昨日書いた
という記事がtwitter、facebook、はてなブックマークなどでバズを起こしており、昨日から今日にかけてたいへん多くの方に当ブログの記事を読んで頂きました。ありがとうございます。
文責者として、ブログのコメント欄や、twitterの反応、はてなブックマークのコメントは出来る限り目を通すようにしておりますが、もし直接自分にメッセージを送りたい方は
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さて、昨日のブログの反応で
「この人何者なんだ」「どんな講師なのか気になる」というコメントをtwitterなどで多数頂きました。
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(確かにネット上の発言って実際はどんな人が言ってるのか気になりますよね…)確かに教育に関して偉そうなことを言ってる割に自分の経歴などはほぼ公開していないので、「こいつ何者だ」と言われるのも仕方ないよな~と思います。
そこで、本稿では自分がどういう経歴の人間で、どういう経緯で「出来ない子」専門の先生になっていったのかをつらつら書いていこうと思います。
【もともとは「出来る子」側の人間だった】
もともと自分の幸運な「出来る子」側の人間でした。
教育熱心で所得が高い家庭に生まれ、小学校低学年から知育教室や学習塾に通い、親に言われるまま中学受験の勉強をして、中学受験で慶應義塾湘南藤沢といういわゆる「名門私立」に合格し、そこに進学しました。
当時は本当に馬鹿な子供だったので、中学受験に成功した時は完全に天狗になり
「自分は頭がいい」
「他のやつとは違う」
そんな風に思っていたと思います。
幸い自分が行った中学はほぼ全員が「自分は頭がいい」「他のやつとは違う」と思っている中学校だったので、こんな勘違いから周りと衝突することもなく、スポーツをやったり当時黎明期だったMMORPGにハマったり、彼女を作ろうとするも全く彼女が出来なかったりなどと、極めて平均的な青春を過ごしました。
そんな平凡な高校生活の全てが変わったのは、自分が高校生になってからでした。
【実家の破産と高校中退と入院】
自分が高1の時、父の経営している会社が倒産し、父自身も自己破産しました。
家の経済状況は一気に悪化し、住んでいた家を失い、違う街の集合住宅に引っ越すことになります。
専業主婦だった母は精神的に不安定になり、元々悪かった夫婦仲はさらに悪化し、最終的に父は家を出ていき、結局両親は離婚することになりました。
今となっては淡々と語ることが出来るようになりましたが、15歳の自分にとっては相当キツかったんだと思います。元々悪かった成績はさらに悪くなり、学校に行けない日が1日、2日、と増えていき、高校1年の後期にはほとんど学校に行けず、自室のベットで1日の大半眠っているような状態になりました。いわゆる「引きこもり」です。
当時は平均して1日16時間ほど眠っていたと思います。典型的なうつ病から来る過眠症でした。眠って、起きて、1日1回食事をして、PCでゲームをして、すくまた眠る…という生活です。当然、高校には行けません。せっかく入った大学附属の学校でしたが、高1で中退することになりました。
しかし、それも当時の僕にはどうでもいいことでした。当時頭の中にあったのは、ただ「眠い」と「苦しい」だけだったと思います。どこも身体が痛くないのに「苦しい」というのは、当時の僕にとっては理解不能で、とても気味悪く思ったのを覚えています。精神的疾患というのは経験しないと理解できないものなんですね。鏡の前で笑顔をつくり「なぜ笑えるのに苦しいふりをするのか」と自分を責めたりもしました。今考えると完全に病人の行動です。
しかしそんな生活がしばらく続き、延々と眠り続けている自分にさすがに違和感を覚えると、本屋で「家庭の医学」を開き自分に合う症状を探しました。結果、「これはうつ病だ」と自己診断を下します。
母親に「自分はうつ病だと思うから医者に行かせて欲しい」と頼み、治療費をもらうと近所の心療内科にかかることになりました。まだギリギリ在学中の頃です。
心療内科でうつ病の診断結果をもらい、治療を始めますが1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月…半年経っても全く改善しません。相変わらず僕はコンコンと眠り続けています。結局小児精神科を専門に扱う大きな病院に転院することになり、そこで入院治療を受けることになりました。僕が17歳の時です。
【入院中にはじめて「出来ない子」たちと触れ合う】
入院先の病棟は静かな所でした。
なんというか…雰囲気は美術館とか図書館とか、そんな感じです。病室やロビーも病院特有の潔癖っぽさがなく、ウィークリーマンションのような、そんな感じの施設でした。
他の患者もほとんどが普通の小学生/中学生/高校生にしか見えない人たちで、「奇声を上げて狂人が走り回ってる」「拘束された人がうめき声を上げてる」的な世間の精神病院イメージとずいぶんな差があったのを覚えています。
(世間の精神病院イメージ。ぜんぜんこんなんじゃありません。)
僕は17歳で入院したので、18歳までを専門とする小児精神科の病院ではほぼ最年長です。自然と他の子の面倒を見るような役回りになり、ずいぶん看護師さんたちにはこき使われた記憶があります(笑)
