歴史秘話ヒストリア「はるかなる琉球王国〜南の島の失われた記憶〜」 2014.09.10

ありがとうございました。
牛山素行さんでした。
あすは感染が広がり続けるデング熱。
全国で感染者が相次ぎ不安が高まっています。
病気の拡大を、どう防げばいいのか考えていきます。
日本列島の南に位置する沖縄の島々。
かつてここに「琉球王国」と呼ばれる独立国がありました。
海を通じ日本や中国をはじめアジアの国々とつながっていた琉球は独自の文化を育んだ海洋国家でした。
やがて訪れた激動の時代。
相次いでやって来る外国船を相手に武器を持たない琉球はもっぱら外交交渉で立ち向かいます。
強大な軍事力を背景に開国を迫るアメリカの提督ペリー。
そこで琉球が打った大芝居とは…。
明治を迎え近代化を進める日本政府を前に琉球は存亡の危機に立たされます。
強引に進められる日本への併合。
更には琉球を分割する計画まで…。
そんな中琉球を守るために立ち上がった若者たちがいました。
時代の荒波に翻弄されながらも必死にあらがい続けた琉球王国の知られざる奮闘物語です。
世界遺産琉球王国時代のお城「グスク」です。
13世紀に造られたと言われる…沖縄本島北部を治めた豪族の居城でした。
石垣を持った巨大なグスクは豪族たちの拠点として築かれたもの。
沖縄では各地の豪族たちが覇権を争う戦乱の時代が長く続いていました。
しかし15世紀それらを統一する勢力が現れます。
その王宮が置かれたのが皆さんご存じ首里城。
王様が政治や儀式を執り行った建物正殿です。
そこにあるのは龍龍龍。
あちらこちらに龍が配置されています。
龍は中国の皇帝のシンボルです。
琉球の王様が座る豪華絢爛な玉座。
その後ろに掲げられている額の書も中国の皇帝から贈られたもの。
実は琉球国王は中国皇帝の承認を背景に国内の豪族たちをうまく治めていたのです。
沖縄の代表的な民謡の一つ…「中国からの船が来たぞ」と歓迎する人々の姿を歌った曲です。
かつての中国はアジアの超大国。
国王として中国に認められるためには皇帝に貢ぎ物を持っていく必要があります。
皇帝から臣下として認められると使者が送られその国の国王として承認される仕組みでした。
これは…重要な儀式の際に身につけました。
国王として承認を受ける儀式の時には…使節をもてなす中で踊りなどの芸能も育まれました。
中国と琉球は昔から人の交流も盛んでした。
15世紀の地図に「九面里」「久米村」とあるのは琉球に移り住んだ中国人たちの村です。
那覇市中心部の久米地区。
今も人々は琉球王国時代の先祖の記憶を受け継いでいます。
この家譜ですね。
王府時代の戸籍というか出生も書いてあるしそれから手柄も書いてあるし全部この中に書かれてるわけですよ。
我が門中は蔡氏ですけどね…それで我が蔡氏門中は鯨と亀の肉は食べちゃいかん。
これは琉球と中国の間を行き来する際に目印とされた島影を描いた航路図です。
中国へは片道800km。
およそ10日の船旅。
琉球を出た船は久米島から尖閣諸島の島々を目印に航路を一路西へ。
悪天候に見舞われ遭難する事も少なくありませんでした。
そしてようやくたどりついた中国福州。
ここには琉球使節のための建物があり中国商人との貿易が行われました。
琉球が中国に持ち込んだのは日本の刀や東南アジアの香辛料など。
アジア各地の産物を手に入れそれを中国へと運びます。
中国では陶磁器などを買い付けそれを今度は各地に運んで売りさばきました。
15世紀から16世紀…1609年琉球の在り方を大きく変える事件が起きます。
薩摩の国今の鹿児島県などを治める大名島津家の軍勢が攻め込んできたのです。
撃て〜!
