有本恵子さん
 
電脳補完録


北朝鮮の発表:死亡

拉致:昭和58(1983)年 デンマーク・コペンハーゲン?

有本 恵子(ありもと けいこ)さん
1960年1月12日生(現在42歳)
神戸市長田区
行方不明当時 大学生(22歳)

有本さんは昭和58(1983)年8月9日、ロンドンでの語学留学から帰国する予定の当日実家に「仕事が見つかる 帰国遅れる 恵子」という電報が実家に届いた。その後10月中旬にコペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶える。有本さんが北朝鮮にいることは札幌市出身の石岡亨さんから昭和63(1988)年9月6日に実家に届いた手紙で分かった。手紙には有本さん・石岡亨さんの写真や住所と松木薫さんの名前などが書かれていたという。手紙はポーランドから送られており、封筒の裏には「石岡より 平壌にて」と書かれていた。最近になってこの手紙に有本恵子さんと石岡亨さんの間にできた子供と推定される乳児の写真が添えられていたことが分かった。有本さんの事件は実行犯の1人八尾恵氏の証言に基づき政府が平成14年3月11日北朝鮮による拉致事件と認めたが、石岡亨さん、松木さんについてはまだ政府は拉致事件と認定していない。(注意:2002年10月に認定)

警察庁が拉致事件と認定

   
有本恵子さんを救うぞ!東京集会(平成17年2月10日・東京友愛会館)
第9回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会
4/24 第7回国民大集会 有本嘉代子さん
よど号妻逮捕直前、拉致疑惑に直撃
欧州ルート拉致事件被害者3家族による合意事項
有本恵子さん誕生日 両親、救出へ決意新た

 

北朝鮮が呈示した個別情報
 
  1.  朝鮮名:キム・ヒョンスク 女 1960年1月12日生
  2.  本籍:神戸市兵庫区
  3.  住所:神戸市長田区
  4.  前職:神戸外国語大学学生
  5.  入国の経緯:1982年留学のため英国に出国。特殊機関メンバーの一人が接触、工作の過程で共和国に行ってみないかと言うと、一度行ってみたいと言ったことから、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的で1983年7月15日平壌へ連れて行った。
  6.  入国後の生活:資本主義社会とは異なる制度の中で暮らしてみたいと言ったため、特殊機関は、彼女の意向に従い、入国後1年後から、石岡亨さんとともに特殊機関の学校で日本語を教えさせた。
     1985年12月27日、一緒に仕事をしていた石岡亨さんと本人の自由意思で結婚し、翌年娘を生んだ。娘の名はリ・ヨンファ。招待所で幸せな家庭生活を送っていた。
  7.  死亡経緯:1988年11月4日の夜、チャガン(慈江)道ヒチョン(熙川)市内の招待所にて寝ている途中、暖房用の石炭ガス中毒で子どもを含む家族全員が死亡。
  8.  遺骨:家族と共にヒチョン(熙川)市ピョンウォン(平院)洞に葬られたが、1995年8月17日から18日の大洪水による土砂崩れで流出。現在引き続き探しているものの発見に至っていない。
  9.  遺品:写真が遺っている

 

2004年11月 第3回日朝実務者協議を受けて、家族会・救う会が発表した疑問点
 

(1) 八尾恵の自白などで明らかになったよど号グループの拉致関与を、今回も否定している。

(2)「1984年9月初旬から1988年10月まで、平壌郊外の招待所で日本語教育に従事した」と説明されたが、入国後1年で日本語教育ができるのか。

(3)「死亡」とされた1988年以降も最近まで多数の生存情報がある。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2004.11.25-2)
http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200411/20041125-2.htm


従来、家族会・救う会は有本恵子さんの北朝鮮側情報について下記の点を矛盾点・疑問点として政府に提出していた。
1、有本恵子さんの死亡確認書の間違い
 同確認書では有本さんの生年月日が「1957年6月29日」と記載されているが、実際は「1960年1月12日」である。ちなみに、「1957年6月29日」は有本さんと結婚していた石岡亨さんの生年月日である。


(有本恵子さんの本当の誕生日は、1960年1月12日 )

2、有本恵子さんの北朝鮮情報の不審な点
・帰国した浜本富貴恵さんは10月16日、恵子さんの母有本嘉代子さんに招待所の暖房は石炭を使わないと証言している。したがって、有本さんが招待所にて石炭ガス中毒のため死亡したとする北朝鮮情報は納得できない。
・1991年1月16日、有本・石岡両家族が東京で開催を予定していた記者会見場にNHK記者の紹介で現れた遠藤忠夫・ウニタ書店経営(当時)氏が、恵子さんらは生きている、自分は金日成の侍医につながるコネクションがあるから会見を中止すれば助けてやる、と語って会見を事実上中止させた。したがって、その時点まで恵子さんは生存していた可能性が高い。

 
 
 

 

有本恵子さん
     



 

 

