えっ8月6日は何の日?8月6日は大体…どうぞ。
どうぞ。
そうそう。
そうだ。
(取材者)何で知ってたんでしょうか?
(取材者)実際広島に原爆が落ちたとかって今想像できます?こんばんは。
こんばんは。
広島長崎への原爆投下から69年。
今お聞き頂きましたように東京でも広島でも被爆の記憶薄れつつあります。
そこでこの番組では改めて被爆された方々の声に耳を傾けて原爆の惨状心の痛みについてお伝えしていきます。
スタジオにはゲストをお迎えしております。
こちらのお二方です。
まず…今の東京広島の反応をご覧になってどんな事をお感じになりましたか?そうですね…ハムの日というのは笑ってしまったんですけれども。
なかなかそういう体験がない方には8月6日っていう日を印象づけるのは難しいのかなという事をVTRを見ながら感じましたね。
そうかもしれませんね。
そしてジャーナリストの津田大介さんです。
津田さんはインターネットを活用して東日本大震災などの記憶の継承に取り組んでいらっしゃいます。
津田さんはどのようにご覧になりましたか?そうですね僕は東京で育ったので広島でやられてるような平和教育がなかったので去年話題になった「はだしのゲン」なんかは子供の頃から学校とかに置いてあってそれを読んで原爆の悲惨さみたいなものは知っていましたから逆に言うと「はだしのゲン」という誰にでも分かるような戦争の悲惨さ原爆の悲惨さを伝えるような存在がなかったらより東京ではどう原爆の悲惨さって伝わっていったのかななんて事を思いましたし。
お二方今日はどうぞよろしくお願いいたします。
毎年8月に被爆した方々から頂いたお手紙を基にお送りしていますこの「ヒバクシャからの手紙」。
今年で8年目を迎えました。
こちらが頂いたお手紙です。
これまでお寄せ頂いたお手紙を合わせますとおよそ2,000通に及びます。
今年も新たに190通のお手紙を頂きました。
どれも便せんにびっしりと丁寧な文字で書いてありますよね。
そして中には今年初めてつらい体験ですとか記憶を書いて下さった方もいらっしゃいます。
本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
では早速お手紙をご紹介していきます。
まずは69年前の8月広島長崎で何が起きたのか。
被爆直後の惨状をつづったお手紙です。
「今年もあの忌まわしい原爆の日がやって来る。
69年前の惨状は今でも昨日の事のように私の脳裏に焼き付いている」。
「『アツカアツカ』とあえぎもだえている人。
岸辺には半狂乱になって走り回っている人人。
恐ろしい光景でした」。
津田さん広島長崎の惨状をつづって下さったお手紙でしたがどのようにお聞きになりましたか?本当に言葉もないという感じでもあるんですが東日本大震災で僕も事故のあとにわりと直後に行ったんですがそれは本当に悲惨な光景でもあったんですが今のこのお手紙で考えるとほんとに原爆投下直後の広島長崎というのはまだ生きてらっしゃる方がたくさんいたんですよね。
そしてその方々が苦しみながら歩いていてそしてうめいているというところその分だけ光景だけではなくて壊れた建物だけではなくて本当に苦しみながら生きてらっしゃる方々がそこにいた。
それを見ている事がどれだけ壮絶な光景だったのかって事がほんとによく伝わってくるというか。
「今日の事昨日の事のように」という表現もありましたしね。
杉野さんは広島市のご出身ですから授業などで被爆体験を聞いた事もあると思うんですが。
そうですねほんとに言葉もないといいますか…。
広島で平和教育をこれでもかというぐらい受けてきたんですけれども語り部さんのお話でしたりとか。
特に印象に残ってるのが原爆資料館に何度も何度も足を運ぶ機会がありまして幼い時にとても衝撃的なものをたくさん目にするわけですよね。
