NHKスペシャル「いつでも夢を〜作曲家・吉田正の“戦争”〜」 2014.08.17

・「星よりひそかに」戦後を代表する名曲「いつでも夢を」。
人々を励まし続けてきた歌にはある物語が秘められていました。
作曲したのは田正。
戦後の日本歌謡の基礎を作ったといわれ国民栄誉賞も受賞した作曲家です。
今作曲家田の原点とも言うべき歌が次々と見つかっています。
これちょっと聴かせて下さい。
きっかけは4年前都内のレコード会社にカセットテープが送られてきた事でした。
テープには70年近く前シベリアで歌っていたという男性の歌が吹き込まれていました。
歌詞に添えられていたのは田の名前でした。
終戦直後3年にわたってシベリアに抑留された田。
しかしシベリアでの体験やそこで歌を作っていた事は生前ほとんど語りませんでした。
どうも吉永です。
どうぞよろしくお願い致します。
田に育てられた門下生たちもシベリアでの事を聞かされた事がなかったと言います。
大変な…。
もう人にしゃべれる事じゃなかったんだと思いますね。
だから先生もそういう事をお話にならなかったし私も聞けないですよね。
仲間を目の当たりに亡くしていく悲しみ苦しみとかそして自分だけ生き帰って復員できるっていう…。
これはね我々なんかが語れないやっぱり実感なんでしょうね。
57万人を超える日本人が拘束され少なくとも5万5,000人が命を落としたいわゆるシベリア抑留。
どうも。
今日はよろしくお願い致します。
田はシベリアで何を見たのか。
これが田さんの原点だと。
抑留者たちの多くが田が作った歌を記憶にとどめていました。
そして田の作った歌は帰還の日を待つ抑留者たちの心の支えになっていました。
70年もの間秘められ続けた旋律。
戦後の日本を希望の歌で励まし続けた作曲家の原点を見つめます。
いらっしゃいませ。
どうも。
よろしくお願い致します。
とうさん。
レコード会社にカセットテープを送った北嶋鉄之助さん89歳です。
どうぞお上がり下さい。
どうぞ。
北嶋さんは70年近く前にシベリアで聴いた歌を克明に覚えています。
昭和20年現在の中国東北部旧満州の歩兵部隊に配属された北嶋さん。
終戦後すぐにシベリアに送られ3年間に及ぶ過酷な抑留生活を強いられました。
いつ帰国できるかも分からず収容所を転々とする日々。
北嶋さんはある時別の収容所から来た抑留者が口にした歌を耳にしました。
田正という抑留者が作った歌だと聞かされました。
家族にすらシベリアでの体験を話した事がなかった北嶋さん。
85歳を越え命をつないでくれた歌を後世に残したいと思うようになったと言います。
北嶋さんのテープを受け取ったレコード会社です。
田の担当ディレクターを長く務めてきました。
「帰還の日まで」と題された歌が田の作品であるという決め手となったのはその旋律でした。
(テープ)・「海をへだててはるばると」旋律が昭和24年に作られた歌と酷似していたのです。
・「おなじ明るく照ればとて」谷田さんは田からシベリアで歌を作ったが忘れてしまったと聞かされた事がありました。
田の思い詰めた表情にそれ以上聞く事はできなかったと言います。
まさかシベリア抑留時代の歌が…40〜50曲書いたというふうに先生おっしゃってましたけど知るすべがなかったんですよね。
そういう形で手帳も何にも持って帰れなかった状態の中で頭の中に記憶して持ち帰られたっていうのはもう本当に奇跡ですよね。
本当に奇跡だと思います。
顔も知らない田の歌に励まされシベリアから生還した北嶋さん。
農業や干拓地の整備の仕事をしながら3人の子どもを育てました。
仕事の合間シベリアで亡くなった仲間を思いながら一人で歌を歌い続けてきたと言います。
「いつでも夢を」が街にあふれていた時も北嶋さんにとっての田の歌は「帰還の日まで」でした。
