文人商売

「ソーシャルゲーム批判」の人です。

「いいひと」が得をする社会になってきたのか?



 「いいひと」って損をするイメージが強い。人がいいと騙されやすいとか、限られた資源や勝者の座を譲ってしまったりするやつは経済社会で生き残れないとか。あと、いい人は最終的に女の子をものにできないっていうのもあるよね。ワイルドだろ?って感じで、グイグイ引っ張っていくようなDQNのほうが女子にモテるみたいな話。まあ、今どきちょっと気骨のある女の子にそんな考えを話したら軽蔑の目で見られるだろう。


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 たしか、どういう戦略が最終的に得をするのというゲーム理論の実験で、最初は協力、相手が協力してくれたら次も協力、相手が裏切ったら次は裏切り、というシンプルな戦略がもっとも得をするという結果が出たんだっけ。でも、これからはずっと「協力」の手を出し続けるような「いいひと」が勝つ、そういう時代になってきたんだと岡田斗司夫が言ってる。


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 「いいひと戦略」っていうのは、「いいひと」であろうとすることではなく、他者から「いいひと」と思われるようにしようという戦略だ。ひたすら「いいひと」を演じ続ける。「そりゃいいひとは大切に扱われるし得するだろ。それだけの話しかよ」と思われるかもしれないが、昔は「いいひと戦略」なんてしたって得するとは限らなかった。だが、一人一人が情報を発信できるネット社会になって、「いいひと戦略」がかつてないほど効果を発揮するようになってきた。



 人類の歴史にも「人格評価」は昔からあった。当たり前の話しだ。それが時々「家柄評価」や「実力評価」になったりした。もちろん時代ごとに有効な方法はあるけど、それぞれの評価基準は並行している。で、これからは「人格評価」が最も使われる評価基準になる。

 メディアが発達していない時代には、ある地域で得た評価は、他の土地に行っても通用するわけじゃなかった。ある場所で聖人と崇められていたって、場所を移動するとただの見知らぬ人だ。しかし、ネット社会ではそうじゃない。特定の場所でなされた評価が身分証明のようにずっとついてくるし、逃げ場もないから下手なことはできない。

 マスメディアの時代には、「いやな人」とか「尖ってる人」というのはわりといい戦略だった。情報を発信できる機会を奪い合うことになるので、平凡ないい人よりも、少しいけ好かない印象をもたれてもいいからとにかく目立ったほうがいいという考え方は合理底だった。

 だが、ネットでみんなが手軽に情報を発信できるようになると、それぞれが場所を超えて「いいひと」という評価を得られるようになる。だからこそ、「いいひと」であることがこの先最も有効な戦略になってくる。


 かつて世界が一つになる前、「いいひと戦略」は数ある戦略のうちの一つに過ぎませんでした。ごく一部の小さなコミュニティとしか関わることができず、自分と他者との関係性が固定化されていたから、たとえ「いいひと」と思われても、それは「人格」というパラメーターの一つに過ぎませんでした。だから「いいひと戦略」を取るよりも、「イヤな人戦略」で自己利益を最大化したり、「投資戦略」でマネタイズしたり、「受験戦略」で有名な大学に入ったほうが、人や企業からモテたのです。


 しかし、ハイパー情報化社会がこのパワーバランスを変えてしまいました。有能な人材は必要な時だけ外注すれば済むようになり、「いいひと戦略」を取っている人間が採用されやすくなりました。お金やスキルよりも人格がモテの対象になったのです。


 今は人徳よりも才能や能力が必要とされているかもしないが、段々簡単な仕事は減っていくし、能力や専門技術はインフレするので簡単に外注できるようになってきた。専門技能なんてアウトソーシングすればいいだけなので、中核社員はコミュ力で選ぶというのもそれなりに理にかなっている。

