ETV特集「“戦闘配置”されず〜肢体不自由児たちの学童疎開〜」 2014.08.16

今年6月。
2人の男性が69年ぶりの再会を果たしました。
この辺の川の感じはね〜変わってないように思うんです。
再会した場所は千曲川が流れる長野県の山あいの町です。
戦時中2人は東京からここに集団疎開をしていました。
まあまあいらっしゃいませ。
どうもどうもその節は大変…。
ありがとうございました。
そう。
それこそようこそ。
80年もたつと変わっちゃいますね。
こんなに立派になっちゃって。
当時の状況を記録したフィルムが見つかりました。
太平洋戦争末期から戦後にかけて2人を含むおよそ50人の子供たちがここで疎開生活を送りました。
食料不足に苦しみ川のほとりで野草を摘んでしのいだ日々。
子供たちは手や足が不自由な肢体不自由児の学校の児童でした。
東京にあるその学校には昭和初期に開校した当時からの古い資料も大量に保存されています。
戦時中疎開を巡って学校が揺れた状況を校長が手記で述べていました。
「疎開先は自分で見つけるしかない。
肢体不自由児学校は厄介者かお荷物か」。
卒業生たちの間にも戦時中の記憶はつらい思い出として残っています。
戦争末期に国が行った学童疎開。
アメリカ軍による空襲の危機が本土に迫る中大都市の子供たちは安全な地方の農村地帯に移されました。
それは子供たちを次世代の戦力として温存する「学童の戦闘配置」とされました。
しかし肢体不自由児たちはその学童疎開から取り残されました。
その事は肢体不自由児の学校に残されているフィルムが物語っています。
空襲が始まっても子供たちはやむなく避難生活を都内の校舎で送っていたのです。
肢体不自由児たちはなぜ学童疎開から取り残されたのか。
当時の校長の手記と記録フィルムそして卒業生たちの証言から肢体不自由児たちの戦争を見つめます。
東京世田谷にある…日本で初めての肢体不自由児の学校として昭和7年に開校しました。
肢体不自由児とは主に脳性マヒや筋ジストロフィーなどによって手や足などに障害がある子供です。
現在光明学校では小学生から高校生までおよそ150人が学んでいます。
2年前の創立80年を機に学校に残されていた資料や写真の検証が進められています。
在職中に偶然開校当時からの古い資料を見つけました。
松本さんが見つけたのは今から70年近く前の光明学校の疎開生活を記録した資料でした。
更に学校の倉庫からは2巻の16ミリフィルムも出てきました。
昭和の初期から昭和30年代までの学校生活の様子を収めたものです。
そこには太平洋戦争末期に東京世田谷の校舎で子供たちが集団生活した様子も映されていました。
校舎で避難生活をしたので教員たちはそれを現地疎開と呼びました。
昭和19年の秋までに東京の子供たちのほとんどが地方へ疎開していきました。
そうした中で光明学校の子供たちはなぜ都内にとどまっていたのでしょうか。
開戦から2年がたち太平洋戦争は日本の敗色が濃くなっていました。
日本政府はアメリカ軍による本土への空襲が迫っていると考えました。
そして昭和19年1月大都市の工場や家屋の疎開を決定します。
空襲に備えて一部の木造住宅密集地の建物を壊したり工場の移転を行いました。
更に6月閣議決定で大都市の児童たちを学校ごとに地方へ集団疎開させる事を決めます。
その実施要領により東京都など対象の各都府県が疎開の手はずを整える事になりました。
宿泊施設移動手段引率教職員の体制疎開先での教育内容を整えそして経費の一部も国が工面したのです。
ところが国が推し進めるこの学童疎開の対象から外される子供たちがいました。
実施細目には「虚弱児童等は集団疎開に適さない」とあります。
そして具体的にその例を列挙しました。
その中に「肢体不自由」という項目も挙げられたのです。
国は疎開の目的をこう述べていました。
国の方針に基づいて東京都長官は都の国民学校校長会議で明言しました。