そんな「雑用」も治療の一環だったのでしょう。少しずつ、少しずつ、僕の体調も回復していきました。1日16時間だった睡眠時間が14時間、12時間…とだんだん短くなり、原因不明(?)の苦しみも少しずつ薄れてきました。
そんなある日のことです。病棟の「雑用」の一貫として、年下の患者の宿題(病棟から学校に通っている子も多い)を手伝うことになりました。確か中学3年生くらいの子たちだったと思います。
「ここがわかんない」
と見せられた問題の、まずレベルの低さに驚愕しました。中1でやるはずの「比例式」です。
「ええとね、5:3 = X:6 だと、右の右辺は左の右辺の2倍になってるよね?」
と説明するのですが、中々理解してもらえません。
そこで、そもそもどこから理解してないのかを確認するために色々質問してみたのですが、まずそもそも「右辺」「左辺」という言葉がわかってない、それどころか「割合」という概念が怪しい、と当時の僕にとっては色々衝撃的なことがわかりました。
場所が場所なだけに知能面で問題を抱えているのかな?とも思いましたが、他の患者も同じようなレベルの子がたくさんいますし、そもそも彼らの病名も知っています(仲良くなると結構教えあう文化がある)し、普段の生活の中の彼らは健常者そのものです。色々考えた結果、「恐らく知能には問題ない」と結論づけました。
自分の「先生」としての原点はここにあるのだと思います。その後も度々宿題の手伝いを行い、解説に苦心したり、躓いている分野の基礎分野を教えたりと、色々な工夫で勉強のサポートを行いました。そして指導していくうちに「出来ない子」たちは、単純に様々な事情で「学ぶ機会」を奪われただけで、能力にも意欲にも全く問題がないということがわかってきました。
確かに僕と同じように引きこもりで学校に言ってなかったり、病気で家から出られなかったりということが早い時期からあると、基礎学力の構築は極めて難しいものになります。その生きた実例が病院で出会った患者仲間たちだったのです。
「自分は特別に頭がいいから難関中学に受かった」と考えていた自分としては衝撃でした。自分は単に「学ぶ機会」に恵まれただけだ。収入に余裕があった親から手厚いサポートを受けていたから、たまたま成績を上げる「機会」に恵まれただけだ、強くそう思いました。自分の傲慢さを恥ずかしく思いました。
そんなことを考えながら、いつしか入院して8ヶ月が過ぎ、退院が許可されました。
【退院…しかし全く上手くいかない大学受験】
病気で躓きはしたが、まだ人生は長い。高認(旧大検)を取って大学に行き直そう。
そう考え、退院後しばらくした後に、受験勉強をスタートさせました。中学受験以来、6年ぶりの受験勉強です。
中学受験時代、正直言って僕はほとんど家で勉強しませんでした。塾での学習だけで、だいたい偏差値65~からは取れてましたし、「努力して合格した」という感覚はほとんどありません(これが前述の勘違いに結びついています)。なので、まぁ今度の受験もなんとかなるだろう、そう楽観的に思っていました。
完全に甘い見通しでした。
まず高校で学ぶ課程が全くわからないので、大学受験用の参考書に全く歯が立ちません。大学付属校上がりだったので受験知識もなく、模試を受けるにしてもどの模試を受ければいいのかわかりません。自分の実力がわからないので、どの問題集を買えばいいのかわかりません。予備校の講座を取るにしてもどの講座を取ればいいかわからないし、そもそも入塾テストの段階で弾かれることすらありました。
周りに受験をする友人もいないのでモチベーションも上がらず、うつ病の後遺症で集中力も途切れがち。そもそもお金が全くなかった為家から外に出ることもできず、交通費や飲食費を稼ぐためバイトを始めたり、バイトという久しぶりの人間関係に心底疲れてしばらく引きこもったり、全く勉強は捗りませんでした。
結局、中学受験時代の僕がぐんぐん成績を伸ばせたのは、周りの大人たちが完璧な環境を整えてくれたおかげだったんだ、ひとり孤独に大学受験に挑む中で心底そう思いました。
独りでは、受験情報の入手も、わかりやすい指導を受けることも、モチベーションの維持も、何もできませんでした。いつの間にか僕も「出来ない子」の仲間入りをしていたのです。
結局2年以上かけたものの、第一志望の大学には落ち続けました。2年間ほぼ全てを受験に費やしたにしては不本意な結果です。しかしすべり止めの大学になんとか引っかかり、ようやく大学受験を終えました。全てが終わった時は「やっと終わった」と心底からホッとしたことを覚えています。
【「出来ない子」のための先生として】
「あくせく勉強せずとも難関校に受かる秀才」だと思っていた自分が、たった6年間で「塾の入塾テストに落ちるレベルの劣等生」に転落していた事実は、自分の中で極めて衝撃的でした。
自分の実力、自分の才能、自分の力だと思っていたものは、全て恵まれた環境によって「与えられていた」ものだったのです。本当に、全てが勘違いでした。
しかし、ここでふと気付きました。
しかし、ここでふと気付きました。
僕は「自分は秀才だ」と勘違いしていました。恵まれた環境ゆえです。
ということは、「自分は馬鹿だ。駄目なやつだ」と「勘違い」している人も多いのではないか?
