NHKスペシャル「少女たちの戦争〜197枚の学級絵日誌〜」 2014.08.14

今年4月。
1人のイギリス人男性が滋賀県の大津市を訪ねました。
戦時下の日本を研究しているピーター・ケイブさん。
迎えたのは今年81歳になる4人の女性たちです。
ケイブさんが日本に来たのは女性たちがかつて描いた絵を見るためです。
戦争末期の昭和19年。
当時小学5年生だった女性たちが絵日誌として描いたもの。
全部で197枚にも及びます。
少女たちが描いたのはありふれた地方の町の戦時下の日常です。
戦場ははるかに遠く空襲も殺戮もない生活。
しかし少しずつ少女たちの周囲に戦争の影が忍び込んできます。
絵日誌は当時の子どもたちの心の変化を知る事ができる貴重な記録です。
国の総力を挙げて戦ったあの戦争。
そのさなか少女たちは何を感じその目に何が映っていたのか。
197枚の絵日誌から戦時下の子どもたちの心を見つめます。
琵琶湖のほとりに位置する滋賀県大津市の旧瀬田町です。
古い家が立ち並ぶ静かな町。
かつては集落を囲うように田園風景が広がっていました。
少女たちの絵日誌は70年前瀬田国民学校と呼ばれていたこの学校が舞台となりました。
197枚ある絵日誌の最初の1枚は昭和19年4月少女たちが5年生に進級した新学期の記述です。
「四月五日入学式始業式。
今日は入学式でかわいい1年生の子どもがお父さんやお母さんに連れられて来ました。
私たちは5年生になりました。
今年は西川先生に習えるのでうれしくてたまりません。
私たちは決戦下の少国民として一生懸命に勉強してお国のために尽くします。
明日からみんな気張りましょう」。
絵日誌を描いたのは女の子たちだけのクラス5年智組。
このうち7人が絵日誌の係になりました。
現在絵日誌の係だった7人のうち5人が健在で瀬田小学校の近くで暮らしています。
70年前に描かれた絵日誌。
彼女たちに描く事を勧めたのは担任の教師でした。
当時27歳だった西川綾子先生です。
絵日誌係の一人だった内田喜代子さんは西川先生の人柄をはっきりと覚えています。
少女たちから慕われていた西川先生。
絵日誌を始めた理由について戦後次のように語っています。
「…と考え絵日記を書く事を思いつきました」。
毎日放課後少女たちは教室に残ってその日の描く内容を決めました。
絵が得意な子文章が上手な子。
どちらも自信のない子は墨をする担当となってみんなで仕上げました。
西川先生は一切口出ししませんでした。
ただ一つだけある事を伝えました。
「四月六日晴れ。
今日は朝からよいお天気であった。
4時間目と5時間目に学習園へ出てみんな元気に水菜やほうれんそうを引き先生にお分けした。
菜種も水菜も皆春になったのでとうが立っていた。
私たちはこれから肥をやり堆肥をやり水をやって野菜やお花を大事にしよう。
かわいがろう。
つくしの坊やがだんだんと芽を出してきた」。
当時学校では学習園と呼ばれる畑を作り国に供出する野菜や穀物を育てていました。
食べ物が少なくなっていた時代子どもたちも大切な労働力でした。
「四月十二日教室の窓際に飾っておいたチューリップの花がきれいに咲いていた。
いかにもにっこりにっこり笑って咲いているようであった。
暖かい日光に照らされ優しいそよ風に吹かれてすくすくと伸びてきて今ではかわいい花を咲かせています。
皆さんこのきれいなチューリップをご覧なさい」。
「五月一日楽しみにしていたお祭りが来ました。
朝お宮様へ参って『戦争が早く勝ちいきますようよく達者で毎日暮らせますよう』拝みました。
おみこしを拝殿の所と本殿の所に担いだ。
『わいしょわいしょ』と掛け声勇ましく担いだ。
私は大変うれしく思いました。
けれども今は大東亜戦争という激しい戦争をしています。
にぎやかなうれしいお祭りは今日でおしまいです」。
このころ太平洋上の日本の拠点は次々と陥落し断片的なニュースとして大人には伝えられていました。
しかし少女たちの目に映っているのは意外なほどのんびりとした日常でした。
「五月三十日昨日取ったエンドウで今日試食会をするのです。
私たちはうれしくてうれしくてうれしくてたまりません。
火をいこし竹の子ふき寒天を炊き始めた。
よい匂いよい匂いよい匂い。