有本恵子さんは1960年1月12日、有本家(一男五女)の三女として生まれた。両親は鉄工所を経営。朝から晩まで働きづめだった。高校1年の二学期からは、学校の近くにあった有本明弘さんの妹さんの家に住むようになる。神戸外大を卒業する直前の3月、「半年だけでいいから、イギリスに行かせて」と留学希望を打ち明けた。有本さんご夫妻は「あかん」と反対をしたが、最後は泣いて頼む恵子さんに押し切られてしまった。1982年4月10日、伊丹空港からロンドンに向けて出発。これが有本ご夫妻と恵子さんの別れとなった。

恵子さんはロンドンでホームステイしながら語学学校に通い出す。半年の予定が、もう半年と延びていく。翌年の1983年6月に、帰国を知らせる手紙が届く。

しかし、この時、すでによど号犯妻の八尾恵が有本恵子さんに接触をしていた。恵子さんは友人に「市場調査」の仕事をすることになったという手紙を書いている。1983年8月9日、帰国予定日、航空会社に確認すると予定されていた便をキャンセルしていたことがわかった。その後、ギリシャのアテネから「仕事をしている」という手紙が届いたが、この手紙は本人が出したのではないのかもしれない。結局、この手紙が最後となった。

この後、有本ご夫妻は外務省、警察と相談に行くが、どこもまともには取り合ってはくれなかった。そのまま、時間が流れていく。

それから5年後の88年9月、札幌の石岡さん宅に3人(石岡亨さん、松木薫さん、有本恵子さん)が平壌にいることを伝える手紙が届く。
「どなたか社会党の議員さんを知りませんか?社会党なら北朝鮮とパイプがあるそうだから、なんとかなるのでは」と石岡さんに言われて有本さんご夫妻が思いついたのが、土井たか子氏である。まさに有本さんの地元の有力議員だった。西ノ宮の事務所に足を運び秘書に救出の御願いをするも、まったく何の反応もなかった(朝鮮総連にこの石岡さんの手紙の件を伝えるという反応は、あったのではないかと言われている)。

社会党が全く動かないため、次ぎに自民党の安倍晋太郎事務所に連絡をする。秘書が同行してくれて、警察庁、外務省と回るが、「国交がないのでどうにも出来ない」というだけで、さらには外務省は「危険ですので、秘密にしておきましょう」と口止めをした。
90 年末、「週刊文春」が恵子さんのことを取材にくる。秘密にしておいたものがなぜ漏れたのかは不明だが、知っていたのは相談した警察と外務省以外にはない。週刊文春の取材に対して、「救出のためには表に出したほうがいいんじゃないか」と考え、これによって大きく報道されることになる。

実名を公表しての救出活動は、「横田めぐみさん」が最初と思われている方が多いが、実際には有本さんの実名公表が最も早い。

1991 年1月、石岡、松木、有本の3家族は記者会見を開いて氏名を公表して救出を訴えることになった。1月15日夜、NHKの記者(山本浩氏)から「記者会見の前にぜひ会ってほしい人がいる」と言われ、翌16日、NHKの崎本利樹氏(東京)・田村啓氏(神戸)の2名の記者に、ウニタ書房の遠藤忠夫氏を紹介される。遠藤は「私たちは金丸氏の訪朝のために一年半あまり、いろいろと努力してきました。今ここで警察よりこんな話(拉致問題)が出てきては、何もかもぶち壊しになってしまう。私たちは金日成と太いパイプを持っています。任せてくれれば一、二ヶ月で解決できる。恵子さん達は生きている。会見を中止すれば助けてやる。」と言い、記者会見の中止を求めた。しかし、会見の場所に各社の記者を待たせた状況で中止は出来ず、「では、住所と氏名は言わないようにして下さい」と言われ、結局、名前も住所も公表せず、出席した他の記者からは反発、不満、怒りをよんだ記者会見となってしまった。「事件を公表して世論を喚起し、国に早期解決を促す」という当初の目的も達することは出来なかった。この記者会見の2週間後には第一回日朝国交正常化交渉が行われたが、有本恵子さんや石岡亨さん、松木薫さんの名前が出されることはなかった。94年、週刊文春が記事を掲載したことにより、再度、記者会見を要請したが、この時は各社とも全く取り合わない状況となってしまった。

遠藤忠夫氏は、2回ほど、有本さんと会い「自分たちが今動いているから、いずれ帰国出来るようにします。」とか「今にも帰れますよ」などと言っていたが、その後、「パイプがなくなった」と言い捨てて手を引いてしまった。もちろん事態は何も進展していない。始めからこの記者会見を中止させることが目的であり、実質的にはその目的は達せられたといっていいだろう。有本さん等が遠藤忠夫氏の言い分を受け入れたのは、NHKの記者の紹介・同席という事実があったからである。NHKもまた共犯と言わざるを得ない。

北朝鮮は88年に有本恵子さんは死亡したとしているが、遠藤忠夫氏が「恵子さんは生きている」と言って、記者会見を中止させたのは91年である。本当に生存の情報を持っていたのかどうか、徹底的に解明されるべきである。

