リスドォル・ミツ(西荻窪)
2011.07.17 Sunday 00:00
82軒目(東京の200軒を巡る冒険)
テレビで廣瀬満雄オーナーが修行中の職人に怒る姿を見たことがある。
広瀬さんの妻で、パン職人でもある廣瀬千穂さんはいう。
国内産小麦、自家製酵母のみを使用する。

冷やしアップルカスタード(231円)。

ガナッシュチョコ(231円)。
廣瀬オーナーの安全へのこだわりは神経過敏すぎるのだろうか。
「パンが作れないのがいちばんつらい。
「パンがおいしいから、好きだからパン屋をやっています。

ビール酵母食パン。
並外れた情熱家だった。
「無添加パン」を標榜し、化学添加物やトランス脂肪酸の害を訴えつづけている。
たくさんの弟子たちにもっとも熱心に伝えていることはなんなのか?
「絶対に無添加で作るんだっていう気持ち、意志を持つこと。
添加物を入れて、イーストで作れば、あっというまに形のきれいなものができる。
強い心とやる気が必要です」
それだけなら、いまではめずらしいことではないが、素材へのこだわりは追随を許さない。
オーガニックのバニラビーンズを求めてフィジーへと飛んだこともある。
「コスト的にはつらいこともありますが、主人を止めることはありません。
それがうちのパンだと思っていますから」
このパンには「奇跡のリンゴ」として知られる、絶対に不可能といわれた無農薬での栽培に成功した木村秋則さん作のリンゴが使用されている。
奇跡のリンゴを買おうと思ったら数年待たなければならないという話を聞いたことがある。
「メディアで騒がれる前からの、10年来の知り合い」という廣瀬オーナーと木村氏との個人的関係から入手している。
おだやかで充実したりんごの風味に、やがてバニラビーンズ入りのカスタードののびやかな甘さが重なり、マリアージュが起きる。
両者は一体となり、香気は口中に満ちあふれる。
華やかな香りが時間とともに落ち着いていく、その変化が官能的。
パン生地はふんわりとしていながら自然な質感と味わいのみなぎりがある。
卵の味わいがゆるやかに豊かに広がる、マドレーヌのようなリッチな生地。
甘いふわふわの隙間に、ほろ苦いガナッシュが滲みこんでいく。
ビターであるけれど口によく馴染む。
舌の上にやわらかい甘さがあり、いっぽう喉をひりつかせるような濃厚さもある。
このチョコを、手間やコストを惜しまずカカオマス(カカオ豆から取り出したチョコレートの素)から作り上げている。
それは誰にもわからないはずだ。
環境の悪化がもっと深刻化すれば、むしろ廣瀬オーナーの基準のほうが、当たり前になるかもしれないのだから。
現に福島原発の事故にしても、それを予見した人は少数だったが、いまでは誰もが食品の中の放射性物質を気にするようになった。
リスドォル・ミツでは入荷したすべての材料をガイガーカウンターで検査している。
そこまで徹底するパン屋は少ないはずで、買う側にとって安心できる。
福島原発から16キロの地点にあって避難命令がだされ、営業をつづけられなくなったパン屋の店主八橋さんを、リスドォル・ミツは雇い入れている。
仕事の合間にお会いすると、
「一言ではいいあらわせないほどたくさんの苦労があった」と。
パンを作っていればそのあいだは気持ちがまぎれるのではないでしょうか」
と、八橋さんを店に迎え入れた理由について、廣瀬千穂さんは話す。
つらいこと、いやなこといっぱいあっても、お客さんによろこんでもらえたらうれしいし、自分がパンが好きだからやってるんだなって。
最後に残るのはその気持ちしかない。
面接のとき必ず聞くのは『パンは好きですか?』ということ。
だからうちにはパンが好きな人しかいません」
自家製酵母らしいやや強い香り。
薄い耳には香ばしさのニュアンスがある。
中身の食感はふわふわで、そして歯の先でぷりぷりとするのを感じる。
単にやわらかいのではなく、たしかな物質感がある。
甘くない小麦の味わいがあり、噛むほどに少しずつ豊かになり、国産小麦特有の陰影ある風味をたなびかせる。
食べやすさと本物感の同居に、15年の試行錯誤の跡を感じる。(池田浩明)
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