私たちはにこにこ顔で頂いた。
おなかぽんぽんでした」。
少女たちは学習園で取れた作物を国に供出したあと余り物で調理実習する事を楽しみにしていました。
(取材者)デザート?デザート。
今で言うデザート。
(取材者)中で膨れるから。
ものすごうおなか膨れるんです。
少女たちは日記の題材を探すため周りの動物や植物に目を注ぐようになっていきます。
日々のちょっとした発見を喜び素直な気持ちを絵と文章でつづっていきました。
6月絵日誌にある変化が現れていました。
出征兵士が町を後にする風景。
少女たちは度々目にするその姿を絵日誌に描きました。
「六月六日先生が『壮行式へ行きましょう』とおっしゃった。
行くともう始まっていた。
拝礼して姿勢を正した。
兵隊さんがご挨拶をされ後神主さんが『天皇陛下万歳』と言われるとみんなは『万歳万歳万歳』と言った。
行かれる人は本郷清信君である」。
出征した本郷清信さんは絵日誌を描いていた少女の叔父さんでした。
絵日誌係の…吉田さんは当時絵を描きながらどうしても理解できない事があったといいます。
叔父を万歳で送る輪の中に描いた叔母の姿。
叔母はほかの人たちと同じように笑顔で元気よく叔父を送り出しました。
しかしこの前の日の晩には全く違う様子だったというのです。
吉田さんは今でもその時の状況を覚えています。
(吉田)こんにちは。
(本郷)はい。
吉田さんが訪ねたのは出征した叔父の家。
今は息子の宣明さんが継いでいます。
叔父が出征する前の晩ここでは親戚が集まって盛大な宴会が開かれました。
「戦地に行くのは名誉の事」と祝われていた叔父。
お祝いの席に出される鳥のすき焼きも振る舞われ吉田さんもおめでたい事だと感じていました。
ところがトイレに立った吉田さんは人目を避けるように台所で体を震わせる叔母の姿を目撃します。
目から涙がこぼれていました。
名誉の出征なのに叔母はなぜ悲しんでいるのか。
悲しんでいるなら何故送り出す時には笑顔だったのか…。
今年98歳になる叔母の…叔母さんなめでたい日やから…私は子どもやでめでたい日やから「叔母さん何でちょっとしくしくしてはんのやろ」とあの時思うたんよ。
お父さん…お父さんがな戦争に行かはるやろ?その時にはどんな気持ちやった?言うて送るのをみんな喜んで「万歳」言うてはるけれどもやな…。
顔で笑って?うん。
そやろねえ…。
そこでな。
うん。
泣いてたんけ?うん。
泣いてたん?お父さん行かはるのに泣いてたん?泣いて…思い出すと泣けるやん。
ほうか。
(武子)思い出すとな。
(宣明)うんうん。
陰で泣いていた叔母と元気に万歳をしていた叔母。
なぜ振る舞いが違うのか吉田さんは不思議でなりませんでした。
6月に入ると少女たちは町の農家に出向き害虫駆除や田植えを手伝います。
「六月九日今日は虫取りの3日間の終わりの日です。
私たちは一生懸命に取った。
国のために1人約50匹ほど取るのです。
虫取りをしていると急に雨が降ってきました。
せっかく国のためにしているのに憎い雨だと私は思った」。
「六月十九日田植えと虫取り。
だんだんと田植えが始まりました。
あの田でこの田でお米を作る。
みんなで作る。
大事な大事なお米を作る。
田植えの歌を歌いながら一生懸命になっています」。
「七月六日よいお天気が続いてお百姓さんたちは田植えができないので困っておられます。
戦争も一日一日と激しくなってきたので瀬田町からもこのとおりたくさん行かれます。
それで遺族の家や国のために戦死して下さったおうちへお手伝いに行ってきたいと思います」。
少女たちが手伝っていた米作り。
既に米は配給制となり食糧事情は苦しくなっていました。
足りない米を手に入れるため町の中には禁止されていた農家との闇取引をしていた人もいました。
内田喜代子さんは両親が周囲にないしょで農家から闇米を買う話をしていた事をよく覚えています。
配給制を守ろうという建て前の裏で現実に行われていた闇米の取引。
大人の世界には表と裏の顔がある事を少女たちは感じ始めていました。
「九月二日今日は朝から少し曇っていた。
疎開してきた人たちとご挨拶の受け入れ式があった。
長谷川先生が疎開してきた人たちの事や私たちの事をお話しされた」。