遠藤忠夫氏は、元共産党員、元国労幹部で、その後、左翼系出版物や機関誌を専門に扱う「ウニタ書舗」を経営。国労時代の70年代、総評の岩井章の命を受け北朝鮮と独自に交渉を行う。よど号グループの帰国実現に奔走し、北京でリーダー田宮高麿と極秘に接触した。北朝鮮のエージェント的な役割も果たしていたと言われている。日本赤軍の重信房子等の支援者でもあり、レバノンで数回に渡って重信等と面会している。

2002年3月、よど号犯妻の一人、八尾恵が「有本さん拉致」を証言したことによって、警察庁もようやく北朝鮮による拉致と認定する。拉致の経緯は八尾恵の証言に詳しい。

北朝鮮に拉致と断定 83年 欧州で不明の女子留学生

◆「よど号」元妻、関与供述

 1983年、英国留学中だった有本恵子さん(当時23歳)が失そうした事件で、日航機「よど号」を乗っ取ったメンバー(48)の元妻(46)が警視庁公安部の調べに対し、「有本さんの拉致(らち)に関与した」と供述したことから、同部は11日、北朝鮮に連れ去られたと断定、一連の拉致事件では初めて特捜本部を設置し、本格捜査に乗り出した。警察庁はこれまで、77年に新潟市内で行方不明になった横田めぐみさん(当時13歳)など7件10人について拉致されたとしてきたが、新たに有本さんも被害者と認定。警察当局が、日本人から関与を認める具体的な供述を得たのは初めてで、今後、拉致疑惑の解明が大きく進展しそうだ。

◆警視庁、初の特捜本部

 有本さんは神戸出身で、神戸市外国語大生だった1982年4月、ロンドンに渡った。現地家庭にホームステイしながら語学学校に通っていたが、83年6月、「突然、マーケット・リサーチの仕事が入った」との手紙を友人に送った後、デンマークのコペンハーゲンに出かけた。到着直後に書いたとみられる家族あての手紙には、「7月15日に現地で友達と会う」とあった。このころ、地元の情報当局が、コペンハーゲンの空港で、有本さんが北朝鮮の工作員とされる外交官と一緒にいるところを写真撮影している。

 その後、帰国予定の8月9日、実家に「仕事が見つかったので帰国が遅れる」という内容の電報が届き、10月中旬、家族への手紙を最後に消息を絶っていた。その手紙には、「ヨーロッパを回っている。仕事があるので日本に帰るのは遅くなりそうです」などと書かれており、84年6月、家族から兵庫県警に捜索願が出された。

 有本さんのその後の消息については、やはり欧州旅行中の80年6月に消息を絶った札幌市出身の男性(当時22歳)が、88年9月に家族に書き送った平壌からの手紙に記されていた。この手紙は、北朝鮮から出国する外国人に極秘に託したものらしく、ポーランドの消印が押されていたという。手紙には、この男性が有本さんと、もう1人の男性の計3人で、平壌で暮らしていると書かれていた。

 札幌の男性は80年3月に都内の大学を卒業し、パン職人になるため、スペインに渡った。姉によると、スペインに着いてから1か月間は頻繁に連絡があったが、その後、音信が途絶えたという。警察当局は、男性がスペインで、よど号メンバーの妻2人と一緒にいる写真を入手している。警察当局では、男性2人も北朝鮮にいる可能性が強く、有本さんと札幌の男性の間には子供が生まれたとみている。

 一方、元妻の支援グループのホームページなどによると、元妻は77年2月、北朝鮮に入国した。平壌でよど号メンバーの1人と結婚、2児をもうけた後、87年に日本に帰国、神奈川県横須賀市でスナックを経営。88年5月、神奈川県警に逮捕され、住民票に虚偽の記載をした公正証書原本不実記載罪などで罰金刑を受けた。当時、元妻は「北朝鮮とは一切無関係」としていたが、その後、自らよど号グループのメンバーと結婚していたことなどを明らかにしている。

 元妻は昨年12月、公安部の調べに対し、有本さんが拉致された時の状況を具体的に話した。元妻の供述は、有本さんの足取りと一致しているという。

 この元妻は12日に東京地裁で開かれるよど号メンバーの妻、赤木恵美子被告(46)の旅券法違反事件の公判に検察側証人として出廷し、当時の状況などについて証言する予定になっている。

 検察側は、この事件の冒頭陳述で「(赤木)被告は78年末ごろまで、日本革命の中核となる日本人を発掘、育成する活動に従事し、頻繁に北朝鮮と日本・ヨーロッパ各国を行き来し、獲得した対象者を北朝鮮に連れ出すなどしていた」と指摘している。

(読売新聞 2002年3月12日)

 

2002年9月17日、小泉訪朝の結果、北朝鮮は死亡を伝えた。

無念の涙 拉致 家族の25年(中)

