3日曜美術館「バルテュス 5つのアトリエ」 2014.08.17

かのピカソをして「当代において最も重要な画家」と言わしめた巨匠バルテュス。
92歳で亡くなる間際まで絵筆を執り続けた生涯は常に称賛とそれと同等の誤解に満ちていました。
彼の評価を二分してきたのが少女をモデルにした官能的な作品の数々。
少女に対するフェティシズムを賛美した際物なのかはたまた移ろいゆく一瞬の美を捉えた崇高な芸術か。
死後13年たつ今もバルテュスを巡るこのての論議は絶えません。
今なお刺激的な魅力を放つ作品。
それをよりミステリアスにしているのが彼のボヘミアンのような生涯です。
旅するようにアトリエを移しながら自らが信じる美を追求し続けました。
狭い屋根裏部屋で問題作を次々に描きパリの画壇にセンセーショナルなデビューを飾ったフュルスタンベール通りのアトリエ。
時代の流行に背を向け引きこもって少女を描き続けたクール・ド・ロアンのアトリエ。
パリの画壇から逃避し少女と2人僻地の古い城館に暮らしたシャシー時代。
ローマのフランス・アカデミーの館長になった50代。
ルネサンス建築の復興に取り組みました。
そして終の住みかとなり息を引き取るまでキャンバスの前に座り続けたスイス・ロシニエール村のアトリエ。
「絵を描く事は確かな技術に裏打ちされた仕事でなくてはならない」。
生涯職人のような勤勉さでアトリエに座り続けたバルテュス。
5つのアトリエを巡りながら20世紀最後の巨匠の知られざる素顔に迫ります。
今回の「日曜美術館」は東京・上野の東京都美術館バルテュス展が開かれている会場からお届けします。
バルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ。
呪文のようなしかも得意げに。
得意げに言ってみたんですけれどもバルテュスの本名ですね。
そうなんですよね。
実はバルテュスは父方の家系がポーランドの貴族の末裔という事で正式な名前はそこまで長い。
バルテュスって愛称だったんですね。
バルテュスって何か響きがすごいいいですよね。
なじんでますよねそちらの方が。
日本でもとても人気のある画家ですし今回ここまで大規模なしかも没後日本で展覧会が開かれるというのは初めて。
貴重ですよね。
2001年に亡くなってから13年目にしてようやく実現した大回顧展。
何か独特ですよね。
こう古典的でもあってシュールレアリスムのようにも見えるけれどどこにも属していないというバルテュスはアーティストに愛されるアーティストというような印象が強いですね。
実際にミュージシャンのU2のBonoやDavidBowieが熱烈なファンだったそうで。
Bonoに関していうと実際にバルテュスの葬儀にも参加をしていたりDavidBowieは自分でバルテュスの肖像画を描いてそれをバルテュスにプレゼントしたりも。
美しさとかテクニックとかだけではなくて人間の感情や内面に訴えかけてくるようなえぐってくるようなそういう毒や棘みたいなものと性と俗というものが同居しているところがきっとそういうさまざまな感性の鋭い人たちから愛される理由なのかもしれないですよね。
その相反するものがあるからこそまた誤解を生みやすいというのもあるのかもしれませんがまさにその最たるものといっていいのかこの作品「夢見るテレーズ」はその一つかもしれませんよね。
1938年。
まだやってやるという意欲的な挑戦し…。
それは間違いない。
間違いない。
このポーズも…。
挑発的な感じですよね。
いや〜ちょっとそうですねぇ娘とかがいると何か妙に変に意識して何かこうつい顔の方に視線がいっちゃうというか。
でもこの少女の何とも言えない艶やかな横顔にはかなり…つかまれるというか。
分かります。
僕も横顔グッときますね。
今回はこのいわば称賛と誤解に満ちた20世紀最後の巨匠バルテュスの世界をさまざまな情報をもとにひもといていきたいと思います。
キーワードはバルテュスが作品を生み出した5つのアトリエです。
旅するようにアトリエを移しながら新たな作風を手に入れたバルテュス。
1908年パリ生まれ。
両親が共に芸術家という画家を目指すには理想的な環境に生まれます。
その後第1次世界大戦の混乱や両親の離婚で恵まれた環境を失いますが画家になる夢は捨てませんでした。
美術学校に通わず一人で学ぼうとしたバルテュス。
18歳の時イタリアへ画家修業の旅に出ます。
皿洗いのアルバイトを続けながらルネサンス時代の宗教画やフレスコ画を精力的に模写しました。
古典的な構図やわらかな色彩時を止めたような静けさ。
後のバルテュスの原点が培われました。