一番印象に残っているものが石段に人影が残っている…。
影が残っている…その…。
どれほどのものだったんだろうという事にとても衝撃を受けて。
幼かったものですから夢の中でその影に追いかけられるという悪夢を見たりしたんですよね。
でも自分は残ってるものでそれだけの衝撃を受けているんですけど実際に体験された方々はその何億も何兆倍も悲惨な体験をされているわけですよね。
本当に想像を絶するというか…。
ほんとに言葉がないですね。
そうですよね。
体験していない我々が目を背けてしまいたくなるようなそういう惨状だったんだろうと思いますけれども。
69年前の広島長崎への原爆投下でその年だけで20万人を超える命が奪われたという事になっています。
今回頂いた多くのお手紙を見ますと突然ご家族を失った深い悲しみがつづられているんですね。
そのうちから2通ご紹介いたします。
まず当時11歳だった男性のお手紙です。
この方は原爆投下の時に疎開していたんですが広島市内にいたご両親を失いました。
読ませて頂きます。
もう1通ご紹介します。
当時5歳だった男性です。
この方は4人のご家族を原爆で失いました。
「暑かったでしょう。
苦しかったでしょう。
悔しかったでしょう」。
ほんとに突然ご家族を失ったという事がつづられているわけですが津田さんはどういうふうにお感じになりましたか?1通目の持田悦次さん11歳ですよね。
11歳で記憶も恐らく鮮明にあるでしょうからこういう形で一晩でお父様お母様を亡くされるというのはほんとにそのあとの人生に大きな影響も与えるだろうなとも思いますし。
杉野さんはおばあさまが被爆されていらっしゃいますがどうでしょうこうした体験というのはお聞きになった事ありますか?実は直接聞いた事がないんですよね。
父親に聞いたんですけれども父親もやはり断片的にしか聞いた事がないという事で全く語りたがらないんですね。
私もそういう事を知ってるものですからなかなか聞きたくても祖母の思いを考えるとなかなか聞けないという状態が続いてるんですが父親が断片的に聞いた話の中では自分が通っていた小学校に遺体が積み上げられて燃やされてるところを見たとか。
後遺症で友人の髪がどんどん抜けるところを目の前で見ているとかそういった事を聞いたみたいですね。
ほんとに多くの命がまさに原子爆弾によって失われた奪われたという事になりますけれども今回寄せられた中で特に印象に残ったのが生き残った事を後悔するようなお手紙なんですね。
手紙を寄せて下さったお二人を訪ねました。
「悲しき姿のままあの世に消えていった人たちよ。
私たちばかり生きてごめんなさい」。
どうして生き残った事を申し訳なく思うのか。
この手紙を送ってくれた女性を山梨県笛吹市に訪ねました。
(取材者)暑いですね。
暑いですね。
7年前に夫を亡くし現在息子夫婦と暮らしています。
69年前白沢さんは広島で被爆。
親しい友人を失いました。
当時21歳でした。
昭和20年8月結婚間もない白沢さんは夫婦で知り合いの家に住んでいました。
軍の命令で建物を壊す作業をしていた白沢さん。
その家に住む同い年の女性と一緒に朝早くから出かける毎日でした。
しかし原爆投下の日白沢さんとその女性は運命を分ける事になりました。
「2〜3日飛行機が来ないなと思っておりましたところちょうど原爆が落ちてきたのです。
ものすごい大きな音と紫の煙が広島の空を覆ったのです」。
(取材者)70年たとうとしてる今でもその気持ちは…。
石川県金沢市。
ここにも後悔の気持ちを手紙につづってくれた人がいます。
(取材者)どうもこんにちは。
こんにちは。
(取材者)よろしくお願いします。
妻と2人で暮らしている…松原さんは原爆投下直後に広島市内に入り被爆しました。
陸軍の兵隊として負傷者を助ける任務に当たっていました。
(取材者)当時何歳ですか?松原さんは自分がとった行動を記録として残そうとしています。
