパン島が陥落してしまったことによって…。
さあそして1945年2月。
硫黄島も陥落します。
なんかどんどん本土に向けて迫ってきていますよね。
そういうことですよね。
そしてついに4月にアメリカ軍は沖縄への攻撃を始めたということになります。
こちらは犠牲者の数なんですが沖縄戦では日本の兵士と民間人を合わせておよそ20万人が犠牲になったんですね。
さあこれを見ますとこちら沖縄の一般の県民ですねこれだけ9万4,000人の人が亡くなっています。
それから更には戦った日本軍の軍あるいは軍の関係者9万人あまりいたんですがそのうちこの部分が沖縄の人なんですね。
ということは一般の人と合わせて沖縄県民の被害は12万人。
犠牲になったという計算になるんですね。
これを見ますとアメリカ軍もパックン1万人を超える兵士が犠牲になってますね。
これは歴史的にも結構勝ってるのにものすごい犠牲者が多くて戦没者が多くてアメリカもビックリした戦争なんですね。
1945年4月1日アメリカ軍は沖縄本島の西側…。
太平洋戦争史上最大級の作戦でした。
しかし日本軍からの反撃はほとんどありません。
そのときの様子を従軍記者アーニー・パエルは…。
…と報じています。
アメリカ軍は沖縄本島の北側をただちに制圧。
首里の軍司令部に攻め入ろうとしたときでした。
日本軍の反撃が始まったのです。
ありました!ちょっと小高い丘のようになっているのわかりますか?でも今はデューティーフリーショップがあったり。
シュガーローフの標高は46m。
今は貯水湖として使われているこの小さな丘をめぐって激しい戦闘が行われました。
日本軍にとってシュガーローフは司令部西側の重要な防衛線でした。
この小さな丘をめぐる戦闘は…。
日本軍の反撃はすさまじくアメリカ軍のピクニック気分は吹き飛んだのです。
ゲリラ戦を仕掛ける日本軍に対しアメリカ兵の多くが精神的ショックを受け戦闘意欲を失ったといいます。
宜野湾市も激戦地の1つです。
はい。
沖縄守備軍最大の防衛戦と言われた嘉数の戦い。
2週間以上にわたり激戦となりました。
集落の人々も巻き込まれ住民の半数以上が亡くなったとも言われています。
海から上陸してきたアメリカ兵をここから迎撃してたんですね。
実際に使用されていたトーチカです。
はい。
今でも数多く残っています。
入ります。
湿気を含んだトーチカの中は高さ130センチほど。
日本兵はここから海に向けて銃を構えていました。
戦後焼け野原になった嘉数の丘にこのトーチカだけが残っていました。
併設されている展望台に上ると…。
あら!沖縄戦で激しい戦闘が繰り広げられた併設された展望台を上ると…。
あら!そうですね。
(相内)いっぱいとまってますよ。
10機以上並んでますね。
激戦地だった嘉数の丘のすぐそこに24機のオスプレイが配備されています。
すぐそこですね。
普天間基地は1945年5月首里の司令部が占領されると南部一帯は日本兵と民間人が入り乱れた地獄の戦場と化していきました。
海軍の司令部もアメリカ軍に包囲され最期の時を迎えようとしていました。
ここで海軍の大田司令官は次官に宛て電報を打電しています。
そこには沖縄県民がいかに献身的に戦ったかが綿々と綴られていました。
徐々に天井が低くなってきてます。
そうですね。
あっ!失礼します。
そうなんですか。
電報は自ら命を絶つ前日に打電されました。
当時のままの部屋だということです。
最後まで県民の行く末を案じた大田司令官。
いやぁなんか僕なんか知ってるつもりだったんですけどももっと大変なことがいっぱいあったんですね。
なんか県民に対して報われてないっていう思いがとてもしますね。
「特別の」っていうのがね。
今回の番組では…というのに焦点を当てようと思っているんですがこれがそのひとつの言葉ということになりますね。
これが実はその原文なんですね。
当時の言葉で書いていますのでなかなか今の若い人にはわからないだろうという部分があるんですがこれは何が書いてあるかといいますと本来は沖縄県知事が政府に報告するものだろうと。
ところがもはやもうそんな状況になっていないので「私が代わりに沖縄の様子を報告します」といってこの電文始まっているんですね。
さあそして最後の言葉がこちらですね。
というわけですね。
つまり沖縄の県民はこんなに最後の最後まで戦ったんだよ。
だからこのあと戦争が終わったあともどうか日本政府は沖縄県民のためにちゃんとしてくださいよとアピールしていたメッセージを残していたというのが言ってみれば遺言だったわけですが。
さあその遺言は果たされているのか?ということを私たちに突きつけてくる言葉でもあるということなんですよね。
たくさんの県民が犠牲になった沖縄戦。
女学生たちの悲劇もありました。
ひめゆりの塔には多くのひめゆり学徒たちが眠っています。
15歳から19歳までの生徒222人。
教師18人が動員。
136人が命を落としました。
みんな夢に溢れた女学生だったのです。
ひめゆり学徒として動員された女性に話を聞きました。
