ホワイトカラーから残業代がなくなる
どうやら、日本もだんだんとホワイトカラーの会社員に残業代を払わない社会になっていきそうだ。
2014年はそんな流れが決定的になりつつある時期でもある。直近の政治的な流れを振り返ってみよう。
まず、安倍首相率いる産業競争力会議において、武田薬品工業社長の長谷川閑史氏が今までの議論をふまえ、4月22日に以下のような2つタイプの人たちを、残業代の支払い対象から外す(=エグゼンプション)案をまとめた。
1) 年収1千万円以上で高度な職業能力を持つ人。賃金は労働時間ではなく仕事の成果に応じて支払う成果主義とする。金融やIT分野の専門職種などを想定。
2) 職務内容が明確で「労働時間を自己裁量で管理できる人」。国が範囲の目安を定めた上で具体的には企業ごとに労使合意で決める方式。賃金も基本的に成果主義で、国は年間労働時間の上限について一定の基準を示すとしている。主に介護や子育てで働き方に制約がある人を想定している。年収に関係なく幅広い層が対象になり得る。
この当初案に対して、風当たりが強かったことから、5月末の発表段階では1)を基軸に起き、2を外す代わりに、「管理職候補」を加える形で修正して、会議案をまとめている。
この産業競争力会議の指針に対して、厚生労働省は、当初の1)案のみに限定し、管理職候補は加えるべきではない、という意見を示している。
ともあれ、ここまでで、政府諮問機・関と行政ともに、ある領域に関しては残業代の不支給を認める考え方が示された。これを受けた形で、6月16日の衆院決算行政監視委員会において、安倍首相は以下の要件を表明する。
■導入に際し、以下の3条件を厳守する。
〈1〉希望しない人には適用しない
〈2〉職務の範囲が明確で高い職業能力を持つ人材に対象を絞り込む
〈3〉賃金が減ることがないよう適正な処遇を確保する
この適用要件には年収規定が入っていない。そこを付く民主党の山井和則代議士から質問が続く中で、安倍首相は勇み足気味に以下のような答弁をしてしまう。
安倍氏「経済というのは生き物ですから、これは将来の全体の賃金水準とか物価水準はわからないわけですよ。ただ、現在の賃金水準では800万、600万といった人が入らないということは明確です。3原則は今後ともしっかり守っていきます。」
この下線部が言質を取られた形となって、「将来的には年収要件を下げる可能性あり」という拡大解釈が、ネットや一部マスコミに盛んに流されるようになった。これが、夏前のできこと。そして、今後は労働政策審議会に舞台を移し、次期通常国会での法案化を目指す。
ん?「残業代分も支給する」?ならなんで?
さて、この流れを見ていて、正直「やばいなあ」と強く感じている。残業代の不支給と、その対象となる年収のみが議論の的となっているからだ。その件に関しては、それほど労働者は痛手を被るわけではない。
たとえば、前年度年収600万円の人が、エグゼンプション対象となったとしよう。首相は構成要件の中で、「賃金が減らない」ことを掲げている。つまり、適用前の標準的な残業代も含んだ年収がキープされるのだから、600万円が維持されることになる。この額ならば、当面、働く人は損などしない。もう少しうがった見方をすれば、「前年以上に長時間の残業を課せば、年収は目減りしたことと同じ」という反論がなされるだろう。そこから、また過労死促進法だという批判がなされることになる。
だがしかし、こうした意見に対しては、導入賛成論者から、「さっさと早く家に帰っても年収は維持される」「不況で残業が減った場合は逆に得をする」といった再反論も出てくる。こうして、どっちが得か、損か、という水掛け論に持ち込まれ、ここでドローになってしまうだろう。その結果、経営側の本音がうまく隠し通せることになっていく。私が「やばいなぁ」と言ったのはそのことなのだ。
この意味がお分かりだろうか? ヒントは既に出している。私は先ほど「当面、損はしない」と”当面”という言葉を使った。そこがポイント。