「恵子は殺されたんだ」 手紙の2か月後、言葉失う父と母

 17日午後4時半。東京・麻布台の飯倉公館2階の洋間で待っていたのは、福田官房長官だった。「残念ですが……」。有本恵子さん(拉致(らち)当時23歳)の母、嘉代子さん(76)は「亡くなったのですね」とだけ言って、ハンカチを握りしめた。自分でも血の気が引いていくのがわかった。父の明弘さん(74)は、「きっとあの手紙と写真だ。それで殺されたんだ」と福田官房長官に詰め寄った。

 1988年9月6日。その電話を神戸市の自宅で取った時のことを、嘉代子さんは鮮明に覚えていた。

 「きょう息子から手紙が届きまして」。いきなりそう切り出してきた女性の声に聞き覚えはなかった。だが、用件を聞き返す間もなく、女性は続けた。

 「お宅の娘さんと平壌にいるそうなんです」

 82年4月にロンドンに留学した恵子さんは翌83年10月、デンマークから実家に手紙を出したのを最後に消息を絶っていた。それ以来、手がかりは全くなかった。事故に遭って死亡した――そう思いこむことで母は気持ちに整理をつけようとしていた。

 5年後に突然舞い込んできた知らせに、嘉代子さんは「平壌と言われても、すぐにはぴんとこなかった」と振り返る。

 電話をもらった相手は、80年に22歳でスペインに渡ったまま行方不明になった石岡亨さんの母親だった。数日後、札幌市の石岡さんの実家から手紙のコピーが届く。ポーランドの消印が押された封筒には、女性の写真と、腹ばいで笑みを浮かべる赤ん坊の写真が同封されていた。

 「ふっくらとした顔がすっかりやせこけ、目も落ちくぼんでいたけど、確かに娘の写真でした」

 「元気です」――手紙には、平壌市で有本さん、松木薫さん(当時27歳)の2人と暮らしている、とも書かれていた。便せんは細かく折り畳まれていた。「何とか北朝鮮から日本に届いてほしいと必死だったのだろう」。嘉代子さんは、石岡さんらの気持ちをそう推し量った。

 この時、明弘さんの脳裏には、前年に起きた大韓航空機爆破事件の報道がよぎっていた。金賢姫・元死刑囚の教育係を務めた日本人女性「李恩恵」と同様に、「娘も教育係として北朝鮮に連れて行かれたんじゃないか」――。

 嘉代子さんはすぐに上京し、自民党の有力国会議員の事務所を訪ねた。「全くの行き当たりばったりでした。居ても立ってもいられなかったんです」

 秘書の案内で、まず警察庁に行き、娘の留学から石岡さんの手紙が届くまでの経緯を2時間ほど説明したが、「外国の話なので、外務省に行ってください」と告げられた。警察庁を出たその足で、嘉代子さんは、通りを1本はさんだ外務省を訪れた。しかし、反応は冷淡だった。「北朝鮮とは国交がありません」。わずか5分で話を遮られた。その後も、嘉代子さんは夫と共に何度も何度も外務省に足を運んだ。やがて、職員は、うんざりした表情を浮かべ始め、ついには受付で断られるようになった。

 事態が動いたのは今年3月だった。「よど号」事件の実行犯の元妻(46)が、恵子さんの拉致に関与したと警視庁に自供し、北朝鮮による拉致被害者と認定されたのだ。83年に有本さんを誘ってデンマークのコペンハーゲンに渡り、北朝鮮工作員に引き渡した――元妻は法廷でも詳細に真相を証言した。

 夫婦はその直前、都内のホテルで、元妻から告白と謝罪の言葉を聞いている。

 「謝りたい」。元妻は部屋に入るなり、土下座して泣いた。「私も北朝鮮に子供2人を残しています」。そう打ち明けた元妻を、嘉代子さんは怒る気にはなれず、肩をたたいた。「彼女も向こうに子供がいて会えなくなっている。同じ境遇と思ったからです」

 19日昼過ぎ、有本さん宅の電話が鳴った。恵子さんが亡くなった日付を教える外務省担当者からの電話だった。拉致から5年後。石岡さんの実家にポーランドから手紙が届いた日からわずか2か月後の88年11月4日、恵子さんは石岡さんとともに死亡したという知らせだった。

 嘉代子さんは飯倉公館で官房長官と会った後も、娘の生存を信じようとしていた。「でも、その話が本当なら、恵子はもう……。そんな大切なことを知っていて、隠した外務省の人たちには、人の気持ちがないのでしょうか」。嘉代子さんはうつむいた。そして、彼女はこうも言った。「ずっと夫婦だけで活動してきました。誰も助けてくれなかった。あの時、すぐに国が動いてくれていたら……」

(読売新聞 2002年9月20日)

 

 

     

 

