孤高を翔ける 葛西紀明【2014 初夏】
7:メダルへ強い自信 亡き母の手紙携えず
ソチ五輪で銀メダル、銅メダルを取った葛西は帰国後、2つのメダルを出会った人にどんどん触ってもらい、世間を驚かせた。家族も関係者も母校や故郷の人々も、一般のファンにも惜しげもなくメダルを触らせた。
「国民が応援してくれたのは感じたので、うれしさもあったし、できる限りの人に触らせて、持たせて、こんなに重いんだよと、メダルの重みを感じてもらいたかった」
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幸せのおすそ分けは、普段は選手と一定の距離を置く報道陣にも向けられた。「報道陣はいつも、ただ見て、ただ取材をするだけで、メダルを触れないじゃないですか。知っている顔もいるし、応援してくれていたのもわかるし、触らせてあげたいと思った」。葛西とメダルの周りには、いつも笑顔の輪ができた。
姉の濱谷紀子は、弟の行動を見て思った。「傷ついても磨けば良いって言っていたから、紀明らしいなと思った。私もきっと(同じように)やります。だから、すごく『わかる、わかる』と思いました」。
弟の活躍で、姉にもマスコミが殺到したが、「時間が許す限り全部受けよう」と献身的に取材を受けた。「人を喜ばせたい」というサービス精神は、1997年に不慮のやけどがもとで48歳で亡くなった母の幸子譲りでもある。
母は生前、息子が壁に当たるたびに心配して何通もの手紙を書き残した。葛西は母の手紙を大事に保管し、大切な試合には必ず持参した。しかし葛西は、W杯で10年ぶりの優勝をするなど自信を深めたことで、ソチ五輪には手紙を持っていかない決心をした。
「それ(手紙)に助けてもらわなくても大丈夫だという気持ちがありました。アレを見る時は、本当に弱い自分が出て、それに支えてもらっているという気持ちでいました。今回は、オリンピックでメダルが取れるという自信があって、すごい強い気持ちがあったので、手紙は置いていきました」
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今五輪で葛西が起こした最大級のサプライズは、メダルの有無は関係なしに五輪を花道にする気持ちなど微塵(みじん)もなかったことだ。五輪前の1月、入院中の妹を除いた家族が札幌に集合した時、自ら「4年後、平昌(韓国)の時は絶対に家族で行くぞ!」と気勢を上げていた。ソチ五輪が始まる前に、すでに4年後を見据えていた。家族の中には、五輪後に結婚することになる妻の姿もあった。
悲運のヒーローの物語はソチで終止符が打たれた。葛西は心技体、公私ともに新たな境地で、4年後の金メダルを目指す。(敬称略)
(スポーツライター・岡崎敏)
=次の連載は7月下旬の予定です。
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