(銃声)僅か10日ほどで主な島々は占領されてしまいました。
日本の支配を受ける事になった琉球王国。
そこに更なる難問が降りかかります。
中国から当分の間使節のやり取りを停止すると宣言されたのです。
琉球王国の繁栄を支えてきた中国との関係を断ち切られれば王国は立ちゆかなくなる。
かといって日本の支配をはね返す事はとてもできない。
かくなるうえはいずれの国ともうまくつきあうほかあるまい。
まずは中国に対し琉球はあくまでも独立国家であり日本の一部になったわけではないとアピールしなければなりません。
そのためには見た目にも気を遣う必要があります。
それまで琉球の公文書は主に日本の文字である「平仮名」で書かれる事が普通でした。
これを漢文で書くようになります。
いわば琉球の「中国化」とも言える変化が生まれていったのです。
それを担ったのは中国にルーツを持つ久米村の人々でした。
実は私たちが「琉球」あるいは「沖縄」という言葉でイメージするものの中にはこのころに生まれたものが少なくありません。
例えば沖縄の特徴である亀の甲羅のようなお墓「亀甲墓」。
中国南部に見られる墓の形が基で琉球風に発展しました。
そして皆さんがよく知っている「シーサー」が誕生したのもこのころです。
魔除けとして中国の獅子が村の入り口などに置かれるようになったのが始まり。
琉球は社会全体を中国風に染める事で失われた信用を取り戻そうとしたのかもしれません。
日本の存在を隠す事にも注意を払いました。
中国人がやって来た時などは大変です。
日本の船には別の港へ日本人には人目につかない場所に隠れてもらいます。
日本との関わりは一切表に見せないよう徹底されたのです。
新しく即位した琉球国王は…長い努力の結果中国の態度は和らぎやがて以前同様貿易を行えるようになりました。
一方日本に対しても琉球は積極的に働きかけます。
これは江戸に向かう琉球の行列を描いた絵巻です。
琉球国王や徳川将軍の代替わりの度に挨拶の使節が送られました。
髭を生やし中国風の服を着て音楽を鳴らしながら進む姿は見るからに異国。
琉球はあくまでも日本ではない独自の文化を持った国だという一大パフォーマンスでした。
中国との関係と日本との関係。
琉球は絶妙なバランスの中で生き残る道を見いだしていったのです。
ようこそ「歴史秘話ヒストリア」へ。
今日は現在の沖縄県にかつて存在した琉球王国のお話です。
琉球は日本と中国両方の国から大きな影響を受けながら独自の文化を発展させてきた国でした。
これは琉球王国時代の衣裳です。
13世紀以降に発達した「紅型」と呼ばれる伝統的な技法で染められています。
中国で福を呼ぶとされるコウモリ。
伝説の鳥鳳凰など中国風の絵が多く描かれました。
その一方で日本風のものもあります。
想像力を働かせ琉球らしくアレンジ。
しだれ桜や菊の花が色とりどりに染め上げられています。
日本と中国二つの国の間を生き抜いてきた琉球王国。
しかしその微妙なかじ取りを揺るがす事態が訪れます。
こうした異国船を追い返すためのマニュアルが残っています。
「琉球は金銀銅鉄何も採れない貧しい国で貨幣すら使っていない。
だから何かを売る事も買う事もできないと答えなさい」。
「責任ある者を出せと言われたら総理官などふだんは存在しない官職を答えなさい」。
琉球側はマニュアルどおりに臨時の大臣を立て通訳が対応しました。
交渉が長引くにつれフランス船の食料は不足していきます。
「お金を払うのでせめて食べ物だけでも売ってほしい」と言うフランス人に…。
我が国には貨幣というものがないのでお金は結構です。
必要なものは差し上げましょう。
そう言って用意したのは頼まれたよりもずっと少ない量の食べ物。
琉球は貧しいのでこれだけしか用意できませんでした。
やがてフランス船は琉球を立ち去っていきました。
丁寧に応対しながらの兵糧攻め。
琉球の高等戦術です。
王府の中枢の名称まで変えたりそういう形で…ある意味では琉球国が国を挙げて一種の演劇的なというんでしょうかねそういうスタイルをとって…しかし1853年従来のやり方では対応できない事態が訪れます。
ペリー率いるアメリカ艦隊いわゆる黒船が現れたのです。
これまでの異国船とは異なり大勢の兵士を乗せた軍艦でした。
交渉にあたったのは通訳を務める青年板良敷朝忠。
国際都市・北京で教育を受けたとされる…琉球の高官としか会わないというペリーに対し板良敷は大臣の通訳として面会に成功。
ところが板良敷はそこで思わぬ要求を突きつけられます。