10年前から孫に手伝ってもらい資料を作っています。
しかし一つだけ誰にも言う事ができず胸の内にしまっていた事があります。
松原さんは今回初めてその出来事を手紙の中で打ち明けました。
「原爆投下3日目仰臥する負傷者の額に濡れた手拭いを当てる」。
「この件は69年になるのに本当の事は言えない。
なぜだろう死者への冒涜かそれとも情なのか」。
杉野さんもしかするとおばあさまにもこうした打ち明けられない出来事があったのかもしれませんね。
そうですね…そういった想像ができるのでなかなか聞けないというのはありますよね。
原爆ってほんとに一瞬の出来事じゃないですか。
一瞬の出来事で大変な事が起こってしまってでも被害に遭われた方は生きている間ずっとこういう苦しみを背負わなければいけないわけですよね。
(津田)杉野さんがおばあさまとあまり原爆の話をされた事がないという事だったんですが杉野さんの方から聞きづらい雰囲気というかそういう事もあったんでしょうか?そういうのもあります。
学校の宿題で戦争についておじいさんおばあさんに聞いてきましょうという宿題があったんですがやっぱりその時もなかなか話してもらえなかったというのもありますし父からも話したがらないという話は聞いていたので無理やり聞いていいものなのかどうなのかというところで自問自答を続けているような感じです。
自分が人間なのか鬼なんじゃないかとまでせっかく生き残ったのに思ってしまう。
こういう感情については津田さんどう受け止めておられますか?これ東日本大震災でも大きな問題になっていて生き残られた方が罪の意識を感じるサバイバーズ・ギルトと言われていて。
実際に多くのカウンセラーとかメンタルケアやられてる方がボランティアで入ってずっとケアをしてるんですがVTRでもあったように69年たってもなくならない。
これは本当に最終的には亡くなられた方の分まで自分が生きる事が亡くなった方への供養であるというふうに気持ちを転換できればいいんでしょうけれどもあまりにも悲惨な体験であったがゆえに罪の意識ってなかなか消えないという事でこれは東日本大震災でも原爆でもずっと残り続ける問題ですしこれをどう解きほぐしていくのか。
時間だけが解決する問題ではなくてやはり考え方を変えていくしかないんでしょうね。
生き残った事への罪悪感を抱えているというお手紙他にも頂きました。
広島で被爆した当時19歳だった女性のお手紙読ませて頂きます。
「本当に地獄を見た思い。
無傷でいる自分が恥ずかしく思い一家がそろっている事が肩身が狭くなった」。
やっぱり真面目で優しい方ってよりこう思われる傾向が強いんじゃないですかね。
何重にも何重にもこういう悲劇を生んでしまうんだなという事を痛感する手紙ですね。
だからそもそも戦争がなければ原爆が落ちなければこんな事すらないんだという原点に立ち返っていけばこういうような罪の意識にはならないんでしょうけど目の前で起きた事というのがあまりにも衝撃的すぎて気持ちを切り替える事ができないという部分もあるんでしょうね。
苦しんでいるのは生き残った罪悪感だけではないんですね。
続いては深い心の傷をつづったお手紙をご紹介していきます。
心の傷は今も癒えていないんですね。
僕は2通目の飯田さん…当時3歳なんですよね。
ちょうど物心付く直前ぐらいの多分初めての記憶…一番最初の初めての強烈な記憶がこれでそれで「生きる屍のような生活」とありましたけれども。
でもそれがずっと脳裏に残り続けてずっとPTSDとかトラウマのようになってるんだろうなと。
その事の怖さですよね。
被爆された方健康に影響が出るんじゃないかという不安も抱き続けていらっしゃるわけですが杉野さんはそういう不安を身近で感じた事はありましたか?父は幼い頃体が弱かったみたいでもしかしたらそういう影響があるんじゃないかという恐怖心は若干ありながら生活をしていたみたいですね。