 かつてあって日本の研究室推薦とか縁故採用はずるだと思われるけど、推薦で入った人は紹介してくれた人の評価を下げたくないからちゃんと働くので、信用できて楽だった。

 昔は、そのような信用の機能を担っているのは「縁」だった。また、今は学歴や身分や給料が「信用」の役割を果たしている。でもこれからは「いいひとかどうか」という評価が段々ウェブ上で可視化されていくから、信用できるかどうかの判断もそこに移っていくという。


 バイトを選ぶのも「いいひとかどうか」が大事だ。良い評価を受けたバイト社員は採用されやすく、悪い評価を受けたバイト社員は採用されにくい。でもそれはバイトを募集する側にも同じことが当てはまる。良い評価のバイト先には良い評価のバイト社員が集まり、悪い評価のバイト先には悪い評価のバイト社員が集まる。悪い評判がついた人はなかなか悪い評判から抜け出せないみたいなことが社会問題になったりするかもしれない。



 「いいひと」と他人から思われることが、金をたくさん持っているよりも優位である理由は、金で買えないもの、買うと非常に高くつくものが評価なら簡単に手に入るからだ。どんどん世の中は複雑になっていくし、ちょっとした確定申告や法律のあれこれやパソコンの使い方や料理の仕方、ファッションや遊びや恋愛まで、「金」だけしか使えなければとても損で不利になる。

 例えば、使いふるしのiPadを友達から貰う場合、アプリとか音楽とか入ってるし、使い方やノウハウまで教えてもらえるから得。そういう社会がやってくるときに、金だけを使うというのはかなりハンデを伴う。

 そして、評価が高い人のもとには評価が高い人があつまってくる。評価のヒエラルキーができるし、評価の高い人のものに色んな富や情報や美味しい話や彼らを目指す「いいひと」達が集まってくる。



 この話しの前提になっているのは、岡田斗司夫の評価経済社会という概念だ。僕は前のエントリーでその概要を書いた。(『評価経済社会』というすごすぎる発想


 宗教の時代には神の教えに従うことを求められたように、現代では合理的に思考して家計の収支をやりくりすることが求められるように、これからは誰もが「人格者」になることを求められる。互いが互いを格付けしあうような競争社会になれば、皆から「いいひと」と思われるように常に気配りしなくてはならず、心理的、精神的なコストが高くなる。

 良い時代がやってくるわけではない。これからはみんなが死に物狂いで、必死に自分を「いいひと」に見せるよう努力しなければならない人格者社会がやってくる。



 今はまだTwitterで犯罪自慢とかけっこうあるけど、それはまだネット民が土人レベルだからで、これからシステムが整えられてくると、みんなネットに流す情報に敏感になる。犯罪自慢なんてもってのほかで、ちょっとした悪口にも気を使うようになっていく。そして、どうやって金を稼ぐか頑張るように、どうすれば大勢から「いいひと」という評価を貰えるのかに苦心することになる。


 もちろん、宗教や経済は今までのように機能しつづけるだろう。昔はほとんどの人が宗教なしには生きられなかった。今はほとんどの人が金なしには生きられない。これからはほとんどの人が評価なしには生きられなくなる、という流れがあるだけだ。

 金だけに頼って生きることも当然できるんだけど、評価経済社会ではそれはかなり不利な生き方だ。当然、評価をたくさん持ってる人間は、金だってやろうと思えば簡単に稼ぐことができる仕組みになってくる。評価経済社会において評価を使わないということは、現代で金を使わないということに等しい。


 だから、これからは必死に自分を「いいひと」に見せようという話。まあ与太話みたいなものと言えばそうかもしれないし、この先どうなるかはわからないけど、ちょっとでも踏まえておいて損はない視点だろうと思う。



岡田斗司夫講演「いいひと」戦略セミナーダイジェスト - YouTube


 参考にあげた岡田斗司夫の本では、「いいひと」と皆から思われるようになる方法を色々と解説してるよ。まだ「いいひと」の評価基準は定まってないけど、スタートダッシュのためにTwitterやブログをやるもの戦略の一つ。

 まあでも、この僕のブログは「いいひと戦略」をなぞれそうにないなwww



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