有本恵子さんに関する八尾恵の証言
 東京地裁で12日開かれた赤木恵美子被告の旅券法違反事件の公判で、八尾恵証人が証言した要旨は次の通り。

◆「主席、田宮に日本人獲得指示」

 赤木被告はよく知っている。1977年5月、北朝鮮の平壌にある「日本革命村」で、被告人と出会った。日本革命村を本拠地に、「よど号」のハイジャック事件実行犯とその8人の妻が、思想や目的を同じくする「よど号」グループとして組織的な活動をしていた。被告人は赤木志郎の妻だった。

 私は79年以降、北朝鮮の工作員と接触し、活動していたという理由で88年に旅券返納命令を受けた。同年5月25日には、アパートを借りる際、偽名を使ったとして有印私文書偽造などで逮捕され、その後、略式起訴され、罰金刑を受けた。

 メンバーの一員となったのは、77年3月。私は関西の出身で、在日朝鮮人の友人が多く、彼らが差別を受けていたため、日本青年主体思想研究会で活動した。その研究会をやめた後、在日朝鮮人でマツヤマと名乗る活動家に、北朝鮮へ3か月くらいの短期留学をしないかと誘われ、77年2月、香港やマカオを経由して平壌に入った。

 平壌では、最初、教育や映画、芸術鑑賞などをしていたが、「よど号」グループのメンバーと結婚させられた。ほかのメンバーも全員が5月初旬までに結婚し、日本革命村のアパートで家族単位で暮らしていた。田宮高麿(故人)が指導者で、次が小西(隆裕)だった。女性は当初、教育組織を作り、主体思想や朝鮮労働党の歴史、朝鮮語などの教育を受けた。

 私は77年5月14日、日本革命村で、金日成主席に会った。しかし、直接話は出来ず、後から田宮から内容を聞いた。田宮は主席から「代を継いで革命を行え」との教示を受けたという。

 日本革命を具体的に指示したもので、よど号グループが結婚して子供を産み、将来は日本で党を創建するなど革命を起こせという内容だった。同時に、主席は、「革命の中核となる日本人を発掘、獲得しなければならない」と指示したという。

 その後、よど号グループは78年ごろから、子供を産んだメンバーは任務を与えられ、ヨーロッパや日本へ向かった。

 日本人を獲得するため、いろいろな口実を作った。「いいバイトがある」「世界を見せてあげる」などと持ちかけた。当時は正しいと信じていた。日本の革命のためにだますことは仕方ない。いいことをしていると思っていた。

 日本人獲得の担当だったのはキム・ユーチョルとチョー、チェ。キムと最初に会ったのは77年3月か4月。肩書は、朝鮮労働党対外連絡部「56課」の副課長と聞いた。

 キムは日本のほか、旧ユーゴスラビアのザグレブ、オーストリア、デンマーク、フランスにも行っている。キムはザグレブの北朝鮮領事館副領事も務め、よど号グループの活動を手伝っていた。ザグレブには、よど号グループの「前線基地」があった。自分が神奈川県警に逮捕された時、取り調べでキムの写真を見せられ、「中国人のリューさん」と言った。その時はよど号グループと関係あるのは秘密だったので、ウソをついた。

 キムは「ウツノミヤ・オサム」という日本人の偽名を使い、日本のパスポートも持っていた。日本語がとても流ちょうだった。

 チョーとは77年5月か6月ごろ、初めて会った。下の名前は知らない。チョー先生と呼んでいた。ザグレブの副領事で、よど号グループの手伝いをしていた。日本語は最初片言だったが上手になった。

◆条件は思想的に無色で、素直

 私は79年12月から80年1月まで、スペインで活動していた。ヨーロッパには83年末まで。84年1月からは日本に行った。

 田宮からの指示は、日本革命村の本部にある田宮の執務室で受けた。活動資金は田宮から与えられた。拉致(らち)する日本人については、「思想的に無色で、正直で素直。義理堅く、親類に警察関係の人がいない人で、自由に行動できる人」という条件が挙げられた。

 日本人の拉致では、グループ内で男女の役割があった。男は国際手配されているため、女性が中心になって活動した。直接の接触は女性中心だった。

 83年1月、日本革命村の田宮の執務室に呼び出され、ロンドンに行って日本人の若い女性を獲得して欲しいという任務を与えられた。

 これまでは獲得者の性別は指示されなかったが、今回は「25歳までの女性。何人でもいい」だった。田宮は「女性も獲得せなあかんやろ」と言っていた。日本の革命のため、これまで獲得した男性と結婚させるためだと思った。森(順子)さんや黒田(佐喜子)さんが獲得した男性2人が平壌にいることは知っていた。

 83年3月、福井(タカ子)さんとロンドンに行って対象者を探した後、1度ザグレブに呼び戻された。5月、田宮から「この前の続きをやって欲しい。出来るか」と言われた。「出来ます」と答え、1人でロンドンに入った。

