終戦記念日対談
金子兜太さんといとうせいこうさんが「俳句」から戦争と平和を語り合います
【政治】昭和天皇実録を公表 開戦回避できず苦悩2014年9月9日 07時00分 宮内庁は九日付で、昭和天皇の生涯の公式記録「昭和天皇実録」の内容を公表した。戦前や戦中、軍部の専横に不快感を抱き、戦争回避を模索しながら止められなかったことを戦後も悩み続けたことが、あらためて浮き彫りになっている。 宮内庁によると、国内外の公文書や元側近の聞き取りなど三千百五十二件の資料を基に編さんした。太平洋戦争開戦時に昭和天皇を支えた百武(ひゃくたけ)三郎侍従長の日記など、約四十件は未公表資料。天皇の公私にわたる全体像を把握できるようになり、昭和史研究の基礎文献がまとまった意義は大きいが、研究者は「歴史の通説を塗り替えるような新事実はない」とみている。 陸軍青年将校らがクーデターを図った一九三六年の二・二六事件では、天皇が四日間で四十回以上、本庄繁(ほんじょうしげる)侍従武官長と会って指示などを繰り返したことを記述。詳細な面会時間まで明らかになるのは初めてで、事件鎮圧に強い決意を持って臨んだことが分かる。 ロンドン海軍軍縮条約の調印に反対し、海軍トップの加藤寛治(ひろはる)軍令部長が天皇に直接辞表を提出した三〇年六月には「本日は殊に御心労在(あ)らせられたる御模様」とあり、軍部の対応に疲労する天皇の様子を侍従日誌から引用。四一年七月、対米開戦を主張する海軍の作戦にも、天皇は「捨て鉢の戦(いくさ)をするにほかならず、誠に危険」と危惧していた。 戦後に、戦争へ至った経緯や戦後の退位論などについて側近に回顧して語り、それが複数の「拝聴録(はいちょうろく)」としてまとめられたことは知られていたが、四六年秋や五三、五四年に作られていたことも新たに確認された。 実録は、天皇の生涯を確実な資料に基づいて記した年代記。宮内庁が逝去翌年の九〇年から編さんを始め、二十四年余で完成。今年八月に天皇、皇后両陛下に提出した。全一万二千ページ。大正天皇実録が一部黒塗りだったのに対し、今回はすべて公開された。来年三月から五年計画で公刊される。 (東京新聞) PR情報
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