父自身も父の周りに髪の毛が抜け…原爆の影響で髪の毛が抜けてしまう方々は周りにいた事もあったみたいなのでもしかしたら自分にもそういう事が起こるんじゃないかというちょっとした恐怖心みたいなものは常にあったみたいですね。
杉野さんがお父様からその話を伺ったのっておいくつぐらいの時ですか?20代の頃です。
(津田)子供の頃にはその話ってあんまりされなかった…。
聞いた事はなかったですね。
それは杉野さんに余計な不安を与えないように小さな頃にはあえてしゃべらなかったという事があるのかも…。
かもしれないですね。
更に被爆した事に対する周囲からの目に傷ついたというお手紙も頂いています。
ちょっと衝撃的ですよね。
1981年生まれといいますと私とほとんど変わらない年代の方が放射能の差別を受けると。
いまだに放射能に対する偏見があるという事ですよね。
(津田)しかもこれ東京ですよね。
1990年ぐらいの東京でそんな事があるわけですからね。
私は広島で生まれ育って被爆3世の子たちばかりだったですしこういう事で差別を受けるという事は皆無でしたけれどもやっぱり幼い子ってちょっとでも人と違う子がいるとそこを突いて差別をしてしまうという事があるとは思うんですね。
私が思うのは人間…何というか全ての面においてマジョリティーの人間っていないと思ってるんですよ。
何かの側面で人間誰しもマイノリティーの側面って絶対持ってると思うんですよね。
だから簡単な話で相手の立場に立って考えれば差別なんて多分世の中になくなると思う…。
簡単になくなってしまうと思うんですけどいかに想像力が乏しいというかそういう世の中になってるんだなという事が悲しくなりますね。
(津田)この原爆の問題も福島の原発事故の問題も多分そうなんですけど一番やってはいけない事はこういう問題差別につながるからタブーにしましょうと。
話すのやめましょうという。
差別だと寝た子を起こすな論というのもありますけど。
でもタブーにしていくと今度は陰湿化してほんとに口コミというかねその中で広まっていって差別意識だけは根絶されないんですよね。
だからそのタブーにして話さないようにするんではなくてきちんと多くの形…こういう議論もあるしこういう差別意識がある。
でもそれはこういう形で解消していかなきゃいけないんだという事を教育のレベルでもやらなきゃいけないでしょうしもっと多くの広い場所で議論していく必要があると思うんですよね。
「ヒバクシャからの手紙」ここからは被爆体験を次の世代にどう受け継いでいくのか考えていきたいと思います。
続いてご紹介するのは被爆体験を語れる方が少なくなる中で今どうしても伝えたいという強い思いから今回初めてお手紙を書いて下さった方のものです。
「最後のチャンス」という言葉が強く印象に残りましたがこうして文章で体験を書き残すという事については津田さんはどういう意味があると思われますか?そうですね文章というのはひたすら自分と自分の奥底にあるものと向き合って書くという作業ですからしかも何度も何度も推敲して重ねて書く事ができる分だけ自分の本音を書けるところもあると思うんですよね。
文章だから書けるところもあるでしょうし当然この匿名の方も何でこれまで書けなかったのかというとあまりにも悲惨な悲しい体験だったからこそそれを自分の心の奥底の中に閉じ込める事によって忘れる事で自分の心を守るという防御反応だったわけですよね。
そういうものがずっと残り続けている事によってそれがトラウマになっていたり気分がすぐれなかったりみたいなところにつながっていたという中でそれを解消するのは一旦こういう何かの形で本音というものを出す書く…。
初めて書くという事はこの方にとっても記憶を継承していくという意味においてもほんとに意味が大きかった重要な事だったんだなと思いますね。