 有本さんとは5月の半ばか下旬に、語学学校で知り合った。このころ、私は「ヤノ・ムツミ」か「ヤダ・ムツミ」という偽名を使っていた。

 有本さんは、獲得対象として有望だった。条件にぴったりで、自由に行動できた。有本さんが「せっかく日本から外国に出てきたので、働きながら世界を見て回れたらいいな」と話していたので、ロンドンで私が借りていたアパートで「いい市場調査のアルバイトがあるので、一緒にやろう」と誘った。「私もアルバイトをしながら各国を回っている。私は貿易会社の市場調査のアルバイトをするためにロンドンを離れるが、有本さんも行ってみないか」と持ちかけると、有本さんは「面白そう。やってみたいな」と関心を示してくれた。その結果を、ザグレブに「いい人が獲得できそうだ」と電話で報告した。電話に出たのは当時ザグレブにいた安部公博だった。

 有本さんとは、北朝鮮と国交のあるデンマークのコペンハーゲンで落ち合って北朝鮮に連れて行くことに決めた。ただ、田宮が有本さんを拉致の対象として了承しない場合に備えて、有本さんにはまず、「貿易会社の社長がドイツのハンブルクにいるから会いに行こう」と言っておいた。

 有本さんはハンブルクに行くことを了承し、次に私は、具体的な拉致方法を打ち合わせるため1度ザグレブに行った。打ち合わせの相手は安部と、朝鮮労働党員で外交官の肩書を持つキム・ユーチョルら3人で、この時は田宮はいなかった。

◆「社会主義の国だから面白いよ」 有本さんだまし、連れて行った

 田宮にはテレックスで連絡し、有本さんを獲得することについて了承を得た。ザグレブの打ち合わせでは、安部が貿易会社の社長に扮(ふん)し、キムが北朝鮮で貿易の仕事をしている人物に扮して有本さんと会い、「北朝鮮で仕事をしてみないか」と誘うことに決まった。9月中旬、有本さんに電話をして、行き先がコペンハーゲンに変更になったと告げた。有本さんは了承した。

 コペンハーゲンでは、安部と中華料理のレストランで待ち合わせた。安部は有本さんに「貿易の仕事で市場調査をやって欲しい。北朝鮮で仕事があるが行ってくれないか」と話した。キムは遅れて到着し、安部が有本さんに「北朝鮮で貿易の仕事をしている人だ」と紹介した。キムは「朝鮮人参などを外国で売っている」と話した。

 安部は有本さんに「北朝鮮での市場調査は、滞在費や食費はただ」「日本と違って社会主義の国だから面白いよ。見学や勉強をしてきたら」と説明した。私はこの話を初めて聞くようなふりをして、有本さんに「面白そう。行ってみようか」などと話した。有本さんも「(私が)一緒に来てくれるならいいかな」と言っていた。

 有本さんが決心した後、安部は私に「別の仕事があるから後から(北朝鮮に)行ってもらいたい」と言ったが、有本さんは「必ず後から来てくれるなら」と安心した顔で言った。この後、キムが有本さんに「北朝鮮に行くにはビザが必要なのでパスポートを預からせて欲しい」と言い、有本さんはパスポートを手渡した。

 その場はいったん別れ、次の日に私たちは有本さんとコペンハーゲンの空港で待ち合わせた。私と安部が見送り、有本さんとキムが(経由地の)モスクワに向けて飛行機に乗った。私はまた日本人を「発掘」するため、ロンドンに戻った。

 仕事をしながら世界を見て回れると思っていた有本さんを、田宮の指示でだまし、獲得した男性と結婚させるために北朝鮮に連れて行った。北朝鮮に戻ってから有本さんと会ったことはない。田宮から聞いたところでは、元気に暮らし、一生懸命勉強しているとのことだった。

 自分たちの勝手な思いで有本さんを連れていき、ご家族にもつらい思いをさせてしまい、大変申し訳なく思っている。人としてやってはいけないことをやってしまった。1日も早く帰国できるよう、証言台に立った。

(2002年3月13日 読売新聞)

 

 

【参考】「よど号」支援者 有本さん両親に語る

恵子さんはどこに…

 消息を絶って以来、20年。北朝鮮に渡った「よど号」グループの拉致関与が濃厚な元神戸外大生、有本恵子さん=失跡当時(23)=の父明弘氏(74)、母嘉代子さん(77)に、同グループの帰国支援者Aさん(40)が「知る限りの情報を伝えたい」と大阪市内で面会した。情報の断片から浮かび上がる恵子さんの足跡とよど号の実態はー。(田原拓治、大阪編集部・蘆原千晶)

 ――昨年九月の日朝首脳会談で北朝鮮側は「有本恵子さん死亡」と発表した。

 Aさん 私は有本さんが「主体(チュチェ)思想の戦士」に変わっていても、生きて出てくると確信していた。ほかに「よど号」が関係している松木薫さん、石岡亨さん(二人も死亡と発表)と併せ、拉致は人道問題。それゆえ、きちんとお話しすべきと考えた。

 嘉代子さん 昨年三月の「八尾(恵・よど号メンバーの元妻)証言」まで、私たちは「(拉致被害者の)家族会」に入らなかった。「(英国での)勉強が終わったらすぐ帰りなさい」と再三、手紙を送っていたのに無視した恵子にも責任があると思っていたからだ。ある在日の人に「二十三歳にもなったら自己責任」と言われたこともある。でも「帰れない状況も拉致」といまは考えている。