「帝都の学童疎開は将来の国防力の培養でありまして学童の戦闘配置を示すものであります」。
立教大学教授前田一男さんは学童疎開において障害のある子供は差別されたと指摘します。
国家総力戦の中で…疎開先を探すのに苦労をし受け入れ先の交渉が難航しという事で一般の学童疎開よりもかなり遅れます。
光明学校のあった世田谷区では国民学校33校の全てが長野県や新潟県に疎開が決まりました。
唯一光明学校だけが取り残されていました。
当時の光明学校校長松本保平さんは強い危機感を抱きました。
なんとか光明学校も集団疎開に入れてもらおうと東京都に直接掛け合います。
その時の様子を松本校長は手記に残しています。
「都の学務課に相談しても全くのお手上げ。
一般学校の疎開事務に忙殺されて光明までは手が廻りかねるという」。
松本校長は何度も掛け合います。
しかし答えは同じでした。
「同じ学校でありながら肢体不自由児学校は都の厄介者かお荷物か」。
松本校長は柔道4段の熱血漢。
子供たちから「やすべぇ」と呼ばれていました。
光明学校に通っていた…気が弱かった自分を松本校長はよく励ましてくれたと言います。
みんなが取り合いみたいにお父さんのように慕ってましたので。
「もう大きな子なんだからしっかりしなさい」とよく言われました。
もっと小さい子がいっぱいいましたので。
松本校長には肢体不自由児の教育についてある信念がありました。
光明学校が集団疎開から取り残される中松本校長は思いもよらない代替策に踏み切ります。
昭和19年7月の事でした。
当時はまだ農地が広がっていた世田谷の校舎で子供たちと合宿生活をする事にしたのです。
都心から通う子供たちが多かったためここに避難させる方が安全だと考えての事でした。
当時光明学校に通っていた子供たち111人のうち半数を超える59人が親元を離れて学校に寝泊まりする事になりました。
校庭にはこうした防空壕を4つつくり子供たちと教職員およそ150人が避難できるようにしました。
前例のない学校での集団避難生活。
ここから更に疎開を巡る光明学校の困難が続いていきます。
その道のりを松本校長の手記と漫画家森田拳次さんのイラストを通して見つめていきます。
森田さんは自らの少年時代の体験をもとに戦争をテーマにした漫画を描き続けています。
今回番組への協力依頼に応じてくれました。
合宿生活が始まってまもなくの事でした。
隣の区にある国民学校の教員たちがうわさを聞きつけて見学にやって来ました。
「忘れもしない。
壕ができて数日後先生方が二十数名見学にきた。
校内を一巡しながら児童の生活等を説明し終わって玄関で帰りを見送った時代表らしい1人が『質問があります』と切口上で問いかけた。
『お見かけしたところ先生は五体満足に揃って立派な身体をしておられる。
それなのに先生はこの子供らの相手をして毎日腹一ぱい食べて日光浴を楽しんでいる』」。
「『我々の同朋は極寒の満州で寒さをこらえ飢えに耐えて戦っているのです。
先生はこの勇士に対して…』」。
その言葉に一緒に見学に来ていた教職員たちが一斉に声を上げます。
「『その通り!』『そうだそうだ!』。
『すぐにこの子供らを親元へ返しこの立派な施設を…』」。
この時の様子を後に松本校長から聞いていた卒業生がいます。
ポリオのため足や腕を思うように動かす事のできない…これで出来ました。
6年生の時世田谷の校舎で合宿生活をしていました。
教育関係者が見学に来てこんな子供たち…それがすごく悔しかったって言ってましたね。
校長先生にしてみれば…戦時中の合宿生活を周りから厳しく見られた光明学校。
もともとは日本初の画期的な肢体不自由児の学校として開校していました。
昭和の初め肢体不自由児の学校は日本にはまだありませんでした。
小児マヒのため半身がマヒして言語障害が生じた…松田さんは学校に行かせてもらえませんでした。
だけど…。
明治19年の小学校令で政府は初等教育を義務化しました。
しかし学校側に障害のある子供たちを受け入れる環境は十分に整っていませんでした。