是非首里城を表敬訪問し国王にお目にかかりたい。
心の声王様への拝謁を許せば正式な外交となり中国の感情を害するであろう。
かといってアメリカの要望をはねつければ相手は軍隊。
どんな事になるか…。
首里城訪問についてはお諦め下さい。
それならばいっそお城に伺って母君様のお見舞いもせねば。
琉球苦心の策を逆手にとるペリー。
我々は最後の手段を用いるという事で非常に強硬な態度でやって来たのが最後のアメリカのペリー艦隊だったわけです。
琉球側が不都合を言い立てるのをものともせず…軍楽隊と海兵隊およそ200人。
大砲まで引っ張っていきました。
やがて首里城に到着したペリーはこの門の前で立ち止まります。
訪問に反対する強硬派が扉を閉じたためでした。
いざとなれば武力行使も辞さないというペリー。
(板良敷)このままでは戦になってしまう。
板良敷は強硬派を抑えて門を開けさせペリーたちを城の中に通しました。
(板良敷)城には入れたが王様に会わせる事だけは決して許してはならぬ。
板良敷はペリー一行をなんとか誘導し国王のいる正殿ではなく隣の北殿へ入らせます。
あとはいかに一刻も早く帰ってもらうか…。
ペリー艦隊の記録にはこの時板良敷たちが用意した儀式の様子が記されています。
「大きな紙を何枚か総理官が手に取り席を立って深々とおじぎをした。
それを見たペリー提督とその一行も挨拶を返した。
しかしこの儀式にどんな意味があるのかよく分からなかった」。
儀式は延々と1時間ほど続きました。
ペリーたちが儀式にうんざりしているのを見計らい板良敷は声をかけます。
板良敷が「総理官の邸宅」と言って連れていった場所。
それは実は城の外にある屋敷。
結局…レセプションでは酒や特製の料理が振る舞われ和やかな雰囲気の宴会となりました。
乾杯が続きすっかりお酒も回った頃板良敷はある話題を持ち出します。
板良敷が語ったのはアメリカの初代大統領ワシントンの人柄や人生について。
予想もしなかった話にペリーは驚き感動します。
「アメリカの父である人物の名誉ある名前が知られていない土地は世界中のどこにもないようだ」。
友好的な雰囲気の中ペリーは満足げに琉球を後にしたのです。
それと同じなんですよ。
そういうあの手この手の外交術を使ってなんとか生き延びたのが琉球王国の…翌年日本を開国させる事に成功。
その後…日本が開国したのを待って琉球もアメリカと条約を結びました。
日本が結んだ条約にはない取り決めも書き込まれました。
板良敷の機転の利いた活躍により琉球は黒船来航の危機を辛くも乗り越えました。
見事な交渉能力で琉球の危機を救った板良敷朝忠。
まさに「琉球式外交の達人」です。
板良敷はなぜこれほどの英語力と国際的な視野を身につけていたのでしょうか?そこにはさる幕末の有名人との出会いが大きく影響していました。
もとは土佐の漁師で14歳の時海で遭難。
アメリカの船に助けられます。
10年後帰国途中の万次郎は琉球に上陸。
英語しか話せない万次郎を取り調べたのが板良敷です。
アメリカで高等教育を受けた万次郎。
アメリカやワシントンについての板良敷の知識はジョン万次郎との出会いからも多くを得ていたと言われています。
ペリー来航をなんとか乗り切った琉球王国。
しかし「歴史秘話ヒストリア」。
時代の流れは琉球に更なる厳しい運命を強いる事になります。
日本は明治維新を経て近代化への道を走りだしていました。
欧米列強の侵出を警戒する…その中で琉球王国の併合も検討されるようになります。
1875年明治政府から一人の男が琉球に派遣されてきました。
「滋賀県令」今で言う県知事などを務めた官僚です。
首里城を訪れた松田は琉球の首脳を前に明治政府の要求を伝えます。
「従来のような中国・清とのつきあいは今後差し止められたい」。
日本と中国両国の間で生きてきたこれまでの在り方を改め事実上日本への編入を迫るものでした。
松田は「国王に直接会って交渉したい」と言いますが琉球側は拒否します。
国王は食事もできぬほど重い病のため重臣一同が代わりにお話を伺います。
仮病ではないのかと疑う松田に対し診断書まで提出。
この時も琉球は今までと同様の交渉術で事態を収束させるつもりでした。
しかし延々と交渉しても明治政府は全く妥協しようとしません。
清国に助けを求めよう。
すぐに使節を送るのだ。
一行は福建省の福州に到着。
福州は琉球の使節が常日頃滞在し外交や貿易にあたってきた拠点です。
更にこれまで培ってきた人脈をフル活用し清国の高官たちに精力的に働きかけました。