■6年前「北を出た」

 Aさん 一九九七年八月十一日、東平壌のよど号事務所の一階で小西(隆裕)と若林(盛亮両容疑者)に「有本さんに会わせて」と迫った。小西はずっと腕を組み天井をにらんでいた。彼は動揺がすぐ表に出る。

 「いるんでしょ」と聞くと「出た」。どういう意味かと尋ねると「北朝鮮から出た」。「では、どこか」と言うと「日本に帰ったんじゃないのか。出てしまったので分からない」と答えた。ただ「平壌にいた」「連れて来た」という言葉は彼らから複数の友人が聞いている。ところが九八年以降、彼らはひょう変した。

■「君の聞き違い」98年に態度一変

 「聞いたことがない」の一点張り。「九・一七」後も二、三回、平壌に電話したが、官僚的な赤木(志郎容疑者)は「君の聞き間違い」と繰り返すばかりだ。

 明弘氏 彼らは日本人が北朝鮮に入れるよう便宜していると公言していた。

 Aさん 入ったのはかなりの人数。中には田中(義三メンバー=国外移送略取などの罪で東京地裁で懲役十二年の判決後、現在控訴審中)被告が仲人をして現地で結婚した人もいる。ただ、私を含め大半は帰ってきた。現地では国賓待遇。それで皆まいってしまう。

 嘉代子さん 八尾さんも恵子のほかに二人は連れて行ったと言うが、ともに帰国し家庭を持っている。

 Aさん 彼らの目的は日本革命の中核づくり。だから帰国させて当然。ただ、有本さんは英語、松木さんはスペイン語と外国語ができた。それが留め置かれた理由なのかもしれない。

 明弘氏 まだ、連中の支援者はたくさんいるのか。

 Aさん ゼロとは言えないがかなり減った。支援者には自分のように表部隊、完全な裏部隊、裏から表に移る人もいる。最後の場合は「よど号の著作に感動した。あなたと活動したい」と出てくるが、実際は前から活動家で平壌の指示で接近してくる。金や物資を送り続け、生活破たんした人も多い。結局、使い捨てだ。

■5年前には仙台潜伏説

 ――恵子さんの消息は。
 
 Aさん 「九・一七」の発表内容はウソまみれ。恵子さんらが住んでいたというチャガン(慈江)道ヒチョン(煕川)市は外国人が住む場所ではない。松木さんは交通事故で運転手と死亡したとされているが、指導員もその場にいたはずで「二人死亡」はおかしい。
 
 ――九八年ごろ、「恵子さんが仙台に潜伏している」という情報が広がった。
 
 明弘氏 「仙台説」は話の出所が分からなかった。
 
 Aさん ただ、ほぼ同時期に森(喜朗)首相の「第三国で発見」発言があり当時、信ぴょう性が増した。
 
 嘉代子さん 横田めぐみさんは十八歳のころ、精神に異常をきたし、現地の病院に入れられたそうだが、同時期に(横田さんの拉致された)新潟でもなぜか同内容のうわさが広がった。(仙台の話も)まったく根拠がないとは思えない。
 
 Aさん 知人が二〇〇〇年と翌年に訪朝した際、労働党の幹部から「(七七年に拉致された三鷹市役所警備員)久米裕氏は高齢で死亡したが、有本さんは元気でやっている」と聞いた。私は彼女がよど号の裏部隊で活動していると思った。
 
 ――有本さんが北朝鮮にいることが最初に分かったのは八八年。石岡さんがポーランド人に託し、実家にあてた手紙に書かれていた。
 
■「おばさん知らぬ」元メンバー否定

 Aさん この件で八八年五月に逮捕されたよど号メンバーのS(懲役五年の判決後、服役済み)を当時、拘置所に訪ねた。彼は拉致を否定し「きっと欧州から帰れなくなり北朝鮮に行ったことにしているのでは」と白ばっくれたが、かなりしどろもどろだった。
 
 嘉代子さん 私もSさんに九六年に会ったが、かなり気になることがあった。別れしなに恵子のことをもう一度、確認すると「そんなおばさん知らない」と話した。彼が逮捕された当時、恵子は二十代の後半。なぜ彼が「おばさん」と言ったのか。彼はその後、日本で恵子と会ったか、行方を知っているのではないか。
 
 Aさん 分からない点がもう一つある。それは手紙が案内人を通じてポーランド人に渡っている点だ。
 
■オルグに失敗し労働党に身柄?