ほとんどの場合親は就学免除を申請してそれを行政側が認可するという形がとられました。
肢体不自由児など障害のある子供が教育を受ける権利は保証されていなかったのです。
東京港区の特別養護老人ホームで暮らす…作家活動をしながら障害者の生活史を研究しています。
生まれた時から脳性マヒのため手足が動かず言語障害があります。
花田さんが6歳の時両親は就学免除を役所に申請しました。
その時の悔しさを著書に記しています。
「親としても子どもとしても入学を望んでいないわけではないのにそんなものを書かなければならない。
その時私はクレヨンで絵を描いていた。
学校へ行きたいという思いは激しく募っていた。
描いている筈の絵が涙でボーッと霞んでくる。
握りしめた手に余計な力がはいってくる」。
肢体不自由児の教育史を研究する…肢体不自由児は社会から実質的に隔離された状態にあったといいます。
しかし大正時代になると自由主義的な風潮が広がりそれまで教育を受けられなかった子供たちへの関心が高まります。
昭和7年。
日本初の肢体不自由児のための学校東京市立光明学校が開校しました。
入学者数34人からの出発でした。
光明学校の開校は花田さんにとって待望の知らせでした。
昭和9年花田さんは9歳で光明学校に入学します。
開校当時の光明学校です。
スロープが作られるなど子供たちが活動しやすいように設計されました。
普通学校と同じように学科の授業が行われました。
手に職をつけるため男子も裁縫を習います。
当時としては非常に珍しい事でした。
学校には看護師が配置され治療も行われました。
教育と治療という2本柱を備えた画期的な施設でした。
しかし時を同じくして日本は戦争の時代を迎えていました。
昭和12年の盧溝橋事件をきっかけに日本と中国は全面戦争に入りました。
日本国内では国家総動員法が制定され国を挙げて戦争協力へ歩み始めます。
盲学校・ろう学校の生徒たちの戦争動員も始まりました。
戦時体制への突入は光明学校にも影を落とし始めます。
戦況が悪化し学校で集団生活を始めていた光明学校の子供たちもある訓練に懸命に取り組むようになります。
軍事教練です。
当時光明学校に通っていた…今では完治していますが子供の頃はカリエスで足が不自由でした。
それでも5年生の時軍事教練に参加していました。
この辺はそうですよ私たちと同じ世代というか。
そういう教育の中にいましたからね。
肢体不自由でも戦争で役立ちたいという思いを軍事教練に込めた子供たち。
一方軍事教練に疑問を抱く子もいました。
昭和19年7月。
日本の絶対国防圏だったサイパン島が陥落。
日本本土へのアメリカ軍の攻撃は時間の問題となりました。
(アメリカ兵)日本の皆さん皆さんに申し上げます。
広島市に住む森川浩さん。
光明学校の卒業生です。
ポリオによる両足のマヒがあります。
ここに座ってるのが僕です。
森川さんは世田谷の校舎で集団生活をしていました。
都心へ向かうアメリカの戦闘機が光明学校の上空を飛んでいくのを見ました。
子供たちは世田谷の校庭から燃える町を見ていました。
東京大空襲を見て危険を感じた松本校長は決意します。
「ここも安全の地ではない。
これ以上留まるのは危険である」。
「今は太古ではないはずだ。
疎開先は自分で見つけるしかないだろう。
しかし光明の児童を引きうけてくれる県があるだろうか」。
もはや一刻の猶予もならないと松本校長は一人で疎開地を探しに出かけます。
真っ先に向かったのは東京からの疎開を多く受け入れていた長野県でした。
もしかしたら空きがあるかもしれないと紹介されたのは長野県の温泉地…しかし訪ねた上山田村の役場では村長が会ってくれません。
「疎開の話なら一切面会しない」とにべもなく追い返されたのです。
ここで諦めたら光明の子供たちはもう生きておられない。
松本校長はなお粘りました。
しかし村長はもはや受け入れる余裕はないと言い会おうとしてくれません。