独自の画風を手に入れたバルテュスは24歳でパリへ乗り込み記念すべき最初のアトリエを構えます。
にぎやかなサンジェルマン・デ・プレから少し歩いたフュルスタンベール通り。
最上階の狭い屋根裏部屋でした。
この10畳ほどの小さなアトリエで次々と問題作が生み出されます。
バルテュスはシュルレアリストや抽象画がもてはやされるパリの画壇で自分のやり方にこだわって名を上げようとしました。
それはいわば過激な具象画ともいうべきスタイル。
当時の片思いの相手で後の妻になるアントワネットをモデルに描いた25歳の意欲作です。
椅子に座る男は若きバルテュス自身です。
女性が身支度する様を鏡の側から描いた刺激的な作品。
瞳が描かれていない表情が見る者の心を不安定にさせます。
初期の傑作「街路」。
パリの街角でフリーズする9人の通行人が醸し出す不穏な空気。
深読みしたシュルレアリストたちにバルテュスは同志だと勘違いさせるに十分なインパクトがあります。
しかしその挑発的な作風があだになりました。
バルテュスが嫌ったシュルレアリストたちと同類視され一方で一般には見向きもされませんでした。
(クレール)パリのピエール画廊での初個展それはとても奇妙なものでした。
マスコミには相手にされず全く注意を引きませんでした。
逆に才能ある人々の反応は早かった。
例えば大物の詩人や画家などバルテュスという名の若き天才として認知されました。
彼は一般的に有名になるには洗練されすぎ繊細すぎたのです。
いきなりデビュー戦でつまづいたバルテュス。
自分でまいた種ながら望まぬ称賛にも誹謗中傷にも嫌気がさしアトリエを引っ越します。
2つ目のアトリエはオデオンにも程近いクール・ド・ロアンのアパート。
このころすっかり人間不信になっていたバルテュス。
このアトリエに引きこもり創作に没頭していきます。
袋小路の行き止まりは喧噪に耳を閉ざすには格好の場所でした。
初めての個展の失敗から2年。
バルテュスはこのアトリエで生涯のテーマと出会います。
隣に住む失業者の娘テレーズ・ブランシャール。
そうあの「夢見るテレーズ」のモデルになった少女です。
出会った当時まだ14歳。
この少女の中に潜む無防備な美にバルテュスは引かれます。
少女の中に同居する無邪気さと物憂げな表情。
大人の女性に変化する前の一瞬の美しさにバルテュスは執着します。
テレーズをモデルに少女の美しさを描き画家として成熟していきます。
しかし彼を評価するのは一部の目利きだけで相変わらず無名で貧乏なままでした。
生計を立てるために多くの肖像画を描いたのもこのころです。
画家としての確かな技術がかいま見られます。
行きつけのシーフード・レストランのオーナーに頼まれて店の看板を描いたりもしました。
バルテュスはこの時代に後世に評価される作品をたくさん残しますが貧しさから抜け出す事はできず創作活動は行き詰まっていきます。
画家としての成熟と評価されないストレス。
1953年バルテュスは突如クール・ド・ロアンのアトリエから姿を消します。
バルテュスってロリータ・コンプレックスだったというふうにも言われてたりするじゃないですか一部で。
でもただ単にロリータ・コンプレックスという言葉ではくくれないというか。
まさにそれに関してこうした事実が一つあるんですね。
ロリータ・コンプレックスというその語源にもなったあの小説「ロリータ」の初版本の表紙の絵を飾ったのが実はこのテレーズをモデルにしたバルテュスの「猫と少女」という絵だったそうなんですね。
熱烈なバルテュスのファンだった著者の要望で表紙を飾ったわけなんです。
しかもそれが世界的なヒットとなってしまったから「バルテュスもそうなんじゃないの?」というイメージが広がってしまったのではと…。
そっちに転んでしまったんですね。
せっかくね…あ〜そう…。
何か巻き込まれたというかぬれぎぬですよね。
では次のアトリエにまいりましょうか。
人間関係に行き詰まり深呼吸が必要だと感じたバルテュスはパリを捨ててどこへ向かったのでしょうか。
1953年45歳のバルテュスは田舎への移住を決めます。
フランス中部のモルヴァン山地で農園付きのアトリエを手に入れました。
シャシー村にあるこの古い城館が3つ目のアトリエです。
シャシーへの移住は画家としての大きな転機でした。
彼の才能を認める画商たちがバルテュスを援助したのです。
彼らは金を出し合いバルテュスが創作に没頭できる新たなアトリエを与えました。
ただし土地と建物を購入する金はバルテュスがここで描くであろう絵で返すという条件でした。
