猿以外の何者でもなかった僕は、秒単位でセクハラ妄想を繰り広げていた
コミュ症な為に、「胸を触らせて」と声を出して頼み込む事は出来ない。
だから、携帯電話のメモ帳に要望と料金を一緒に書き込んで、それを町中の女の子に見せて歩けば良いのではないかと考えた。
胸揉み3分→2500円
パンツ見せ→1800円
服を全て交換して着る→3000円
思春期真っ盛りの僕は、男のプライドを叩き割り、お金を払ってでも欲望を放とうと思っていた。
実際は行動出来なかったのだが、機会があれば120%間違いなく実行していただろう。
27歳の今になって振り返ると、社会から飛び降りてしまう行為に等しいと思えるが、あの頃は命懸けだった。
男がくぐり抜ける思春期の異常時代の話ってのは、おふざけ程度にしかしない為に、闇に紛れてしまっている場合が多い。
もしかしたら、僕と同じような発想を持ちながら悶々としていた人も多いのではないだろうか。
男の青春は、予測不可能な性的バイオリズムの波に支配される
突然ぶん殴られるように浮かび上がる猥褻な妄想により、立ち上がる事が出来なくなってしまう。
思春期を経験して来た男であれば、例外なく分かって頂けるだろう大事件である。
教師に名指しされて、「立って読んで」と言われても、お腹が痛いフリをして座り続けるしかないのだ。
抑えの利かない反応。圧倒的な反応。暴君のような反応。
「ごちゃごちゃ言わずに立ち上がって読め!」と教師が怒鳴ったら、ヒステリックに反撃するしかなくなる。
「頭が痛い。もう割れそうだ。駄目だ……」と叫んで失神する演技を行う。
男はこれほどの戦いを繰り広げて思春期を卒業するのだ。
春夏秋冬。緑が芽吹く春。ヒマワリが咲き誇る夏。落葉樹の葉が飛び散る秋。雪の結晶がやってくる冬。
あるかぎりの自然現象を背に負い、反応に苛まれる男。
思春期の男に、冬眠と言う概念など存在しない。
誰も触らせちゃくれない
誕生日や正月に舞い込む大金。
重なる札を見つめては、「これがあれば触らせてくれるかもしれない」とまじないをかけるように延々と繰り返した。
しかし、誰一人として触らせちゃくれない。
その前に、僕が注文をしていないのだから、サービスを受けられないのは当たり前である。
世の中は皮肉なモノで、最も望んでいるモノの所にはやって来ないように出来ている。
僕のコミュ症は、情けは人の為ならずを実行する為のものであったのだろうか。
小銭で体を授ける人間を増やさない為に、プログラムされているのかもしれないと考えた。
「宗教のようなものか……お布施をした次の日に幸福が舞い降りるような即効性はないのだな」
この考えに行き着いた僕は、徳を積む人生を歩む事を決めた。
結局、初触りまでに7年近く掛かった。
雨に煙るような道のりで、何度も挫けそうになったが耐え抜いた。
「お金じゃない、運が全てだ!」と確信した
初めて女の子の裸を観たのは16歳だったと思う。
この頃、ズブズブにハマっていたMMORPGで出会ったギャル系の女の子に、写メを送って貰ったのだ。
「好きになってしまったかもしれない。だから全て見たい」と主義主張を雑に放ると、「いいよ」と一つ返事してくれた。
最初の段階では着衣画像であったが、気づくと何段も上へと駆け上がっていて、そこにはヌーディストビーチがあった。
お互いに多感な年齢だったのもあり、ネットだからこその過剰な美化が入り込んだせいで、一度も会ったことがないのにラブラブ状態なのだ。
要望したポーズの写メがレンジで温めるポップコーンのように、ぽんっぽんっと軽快にやって来る。
唯々諾々と従う女の子は、メイリンだかそんな名前であった。
僕の性的倒錯で溢れる精神が作り出した聖人なのだ。
写メ連打の幸福期を経て、僕は運こそが全てと言う考えを所有するようになる。
お金じゃない……運だ。
この後も、チャットでの出会いに恵まれた事で、ますます運こそが全てと言う考え方が連続強化されてしまう。
学習性無力感ならぬ学習性有力感がべったりくっついていた。
「世の中は運だ。金ではない運だ。運で全てが決まる」
こうして僕は、お金を出してセクハラをしようとする危険な枠の中から外へと逃げ出す事が出来た。
行動力のない猿で良かったと心底思う
お金を払ってセクハラさせて貰い満足する。女性蔑視者以下の行いを平然としようとしていたのだ。
もしも、突き抜けるような行動力を秘めていたらどうなっていたであろうか。
過剰な性欲に加え、あまつさえ異常性癖となれば、少年院に直行していたかもしれない。
元来自制心の弱い僕は、至る所にある誘惑に手を引かれ、善なる部分は一瞬のうちに終滅したであろう。
「もう全ての希望は来世に託すしかない」と考えていたぐらいの孤独に苛まれていた僕は、究極に屈折して行く。
一時期、『やりたい事100のリスト』なるものが流行ったが、僕はそんなものに一瞥もくれてやらなかった。
僕は、『性的なやりたい事100のリスト』を作るのに奮励努力していたからだ。
高級な質感を持つモレスキンと、滑らかな書き味の万年筆ペリカンを購入した。
猛烈な勢いでノートを黒と青で埋め尽くす。
靴下をもらう。
脚で踏んでもらう。
ルーズソックスを履いてもらう。
などと、ソフトなものを中心に書き殴ると、その数は何百にも上った。
「今の僕にはこれらの夢を手に入れる資格はない。お守りとして飾っておき、来たるべき時の備えとするのだ!」と熱く性的な魂をモレスキンに封印。
それからの僕は、雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ頑丈さを得たように飄々と生き延びて来た。
正邪に揺れる思春期を、モラリストとして耐え抜いたのだ。
忍耐であり、椿事であり、重荷である時の流れの音を聴き続けた。
そして、この時間こそが冒険であり使命であり夢であった。
日記
風邪治らず。
フランスの数学者パスカルは、『病気は健康者にとっては耐えがたい、それは健康であるというまさにその理由によってである』と言う。
正にその通りで、希にしか病に伏さない僕に取っては、毛虫を飲み込まされているに匹敵するおぞましい辛さなのだ。
などと、難解な言い方をしなくとも、何故辛い風邪が延長するかの理由は分かっている。
静養せずに心身を痛めつける本を読みふけっているからだ。
本日は仕事終わりに、『絶望ノート』と言う本を読み切ったのだが、これが更に風邪を悪化させた。
メンヘルと呪詛に塗れた傑作であり、止まらなくなるのだ。
世界が横に回転するかのような頭痛と、心臓の辺りから拡散する極度の寒気が僕を身震いさせる。
毒された二日間だ。
まぁこんな馬鹿な記事を書いたりしているから、苦痛とバイバイ出来ないのだろう。病気が不機嫌になって暴動を起こしているのだ。
たかだか風邪だと舐めて掛かると馬乗りになって顔が腫れ上がるまで殴られる事を身を持って知った。
クロロフォルムを吸引し続けて失神したい*\(^o^)/*