 明弘氏 案内人は当局に絶対服従だ。北朝鮮やよど号が手紙を渡させた目的は金銭を日本の家族から引き出そうとしたのでは。
 
 Aさん ただ、そうすると有本さんや石岡さんの拉致がばれてしまう。そんなリスクを負うとは考えにくい。後によど号は別の支援者に「(有本さんらを)オルグしようとしたが失敗。労働党に引き渡した」と話している。恵子さんたちが反抗したということか。
 
 明弘氏 恵子はとても従順な性格で反抗なんかできるタイプではなかった。
 
 Aさん でも夫の石岡さんが反抗したとすればどうか。あの国では夫がはむかえば、妻も同罪。よど号グループではメンバーの岡本武・福留貴美子夫妻が八八年ごろ、粛清された。石岡さんらは同調したのか。しかし、そうならあの手紙の意味は。謎が解けない。
 
 嘉代子さん 昨年十二月ごろ、匿名電話で外務省のMさんという職員が恵子の消息情報を持っているという話があった。国会議員を通じ問い合わせたが、分からないという返答だった。

 

父『すべて話すか 北朝鮮に骨うずめるべき』

 「よど号」グループが拉致したとみられる元神戸外大生、有本恵子さんには娘がいた。有本さんの両親と面会した同グループの帰国支援者Aさんは、その子の生存を確信している。 (蘆原千晶=大阪編集部、田原拓治)

 ――昨年九月の日朝首脳会談後、北朝鮮側は有本さんが一九八八年十一月、夫の石岡亨さん、娘(リ・ヨンファ)と「石炭ガス中毒で死亡した」と発表した。

 Aさん あの細かな発表前に、知人経由でタイに常駐する韓国の情報機関筋から「有本さんの娘は生きている。よど号グループの二十人の子どもの中にいる」という情報を得た。八八年に石岡さんが実家に送った手紙には赤ちゃんの写真が同封されていたが、性別も誰の子なのかも当時は分からなかった。

 有本嘉代子さん(母) 私も恵子の子どもとは到底知らなかった。

 Aさん その情報がデマではない、と思ったのは北朝鮮側の発表前に子どもを「娘」と断定していたからだ。該当する子どもがいないか調べたが、一人疑わしい子がいた。メンバーの妹で兄を慕い訪朝した女性の長女(届け出では八八年生まれ)が「非嫡出児」扱いになっていた。平壌でグループと「日本革命村」で暮らす夫は支援者だが、本名はいまだ不明。彼の訪朝時期を計算すると、彼の子でないことは確かだ。

 嘉代子さん しかし、恵子が最悪の場合、子どもも殺されてはいないか。

 Aさん その可能性は薄い。内紛で朝鮮労働党に引き渡されたとみられる岡本武メンバーの子ども(二人で一人は帰国)も同グループが育てた。労働党も子どもにまでは手をかけない。

 タイで九六年に偽ドル容疑(無罪判決)で逮捕された田中(義三)被告=国外移送略取などの罪で東京地裁で懲役十二年の判決後、控訴審中=と面会したとき、彼は「任務でしばしば出国している間に(革命村で暮らしている)子どもの数が増えている。どうにも計算が合わない」と漏らしていたことがあった。

 嘉代子さん ということは逆に恵子は絶望的か。

 Aさん 子どもを預け、労働党の非公然活動をしている可能性もある。九七年に(リーダー格の)小西(隆裕)は私にいつか時期がきたら話す、と確約した。今から思えば、その時点で彼らも有本さんの消息を失っていたかもしれない。

 有本明弘氏(父) 連中(よど号グループ)に帰国の意思があるなら改心してすべてを話すのが筋だ。そうでなければ、向こうで骨をうずめるべきだ。

 Aさん よど号グループは貿易会社を営み、北朝鮮の国営企業とも取引があるが、金はもらってないようだ。平壌市内で外貨ショップも営み、日本やシンガポールから食料、衣料品を仕入れ、主に在日の親族から外貨を得た北朝鮮の人々相手に商売をしている。

 約二十年間、彼らと付き合って分かるのは、メンバーによって温度差はあれ望郷の念が強いこと。ただ、「いま帰っても年金はないしなあ」とか俗っぽいことを話すこともあり、ピントがずれている感じだ。

 明弘氏 この十数年間、政治家やマスコミに無視され、ほんろうされて、悔しい思いを募らせてきた。「騒がなければ水面下で帰国させる」と迫ってきた文化人もいた。

 嘉代子さん よど号は許せない。(有本さんの拉致関与を証言したメンバーの元妻)八尾(恵・元スナック店主)さんにも「子どもを連れ去られ、親がどれだけ苦しむのか、分からなかったの」と訴えたが、彼女は泣くばかりだった。

 ■家族の幸せ壊し「革命」言えない
 
 Aさん グループに言いたいのは「有本さんの両親の顔をまともに見られますか」ということだ。革命は人々の幸せのため。数少ない家族の幸せすらぶち壊して、それは言えないはず。彼らも昔はベトナム反戦などを考えた人々。良心のかけらはあると信じている。

以上、東京新聞で2003年2月に掲載された記事である。
アドレスは以下。ただし現在はアクセス不能。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030211/mng_____tokuho__000.shtml
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030212/mng_____tokuho__000.shtml