バルテュスにとってはようやく持てた理想的なアトリエでした。
広い空間と誰にも邪魔されない環境。
この城館に降り注ぐやわらかな光が新たな画風をもたらします。
そして何より彼の創作意欲をかきたてるモデルがここにやって来ます。
フレデリック・ティゾン15歳。
バルテュスの兄の結婚相手の連れ子つまり義理の姪です。
彼女の中にテレーズ以上に絵心を刺激される何かを感じたバルテュスは2人きりで共同生活を始めます。
16歳のフレデリックを描いた「白い部屋着の少女」。
先鋭的だったパリ時代とは大きく異なる穏やかなタッチ。
大人の女性へと変わっていくみずみずしい肉体が繊細な陰影を帯びて浮かび上がります。
シャシーの光と影の中で捉えた幻想的な一瞬。
フレデリックは移ろいゆく少女の美を描こうとするバルテュスにとって理想的なモデルでした。
やがて2人は男と女としても愛し合うようになります。
バルテュスは言っています。
「シャシーに注ぐ黄金の光の中で隠遁生活ができて私の心は喜びに満ちていました」。
シャシー時代のバルテュスは2種類の絵しか描いていません。
フレデリックをモデルにした絵そしてモルヴァン地方の牧歌的な自然を描いた風景画です。
シャシーの美しい自然と光がバルテュスのもう一つの魅力風景画の世界を確立させました。
シャシーの城館から見える風景。
影が一切なく光に彩られた世界が広がっています。
バルテュスとフレデリックは足かけ8年この城館で2人だけの生活を送りました。
フレデリックの表情はアトリエの壁にも刻み込まれています。
しかし1961年幸福なシャシーの時代は突然終わりを迎える事になります。
へぇ〜「白い部屋着の少女」。
うん。
モデルとして恋人として常にシャシー時代にバルテュスのそばにいた。
体は何かドキッとするぐらい肉感的で。
肌の質感とか何かこう自然光がうっすら当たっているのかそれとも何かこう外からじゃなくて少女から発しているかのような神秘的な明るさというか。
このシャシー時代はモデルとして恋人としても深く結び付いたフレデリックという女性が常にバルテュスのそばにいたという事になりますよね。
バルテュスが当時46歳ですから31歳の年の差。
はぁ〜31歳。
はい。
フレデリックはバルテュスのお兄さんの結婚相手の連れ子さんという事で血はつながってはいないんですけれども義理の姪にあたるんですよね。
この辺りがモラリストたちにとってはバルテュスを攻撃する格好の材料になってしまったともいえると思います。
でもそれは間違いなく攻撃されますよね。
さあ次のアトリエへまいりましょう。
バルテュスは田舎暮らしを捨てて華々しいローマでの生活を選びます。
そこでは思ってもみなかった運命が待っていました。
充実したシャシーの暮らしはなぜ終わりを迎えたのか。
1961年。
当時フランスの文化大臣を務めていたアンドレ・マルローから思いもかけない話が舞い込みます。
ローマにあるフランス・アカデミーの館長就任の要請でした。
ルネサンス以来の古典芸術の殿堂ヴィラ・メディチ。
ここを拠点にフランスの若き芸術家の支援をするのがフランス・アカデミーの活動です。
その館長にバルテュスが推薦されたのです。
魅力的な話でした。
若い頃イタリア・ルネサンスの巨匠たちに影響を受けたバルテュスはローマ行きを快諾します。
館長に着任早々自分にふさわしい仕事を見つけやがてそれに没頭するようになります。
それはルネサンス時代に建てられたヴィラ・メディチの修復という大仕事。
さまざまな時代にその場しのぎの改装を繰り返してきたヴィラ・メディチに本来の美しさを取り戻したいと考えたのです。
ルネサンス時代の内装をできるだけ歴史的に正確に修復し元に戻そうとしました。
彼のすばらしいところはルネサンス時代の史料も何もなく一度消えてしまったものを芸術家としてのセンスで想像し修復したという事です。
壁の塗装を全て剥がして元の艶のない素材感を引き出します。
バルテュスは厚い時間の層に眠っていた本来の姿を独自に復元したのです。
それは画家としての徹底した美意識でした。
家具は復元した壁の風合いにふさわしいアンティークをのみの市を回って選びました。
そして複雑なグラデーションの壁を照らす照明器具にもこだわりました。
ロウソクの燭台をイメージしたこのスタンドはバルテュス自身がデザインした特注品です。
スタンドの明かりが照らし出す壁の美しさ。
これもまた立派なバルテュスの作品といえます。
修復作業は足かけ16年にも及びました。
修復に多くの時間を費やしたせいかローマ時代のバルテュスは驚くほど寡作です。
それでも自らの作品と言うべき壁を背景にして見事な大作を描いています。