普通でしたら全然。
たくさん死んでいるのに。
沖縄戦の女学生部隊ひめゆり学徒として動員された女性本村ツルさんに話を聞きました。
よろしくお願いいたします。
結局は23日には学徒動員として陸軍病院に行くことになったんですけれども。
言われたときっていうのはどういうお気持だったんですか?やっぱり私たちは教育勅語というもので教育されていますからそれには必ず…。
ひめゆり学徒たちは…。
そんな思いを胸に戦火激しい陸軍病院へと動員されたのです。
そこは暗い壕の中にありました。
当時のまま残っている南風原陸軍病院です。
ここが病院です。
この暗い壕の中に100人以上の負傷者がいました。
動員された学徒は41人。
休む間もなく働き続けたのです。
戦闘末期には病院の壕もアメリカ軍の火炎放射攻撃を受けました。
少しだけ広くなったここで手術が行われていました。
ひめゆり学徒たちにも弾は容赦なく降り注ぎました。
この下級生だったんですがね…。
小さい人だったんですけどね。
この人は亡くなるときに…。
240人いたひめゆり学徒。
1枚1枚紺碧の海が広がる軍部が発した玉砕命令に従って巻き込まれた多くの人々は自ら命を絶っていきました。
〜もう…この映像を見てるとたまらなくなりますね。
ちょうど私もこの方たちより少し年下でしたけれどもやっぱりあの…。
軍需工場に通ったりしていまして。
そのときにもなんかあの…。
そういう気持をすごく持ってたんですね。
それを今考えるととても怖い気がするんですけれど。
戦争は人間が人間でなくなるという…。
こんな怖い言葉ないですもんね。
そうですよね。
この県民を巻き込んだ沖縄戦なんですが実はなかには特に沖縄本島の西にあります慶良間諸島では…。
なんでそんなことが起きたのかといいますと…。
こちらですね。
軍機保護法…。
軍事機密を守る法律とこういうのがあります。
一般県民も戦争に巻き込まれたわけですよね。
そうすると兵隊と一緒に行動したりして軍の秘密を一般の人も知ることになる…。
その一般の県民がもし敵の捕虜になったら軍の秘密を全部バラしてしまうのではないか…。
じゃあその前に処刑してしまおうとこういうことが行われたというんですね。
まして軍隊も精神状態が普通じゃなくなりますから…。
こういう非常時になったらわからないということですよね。
さぁでは再びこちらをご覧ください。
沖縄戦が終わってから2か月足らずで終戦を迎えました。
8月15日の終戦の日を過ぎても戦闘が続いていた場所があります。
8月15で終わったと思ってました。
実はそうではなかったんですね。
当時の満州ですね。
ここにソ連軍が8月9日に攻め込んできた…。
北海道の北にありますこちら。
樺太…サハリンですね。
当時この南半分は日本の領土でしたからここにもソ連軍が攻め込んできました。
この戦い実に9月5日まで続いた。
これを見にいきます。
日本最北端の市樺太は最も近くて遠い場所と言われています。
札幌からユジノサハリンスクまではおよそ1時間20分のフライトで来ることができます。
69年前ここには多くの日本人が暮らしていました。
最盛期には40万人以上。
1年のうち半分は雪に埋もれていました。
オホーツク海に面した水産資源は宝庫とうたわれていました。
樺太の産業は勢いを増していました。
そして本土から避暑地として人気の旅先となりました。
しかし…。
ソ連軍が突如なだれをうって押し寄せてきました。
かつて40万人以上の日本人が暮らしていた南樺太。
しかし…。
攻撃を仕掛けてきました。
それは8月15日終戦の後も続いたのです。
暮らしていた小林さん。
夜中に突然始まった艦砲射撃に家族は着の身着のまま家を飛び出します。
激しさを増すソ連の攻撃。
住民たちは北海道へ渡るため命がけの逃避行となりました。
日本時代は豊原と呼ばれたユジノサハリンスク。
官庁が置かれ行政の中心地でした。
現在はサハリンの州都です。
駅からこちらの道まっすぐ続いていますけれども…。
わ〜っと続いてますね。
15万人以上が暮らす大きな街だった豊原市。
当時の市街地図を見てみますと…。
お寿司屋さんや割烹料理店。
おでん屋さんなど飲食店が目につきます。
更にデパートや劇場銀行に歯医者さんに教会まで。
賑やかだった当時を思い描くことができます。
わあかなり大きいですね。
レーニン像ですね。
ロシアにはいたるところにこのレーニン像があるんですがここ樺太巨大なレーニン像。
相内アナと比べるといかに大きいかおわかりでしょうか?街で声を拾ってみます。
市役所ではためいていたロシア国旗。
その隣には描かれているのは樺太と千島列島と北方四島。
走っているのはほとんど日本車。
こんな車も見つけました。
トラックには西山ラーメン。
日本の中古車がそのまま使われているようです。
あちら格式ある建物が見えてきました。
鉄筋コンクリートの建物はこうした石造りで造られたしっかりとした建物です。
更に…。
1945年8月24日にソ連軍に没収された樺太庁博物館。
