ちょっとしたきっかけで、めちゃめちゃ久しぶりに茶の本/岡倉天心著を読み返してみたら、存外こんなおもろいこと書いてたんやみたいになったので、ちょっとメモ。
「一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。」
「いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう」
「不幸にして、西洋の態度は東洋を理解するに都合が悪い。キリスト教の宣教師は与えるために行き、受けようとはしない。諸君の知識は、もし通りすがりの旅人のあてにならない話に基づくのでなければ、わが文学の貧弱な翻訳に基づいている。」
いきなり第1章からとんでもない煽り方を連発してくるので、ひくのを通り越して笑ってしまったところ。
これをふまえて考えたことには、西洋側は東洋や日本のことをステレオタイプなりジャポニズムなりの偏った目でしか見てない、っていう考え方それ自体が、我々側の持つステレオタイプのひとつであり、そのことは認め自覚しておかなならんな、と。いうことともうひとつは、そもそもそういうステレオタイプな見せ方をしてきたのは他ならぬ日本側の方ではなかったのか、というのは、この本全体に対してもちょっと考えどころかなと。
いうのを、かつて、ケンペルの日本史の挿図をスライドで見せてなんかおかしな日本理解してますねってぽろっと言ったら、いやケンペルはそういう見方はしてないということがうちとこの資料ですでに判明してるんだよ、って大英図書館の人にやんわり説明されて至極赤面・猛省した、という経験のある身としては忘れんとこう、と。
「茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。」
そんなもんかなあ。
「たぶんわれわれは隠すべき偉大なものが非常に少ないからであろう、些事に自己を顕わすことが多すぎて困る。」
反省・・・。
「明の一訓詁学者は宋代典籍の一にあげてある茶筅の形状を思い起こすに苦しんでいる」
元によって、宋から明に文明が伝わらなかった、ていう話。
「われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している」
個々の問題にしらみをつぶすように体当たりしたりとか、図書館のことを考えるのに図書館のことだけしか考えないとか、それを嘲笑して大学全体・自治体全体のことを考えろよと野次ってるわりにはその大学のことだけ、その自治体・役所の論理だけしか考えてなくて社会人類のことを考えてないとか、そういうんではなくて、”芝居”全体を知ってなならんなあ、と。
「茶室の簡素清浄は禅院の競いからおこったものである。禅院は他の宗派のものと異なってただ僧の住所として作られている。その会堂は礼拝巡礼の場所ではなくて、禅修行者が会合して討論し黙想する道場である。」
”場”が持つ機能についてのヒントは、図書館以外のところにたくさんある。
「禅の考え方が世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表わすものとしてことさらに避けていた。意匠の均等は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。」
これはなんとなくわかる。
「他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて」
これもわかる。結局、対象に自分の考えを投影させるだけでは、しょぼい問題解決にしかならないという。
「近松が言うには、「これこそ、劇本来の精神をそなえている。というのは、これは見る人を考えに入れているから公衆が役者よりも多く知ることを許されている。公衆は誤りの因を知っていて、哀れにも、罪もなく運命の手におちて」
これは創作のてっぱん。
「われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ」
流行りにジタバタするなよと。
「われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたこと」
対象を分析することそれ自体を目的としても、おもろいことは起こらんだろう、と。
そんな感じです。