琉球必死の外交工作は功を奏したかに見えました。
ところがこの事が逆に明治政府の行動に火をつけます。
これ以上琉球を放置していては問題が更に大きくなりかねない。
明治政府は実力行使に踏み切りました。
しかしその後も…500年にわたって中国と結び付きを持ってきた久米村です。
こういうのがやっぱりありますね。
心の声もはや一刻の猶予もない。
こうなったら北京へ赴き清国の中枢に直接琉球救援を訴えよう。
しかし当時清国国内を外国人がむやみに移動する事は禁止されていたうえ…うかつに動く事はできません。
そこで使節団は髪をそり服を着替えて清国人に変装。
当時の写真にはリーダーの幸地朝常をはじめ変装した琉球の人々の姿が残されています。
一行は首都・北京へ向かうグループと天津に向かう幸地たちのグループ二手に分かれて行動を開始しました。
天津に向かった幸地は清国の外交責任者で政府内で強い発言力を持っていた李鴻章への接触に成功します。
しかし欧米列強と対抗するため…翌年事態は更に悪化します。
日本と清国の間で琉球を分割する事で合意したという驚きの知らせが飛び込んできたのです。
首里城がある沖縄本島以北は日本の領土。
南部の宮古島・八重山諸島は清国の領土にするという計画。
かつて琉球に繁栄をもたらした海の道に越える事のできない境界が引かれる事になります。
かなりドライな立場なんですけども。
この合意に琉球の人々は激しく反発します。
もともと小さな琉球を更に分割してしまってはたとえ独立を取り戻せたとしてももはや国として成り立ちません。
李鴻章はこの時の幸地朝常の様子をこう記しています。
絶望的な状況を前に林世功は次のような嘆願書をしたためます。
林世功の命を賭した行動は清国政府に衝撃を与えました。
政府高官の言葉が残されています。
この訴えが功を奏したのか…幸地朝常をはじめ大陸に渡った人々の琉球再興の訴えはその後もやむ事なく彼らが清国で世を去るまで続きました。
日本の一部となった琉球。
沖縄県設置から10年で2,000人を数えたとも言われています。
本土からの旅行者が当時の沖縄の様子を記録しています。
やがて日本語教育が徹底され本土との同化が進められていきます。
琉球王国は記憶のかなたへと追いやられていきました。
今宵の「歴史秘話ヒストリア」。
最後は…そんなお話でお別れです。
1972年本土に復帰すると沖縄の人々は首里城の復元を強く要望しました。
かつての姿そのままに復元された王宮。
アジアの中で生きた琉球王国の栄光を今に伝えるシンボルとなっています。
戦争中久米村は敵国に通じる恐れがあるとして厳しい監視下に置かれたといいます。
琉球王国を救うために奔走した人々の事が話題に上る事もほとんどありませんでした。
一行は琉球の使節として海を渡り帰る事のなかった先祖のお墓にも参っています。
これを機に琉球を救おうと尽くした人々の功績を見直す動きが始まりました。
かつての久米村に昨年完成した孔子廟。
琉球王国を支えた人々の歴史を再確認する場ともなっています。
海洋国家として繁栄を極め外交を武器に時代の荒波を生き抜こうとした琉球王国。
常に大国に翻弄されてきたその記憶は今も沖縄のあるべき姿への問いを投げかけ続けています。

神守幹次郎殿は理不尽な夫から私汀女を救い出し2014/09/10(水) 01:01〜01:46
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「はるかなる琉球王国〜南の島の失われた記憶〜」[解][字][再]

南の島で繁栄を極めた琉球王国。巧みな外交術を武器にペリーの黒船来訪の危機も回避する。強引に琉球併合を進めようとする明治新政府を前に、どのように闘いを挑んだのか。

詳細情報
番組内容
かつて、日本列島の南に存在した琉球王国。巧みな外交術を武器に、大国のはざまで生き抜いてきた。欧米列強の異国船が次々と来訪する時代にも、専ら外交交渉によって危機を回避。強引に開国を求めるペリーのアメリカ艦隊にも立ち向かう。しかし、日本で明治維新がおこり、琉球の併合が企図されるようになると、これまでの手法は通じなくなる。祖国存亡の危機に、立ち上がった琉球の若者たち、その奮闘を描く。
出演者
【キャスター】渡邊あゆみ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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