日本風の建築物の多くは建て替えられましたがここは当時の面影が色濃く残っています。
入り口には更に中でこんなものを見つけました。
こちらが大日本帝国境界。
そして反対側が1906年ロシアとありますね。
北緯50度に置かれていた日本とロシアのこの標石の北側がロシア南側が日本でした。
日本の神社の面影というのを感じさせますね。
1911年に建てられた樺太神社はここで暮らす日本人の心のよりどころとなっていました。
しかし…。
戦車と星ですね。
樺太神社はソ連侵攻後すぐに日本的なものの象徴として攻撃の対象になるのです。
最盛期には40万人以上の日本人が生活していた樺太。
終戦間近にソ連軍が一方的に侵攻。
日本軍はなすすべもなく占領されました。
民間人の犠牲者は3,700人以上。
その中には多くの女性や子供が含まれています。
そうか…。
言い方が解放というのがやっぱり気になるよね。
特に第二次世界大戦中ねスターリン率いるソ連というのは東ヨーロッパにもずっとドイツ軍と戦いながら行って人々を解放したとずっと言ってたわけですね。
これがサハリン南部にもこの言葉が使われていたということなんですね。
さあではそもそもですねということをちょっと整理してみましょう。
こちらまずは江戸時代ですね。
1855年江戸幕府は当時の帝政ロシアと日魯通好条約というのを結びました。
当時の「魯」というのはこの字を書いてたんですね。
でこれでですね北方四島国後択捉歯舞色丹。
これは日本の領土であるということが確定しました。
一方その先の千島列島はロシアのものである。
ところが樺太サハリンだけはこうなっていますね。
ここはロシアの人も日本の人も暮らしていたのでということだったんですね。
さあそして明治時代になりました。
1875年樺太千島交換条約というのが行われます。
サハリンで日本とロシアの人たちが両方暮らしていることによっていろいろトラブルが起きるようになってここはどちらのものかはっきりさせておいたほうがいいだろう。
ここはロシアのものだということにしましょう。
その代わり千島列島は日本のものにしましょう。
というわけですね。
そして…。
はい1905年です。
これは日本が日露戦争に勝利した直後です。
日露戦争で日本が勝った結果結ばれたのがポーツマス条約。
これでこの樺太南部が日本のものになったというわけですね。
ちょうど樺太の北緯50度より南を南樺太として日本が獲得をしたということになるわけですね。
ですからそこに大勢の日本人が移り住んで住みついてまあここをどんどん日本が開発していったと。
ですが40年後そして終戦後です。
終戦後の1951年に日本は独立を果たします。
日本を占領した連合国軍と一緒に講和条約…平和条約を結ぶわけですね。
これがサンフランシスコ講和条約ですが日本は放棄したよと宣言をしたんですがこのときにですからソ連に渡したわけでもないですよというのが日本の公式な立場になるわけですね。
ですからここの部分が日本の地図では白く塗ってあるということなんですが実はこのソ連との戦いがあった樺太。
ここでもですね実はユジノサハリンスクから車でおよそ1時間30分。
到着したのは日本海に面した港町。
サハリン第2の都市ホルムスクにやってきました。
場所を確認しておきましょう。
日本時代は真岡と呼ばれていました。
樺太西側の要衝として経済の中心地だった真岡。
当時の人口はおよそ1万9,000人。
町は活気に溢れていたといいます。
真岡の中心的な産業は製紙業でした。
廃虚となった工場は今も残っています。
ソ連の攻撃で町の半分がなくなったといわれる真岡。
この工場も攻撃を受けました。
その後69年間放置されています。
ここはかつて真岡には未開発の針葉樹林が広く分布。
当時成長期にあった製紙業にとっては宝の山でした。
産地と工場が直結し極めて効率的な環境だったため多くの製紙会社が真岡に進出しました。
栄華を誇った工場の活気を当時のニュースはこう伝えています。
8月15日日本が降伏したあともソ連は攻撃を続けました。
ここ真岡でも多くの人が犠牲になりました。
二十歳のとき真岡で砲撃を受けた水野さん。
女性には命を落とす恐怖だけでない別の恐怖もありました。
迫り来るソ連兵。
水野さんは壕の中に隠れてなんとか逃げ延びることができたのです。
しかしなかには…。
この町で北のひめゆりといわれた9人の女性たちの悲劇がありました。
その現場へと足を運びます。
ここが旧真岡郵便局跡です。
69年前ここで10代から20代の若き女性たちが電話交換手として働いていました。
当時ソ連軍の侵攻が始まると彼女たちは本来の取り次ぎ業務に加え避難民の誘導や本土への報告に追われました。
指揮連絡報。
…防空監視哨より報告。
ソ連艦隊南下中。
彼女たちを描いた映画『氷雪の門』。
落ち着いて落ち着いて落ち着いて…落ち着くのよ。
早く席へ戻り…ほらヤヨイちゃんにチエちゃんほら!いい?戦争はもう終わったの。
だからソ連の軍艦が撃ってくるようなことは決してないわ。
だからね私たちはいつもと同じように自分たちの電話の仕事を守ればいいの。
