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08 Sep 2014 11:07

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HKT48指原莉乃はなぜ「頂点」に? セルフプロデュース時代におけるトップアイドルの条件

リアルサウンド 9月8日(月)7時0分配信

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HKT48指原莉乃はなぜ「頂点」に? セルフプロデュース時代におけるトップアイドルの条件

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HKT48指原莉乃はなぜ「頂点」に? セルフプロデュース時代におけるトップアイドルの条件
指原莉乃『逆転力 〜ピンチを待て〜 (講談社 Mook)』

・「お行儀が良いだけのアイドル」はもうどこにも存在しない

「ネットでアイドルを募集しようとする人は、こっちがやりたいアイドルのイメージを、できるだけこと細かく書くことが大切です。最近はオーディションに応募してくる側の子もアイドルに関してかなりの知識を持っているので、「ここのカラーに自分は合うのか?」を意識しています。」
(『ゼロからでも始められるアイドル運営』大坪ケムタ、田家大知 P34)

 今の時代のアイドルのオーディションは、「運営サイドが女の子たちを選別する場」であると同時に「運営サイドが女の子たちに選別される場」でもある。自分が一番輝ける場所はどこか、自分が一番輝けるスタイルは何か。そういった判断の積み重ねによって、それぞれのアイドルは成り立っている。

 ここから読み取れるのは、「アイドルらしくないアイドル」という褒め言葉が醸し出すなんとも言えない不毛さである。ももクロやでんぱ組あたりを形容するこのフレーズは、「自主性、表現欲求、破天荒、がむしゃら」といった「一般的なアイドル(おそらく80年代の歌番組で下手な歌を歌っていた清純さが売りの女の子のイメージ)とは異なる要素」を過剰に賛美するために使われる。しかし、今となっては「自主性も表現欲求もない、単にお行儀が良いだけの女の子としてのアイドル」などこの世のどこを見渡しても存在しない。SNS、ライブ、ライブ後の接触、それぞれの場面において個々のパーソナリティーを伝達するのは自分自身にしかできないわけで(バックに「大人」がついていたとしても)、すべてのアイドルにとって「自分をどう見せるか・どう見せたいか」というセルフプロデュースの考え方は必須である。昨今のアイドルに関する言説を整理した『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』(香月孝史著)でも指摘されているとおり、そういった最低限の前提を理解せずに「操り人形」といった言葉を弄ぶ「アイドル論」にはもはや何の実効性もない。

 セルフプロデュースという概念は、昨今のアイドルを取り巻く環境を考える上でとても重要な要素だと思われる。そして、そのスキルを最大限に活かしてアイドルシーンのピラミッドの頂点に上り詰めたのが指原莉乃という人物である。

・指原莉乃は「アイドルらしくない」のか

 「へたれ」という微妙な立ち位置を逆手にとって注目を集め、選抜総選挙の順位も右肩上がり。2012年には篠田麻里子や板野友美を抑えて4位まで来た矢先に、過去の男性スキャンダルが報じられてAKB48からHKT48へ移籍。そんな状況にあってもスキャンダル自体を笑いのネタにする図太さを見せ、一方では博多の若いメンバーを先輩として、さらには劇場支配人としてバックアップ。グループの底上げを実現するだけでなく、ついには2013年の総選挙で1位を獲得。今年は2位に甘んじたものの、テレビでの露出や業界内での評価は今でも圧倒的。
指原莉乃のここまでの歩みを見直すと、それが従来の「アイドルらしさ」からは遠くかけ離れていることが分かる。自分の弱い部分を自虐的なスタンスで独自のキャラクターに変換する手法はやろうと思ってもここまで鮮やかにできるものではないし、そもそも「男を知らない」という女性アイドルにとっての建前すら成立していない。そんな彼女が今ここまで支持を得ていることにはどんな意味があるのだろうか。

 前段でも触れたとおり、10年代のアイドルシーンは「(単にビジュアルやパフォーマンスの良さを競うのではなく)パーソナリティー全体でいかに相手の心をつかむか」というのが争点となっている。ある意味では「コミュ力・自己演出力至上主義」的なマーケットといっても良い(そのこと自体の是非はここでは論じない)。この軸で数多のアイドルを評価すると、指原莉乃のコミュニケーションスキルはおそらく群を抜いている。