夏から秋にかけて町に学童疎開の子どもがやって来ました。
都会から来た女の子たちのおしゃれな服装。
瀬田町の少女たちは羨望のまなざしでその姿に見とれていました。
しかし疎開の子どもたちの存在は日本の本土に戦争の影が近づいている証しでもありました。
「十月十二日昨日は沖縄・宮古島に敵機が400機も来ました。
戦は一日一日と激しくなって決戦の月だそうです。
私たちは少しの暇もなく仕事に励み戦に一日も早く勝ち抜かねばなりません」。
このころから絵日誌には戦争に関する具体的な記述が増えていきます。
「十月二十三日今日は靖国神社大祭で大勢の兵隊さんが大東亜戦争で花と散って下さった。
2万197柱の方が靖国神社に祭られ大日本の神様となって下さった」。
「十月二十六日今日も昨日も大きな戦果が上がっております。
その陰にはたくさんの兵隊さんが戦死していて下さるのです。
私たちはその兵隊さんに感謝しなければなりません」。
このころ絵日誌係の中にも兄弟が戦地に赴く少女がいました。
17歳の兄が陥落寸前の激戦地フィリピンを挽回するため航空隊の一員として決死の覚悟で日本を発つ事になったのです。
仁平さんの絵日誌仲間だった内田さんはある日学校に行く途中でその事を打ち明けられました。
仁平さんはかつてこの兄の事を絵日誌に描いていました。
しかし大好きな兄の悲しい出征については描きませんでした。
なぜ絵日誌に描かなかったのか。
仁平さんは3年前に亡くなり答えを聞く事はできませんが内田さんにはその理由が分かるといいます。
悲しいとかさみしいとか書いてはいけない。
苦しいとかつらいとか書いてはいけない。
見たまま感じたままを表現しようと始まった絵日誌。
しかし10歳の子どもたちが思いを素直に表す事は難しくなっていました。
そんな中西川先生はクラスのみんなにある提案をしました。
「十二月六日私たちの教室には山崎さんのお父さんと仁平さんの兄さんの写真を飾ってにんじんや大根を供えてあります」。
西川先生が提案したのは陰膳と呼ばれる習わし。
戦争などで長く家を離れている人に食べ物を供え無事を祈る慣習です。
家族が戦地にいる少女たちは家から写真を持ち寄りにんじんや大根などの野菜を供えました。
仁平静江さんも兄の写真を飾りました。
西川先生がなぜ陰膳を提案したのか。
その理由は少女たちには分かりませんでした。
でも写真に向かって届けたい気持ちを口ずさんでいるとふっと心が軽くなったといいます。
みんなが雰囲気的に優しい気持ちになったように思いました。
戦時下であっても柔らかな心を育んでほしいという西川先生の願い。
しかし時代の流れはその思いとはかけ離れた方向に進んでいきます。
昭和19年12月。
本土への本格的な空襲が始まっていました。
12月18日には名古屋が空襲を受け爆撃機は田園地帯の瀬田町まで飛来したといいます。
「十二月十八日2時間目に警戒警報が発令された。
私たちは落ち着いて帰る用意をした。
帰ろうと思って歩きだすと解除となったのでうれしく思った。
お昼になるとまた警戒警報が発令されたのでうちへ帰った。
すぐに空襲警報が入った。
9機の真っ白な飛行機が悠々と飛んでいきました。
それは敵機だったそうです」。
少女たちのもとにヒタヒタと戦争が迫っていました。
学校は竹やり訓練などに一層力を入れていきます。
少女たちには漠然とした不安と疑問が交錯していました。
「面を突け〜!」言うて「ヤ〜!」言うてするんやけど…しかし少女たちはそんな思いを表に出す事はありませんでした。
「十二月二十六日私たち5年智組の掃除の勇ましいこと。
本当に神風と書いてある鉢巻きをし一生懸命に気張った。
その気張り方はまるでB29を追い回すように本当に勇ましい」。
鉢巻きを締めてバケツと雑巾を持っているのは内田喜代子さんです。
この時の内田さんの行動はクラス全体に伝わります。
内田さんは生徒のかがみだとしてみんながまねして鉢巻きをするようになりました。
「一月十二日3時間目に駆け走りである。
雪がさあっと降ってきました。
私たちは一層掛け声を出して走った。
本当に勇ましいこと。
敵米英をやっつけるような気がしてまるで夢のようです。
昭和20年こそ日本が勝つように心を引き締めて憎い米英をやっつけましょうね」。