しかしソ連軍は真岡に上陸すると一方的に攻撃を開始しました。
終戦から5日が過ぎていました。
(爆発音)ソ連軍が上陸しました。
ここからも見えます。
早く避難してください。
はい砲撃…。
(爆発音)真岡です。
そうです砲撃されてるんです。
早く近くに避難してください。
今真岡を砲撃中…。
(爆発音)高石ミキさんを班長にした女性交換手たちは避難せず電話の対応にあたりました。
戦場に残り電話をつなぎ続けたのです。
唯一つながった樺太泊居局の回線に高石さんはこう告げました。
局長さんこちら真岡です。
回線もここだけになりました。
局の下にソ連軍が…。
もうダメです。
これが最後です。
用意していた青酸カリをあおりました。
そして…。
(銃声)ひと際激しい銃声のあと…。
皆さんこれが最後です。
この言葉を最後に音信不通となりました。
9人の乙女が散っていった真岡郵便局。
跡地は今その名残もありません。
水野さんは真岡郵便局で犠牲となった吉田八重子さんと同級生でした。
日本最北の市稚内。
9人の乙女の碑は海の向こうに樺太を望む場所に建っています。
そこには彼女たちの最後の言葉が刻まれていました。
「皆さんこれが最後です。
さようならさようなら」。
男たちはことごとく殺され女性たちはみんなことごとく乱暴されと言われています。
だから彼女たちもこのままソ連軍に捕まってしまったら女性の尊厳が奪われると思って青酸カリを飲んだということですよね。
これがよくわからないんですけれども8月15日にポツダム宣言を受諾しましたと。
でもそこから終戦のハンコを押す…。
調印するのが9月2日でしたっけ条約にね。
そこまでの間っていうのはつまりどういう立場なんでしょうか?日本は。
日本はもう組織的な抵抗はやめたわけですよね。
だからアメリカなりイギリスなりの連合国軍はそこで攻撃をしなかったわけですがソ連軍は言ってみればここからがチャンスというわけですよね。
さぁここから更にその先まで取ってしまおう。
と考えたわけですね。
そして当時のソ連軍にはある意図があったと言われています。
それがこれスターリンによる北海道の北半分を占領しようとしていたという計画があるんですね。
これを見ますと見てください。
留萌から釧路ですね。
ここから北側…旭川はもう北側に入りますがここをソビエトが支配しようと。
つまりドイツは東西で分割しました。
朝鮮半島も南北で分割した。
だから日本も北海道の南北でこれを分割し北側をソ連が占領しようというそういう計画があったんですね。
これ当時アメリカがこのソ連の提案をはねつけます。
なのでそうはならなかったんですがもしこれが実現していたら今こちら側に続いてはこれは世界の紛争地図ですね。
世界で起きている紛争のごく一部だけを抜き出したものですけれども例えばアフリカで言いますと中央アフリカが今非常に深刻な事態になっています。
そしてパレスチナ…イスラエルパレスチナの問題がありますね。
そしてもちろんシリアからそしてまたまたイラクの内戦状態。
自らをイスラム国と名乗っている過激派組織がここで非常に勢力を伸ばしている。
これに危機感を覚えたアメリカ軍が攻撃を加える。
という状態になっているわけですね。
さぁそしてウクライナ。
ここはもともと実はそのウクライナのなかではいわゆる民族対立ということもあります。
ウクライナっていうと航空機撃墜されましたよね。
マレーシア航空ですよね。
ウクライナ東部のドネツク州で乗客乗員298人全員が犠牲となった。
そこには夏休み中の子供およそ80人も含まれていた。
ドネツク州はウクライナ軍と新ロシア派勢力が戦闘を続けている地域だ。
新ロシア派勢力によるテロ行為だと非難。
一方ロシアのプーチン大統領は…。
ロシア側の関与を否定しその後地対空ミサイルによって撃ち落とされた。
というデータが得られたという。
今回使われたとされる旧ソ連時代に開発されたものだ。
このあと航空機撃墜事件で揺れるウクライナを取材。
緊迫の現場で見たものは…。
マレーシア航空機撃墜事件。
武力衝突。
緊張状態が続くウクライナ問題とは?ウクライナという国ですけど東西冷戦が終わったあと今回の問題の発端はそのための協議を始めようというところでこの問題が起きたということなんですね。
この旧政権のヤヌコビッチ前大統領はEUに入るための協議を進めていたんですね。
そしたら突然これを凍結いたします。
ここにはロシア側の意向が反映していたと言われています。
ロシアにしてみれば特にプーチン大統領にしてみれば「けしからん許せない」とこういうことなんですね。
更に言いますと実はロシアに輸出していたわけです。
これはやっぱりプーチン大統領としては許せないという思いがあったんですね。
反政府デモが起きたこういうことなんですね。
そしてこのデモは流血の惨事となりました。
首都キエフを脱出しまして…。
さっさと逃げ出してしまった。
こういうことになるんですね。
亡命後ヤヌコビッチ前大統領の邸宅が公開された。