お手紙を見ていても何度も書き直している方もいたのでそれだけ思いを込めながら書いてるんだなと感じますよね。
書く事自体もものすごく勇気が要る事だと思うんですよ。
勇気を持って書いて下さって本当にありがとうございますという言葉しか出てこないというか…。
一人でも多くのこういう体験記ですとか文献が残されるという事は意味のある事だと思いますのでまだ書けない方もいらっしゃるとは思うので無理やり書いて下さいとは言えないんですけどもしこういう番組を通して書いて頂けるきっかけになれば私たちや私たちの下の世代にとってもとても意味のある事だと思います。
そういうふうに必死に書き残して下さったものを受け継いでいく我々としては非常に責任が重たいんですが被爆体験を後世に伝えていく方法というのは何も文章に書いて残していくだけではありません。
今広島市では新しい取り組みが始まっているんです。
広島市で暮らす…保田さんは2年前から研修を受け被爆者に代わって体験を語る語り部を目指しています。
これは広島で始まった取り組みです。
参加しているのは20〜70代までおよそ200人。
被爆した人たちから話を聞きその体験を学びます。
とにかく家に帰る事ができたらあの日の事を少しでも皆さんに知ってもらわなければ本当に無残な死に方をしていく…。
研修期間は3年。
中には東京や大阪から通ってくる人たちもいます。
現在会社員として働いている保田さん。
仕事の合間を縫って研修に参加しています。
語り部になりたいと思ったのは学生時代に出会ったお年寄りの話がきっかけです。
大学生の時の保田さんです。
被爆した人やその遺族を支援するボランティア活動を行っていました。
灯籠流しのメッセージをお年寄りから集めていた時の事です。
あるお年寄りが話してくれた壮絶な体験を保田さんは忘れる事ができませんでした。
保田さんが受け継ごうとしているのは新井俊一郎さんの体験です。
新井さんは当時13歳。
爆心地から離れた所にいたため命は助かりました。
しかし直後に広島市内に入り被爆しました。
多くの友人を失いその無念さを語ってきた新井さん。
この日は保田さんたちに語り部としての心構えを伝えました。
研修3年目。
保田さんは新井さんの被爆体験を原稿にまとめています。
しかし新井さんの思いを本当に理解できているのかある言葉を巡って思い悩むようになりました。
偶然ではなく紙一重の運命の差。
新井さんがこの言葉に込めたのは生き残った事の重みでした。
少しでも新井さんの思いに近づくため保田さんは何度も話を聞いては原稿に手を入れています。
更に被爆体験のない世代が原爆の怖さや悲惨さをどう伝えたらいいのかここにも高いハードルがあります。
この日保田さんは平和学習にやって来た山口県の中学生に話をする事になりました。
(保田)私が今被爆体験を聞かせてもらっている新井俊一郎さんという男の人がいるんですけど当時新井さんは中学1年生でした。
新井さんは自分たちの同級生は亡くなってしまったけれど自分は助かってしまったという負い目をずっと抱えていたんです。
その小学校の頃の同級生の親族に新井さんは言われます。
「何でうちの子だけが亡くなってあなたは助かったのか」。
すごくつらかったと思います。
保田さんは新井さんの被爆体験を話すだけでなく語り部になろうと思った自分の気持ちを中学生に伝える事にしました。
70年前の出来事を思い出して忘れられない事を思い出して話をする事は本当はすごくつらいんです。
それを私は多くの被爆者から話を聞いて知りました。
だったら私に何かできる事はないかって思ったんですよ。
70年たった今も証言者の方たちを苦しませて話をするよりも私がだったら戦争の話をしますと。
皆さんに平和を大切にしてほしいという事を伝えますと。
私はそう思って語り部になる事を決めました。
(学生1)礼!