そこで松本校長は村中の旅館やホテルに直接お願いに回りました。
当時地元の宿で働いていた角田もとさん。
松本校長の熱心さを人づてに聞いていました。
松本校長はお願い回りの僅かな休憩の時もお呼びがかかったらすぐに出かけられるよう巻脚絆を付けたまま寝ていました。
その姿を見かねたのが温泉組合の役員たちでした。
彼らが「校長に会ってあげてはどうか」と村長をとりなしました。
村長はようやく重い腰を上げます。
ついに面会が実現しました。
松本校長は村長に光明の子供たちを受け入れてもらいたいと懇願します。
結局村長は松本校長の一途さにほだされてその頼みを聞き入れる事にしました。
こうして光明学校の子供たちの疎開に村長が経営する宿を貸してもらえる事になりました。
疎開地は決まりました。
次は上山田までの移動の手段です。
普通学校の疎開では東京都が疎開先と列車の手配をしました。
しかし光明学校は自力で確保しなければなりません。
松本校長が鉄道局に交渉に通い続ける事3日。
何とか客車一両を貸し切ってもらえる事になりました。
更にもう一つ課題がありました。
子供たちの学校生活に欠かせない治療器具の輸送です。
大きな器具の数々。
その輸送問題が伴うのは普通学校の疎開とは大きな違いでした。
松本校長は学校近くの陸軍の部隊長に直訴しました。
「本土決戦になった場合肢体不自由児は足手まといになります。
この児童がいなければそれだけ戦力は増強します。
ぜひ引越に手を貸してください」。
校長は軍の協力を引き出すためあえて「肢体不自由児は足手まといになる」という表現を使ったのです。
松本昌介さんはこの時の事を後に校長から聞いた事があります。
松本校長の機転が功を奏します。
部隊長はトラック10台で治療器具を運搬してくれる事になりました。
昭和20年5月15日午前10時。
光明の子供たち50人と教職員付き添いの親などを乗せた列車が上野駅を出発しました。
この時まで既に全国では60万人を超える子供たちが疎開を遂げていました。
光明学校の疎開は最も遅い学童疎開となりました。
列車の中では途中軽井沢から乗り込んできた大勢の大人たちが光明の貸し切り車両に押し寄せて声を荒げて言いました。
「『俺たちは昨日から並んでいるんだぞ。
まだ席が空いている。
それにおかしなのばかりじゃないか』」。
乗り込んできた大人たちに松本校長は立ちはだかりました。
「何としても乗せるわけにはいかない。
大勢乗れば子どもが潰される。
必死でおさえた」。
上野を出発して7時間。
一行は上山田村近くの戸倉駅に到着しました。
そして受け入れ先の宿に全員無事たどりつく事ができました。
その僅か10日後の事でした。
東京の世田谷が空襲に見舞われます。
光明学校の校舎は焼け落ちてしまいました。
10日遅れれば命がなかったかもしれない。
母校の校舎を失った悲しみと生きているという安堵の気持ちがみんなに交錯しました。
空襲の3日後松本校長は世田谷に駆けつけました。
燃えた校舎の跡にぼう然とたたずんだといいます。
後にこう述べています。
上山田で集団疎開生活を送った秋山さんと小林さんです。
この6月2人は69年ぶりの再会を果たし一緒に上山田を訪ねました。
あの辺だったんじゃない?もうちょっと道幅は広かったと思う。
(秋山)そうですね。
広かったような気が。
でもこれはきっと昔の道幅だと思いますよ。
疎開時代に撮った写真。
2人は大の仲良しでした。
3年前秋山さんの光明学校時代の思い出が新聞記事になった事をきっかけに今回の再会に至りました。
あれも確か軍人の療養所。
そうそう。
療養所になってました。
ここに木造のあれがあって。
木造の3階だったのがここで我々は2階だからこの角部屋と向こうを使ってた。
いらっしゃいませ。
どうもどうもその節は大変…。
ありがとうございました。
わざわざおいで頂いて。
上山田の人々は当時の記録を大切に残してくれていました。
上山田温泉の学童疎開という事でここに載ってるわけです。