その豪華な暮らしぶりが明らかに。
キエフから車でおよそ1時間。
広大な敷地は東京ドーム30個分という桁外れの贅沢は腐敗の象徴とも呼ばれました。
こちらが大統領執務室。
そしてこれ何だと思います?トイレなんですね。
落ち着いてできるんでしょうか。
更にそして極めつけは愛人宅の玄関に吊られた豪華絢爛なシャンデリアです。
40億円を超えるといいます。
富を欲しいままにしたヤヌコビッチ氏は大豪邸を捨てヘリコプターでロシアへ愛人とともに逃亡しました。
前大統領賄賂ですとかねあるいは国費の使い込みなどの疑惑もありまして…。
それに対する国民の怒りが反政府デモとして盛り上がったというそういう側面もあったと。
そして新たに大統領になったのが…。
はいチョコレートがいっぱい。
はい親欧米派のポロシェンコ氏です。
さぁなんでチョコレートがあるのかといいますと…。
宮崎さんご存じです?チョコレート会社の社長さんですよね。
経済誌『Forbes』によりますと総資産はおよそ日本円にして1,337億円と…。
でチョコは甘いかもしれませんが情勢は甘くなかったということがあります。
新しい大統領が誕生してひと安心と思ったら今度はですね親ロシア派の武装勢力ができたということなんですね。
それが今はウクライナってかたちでひとつにまとまっていますが東側ではロシア語を話している人たちが多いわけですね。
でロシア正教なんですね。
西側はウクライナ語を話していましてカトリック系の人たちがいる。
文化が違う言葉が違う。
宗教が違うということがありましてかくして親ロシア派はウクライナからの独立を掲げウクライナ政府軍がそれを阻止しようとして内戦状態になっていた。
このさなかにマレーシア航空機撃墜事件が起きたということになるわけですね。
さぁそのウクライナで今いったい何が起きているのか取材しました。
揺れるウクライナにカメラが入った。
ウクライナが揺れている。
今年の2月18日から数日間にわたって起こったウクライナ騒乱。
市民と警察との武力衝突でおよそ90人が犠牲となり1,000人以上の負傷者が出た。
激しい武力衝突が起こった独立広場には今もそこかしこで生々しい傷跡が見られる。
キエフの象徴といわれた広場は黒く焦げた交戦地帯の跡地へと変貌していた。
広場のあちこちに犠牲となった人々の写真と花が飾られている。
訪れる人はあとを絶たない。
多くのテントが建ち並ぶ。
騒乱以降ここで生活している人たちだ。
テントに掲げられているのは彼らはロシアに対する抗議活動をしている。
プーチラーとはプーチンとヒトラーを足して作られた造語。
この問題を憂いたユリアさんは動画サイトYouTubeに自身の映像を立ち上げ世界中に訴えた。
2か月前まで黒く焦げていたビルの外壁はようやく改修工事に入った。
しかし問題は解決していない。
ウクライナ大統領府前で人々が声をあららげていた。
新しく大統領に就任したポロシェンコ氏に向けた叫びだ。
声をあげているのは親ロシア派勢力に包囲されているウクライナ軍兵士の親だ。
国のために戦っている家族を政府は助けようともしない。
ポロシェンコ大統領なんとかしてという訴えだ。
小競り合いはいたるところで起こる。
現在の政府に憤っている人たちの行為に別の住民が怒る。
…という市民も少なくない。
…というのが彼女たちの叫びだ。
キエフには東部での戦火を逃れてきた人が避難民として暮らしている。
受け入れ先を訪ねた。
彼女にインタビューを終えた数分後世界中に激震が走る大惨事が起こった。
マレーシア航空機撃墜事件。
原因究明は進められているがウクライナロシアともはっきりとした証拠がなく現在も双方による責任のなすり合いが続いている。
事故が起こった当日キエフのオランダ大使館前では深夜にもかかわらず多くの人が花を手向けていた。
オランダ人の犠牲者は193人に及んだ。
オランダルッテ首相は「暗黒の日だ」と述べた。
抗議のプラカードにはこう書かれていた。
一方キエフ郊外にあるロシア大使館前は閑散としていた。
自動小銃を抱えた警備兵が大使館の前をふさぎ立ち入り禁止になっていた。
数日前ウクライナ市民による抗議行動が起こったためだ。
ロシアの国旗は…掲げられていない。
独立広場で小学生らしき少年が取材班に戦争ごっこのポーズを見せていた。
なんかねまだ終わってないというかむしろキエフで今度は戦場にいる息子や父親…。
情報が自由に行き来するのはすごくいいんですけどちゃんと国民の声が届いてるのか。
誰もあそこにいる人たち戦いを望んでませんでしたもんね。
ですよね今もこういう状態が続いているんですけれども…。
それが。
こちらです。
クリミアですね。
クリミアはもともとそこがですね住民投票で独立を果たしそして独立をしたあとロシアと一緒になるこういう言い方をした。
つまりロシアが手を伸ばした。
(パックン)これは新しいパターンだね。
最近になってあれは実はつまりロシアにしたらロシア軍はいないよという言い訳ができるかたちで実はロシアのために行動する勢力がいたのではないかこう言われています。