そしてある時期からまだ若い日本の女性を描いた作品が目立つようになります。
彼女の名前は出田節子。
後に妻になる女性です。
2人の出会いは京都。
バルテュスはフランスで開く日本美術展の出品作品を選ぶため訪れていました。
節子さんは上智大学でフランス語を勉強する二十歳の学生。
54歳のバルテュスは節子さんに心を奪われもう一度会って肖像画を描きたいと申し出ます。
記念すべき最初のデッサン。
全てはここから始まりました。
以来40年節子さんはバルテュスが息を引き取るまでそばにいてモデルとして妻として支える事になります。
ヴィラ・メディチには2人にとって思い出深い部屋があります。
美しいタイルで装飾された「トルコ風の部屋」。
バルテュスはこの部屋で節子さんをモデルにローマ時代の代表作を描きます。
日本から来た美しい伴侶。
バルテュスの幼い頃からの東洋への憧れが節子さんとの出会いで形になりました。
バルテュスのヴィラ・メディチ在任は予想以上に長くなりました。
館や庭の修復のめども立った頃残された人生を絵にささげるための新しいアトリエを探し始めます。
ローマから車で1時間ほど走った小さな村に建つ中世の城。
廃虚も同然でしたがバルテュスはこの城に強く引かれ修復して創作活動の場としてよみがえらせました。
バルコニーにある古いフレスコ画も丁寧に復元し寝室でも創作できるように整えます。
最上階にあるアトリエには北向きの窓がありました。
自然光でしか筆を執らなかったバルテュスは安定した光がさし込む理想のアトリエを手に入れたのです。
しかしこの城での暮らしは長くは続きませんでした。
バルテュスと節子さんは再び新しい創作の場を求めてスイスへ旅立つ事になります。
情熱的というかドラマチックな出会いですね。
まさに今日はその劇的な出会いをされたご本人をゲストにお招きしております。
バルテュスの夫人節子さんです。
よろしくお願いいたします。
こちらへお越し下さいませ。
はじめまして。
楽しみにしておりました。
(伊東井浦)よろしくお願いします。
ほんとに数多く作品ある中であちらにもあります初めて節子さんがバルテュスと日本で出会う事になった時のあのデッサンを見ているとバルテュスはもう一度節子さんに会いたいがためにモデルの依頼再びしたのかなというふうに思ったんですが…。
どうでしょう?どうでしょうねえ。
やはり二十歳でしたからとてもうれしくって一生懸命モデル…でもとにかくすぐにはできなくて何度も消して駄目になったのは破いてという。
日本人の顔というのは浮世絵の一本の線だけであんなにボリュームが美しく出てるからそれを外国風のデッサン的なやり方で表すのが難しいと言ってました。
ヴィラ・メディチの館長として非常に修復に熱心に関わっていらっしゃったその姿もお近くで見ていてどのように映りましたか?私が大変やっぱり印象的に思いましたのはバルテュスの場合6年かかって修復作業を続けたわけで壁なんかも色を塗ってピッタリとした色というのがつまらないというので色を何色か混ぜて一番最後にガラス瓶の底で削るようにして色がうまく混ざるようにした。
ローマ時代のした仕事の修復修業というのは私個人にとっては全く絵画のように思います。
その壁を塗るという事と同時にそれ自体がバルテュスの作品。
作品の中に作品があるような。
そう。
そうなんですね。
私は修復作業する時もやはり絵を描くのと同じ情熱と美を求めてるという事に関しては同じだと思います。
でもそうしたいわば華やかとも言えるようなローマの…イタリアでの生活から今度はまたそれをいわば捨てて新たな地へ…。
やはり健康の理由で。
マラリアという病気が。
ローマは砂漠からシロッコという風が吹いてその風が吹くとバルテュスの持病のマラリアにかかって寝込んでしまうのでそれでスイスに行くようにしたんです。
69歳になったバルテュスはイタリアを去る事にします。
健康上の理由と残された人生を絵にささげたいという願いがあったからです。
2人は最後のアトリエとなる場所を探しにスイスへ向かいます。
標高1,000mの小さな村ロシニエール。
ここで終の住みかと出会います。
スイス最古の木造建築グラン・シャレ。
かつてディクトル・ユーゴーやゲーテも滞在した事のある古い宿でした。
一目で気に入った2人は親しい画商に頼んで数点の絵を描く約束をしてここを手に入れました。
柔らかな光が注ぐ静かな山の館。
バルテュス亡き今は節子さんが彼の残した作品や思い出と共に暮らしています。
グラン・シャレと通りを隔てて建つアトリエ。
馬小屋だった場所を改装しました。