(学生2)ありがとうございました。
(学生たち)ありがとうございました!保田さんの話を聞いた中学生たち。
受け止め方はさまざまでした。
(杉野)どうやったらより…なんて言うんですかねもっともっと…じかに…う〜ん難しいですね。
伝えていけるのか伝え方にもテクニックが必要だと思うのでそれは演じる側もそうですし映画を作るっていう事もある種テクニックが必要でそういう技術だったりテクニックというのを私も考えていかなければいけないしみんなで考えていかなければいけないなと思いました。
(津田)話を聞く側修学旅行の中学生とかがどう捉えるのかという視点も大事かなと思っていて。
体験をしてない側そういう悲惨な記憶を受け継いでいこうとしている若い人がいるっていう事はすごく重要な事なんですがただどこまで話を聞いてもどこまで勉強しても本人になる事はできないわけですよね。
本人としての体験を語る事はできないという中でそうするとまた聞く側の方も「この人は別に実際に体験してる人じゃないんだよな」という頭で聞いていくという事を差し引いて考えなければいけない。
だから必要以上にこの人に成りきろうって思う被爆者の方に成りきって自分が同じような語り部になろうというのは多分表現方法としては僕は正しくはないかなと思っていて。
今回受け継ぐべき若い世代の方からこんな意見も届いているんです。
ここでご紹介いたします。
更にですね…どう見ますかね?やはり文字じゃないと伝えられない事もあるそしてビデオでないと伝えられない事もあるという時に多分これから語り部さんのやり方でありえるのは体験者になりえないわけですよね。
だけれども例えば今だったらタブレット端末とかありますからビデオを手元でみんなに見せてそれはだから5分とか10分とかを見せるというのは少し冗長になってしまいますがすごく印象的な部分というのを30秒とか1分話として差し込んでそれに対して伝承者の方が補足説明を加えていくみたいなやり方もできるでしょうし。
例えば映画のテクニックだったりとかもしくはプレゼンテーションのテクニックだったり他のいろいろな表現形態のジャンルの人たちがじゃあこの記憶を継承するには最大に効果的になるにはどうすればいいのかという事をさまざまな分野の人が協力しながらまさにテクニックを使ってやっていくっていう事が僕はこの記憶を継承していくという意味では一番重要なポイントじゃないかなと思ってます。
すばらしいアイデアを津田さんがおっしゃって下さったと思います。
私も映画を作っていて何で自分が演技をしているのか映画を作っていくのかという事を考えた時に何十年も何百年も残るから何かを伝えたいという気持ちがあるから映画を残したいという気持ちもありますしだから映画を作っていて。
それに加えて本物の人間の方がガイドをして下されば実際に聞いている方と対話も生まれてきますよね。
だから次世代に残していきつつも対話をする場を生み出すというほんとにすばらしい…。
いろんな伝え方を模索していく必要があると思うんですが一方で被爆された方々の思いをどう我々世代が受け継いでいくかというところにも大きなハードルがあると思います。
今VTRをご覧頂いた中で「温度差」という言葉が象徴的だったと思うんですが温度差についてはどう受け止められましたか?僕は平和記念資料館に最初に行ったのが高校の修学旅行だったんですね。
高校の修学旅行で見てもちろんその時は衝撃だったんですが子供の頃に読んだ「はだしのゲン」の世界っていうのがこんな実物としてあったという意味の衝撃ではあったんですが。
東日本大震災を経てこういう悲惨な記憶を東北は残していかなきゃいけないのかという事は自分の中の問題意識もある中でまた大人になって去年広島の資料館に行ったら全く同じ展示を見ているのに自分の中で思っている事が全然違うんですよね。
だから気付くきっかけって結構いろいろあると思うんですよね。
多分僕温度差というのはあって当然だと思うんですがでもそれは絶対的なものではなくて何かのきっかけがあれば変わるものだと思うんですよね。
だからメディアでこういう事を伝えるのを増やす事も重要だろうし変われるきっかけ気付くきっかけというのをとにかくどんどん世の中にちりばめていくという事が何よりも重要だなと思いますね。
被爆体験を受け継ぐという事について被爆された方々からもさまざまなご意見を頂いているんです。
いくつかご紹介します。
まず長崎で被爆した70代の男性からのお手紙です。
一方でこういった意見もあります。
広島で被爆した70代の男性の方です。
それぞれの受け止め方があるわけですけれども杉野さんどうお聞きになりましたか?そうですね…私の父も被爆2世で核がなくなればいいと思っていますしそういう父の思いだったりを幼い時から聞いていてそういうのを私が今度は他の人に伝えてほしいという気持ちも父が持っているという事も幼い時から分かっているのが私の映画人生の原体験というか私も伝える仕事がしたいと思ったきっかけにもなっているので被爆3世としてどういう事ができるのかなという事を考えなきゃいけないなと。