もちろんこのやり方に対してEUあるいはアメリカが一斉にこれを抗議いたします。
ロシア対欧米諸国の新たな緊張状態これをね新しい冷戦という呼び方をする人もいます。
そういう緊張状態が始まったということなんですね。
そして今回取材班はこのウクライナの首都キエフから夜行列車で向かいました。
そこにはロシア兵そして新たな国境が。
ロシアに併合されたクリミア半島。
空路は危険が伴うため陸路でクリミアへと向かう。
ウクライナのファンタジックな風景を抜けるとそこにはこれまでなかった国境が存在した。
ウクライナ兵が入ってきた。
出国だ。
いよいよ国境を越える。
駅のホームには一気に緊張が走る。
ホームにもロシア兵が。
ウクライナでは見られなかった光景だ。
ロシア兵の念入りなパスポートチェック。
ようやく国境を越えクリミアへ辿り着いた。
プーチン大統領がクリミアのロシア併合を宣言した。
(拍手)
(拍手)
(拍手)クリミアの中心地シンフェロポリ。
旧ソ連時代から温暖な保養地として人気だった。
目に付くのは赤い星やハンマーと鎌が描かれた旗。
更に町にはロシア併合を喜ぶ看板が数多く見られる。
3月まではウクライナだったクリミア半島。
車のナンバーを見るとロシアとウクライナ2つの国が混在していた。
ロシアと表示されているが…。
ロシアを剥がすとウクライナの文字が見えてきた。
3月に行われたロシア併合の是非を問う住民投票では…。
併合された今はどう思っているのか?書店を覗いてみると…。
プーチン大統領の写真だ。
ウクライナの法律本はロシアのものに変わった。
ウクライナが表記された教科書などはすべて変わるのだという。
英語の教科書は…。
クリミアはロシア併合の喜びで沸いているように見える。
しかし…。
クリミアいちの集客を誇っていたというマクドナルドに行ってみると…。
貼り紙には…。
3月いっぱいで営業をやめたようだ。
ショッピングモールでは欧米資本の店が次々と撤退していた。
観光地のメインストリートは人影もまばらだ。
今どこの国籍なのか尋ねてみると…。
突然泣き崩れた。
クリミアはまださまざまな感情がぶつかっているようだ。
ロシア併合を全会一致で賛成したクリミア議会。
正面にはしかし併合前は3つの言語で「クリミア議会」と書かれていました。
左はタタール語。
中央はウクライナ語。
右がロシア語。
クリミアがロシアに併合されますとすぐに看板が書き換えられました。
ウクライナ語もタタール語もなくなりロシア語だけになったのです。
この左側に表示されていたタタールとは…。
タタール人はクリミアから追い出された歴史を持ちます。
シンフェロポリから南へ80キロバフチサライ。
ここにはクリミアの先住民タタール人が多く住む。
彼らの聖地バフチサライ宮殿のモスクでは多くのタタール人が祈りを捧げている。
タタール人はロシアによるクリミア併合を認めなかった。
彼らは民族自治区を設立し独立するという決議を採択した。
ウクライナはタタール人をクリミアの先住民だと認めていました。
しかしロシアはそれを認めていません。
タタール人はという歴史を背負ってきました。
彼らの苦難は以来40年ゴルバチョフによるペレストロイカが行われるまで祖国に戻ることが許されなかった。
ここバフチサライはタタール人にとって舗装道路がなくなり雑草が生い茂っている。
むき出しになっているのはつなぎ目部分がサビついているのが気になる。
タタール人の家族を訪ねた。
彼女はタタール語で我々を迎えてくれた。
息子夫婦と孫に囲まれて暮らしているエルミーラさん。
エルミーラさんは6歳のときクリミアを追われルーマニアにたどり着いた。
そして17歳になると強制的にウズベキスタンへと移住させられた。
特別居住区といわれる劣悪な環境に閉じ込められ多くの人が命を落とした。
それもソ連がタタール人を迫害した大きな原因だったという。
義理の娘さんがいれてくれたのは粉をいっぱいに入れ瞬時に沸騰させるのだ。
苦みの効いたクリミアコーヒー。
日本人にはちょっと甘い砂糖菓子と一緒にいただく。
故郷を追われた歴史を持つタタール人。
ロシア併合の際行われた国民投票は全タタール人がボイコットした。
クリミアは歴史上軍事的要衝だった。
黒海に面したセバストポリ。
プーチン大統領がどうしても欲しかった1年中凍ることのない不凍港だ。
今年3月ついにロシアの領土となった。
併合後すぐの5月第二次世界大戦の戦勝記念日にプーチン大統領が訪れた。
黒海という湾内はどうなっているのか案内してもらった。
すぐに目についたのはロシア軍のシンボル赤い星です。
ロシアの海軍旗がはためく黒海艦隊。
大型艦を撃破できるほどの破壊力を持っています。
グルジア紛争に出動しています。
大型の高速戦闘艦のなかで最も速いといわれています。
ロシアにとって軍事戦略上欠くことのできないミサイルを積んだ戦艦はこの不凍港から外洋へと隊を整えて出発できるのだ。
というわけなんですね。