私と田先生が出会ったのは昭和36年16歳の時でした。
デビュー曲は先生が作曲して下さった「寒い朝」。
深夜まで熱心に指導して下さったのを昨日の事のように覚えています。
間違えたりするとパッとピアノをやめられてこの大きなお目でふっと見て「間違ったよ」っていう事をね。
口ではおっしゃらないんですけど。
ただ歌を教えて頂いてるというだけじゃなくってどういうふうに生きていくかっていう時に先生のようにというふうに思える方でした。
田先生は大正10年今の茨城県日立市で生まれました。
幼い頃から音楽が好きで学生時代には仲間とバンドを組み当時の流行歌を演奏していたといいます。
・「今日も暮れゆく異国の丘に」シベリアから帰国した昭和23年に作曲家として「異国の丘」でデビュー。
・「あなたを待てば雨が降る」歌謡曲に当時は珍しかったジャズやタンゴのリズムも取り入れる事もあった田先生。
戦後の日本歌謡の基礎を作ったといわれています。
・「星よりひそかに」私も歌わせて頂いた「いつでも夢を」。
明るく希望に満ちた先生の歌は戦後の混乱期から高度経済成長期へと向かう日本を励まし続けました。
・「いつでも夢を」先生がよくお話ししていた事があります。

(「寒い朝」)実の娘に接するように私に何でも話してくれた田先生。
・「北風の中に」しかし戦争体験についてだけは一度も聞いた事がありませんでした。
・「呼ぼうよ春を」戦時中からシベリア抑留時代の田を知る手がかりとなる資料が見つかりました。
遺品を管理する事務所の倉庫に眠っていたのです。
唯一これが残っているもの。
身上申告書。
シベリアから復員した時国に提出した文書です。
ボイラーを扱う会社で働きながら作曲家になる事を夢みていたという田。
昭和17年21歳の時陸軍歩兵第2連隊に入隊します。
当時満州に駐留していた関東軍の中でも最強といわれていた部隊で厳しい軍隊生活を送りました。
そして終戦直後から3年にわたるシベリアでの抑留生活。
復員したのは昭和23年の8月の事でした。
田はシベリアで何に直面したのか。
そして歌はどのように作られたのか。
身上申告書を基に田の足跡をたどる事にしました。
新潟県糸魚川市に住む…シベリアに抑留されて間もなくの昭和21年。
アルチョームという町の収容所にいた時に田と出会ったといいます。
渡邉さんは田の姿を鮮明に覚えていました。
森林伐採の重労働の合間いつも熱心にメモをとっていたのです。
日本人たちが抑留された最初の冬強烈な寒波がシベリアを襲いました。
一冬で2万人以上の抑留者が命を落としたといいます。
田の抑留生活も常に死と隣り合わせだったといいます。
寒さと飢えで田の隣で寝たまま亡くなった仲間。
赤痢やチフスで苦しみながら亡くなった仲間。
そして重労働のさなか伐採した木の下敷きになり亡くなった仲間。
生き残った者は飢えに苦しみ森の中で血眼になって食料を探したといいます。
田は6か所の収容所を転々とさせられていました。
終戦を満州で迎えた田が120kmの道のりを歩かされたどりついたのが旧ソビエトの極東地域。
クラスキーアルチョームウオロシロフソフガワニスーチャンナホトカ。
収容されるさきざきで森林伐採や石炭の採掘など過酷な労働を強いられたといいます。
次々と命を落としていく仲間たち。
過酷な環境の中で田の歌はどのように広まっていったのか。
昭和22年ソフガワニの収容所で田と一緒だった…染谷さんも田の歌を覚えていました。
更に田が作った7曲の歌を記憶していました。
染谷さんには忘れられない田の姿があります。
夕食時重労働を終えたばかりの田が仲間たちに必死で歌を教えていたのです。
抑留者たちは常に緊張を強いられ精神的にも疲れ果てていました。
田はそんな仲間たちのために歌劇団を作ったといいます。
