何なんだろうね、この心にポッカリ穴が開いたような寂しさは。
Apple Watchは、とても魅力的な商品で(僕も買うぞ!)と思った。
それと同時に(フン! なんだい、こんなもの。昔の日本なら、ソッコーでこれより良いモノ出してきて、Apple Watchなんか瞬殺してたさ)という、負け犬の遠吠えみたいな卑屈な感情が、自分の中から湧き出るのを抑えることが出来ない。
アップルがライバルという場合、仮想敵はサムスンであって、日本メーカーは、そもそも眼中にない。
まあそれはいいとして、部品とかソフトウェア(例:ボイス・ディクテーション技術、ハプティック技術)のレベルまで下りてきても、日本メーカーのアップル製品の内部でのシェアは落ちてきている気がしてならない。
MEMS技術にしろ、サファイアにしろ、Apple Watchを駆動するコアな部分に日本が喰い込めていないのを見るにつけ、なんか無性に悔しくて、悔しくて……
つまり日本は、徹頭徹尾、蚊帳の外。単なるお客さんのひとりとしてフリント・センターで繰り広げられるアップル・イベントに「わぁー」とか「ホォ」とか驚嘆する側に回っているだけ。
Apple Watchの登場でウェアラブルというカテゴリーは正式に「お墨付き」を貰った。
これから無数のガジェットが、ワンサと出てくるだろう。
本来、デザイン・ベロシティが高くないと生き残れないガジェットの分野といえば、昔は日本の独壇場だったわけで、、、
テスラ(TSLA)のようなEVでもダメ、モービルアイ(MBLY)のような自動運転車もダメ、GoPro(GPRO)も真似できない、果てはジェンサーム(THRM)がやっているカーシート・ヒーターみたいなもんすら作れないって、一体、モノ作りJAPANは、どうしちゃったんだろうね? 日本の匠の気概を感じさせるのはリアル・ラブドールのオリエント工業くらいのものだろう。
In every home a heartache……
日本の得意なコトといえば、エアギターとかエアーSTAP細胞とか耳が聞こえない天才作曲家とか、そういうMAKE BELIEVE の世界ばかり。
一体、日本が世界に誇れるものは「ラーメン二郎」だけなのだろうか!
で、我々はすっかり朽ちてしまった日本の技術力という事実をすり替え、状況を自分の都合の良い方へ解釈するという「精神的勝利法」によって溜飲を下げることに腐心している。
このような「都合のいい解釈」は、ビジネスの場面のみならず、精神文化や、果ては歴史に関してすら、しゃあしゃあと行われている。
考え方をすり替えるだけで、敗北はたちまち甘美な勝利へと変えることが出来る。そして意気揚々とし、他人の手柄をまるで自分のことのように思って「元気をもらう」御目出度いヤツが後を絶たない。
これはつまり魯迅の描いた『阿Q正伝』の卑屈な世界だ。
魯迅が創作に打ち込んでいた1920年代、中国は列強に思うように小突き回されて、暗い暗いトンネルを、どんどん降りてゆくような閉塞的状況だった。
そこで中国人は、みじめな状況を、考え方のグレードを落とすことで、耐えられる、いや、それどころか勝ち誇った気分になれることを発見したわけだ。
こうなれば、後は急坂を転げ落ちるように没落するのは早い。
Apple Watchは、とても魅力的な商品で(僕も買うぞ!)と思った。
それと同時に(フン! なんだい、こんなもの。昔の日本なら、ソッコーでこれより良いモノ出してきて、Apple Watchなんか瞬殺してたさ)という、負け犬の遠吠えみたいな卑屈な感情が、自分の中から湧き出るのを抑えることが出来ない。
アップルがライバルという場合、仮想敵はサムスンであって、日本メーカーは、そもそも眼中にない。
まあそれはいいとして、部品とかソフトウェア(例:ボイス・ディクテーション技術、ハプティック技術)のレベルまで下りてきても、日本メーカーのアップル製品の内部でのシェアは落ちてきている気がしてならない。
MEMS技術にしろ、サファイアにしろ、Apple Watchを駆動するコアな部分に日本が喰い込めていないのを見るにつけ、なんか無性に悔しくて、悔しくて……
つまり日本は、徹頭徹尾、蚊帳の外。単なるお客さんのひとりとしてフリント・センターで繰り広げられるアップル・イベントに「わぁー」とか「ホォ」とか驚嘆する側に回っているだけ。
Apple Watchの登場でウェアラブルというカテゴリーは正式に「お墨付き」を貰った。
これから無数のガジェットが、ワンサと出てくるだろう。
本来、デザイン・ベロシティが高くないと生き残れないガジェットの分野といえば、昔は日本の独壇場だったわけで、、、
テスラ(TSLA)のようなEVでもダメ、モービルアイ(MBLY)のような自動運転車もダメ、GoPro(GPRO)も真似できない、果てはジェンサーム(THRM)がやっているカーシート・ヒーターみたいなもんすら作れないって、一体、モノ作りJAPANは、どうしちゃったんだろうね? 日本の匠の気概を感じさせるのはリアル・ラブドールのオリエント工業くらいのものだろう。
In every home a heartache……
日本の得意なコトといえば、エアギターとかエアーSTAP細胞とか耳が聞こえない天才作曲家とか、そういうMAKE BELIEVE の世界ばかり。
一体、日本が世界に誇れるものは「ラーメン二郎」だけなのだろうか!
で、我々はすっかり朽ちてしまった日本の技術力という事実をすり替え、状況を自分の都合の良い方へ解釈するという「精神的勝利法」によって溜飲を下げることに腐心している。
このような「都合のいい解釈」は、ビジネスの場面のみならず、精神文化や、果ては歴史に関してすら、しゃあしゃあと行われている。
考え方をすり替えるだけで、敗北はたちまち甘美な勝利へと変えることが出来る。そして意気揚々とし、他人の手柄をまるで自分のことのように思って「元気をもらう」御目出度いヤツが後を絶たない。
これはつまり魯迅の描いた『阿Q正伝』の卑屈な世界だ。
魯迅が創作に打ち込んでいた1920年代、中国は列強に思うように小突き回されて、暗い暗いトンネルを、どんどん降りてゆくような閉塞的状況だった。
そこで中国人は、みじめな状況を、考え方のグレードを落とすことで、耐えられる、いや、それどころか勝ち誇った気分になれることを発見したわけだ。
こうなれば、後は急坂を転げ落ちるように没落するのは早い。