ロシアがクリミアにこだわるのは海軍がいる場所だったからこそそんなにこだわってるんですか?というのもですね…。
ここクリミア半島というのは冬でも港が凍らないんですよ。
ここなら黒海に面してますから非常に暖かいところですから。
こちら見てください。
プーチン大統領がクリミアのリゾートで休暇を楽しんでいる…。
でもクリミアの住民の方々の思いというのはさまざまでしたよね。
タタール人…ずいぶん気の毒。
気の毒だよね。
特に第二次世界大戦が始まったりすると…。
いろんな民族があるというのは難しいですね。
そうですよね。
ただし以前は平和に暮らしてたわけですよね。
あの戦争が生み出した悲劇の言葉。
このあと学徒兵がのこした心の叫びをひも解く。
実は今日は改めてこちらの太平洋戦争の地図をご覧ください。
その若者がいた場所。
はいインド洋のカーニコバル島という島があります。
ここにはかつて8,000人ほどの日本軍が駐屯していました。
このカーニコバル島に駐屯していた1人が…。
この方です。
これ4月29日の新聞なんですけどね。
多くの学生が戦争に駆り出されました。
そこで死んだ学生たち戦没学徒といいますけれどもその遺書や遺稿を集めた『きけわだつみのこえ』という有名な本がありますね。
そこに木村久夫さんの遺書も掲載されていたんですが実はそこにというそういうスクープ記事だったんですね。
『きけわだつみのこえ』に収録されなかった部分も含めてある言葉に注目します。
1943年今はもう使われていないここ…。
71年前も雨が降っていました。
東京帝国大学を先頭に行進が始まりました。
学友たちは帽子やハンカチを振って送り出しました。
戦争で散っていった学徒たち74人のやり場のない苦悩が綴られています。
東京本郷にある海を支配する神。
タイトルの「わだつみ」は海に沈んでいった戦没者のことをさします。
死亡通知書なんていうものがこれを見ると遺族はこの死亡通知書を遺骨の代わりに愛おしんだと言います。
こちらの方関口さんは画学生だったということで他の方とは違ったかたちで気持を遺していますね。
東京藝術大学の前身東京美術学校出身の関口清さんは当時の思いを絵で伝えています。
ご自身の姿でしょうか?宮古島の野戦病院にてもうこれ以上はやせられない。
飢えと酷暑が関口さんの体力を奪っていきました。
遺された絵の多くに叫び声ですよねこれは。
8月9日。
立つこともできなくなりました。
若くして非業の死を遂げた学徒たち。
その遺稿の中で独特の光を放っているのが木村久夫さんの遺書です。
木村さんはB級戦犯に問われ処刑されるまで戦後を垣間見ています。
インド洋のカーニコバル島守備隊に配属された木村さん。
英語に精通していた木村さんは通訳として活躍していました。
木村さんは英語だけでなく現地の言葉も覚え住民とも交流を深めたといいます。
ところが終戦間際にある事件が起こります。
その際拷問を行ったとしてB級戦犯に問われ死刑判決を受けてしまいます。
戦争指導者たちが罰せられた一方現場の兵士が多かった木村さんもその1人でした。
木村さんの遺稿は獄中で愛読した『哲学通論』の余白に書かれたものだとされていました。
ところが木村久夫さんの遺書はもう一通存在していました。
木村さんの生まれ故郷です。
お墓は吹田の町が見渡せる高台に佇んでいました。
ご遺族の協力のもともう一つの遺書を紐解きます。
最後にこうしたためている。
木村さんは戦争の犠牲となりました。
戦地では生きながらえたものの戦犯として処刑され命を落としたのです。
いかがでしたか?今の時代に生きさせてあげたかったなと思いますね。
ですねホントにそうですよね。
だから戦争が終わったそこまで生きてたのにそのあと死ななければいけない。
日本がこのあと復興するのかなというのを垣間見ながら死ななければいけなかったということなんですね。
さあその木村久夫さんの遺書。
発表されなかった木村さんの遺書。
そこには戦犯として処刑された学徒兵どのようなことが書いてあったのかといいますとちょっとこちらをご覧ください。
まだ続きます。
つまり彼も日本の軍人として戦った。
ところが戦争が終わってみたら当時の幹部たちの取り乱しようだったり責任を逃れる態度だったりそれを見てあ然とした呆れたということが書かれていた。
そしてこの木村久夫さんは上官の命令でやったことなわけですよね。
彼は責任が問われて処刑されたわけですがどうしてですか?それはそれぞれの事情でいろいろ違いますけれども今後のある若者がそこで命を失ってしまったわけですね。
それとこういうことが言えればよかったですよね。
自由に言える世の中だったらこんなことにはならなかったんだろうって。
そこでちょっとこちらをご覧ください。
国際的なジャーナリスト団体国境なき記者団が発表した世界報道の自由度ランキング2014です。
これ見てください。
北欧の国々が上位を占めています。
全部で180の国について調べていまして最下位はエリトリア。
それより一つ上が北朝鮮ということになるんですが…。
(峰)結構上位じゃないですか?ねぇ?15?