仮に、残業は増えず年収は維持されて、600万円のままだったとしよう。エグゼンプション型の給与は、労働時間ではなく、「職務相当の給与」となる。もし、職務が変わらず、昇進も昇格もしないままなら、当然、その給料から上がりも下がりもしなくなる。これは、働く人にとって、大きな変化になると、気づかないか? 今、世の中では管理職になれずにヒラのママ、企業人生活を終える人が少しずつ増えている。そうした人たちも、現在の仕組みなら、年収は伸びる。
なぜか? 日本型の報酬システムは、同一職務同一賃金ではない。同じポストで同じ仕事を続けていても、定期昇給や昇格などでベース給与が上がる。さらに、そうして上昇したベース給に割増残業代が付加されることで、増加割合が増幅される。こうした構造だから、ヒラで同じ職務を続けていても年収は年齢とともに増えるのだ。結果、最終年収は、同一役職のままでも200万円近く普通に伸びたりする。
エグゼンプション論議には、常にいくつかの修飾語が付加されている。「欧米的な人事慣行」や「職務に応じた給与」「成果相応の報酬」といった言葉だ。それは、こうした日本の人事慣行(専門用語的には「職能主義」)を打破することを意味する。残業代の有無はそのいくつかの変化の中の一部に過ぎないのだ。
エグゼンプションは両刃の剣
どうひいき目に見ても、日本型雇用は今のままでは、継続不可能な状態になっている。だから、やや大きめの変革を起こすこと自体は仕方のないことだとも思う。問題は、そうした変化の結果、企業人のキャリアや家庭生活がどう変わるかまでしっかり設計していないことの方だ。大きめの変化であればこそ、そこまでの絵図を示し、社会に問いかけねばならない。
今回のエグゼンプション論議は、「定期昇給・昇級・残業代」という経営都合での日本型変更のみが、念頭に置かれている。もう一つの日本型の問題、働く人のキャリアや家庭生活の面にもマイナス寄与している部分をも取り除く。そうしていくならば、この変革は悪いことではない。そこを付け加えて実りある変革を起こすべきだ。
労働側の識者やマスコミに、この点をモノ申しておきたい。
残業代を払い続け、しかも、定期昇給をする分、何歳になっても無理難題を押し付けられて疲弊していくような、日本型悪労働環境は本当に良いのだろうか? 労働側のご意見番が本当にそれでいいのか?
脱日本型とは経営にとって諸刃の剣である。今は、そのボールが経営側から投げられているから、彼らの側に向くはずの刃がなまくらで、一方的に労働者側を斬るだけの都合の良いものになっている。
それではいけない。
残業代維持よりも、もう一方の刃、すなわち、労働者側から経営側を斬りつける刃をきちんと研ぎ澄ませるのが大事だ。そうすれば、働く人の得るものも非常に大きくなる。もちろん、両者ともに刃が食い込み、今までの既得権を互いに捨てねばならなくなる。そこもしっかり考えておくこと。この構造が理解されない。それは一重にマスコミの努力不足だとしかいいようがない。
実は、小泉政権から第一次安倍政権下で買わされたエグゼンプション論議は、そこにつながる研究会・審議会で、「経営側の都合」に対して、「労働側の刃」を研ぐ作業に相当力が入れられていた。とりわけ、会の重要メンバーである労働法研究者たちは、欧米の事例をもとに、エグゼンプションの本質に迫り、経営側が窮するような条件を多々、突きつけていたのだ。それらが、本当にごく軽くしかマスコミでは取り上げられず、いつのまにか、論点は残業代のみに絞られていった。
さらにいえば、産業競争力会議と並ぶ内閣の諮問機関である、規制改革会議からは、前回の論議の流れを真摯に受け止め、残業代不支給とセットで、働き過ぎを禁じ、しっかり休ませる三位一体改革の試案が同時期に提出されてもいた。こちらが内閣の指針には全く盛り込まれていない。つまり、都合の悪いところの切り捨てがおきている。そのことに、やはりマスコミは全く気づかず、ただ千年一日のごとく、残業代論争ばかり……。
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