 著書『逆転力』において、指原はその「技」の一部を開陳している。

「おじさんと喋るのは得意だと思います。接し方としては、すっごい立場が上の人には友達感覚で話して、ちょっと偉い人には下から行く。」
(『逆転力』指原莉乃 P121)

 このくだりを読んだ際には正直少し戦慄した。こういった他人との間合いの取り方こそが彼女の本質であり、その能力が握手会のコミュニケーションやライブのMCなどにも生かされているのだと思われる。

 また、アイドルとファンの距離が近くなったからこそ避けて通れない「アンチ」の問題についても、指原のスタンスは徹底している。「悪口を言うのは一周回って好きと同じ」という究極のポジティブシンキングを披露した上で、むしろそういう盛り上がりを歓迎している。

「アイドルって、好きな人と嫌いな人が両方いることで盛り上がる、と私は思っています。賛否両論があることで、人気がふくらんでいく。」
「話題がないことが一番怖いんです。燃料をどんどん足していかないと鎮火しちゃうから、鎮火する前に「好き」でも「嫌い」でもいいから、話題になるような燃料を見つけて自ら投下する。」
(『逆転力』指原莉乃 P140)

 「とにかく話題になることが大事」という哲学は情報過多の今の時代において一理ある考え方だとは思うが、誰しもができるものではない。精神的な負担は間違いなく大きいし、それが肉体を蝕む可能性だってある。それでも、指原は「ずっと2ちゃんねるを見ていたから炎上はコントロールできる」と意に介さない。

 指原莉乃という存在は、大昔のアイドル観からすればおよそ「アイドルらしくないアイドル」だろう。しかし、昨今の「“コミュニケーションゲームとしてのアイドルシーン”を渡り歩く存在」という視点で考えると、指原ほど「アイドルらしいアイドル」はいない。対峙している相手や状況を観察して自分がやるべきことをやる、もっと言えば自分自身のあり方を変化させていくというセルフプロデュース力が彼女をトップに押し上げたのである。

・「セルフプロデュース」から「プロデューサー」への道筋

 長年J-POPの動向を追いかけていると、ときたま「プロデュースされているはずだった人が、いつの間にかプロデュースしている人の思惑を超えていく」という事例にぶつかる。例えば「SPEEDに憧れていたアイドルがテクノポップを歌わされている」という形で始まったメジャーフィールドでのPerfumeというプロジェクトは、いつしか「3人の自立した女性の物語」に進化していった。また、Perfumeブレイクの立役者でもある木村カエラも、「モデルが歌を歌う」という見え方でスタートした音楽活動が今ではたくさんのミュージシャンのクリエイティビティを刺激している。

 この潮流をさらに遡っていくと、我々は小泉今日子という存在にたどり着く。正統派アイドルとしての出自を持ちながら、サブカルチャー界隈でも独自の存在感を開花させた彼女の「面白さ」を決定づけたのは「なんてったってアイドル」という曲であった。ジャンルをメタ化してアイドルの新しい楽しみ方を提示したこの曲を作詞したのは、誰であろう秋元康である。

 小泉今日子、木村カエラ、Perfume。この流れに指原莉乃も連なる、と言ったら違和感はあるだろうか。自分のやりたいこと、ありたい姿を思い描くことで、周囲がイメージしていたレールを勝手に書き換えていく強さ。ここに挙げた面々と指原にはそんな共通点があると思う。

 そして、偉大な先人たちと比較しても指原莉乃のみに課せられている使命がある。それは、自分の強みであるセルフプロデュース力を「他者のプロデュース」にも展開すること。HKT48は名実ともに指原のグループであり、今年の選抜総選挙での大躍進は彼女の手腕の証明としては十分であった。ただ、指原のプロデュース手法は基本的には「弱者の戦略」であり、「何も持ち合わせていない自分がどうすれば良いか」「先輩グループに負けているHKT48が何をすれば良いか」という発想から組み立てられている。自分自身もグループも人気が固まってきたタイミングで、このやり方がどこまで通用するか。また、通用しなくなった時に新しい打ち手を見つけることができるのか。まもなく最初の正念場が来ると思われる。そしてそこを乗り越えた時には、秋元康が黙っていないだろう。ゆくゆくは「二代目秋元康」として・・・そんな途方もない未来が待っているのかもしれない。

レジー

最終更新:9月8日(月)7時0分

リアルサウンド