津田さんはいかがでしたか?被爆体験みたいなものをどう受け継いでいくのかなかなかこれ正解がない話でもあるとは思うんですがただ間違いなく一つ言える事は実際の被爆体験者の方が自分の体験として被爆を語るという事はあと10年とか20年で語り部の方が亡くなられてしまうとそれ自身は根絶してしまう話ではあると思うんですよね。
だから今一番重要なのはとにかく今生き残られている語り部の方の情報をこういう手紙の形だったりビデオの形だったり他の形もあると思うんですがとにかく今たくさん集めておく事ですね。
たくさん集めていく事でそれをどう組み合わせて語り部の方がどう生かしていくのかというその材料になりますから。
ここまで被爆した方から頂いたさまざまな手紙をご紹介してきましたけれども全体を通してここでお二人に感想を頂ければと思うんですがまずは津田さんから。
僕は若者世代にしか伝えられない事があるとするとやっぱり未来だと思うんですよね。
確かに若い世代っていうのは被爆の体験はないけれども若者には未来があるわけですよね。
逆に言うと未来をつくっていかなければいけない立場になった時に明るい未来この原爆が落ちた広島長崎のようなこういう悲惨な事を起こさせないためには戦争を起こさせない平和な日本をつくるという。
つくっていくのがこれからの若者ですからそういう意識を持った人たちでしか伝えられないやり方ってあると思うんですよね。
今日本って少子高齢化もあってそれで国境紛争も含めて国際紛争だったり国防的にも微妙な状況になっている時ってもちろん社会の事…社会がこうやって右肩下がりになっている日本においてだからこそじゃあ日本の課題を解決してどうやっていけばいいのかという事を考えている若者は間違いなく増えているので僕はそういう若者の意識とこういう悲惨な記憶をどう継承していくのかという事をきちんと結びつける事によって絶対これから戦争を起こさないために若者は何ができるのかという。
それで若者に共感を広げていくという新しい原爆体験の伝承のしかたというのが若い世代でしかつくりえないものがあるんだと思ってます。
戦争反対とか平和が大事っていうのはみんな知ってる事でなぜじゃあ戦争が悪いのかなぜ核が駄目なのかという事を根本から知るきっかけみたいなものが必要だと思うんですよね。
そのきっかけづくりっていうのがなかなか難しい問題で自分自身に何ができるのかなという事を考えた時に映画を通して見た事をきっかけに例えば戦争について原爆について興味を持つっていう一つのツールになるものが映画だったり映像だったりテレビだったりすると思いますのでほんとにこの番組があるという事自体がとってもすばらしい事だと思いますし。
(津田)杉野さんの今おっしゃった事はすごく大事で「戦争反対」ってただ言うんじゃなくてそれよりもここにある手紙というものをバッと見せて読ませるという事の説得力の方があるでしょうから。
だから改めて戦争が嫌だったら戦争の悲惨さをどう伝えていくのかという事をまた改めて考え直す時期にきてるのかなと思いましたね。
やはり被爆の記憶を受け継いでいくために私たちも一人一人がひと事にならずにこうした手紙に改めてしっかりと目を向けていく事が大切なのかなという事をこの番組を通して感じましたね。
今回頂いたたくさんのお手紙は今後番組のホームページでご紹介していく予定です。
この手紙を通してその向こうにどういう事があったのかを考えてみるいい機会になるかもしれないですね。
「ヒバクシャからの手紙」今日は津田さんそして杉野さんと共にお送りいたしました。
どうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
2014/08/17(日) 00:05〜01:20
NHK総合1・神戸
ヒバクシャからの手紙[字]
被爆者の手紙はこの8年でおよそ2千通。今年新たに190通が寄せられた。69年前の体験をどう受け継ぐか?ジャーナリストの津田大介さんや女優の杉野希妃さんと考える。
詳細情報
番組内容
69年前、広島・長崎で被爆した方の手紙を朗読する「ヒバクシャからの手紙」。今年で8年目を迎え、寄せられた手紙は2千通に上る。今年新たに届いたのは190通。当時の惨状だけでなく、生き残ったことへの罪悪感、今なお抱える心の傷が切々とつづられている。被爆した方たちの「今こそ伝えたい思い」に耳を傾けるとともに、次の世代がどう受け継いでいくか、ジャーナリストの津田大介さんや女優の杉野希妃さんと考える。
出演者
【出演】津田大介,杉野希妃,【司会】大木浩司,桑子真帆
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:4166(0x1046)