上山田温泉へ学童疎開19年から24年という事でね。
一番左にいるの私だ。
(小林)そうだね体つきがね。
(秋山)ちょっと左へ曲がってるでしょ。
飾られていた写真に自分の姿を見つけました。
(小林)これは小林君ですよ真ん中。
(秋山)そうだそうだ。
これが私。
真ん中の白い帽子かぶってるのが。
力石村の農家に買い出しに行った時でしょう。
リヤカー引いて。
私の隣のその農家の奥さんがりんごくれたんですよみんなに。
あのりんごのおいしかった事。
戦後この宿は改築されましたが疎開当時の間取り図が残っていました。
御飯をよそう時にここの上の薄い緑の2部屋でこういうテーブルを並べて御飯を食べるんですよね。
下の厨房から御飯を持ってきてそれをおわんに…。
ちゃんとはかりがありましてねはかってみんな見てるわけこうやってね。
子供たちはこの大部屋で毎日勉強をし食事をとり寝泊まりしました。
そして温泉を利用した治療も受けていました。
しかしこうした疎開生活も実はかつかつの苦しいものでした。
滞在費だけは国から補助金を支給されたものの十分ではありません。
保護者や卒業生たちからの寄付をやりくりして宿代と最低限の食費を賄っていました。
だって丼の中に1/3ぐらいしか御飯がないんですよ。
御飯の…豆が入ってるんですよね。
豆を一粒一粒拾ってるとお米が一番下に残るんですよ。
残ったお米というのは茶さじ1杯です。
茶さじ1杯の御飯と豆が入って丼の1/3なんですよね。
という事は胃がちっちゃくなるわけですよ。
食糧難が常に付きまとい村を流れる千曲川のほとりで食べられる野草を摘み取りました。
それでも教職員たちは手厚い指導と看護で子供たちを支えました。
歩行訓練で子供が疲れたら背負って帰り夜中に子供が「おうちに帰りたい」と泣けば一緒に泣きながら抱いて眠る…。
戦争のさなか必死に小さな平穏を保とうとしていました。
(アナウンサー)「自らの罪の許しを乞う都民の列は後を絶たず」。
太平洋戦争が終わりました。
疎開していた普通学校の子供たちは次々と親の元に戻っていきます。
ほとんどの疎開児童は終戦翌年の3月までに親元に帰りました。
しかし松本校長たち教職員は子供たちと東京に戻る事に不安を拭えませんでした。
校舎が焼け再建のめどは立っていませんでした。
そのまま廃校になるかもしれなかったのです。
松本校長たちは議論を重ね結局上山田で光明学校の運営を続けていく事にしました。
その結果50人の子供たちのほとんどがここに残る事になりました。
しかし疎開が終了した事で国の補助金は打ち切られます。
教職員たちは農家を回り村の人たちから食糧を提供してもらいました。
大部屋を借りている宿にも窮状を訴えます。
経営者の村長は部屋代の徴収を待ってくれました。
一方松本校長は上京して文部省に掛け合います。
光明学校の世田谷の校舎が失われたままである事を訴え上山田での暫定的な運営に理解を求めたのです。
2か月後再び補助金を出してもらえる事になりました。
戦後の疎開生活は上山田で教職員と子供たちが発行した「學寮通信」に記されています。
この通信は上山田から親元や全国にいる卒業生に配布されました。
新学期の様子。
クリスマスや正月の催し。
卒業式もここで行われました。
学校を潰してはならない。
世田谷での校舎再建を待ちながら上山田でふんばり続けたのです。
戦争が終わって4年がたった昭和24年5月。
光明の子供たちが東京に戻る日がやってきました。
新校舎がようやく完成したのです。
松本校長と子供たちの戦争が終わりました。
上山田で疎開生活を送った秋山さんと小林さんです。
みんなで野草を摘み取った千曲川のほとり。
2人にとって最も思い出の深い場所です。
そこの中州の桑畑で桑を食べた記憶があるんですね。
あれはね向こう側ですよ。
向こう側。

(秋山)上山田行ったっていうのは確かにあれですよね親から引き離されて苦しいおなかすいた家に帰りたいホームシックって事ありましたけどねでもあれのおかげで自立する力といろんな人に立ち向かっていく力は出ましたよね。