衣装や楽器も仲間と手作りしました。
田の歌は次第に抑留者たちを元気づけていったのです。
田が帰還の日を信じて作った歌。
しかし5万5,000人もの抑留者は再び祖国の地を踏む事はありませんでした。
田が4か月間収容されていたアルチョームです。
僅かに残る収容所の痕跡。
多くの仲間を失いました。
日本人たちの姿を覚えているという女性がいました。
当時炭鉱で作業の手伝いをしていたといいます。
(テープ)・「海をへだててはるばると」・「他国に結ぶ夢のかず」日本とロシアそれぞれの地で今も人々の記憶に刻まれる田の歌。
戦後の日本を励ましてきた田はシベリアの過酷な日々の中で希望の歌を作っていたのです。
なぜ田は希望の歌で仲間を励まし続けたのか。
その背景に戦時中の軍隊での体験がある事も分かってきました。
今年2月田の戦友が残していた手帳からまた新たな歌が見つかったのです。
(取材者)ごめんください。
どうぞよろしくお願いします。
こんにちは。
夫の勘吾さんは田と同じ旧満州に駐屯していた歩兵部隊に所属していました。
田は体を壊した勘吾さんが日本に帰国できるよう上官に働きかけてくれたといいます。
勘吾さんが靴底に収め戦地から持ち帰った手帳です。
その中に田が部隊にいた頃に作った曲が記されていました。
歩兵だった田は音楽の才能を見込まれ軍歌を作っていたのです。
陸軍の飛行戦隊四三七部隊のために作曲した歌。
上官が書いた勇壮な歌詞に曲をつけました。
「いざと言うとき体当り」。
「死は一定の空の騎士」。
四三七部隊は昭和19年の秋南方の激戦地フィリピン・レイテ沖などで戦闘に臨みます。
隊員は特攻にも参加。
300人以上の命が失われました。
同じ年田が所属していた歩兵第2連隊も南方のペリリュー島の守備を命じられます。
アメリカ海兵隊との戦い。
日本軍1万人のうち最後まで戦って生き残ったのは僅か34人でした。
(爆発音)田は部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し満州にとどまりました。
仲間のほとんどが命を落とす中で生き残ったのです。
この年の8月田は別の歩兵部隊に転属します。
部下だった牧野弘吉さんです。
昭和20年に入り戦況が悪化の一途をたどってからも田は歌を作り続けたといいます。
昭和20年8月13日。
田は機関銃中隊の分隊長として出撃します。
ソビエトが日ソ中立条約を一方的に破棄し満州に侵攻してきたのです。
ソビエト兵150万。
戦車5,000台。
兵力の差は圧倒的でした。
この戦いで日本軍将兵8万人以上が戦死したとされています。
田も大たい部貫通などひん死の重傷を負いました。
数日間生死をさまよいながらまた生き残ったのです。
田の遺品の中に当時の心境をうかがえるものが残されていました。
終戦から39年後に書かれていた手記です。
「私が生きる意味について考えるようになったのはいつからだったろうか。
昭和20年8月16日国境の戦闘で傷つき身動きできぬ塹壕の中で満天の星空を仰ぎ私は生きていると実感した日からです。
あの日から作曲家として自分の道を歩いてきたつもりです」。
あまりに多くの戦友を失った田。
歌に生きる希望を託そうと決意していたのです。
しかし田はシベリアでも多くの仲間を失っていきました。
昭和23年田にとって5つ目となったスーチャンの収容所で一緒だったという関谷空道さんです。
このころ収容所では帰還が近いという噂が出ては消えていました。
関谷さんはその度ごとに日本へ帰る事を諦めかけたと言います。
その時田が作った歌を関谷さんはずっと大切にしてきました。
仲間と共に生きて帰還し日本を自分たちの手で再建したいという田自身の夢を歌った歌でした。
祖国再建の夢を歌った歌が関谷さんたちを支えたのです。