特に僕や入院先の病棟仲間のように、引きこもりを経験した人や高校中退者は、「自分は馬鹿だ」という勘違いを他の人達よりも圧倒的にしがちなのではないだろうか?
そこで早速手製の家庭教師先募集チラシを配り、駅前の公共掲示板や区役所に張り出してみました。そこには自分の経歴と連絡先を書き、「自分だからこそお手伝いできることがあると思う」と記しました。300枚ほど各地にバラ撒いた後しばらくすると、ある男性の親御さんから連絡を頂きました。
「息子は高校を中退後、通信制の高校に通っているが、成績は酷く、このままでは大学受験は絶望的だ」
という内容です。
実際に会って詳しく状況を伺うと、まさしく「もうひとり僕」とでも言うような状況で、不安や孤独や情報不足や間違った勉強方法により、完全に自信と意欲を失ったM君がいました。
しかも詳しく話を聞いてみると、僕と全く同じ失敗をしています。
「M君、どの参考書で勉強してるの?」
「これと、これと、これです」
(全部同じ科目のしかも似たような問題集だ…僕もこれやったな…)
「実際にやると、これでいいのかわかんなくって、平行して色んなのに手出しちゃうよね」
「そうなんです!不安で、途中で違うのに変えたら、いつの間にか3冊も手出しちゃって…」
「めちゃくちゃわかる。2年前全く同じことやったよ…。よし、それぞれの参考書の特徴を教えるから、一緒にどの本を使うか考えていこう」
2年以上の僕のどん詰まりは、こういった同じような失敗に対してどう対処すれば良いのかの豊富な知識を与えてくれていました。こうして「出来ない子」専門の家庭教師として僕のキャリアがスタートします。
【その後】
M君の案件を皮切りに、ビラ経由や口コミでちらほらとお声がかかるようになり、本格的に家庭教師としての活動をスタートさせました。
また個別指導塾「TOMAS」や「家庭教師のトライ」などでも平行してアルバイトを始め、先輩講師のテクニックを学んだり、豊富な層の子供たちに教えたりして、段々と先生としての技術を身につけていきました。現在教育業に携わって6年目になりますが、おかげさまで多少は「マシ」な先生になれたと思います。
もちろん全て上手く行ったわけではありません。自分では助けられなかった生徒も沢山います。
しかし、多少なりとも自分の力で上手く手助けできた生徒たちも多かったのではないか、と密かに自画自賛しています。
というわけで、以上が僕が「出来ない子」専門の先生になるまでの経緯です。
なんか書いてみたら自分語りが長くなり、たいへん気恥ずかしいのですが、せっかく書いたので投稿してみます。
また、もし「自分は駄目だ」と思ってる方がいたらぜひ相談してください。きっとそれは勘違いです。僕が自分を「秀才だ」と思っていたのが勘違いだったように、君の「自分は駄目なやつだ」というのもきっと勘違いなはずです。
人間は環境の生き物です。良い環境、悪い環境によって簡単に左右されます。頑張りが報われない環境いうのは確実にあるのです。自分ばかり責めるのはもうやめましょう。そうではなく、「どうすれば自分はもっと良くなれるのか」を前向きに考えることを始めましょう。
メールアドレスを改めて下に残しておきます。コメント欄やtwitterでも構いません。お子さんやお孫さんのご相談でも大丈夫です。自分の答えられる限りのアドバイスをさせて頂ければと思います。
本当に、どう足掻いても「出来ない子」のままの生徒は、決して多くありません。
自分の可能性を、お子さんの可能性を、あまりに早く見限るのはどうかやめてください。
1人でも多くの「出来ない子」が「出来る子」になる未来が来ることを願っています。
メールアドレス
ganbare_zinrui[@]resta.main.jp
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