Fuzzy Logic

時事ネタ、音楽、映画、本、TV番組などなど、幅広く適当に語ります。

10年ちょっと前を思い返して、部活の顧問やってる先生はマジで大変だなと思った社会人のぼく。

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もう部活はやめてもいいんじゃないの? 清谷信一公式ブログ 清谷防衛経済研究所 /ウェブリブログ

学校の運営と教職は分けて、教師は全員教えることに徹するべきです。
運動部に予算をかけるよりも、図書館や視聴覚設備などの充実など「本業」にこそカネをかけるべきです。

勉強を教えるよりも「趣味」の部活指導が好きな教師は学校を去るべきです。

うーん。

以前ぼくは部活動とそれに伴う先生への負担などについて脱・勝利至上主義? - Fuzzy Logicという記事を書いてます。

その記事の中で記述している通り、ぼくは「部活動」について強い思い入れを持っていますので、単純な縮小論や廃止論にはもちろん強く反対したいと思っています。が、それとは別に、上記の記事には一つ重要な示唆が隠れているように思います。

部活動指導に熱心な先生方もおられますが、月月火水木金金の運動部の顧問やっていてまともな授業の準備とかできるんでしょうかね。

今の状況はよくわかりませんが、この「月月火水木金金の運動部の顧問」という指摘は、10年ちょっと前に県大会上位の運動部に所属していたぼくの感覚からすると至極正しいと思えます(授業の準備が出来ない云々は教師個人の資質によるのでわかりませんが)。

今社会人になって思うのは、あの頃の先生と同じことをやれ、と言われたらぼくにはとてもムリだということです。

そんなに家明けたら普通に考えて家庭崩壊しますよマジで。部活動指導も勤務時間に入れたとしたら、労基署が助走つけて殴りに来るレベルだと思います。

恐ろしいのは、それが多くの場合、勤務ではなく教師の「個人的な熱意」によって行われている点です。そういう教師への過剰な負担が積み重なって歪みとなり、体罰問題を初めとする部活動の諸問題の一因になっているんじゃないでしょうか。

「部活」は必要ない?

上の記事で主張されている「学校は勉強する所」という主張には一理あります。教師に課外活動の監督責任まで全部(実質的に)丸投げする今の体制には問題があると思う。

しかし、だからといって軽々に「学校の課外活動禁止、やるなら外部で勝手にどうぞ」ということも感情的には承服しかねますし、極論だと思います。クラブチームがあるようなメジャーな活動ばかりならいいですが、学校の部活くらいしか集まってやれない活動だってあるだろうし。部活動が、学生の課外活動の受け皿になってきた事実と実績はやはり無視すべきではないと思います。

理想を言えば、地域のクラブチームでも部活動でも生徒が「選択できる」形が望ましいとは思いますが、それが難しい場合は、何らかの形で地域の人に入ってもらうなど、出来るだけ教師の負担を軽減してやる方策が取れるといいんじゃないかなと思いますが。。。

蛇足ですが

「学生の本分は勉強」について。

一義的にはそうだと思いますが、個人的に一番大事だと思ってるのは「夢中になって打ち込める何かを見つけること」「何か一つの事に一生懸命打ち込むことによって自分の殻を破ること」じゃないかなと思います。別にそれが勉強であってもいいし、野球であってもいい。創作活動でも、ゲームでも音楽でも何でもいい。何か自分の中に「尖ったもの」を作っておくって大事なことだし、後々大きな財産になると思うんですよね(参考:バランスなんて、とる必要ないです - Chikirinの日記「ハマる」ことって、実は大事じゃない? - Chikirinの日記)。

だから「学生の本分は勉強」だから「部活なんぞやらんでもいい」なんて言われるとちょっと反発したくなってしまいます。勉強は必要な分だけやって、あとは全て全力で野球シフト!でも別にいいじゃん。

まあ、元記事は「別にそれは学校が予算をとって運営する部活って形態じゃなくてもいいでしょ?」という主旨だと思うので、この話はちょっと本旨からは外れてますが、こんなこと思いました、ということで一応書いておきます。