生前節子さんでさえめったに立ち入る事を許されなかった仕事場。
亡くなった今も節子さんの意向で当時のままにしてあります。
バルテュスはこの静かな空間で死の間際まで筆を執り続けました。
今回展覧会用に特別にバルテュス最後のアトリエをここに再現をしたという事なんですね。
飾られている絵の具も眼鏡もそして椅子までスイスからわざわざ運んで頂いたという事なんですよね。
いいですね。
こういう展示はうれしいですよね。
こうやって作家の息遣いを感じるというか。
中に入ってご覧になります?よろしいですか?じゃあ特別に今回だけ失礼いたします。
失礼します。
どうぞどうぞ。
この絵の具も全て実際に使っていたものですか?そうなんです。
絵の具の匂いまでこのアトリエの中に立ちこめて…。
よく見ると顔料のキャップが外れているものとか…。
もうそのままに…。
そのままなんですか?アトリエに置いてあったのをそのままこちらに移しましたので。
この床もいいですねえ。
バルテュスが実際に使った絵の具が。
道具も…。
あっこれが…。
タバコの吸い殻も。
これ昨日私自身が飛行機で抱えて持って参りました。
ちゃんとこう大切に。
はい。
根元まで吸ってますね。
よく見てますね新さん。
この空間の中でバルテュスはどのように仕事をされていたんでしょう?やはり画家は画布に近づいて絵を描いてそしてその絵がいいかどうかっていうのは必ず離れて見るんですね。
こうしたいという強い思いがある場合は思い込みの気持ちでものを見る事が多くなるので間違いが見つけられにくいと。
鏡が置いてございますけどもその鏡はやはり…絵に映す事によって反対になりますでしょ。
反対に絵を見る事によって構図上の過ちというかバランスの問題の間違いを見つけられやすいという事で鏡をよく使って見てました。
光と少女にこだわり続けた20世紀最後の巨匠バルテュス。
視力や体力が衰え長時間のデッサンに耐えられなくなってからはポラロイドカメラを使うようになります。
顔や足の角度の微妙な違いにこだわって膨大な数のポラロイドを写しました。
被写体になったのは隣の家に住んでいたアンナ・ワーリーです。
(ワーリー)水曜日の午後学校が引けるとほとんど毎週ここに来てモデルをしました。
モデルをしている時はあまり話をしませんでした。
彼が求めるポーズを見つけるためにとても集中していたので「腕をもう少し高く」「足をもう少し下げて」とか。
「少女を天使のように描くのだ」と言っていました。
「何か精神的なもの自然にとても近く神が作った美のようなものだ」と。
アンナ・ワーリーがモデルを務めたバルテュスの遺作。
この未完の作品をアトリエでしみじみと眺めバルテュスは息を引き取りました。
最期の時病院に入院してそしてどうしてもうちに帰るという事になって酸素吸入も点滴もあってうちまで戻ったんですけどもうちに着いてやはり一番行きたかった所はアトリエ。
帰ってからすぐにアトリエに行きたいと申しましたから。
もしかしたらあそこが一番自分が生きている意味のある所だったと思います。
彼が残した言葉。
「私は自分の絵を理解しようとした事は一度もありません。
作品には何か意味がなくてはならないのだろうか。
そう思ったから私はめったに自分の事を話さなかった」。
バルテュス。
生真面目な職人として筆を執り自分の信じる美を追求し続けた画家。
2014/08/17(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「バルテュス 5つのアトリエ」[字][再]

「少女」をテーマに画家バルテュスが描きたかったものは?パリ、ローマ、スイスなど彼が生涯にもった5つのアトリエを切り口に、画家の人生を追体験する。アンコール放送。

詳細情報
番組内容
バルテュス(1908−2001)は、さまざまな芸術運動が勃興した20世紀を生き「最後の巨匠」と呼ばれた孤高の画家。特異なエロティシズムを放つ作品群は、称賛、そして同等の誤解や非難を浴びてきた。「少女」をテーマにしながら、彼が本当に描きたかったものは何か?ヒントになるのが、彼が生涯に持った5つのアトリエ。現地取材の美しい映像でバルテュスの人生を追体験。彼がめざした美の境地を解き明かす。アンコール放送
出演者
【ゲスト】画家バルテュス夫人…節子クロソフスカ・ド・ローラ,【司会】井浦新,伊東敏恵

ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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