終戦翌年の昭和21年。
新憲法が公布され戦後の教育改革が進みます。
昭和22年中学までの教育を義務化する新しい制度が始まりました。
しかし肢体不自由児の義務教育化は実施されないままでした。
松本校長は再出発した光明学校で肢体不自由児の教育の充実を訴えていきました。
昭和29年全国の教育研究者の大会に出席。
ここで持論を述べました。
「肢体不自由児も教育を受ける事で有能な社会人となる」。
更に「各県に少なくとも一校の肢体不自由児の学校全国300の特別学級を早急に設置してほしい」と訴えました。
現在小学校・中学校におられる手足の不自由な方が12万名おるわけですがそのうち1万1,000名が進学猶予とか免除という名前で学校教育から外されているわけなんです。
ですからこれはもし普通のお子さんだったらですね学校へ上げなかったら親御さんが罰せられるわけなのに手足が不自由なばっかりに教育から外されてるというのはちょっと矛盾してると思うんです。
その矛盾といえばですね今まで人間がお互い殺し合う「戦争」っていう名前でですね大きな努力は各国家ともやってきたと思うんです。
ところがお互いに生かし合うためこれに比べたら努力はほとんどなされてないんじゃないかというような気もします。
仮にジェット機一つあったならそれがそれだけの費用で学校が養護学校が10も15も出来るというのが我々常に言いたい事なんでございますがね。
松本校長の訴えは続き昭和31年に公立の養護学校の設置を促進する法律が制定されます。
肢体不自由児の学校は全国各地に造られていきました。
全ての肢体不自由児に学校教育を受ける権利が保障されたのは昭和54年。
ここに肢体不自由児の義務教育が実現したのです。
既に退職していた松本校長はこの時病に倒れていました。
その直前まで肢体不自由の子供たちのために国会へ足を運んでいたといいます。
学童疎開が行われて今年で70年になります。
光明学校の卒業生が上山田での疎開生活の思い出を絵本にして発表しました。
「当時日本にはただ一校だった障害児のための学校東京都立光明国民学校の子供たちの一団もいました」。
だんだん戦争の事が忘れられてくる時に子供にも読んでもらいたいし戦争を知らない世代に読んで頂きたいと思います。
今では皆義務教育を受けている肢体不自由の子供たち。
戦争中の学童疎開から取り残された人たちの苦難とそれを支えた人たちの道のりが今に通じています。
あ〜ちょっと難しかったね。
もう一回戻すよ。
3分の…2。
(教員)2/3だと思う?
(モニター・真方ジン)「逆之上ギャモンはオルペウスの腕輪を求め2014/08/16(土) 00:00〜01:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「“戦闘配置”されず〜肢体不自由児たちの学童疎開〜」[字][再]

太平洋戦争末期、約60万人の児童が都市から地方に集団で疎開した。しかし肢体不自由児はその対象から外される。それは一体なぜなのか。教師はどう子供たちを守ったのか。

詳細情報
番組内容
東京都立光明学校は戦前、日本で唯一の肢体不自由児のための学校だった。近年、昭和7年の開校時からの文書やフィルムの検証が進み、戦時中の学校生活の様子が明らかになってきた。本土空襲が激化する中、肢体不自由児は疎開に「不適当」とされ、教師や親は自力で子供たちを守ることを強いられた。校庭に防空ごうを掘り、共同生活を開始、校長は疎開先を必死に探し回った。彼らは戦中戦後をどう生き延びたのか。資料と証言でつづる
出演者
【語り】加賀美幸子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸

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