クラスに勇ましい空気が広まる中少女たちが自主的にある事を始めていました。
反省会です。
規律を乱した者を名指しして教室の前で謝らせる会。
次第に団体行動から外れがちな特定の少女に批判が集中するようになっていきます。
そして絵日誌には好戦的な言葉が増えていきます。
「一月十五日今日は小正月です。
戦場では決戦に決戦が重なってこんなよいお正月は迎えられないでしょう。
昨日B29が私たちの頭の上へ飛んできたので今に打ち落とすと落ち着いていた」。
「一月十九日昼から1時間目警戒警報が発令されたけれども落ち着いて算数をしていた。
空襲があったから防空壕にはせ寄った。
空には憎い憎いB29が細い線を引いていたので私たちは今に見ていろと思った」。
「二月十五日私たちは勉強と戦争をしている。
どうしても勝ち抜かねばなりません。
いつ何時爆弾が落ちるかもしれない。
4時間目警戒警報が発令された。
それから3分して空襲が発令されたので直ちに家へ帰った。
大空にはたくさん筋がついた」。
上空を通過するB29。
今まで見えなかった敵の存在を頻繁に目にする事で少女たちの感情は一色に染まっていきました。
荒々しい言葉で絵日誌をつづる日々。
少女たちの気持ちは昭和20年3月半ばに頂点に達しました。
3月19日集まった少女は4人。
絵日誌に描く題材をB29に決めました。
その数日前には名古屋の中心部が大々的に被害を受けていました。
紙の左半分に大きく描かれたB29。
本来銀色の機体を墨で真っ黒に塗り潰しました。
仕上がった絵日誌は次のように記されていました。
「三月十九日ウーウーと名乗りも勇ましく警戒が発令された。
長い間敵機が私たちの頭の上を飛んでいましたが間もなく逃げていってしまった」。
この日の翌日。
西川先生は少女たちにこう伝えました。
「もう絵日誌は終わりにしましょう」。
その理由は一切少女たちには語られませんでした。
あの日絵日誌が終わった事で実はホッとしていた少女がいました。
当日墨をすった奥村早智子さんです。
それから5か月後の昭和20年8月15日。
少女たちの戦争は終わりました。
絵日誌を描いた4人の少女たちは数年前から小学校や大学に招かれ自分たちの体験を伝えています。
分からへんねえ。
戦争ってなちょっと分かってくれた?分からない?まだもうちょっと。
分からないよね。
そら知らんわな。
そら知らんわそれはなあ。
飛行機って分かる?これ。
大きな被害を受けた訳ではない自分たちの体験。
時代も変わり実感を伝える事が難しくなっている中心の中で広がる戦争を語り継ごうとしています。
こう言うたの子どもが。
あれから69年。
今も忘れられないのは戦争が終わった直後の2学期6年智組で行われた授業です。
西川先生は少女たちに作文を書かせました。
「これからはアメリカが統治する時代になります」。
数日後西川先生は少女たち全員の前で一つの作文を読み上げました。
先生も同じ気持ちだと付け加えて…。
2014/08/14(木) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「少女たちの戦争〜197枚の学級絵日誌〜」[字]

戦争末期の昭和19年4月から1年間、小学5年生の少女たちが197枚の絵日誌を描いた。その目には一体何が映っていたのか。子供たちの戦時下の暮らしと戦争を見つめる。

詳細情報
番組内容
戦争末期の昭和19年4月から1年間、滋賀県の小学5年生の少女たちが197枚の絵日誌を描いた。戦場から遥か遠くに隔たっていた地方の町の普通の子どもたちの日常。当初は戦時下にあっても子どもらしいみずみずしい感性で自然や学校生活などをつづっている。しかし次第に、戦況の悪化によって変化する町の雰囲気に影響され、感じたことを自由に描けなくなる。少女たちは何を感じその目に何が映っていたのか。絵日誌から見つめる
出演者
【語り】合原明子,【朗読】森脇遥菜

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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