(池上)15位ぐらい。
じゃ見ましょうか。
まだ出てきませんね。
(池上)まだ出てきません。
韓国よりも下ですよ。
(池上)そうなんですね。
思ったより下ですね。
そうですよね。
以前は世界トップクラスの自由度を誇ってたんですがそのあと大きく下げた。
その理由は何か。
3.11かな…。
そして今回更にこれが下がったその理由というのはですね特定秘密保護法が成立したからだと国境なき記者団は言うわけですね。
さっき2人でよかったね平和な国でって言ってたんですけどまた違う角度から見られるとそういうことになるんですかね。
だから私たちは言論の自由がちゃんとあるんだ。
言いたいことも言えるんだってこう思ってますけど海外から見るといやいや他の国に比べて自由じゃないんじゃないの?とこう指摘を受ける。
さあお知らせのあとは誰もが平和を求めていることに変わりはありません。
この番組で紹介してきましたように先人たちがさまざまな悲惨な経験をしながら今の日本があるということですね。
そして彼らはみんな平和を求めていました。
さあ私たちはどんな平和を作ることができるんでしょうか?ここで最後に改めて木村久夫さんの遺書を読み上げたいと思います。
木村さんのこの悔しい思いに今を生きる私たちはどのように答えることができるのでしょうか?2014/08/17(日) 19:54〜22:08
テレビ大阪1
池上彰の戦争を考えるSP 第5弾〜悲劇が生み出した言葉〜[字]

池上彰と「戦争」について考える特別番組第5弾。今回のテーマは“悲劇が生み出した言葉”。▽マレーシア航空機撃墜!ウクライナで何が起こったのか?緊急現地取材

詳細情報
番組内容1
池上彰とテレビ東京報道局が始めた「戦争を考えるSP」の第5弾。今回は、日本が69年前まで当事者として戦っていた戦争、そして今世界のどこかで起こっている戦争、その悲劇の中で生まれた言葉に注目。“悲劇が生み出した言葉”をテーマに、戦争に刻まれた言葉を紹介。また、緊迫状態のウクライナを緊急現地リポート。戦争は避けられるのか!?
番組内容2
【学徒兵・木村久夫】
戦没学徒の遺書や遺稿をまとめた本「きけわだつみのこえ」に収められている、学徒兵・木村久夫の遺書を紹介。戦後日本の繁栄を祈り、自らがそこにいない無念が語られているものだが、新たに木村の「別の遺書」が存在することが明らかになった。そこには軍人に対する強烈な批判が記されていた…!
番組内容3
【沖縄県民かく戦えり】
国内唯一の地上戦となった沖縄へ、パックンと相内優香アナウンサーが向かう。平和の礎での式典を取材するほか、旧日本海軍の司令部があった壕の跡を訪れる。また、アメリカ軍の目線からの沖縄戦も紹介。終戦から69年経った今も基地問題など戦争の爪痕が残る沖縄。その沖縄がなぜ戦争に巻き込まれたのかを池上が解説する。
番組内容4
【樺太の悲劇】
終戦間近の1945年8月、ソ連軍が突如日本に宣戦布告。南樺太に侵攻、南樺太在住の日本人は戦争に巻き込まれ、戦後、南樺太の女性電話交換手が集団自決するなど、各地でさまざまな悲劇が生まれた。今、南樺太が世界地図で「空白」となっている。池上が地図を駆使して時代と地理を解説する。相内はユジノサハリンスク(豊原)とホルムスク(真岡)を取材、南樺太の今を伝える。
出演者
【キャスター】池上彰(ジャーナリスト・東京工業大学教授)
【アシスタント】相内優香(テレビ東京アナウンサー)
【ゲスト】八千草薫、峰竜太、宮崎美子、パックン、本仮屋ユイカ
【現地リポーター】狩野恵里(テレビ東京アナウンサー)

ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ニュース/報道 – 海外・国際

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