満州そしてシベリアでの6年を経て田は昭和23年に帰国を果たします。
ふるさとに住む家族6人全員が空襲で亡くなっていました。
多くの死を背負い田の作曲家としての戦後は始まりました。
昭和20年代から30年代にかけて一年に100曲近く作った事もありました。
田がシベリアで夢みた祖国の再建。
希望や夢を乗せた田の歌と歩調を合わせるように日本は復興を果たしていきました。
田の長年の親友作家の早坂暁さんです。
田は生き残った者の責務として歌を作り続けていたのではと考えています。
1本のカセットテープをきっかけに始まった歌の発掘。
その後新たに23曲が見つかりました。
田の担当ディレクターだった谷田郷士さんはプロの歌手とピアニストの手で譜面に正確に起こし歌を記録する事にしました。
抑留者たちが記憶し続けた歌を失ってはならないと考えたからです。
冗談じゃないって怒ってるのかあるいはもう70年たったのでそろそろいいだろうという事なのか大変迷ってるんですけどもどうしても先生の残した作品だから聴いてみたいので…。
「帰還の日まで」。
これお願いします。
・「シベリア風の吹く野辺にたとえ病む日のあればとて」・「ぐっとこらえて帰るまで」・「なんで命が捨てらりょか」田先生が生涯で作った曲はおよそ2,400曲に上ります。
・「なんて素敵なセニョリータ」私自身が先生の歌を歌う事で励まされたように多くの人が先生の歌に勇気づけられながら戦後を生きてきたのだと思います。
私には先生から頂いた今も忘れる事のできない大切な言葉があります。
先生がポツッとお茶飲みながら「小百合ちゃん生きるって事は大変な事なんだよ」っておっしゃったんですね。
ポツリと。
たったそのひと言でしたけれどもその時の先生のお顔っていうのは忘れられないですね。
そのひと言に全部詰まっていたんじゃないかと思うんですね。
・「星よりひそかに雨よりやさしく」・「あの娘は」なぜ先生の歌は私たちを励まし続けたのか。
そしてなぜ戦争のさなかに作った歌を封印し続けたのか。
・「いつでも夢をいつでも夢を」・「星より」「生きるって事は大変な事なんだ」と静かに語った先生は悲壮な思いを込めて歌を私たちに届けようとしていたのだと今は思います。
シベリアから生還した田正が生涯続けてきた仕事があります。
校歌の作曲です。
どんなに多忙でもその依頼だけは引き受けるようにしていたといいます。
・「矢部川のほとりさくら咲くこの丘」・「空はまねき風はささやく」子どもたちは作曲家の名前を知りません。
それでも歌は子どもたちを育んでいます。
・「なかよしわれらの」戦争の過酷な体験を経て田が歌に託した生きる希望。
田の歌は今も未来を照らし続けています。
2014/08/17(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「いつでも夢を〜作曲家・吉田正の“戦争”〜」[字]

国民栄誉賞も受賞した戦後を代表する作曲家・吉田正。いまシベリア抑留につくった歌が相次いで見つかっている。吉永小百合さんらの証言などから「吉田の戦争」を見つめる。

詳細情報
番組内容
都内のレコード会社に秋田の男性から1本のカセットテープが送られてきた。歌は、シベリア抑留中に男性が毎日歌っていたものだという。歌を作ったのは「いつでも夢を」などで知られる戦後を代表する作曲家・吉田正。シベリアでの体験をほとんど語ることはなかったという吉田。歌を封印し続けた背景にはある「真相」があった。門下生の吉永小百合さんや橋幸夫さんの証言などをもとに国民的作曲家の戦争を見つめる。【語り】益岡徹
出演者
【出演】吉永小百合,橋幸夫,【語り】益岡徹

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:4273(0x10B1)