なぜ韓国人は皆「両班の子孫」なのか

【新刊】朴洪甲(パク・ホンガプ)著『韓国の姓氏と族譜の物語』(山のように社)

 徳水李氏の忠武公・李舜臣(イ・スンシン)は漢陽(現在のソウル)の乾川洞で生まれた。地方の職に就いた期間を除き、ずっと漢陽や忠清道牙山で暮らしていた。開城の南にある京畿道徳水で暮らしたとか、徳水に戻ったという記録はない。それでも、李舜臣は徳水李氏なのだ。栗谷・李珥(イ・イ)も同じく「徳水李氏」だが、生まれたのは母親(申師任堂〈シン・サイムダン〉)の実家がある江陵で、暮らした場所も主に漢陽や京畿道坡州だった。徳水は朝鮮王朝の太祖代に海豊郡へと編入され、後に豊徳郡へ統合された。郡名は消えても徳水という本貫は変わらない。

 本貫はかつて先祖が暮らしていた本拠地で、本貫が同じなら、血を分けた血族集団の一員と見なせる。慶尚道出身の羅州丁氏、全羅道出身の金海金氏も、本貫を変えていない。今でも強く残っている家柄意識のせいだ。それは「偽りの意識」でもあり得るが、現在の厳しい暮らしに耐える自尊心のよりどころともなっている。

 本貫は、自分が両班(ヤンバン=朝鮮王朝時代の貴族階級)だという意識を持つ手段になる。中国には先祖が豆腐職人だったという人もいるが、韓国人はほとんど全てが有名人の子孫だということを誇っている。朝鮮王朝後期、特定の家系をまるごと誰かの子孫にすり替えて族譜を作ることが多かった。茶山チョン・ヤギョンはこうした風土を、父や祖父をすり替える「換父易祖」と嘆いた。それでも姓まで変えるケースはまれだった。韓国語で、潔白を主張したり念を押したりするときに「いっそ姓を変えたい」と言うのは、「本貫」はともかく「姓」は変えなかった、という意味だといえるだろう。

 姓氏が本格的に使用され始めたのは、新羅末期から高麗初期にかけてと推定されている。少なくとも7世紀以前には、姓は存在しなかった。6世紀に建立された真興王巡狩碑には多くの随行者の名前が刻まれているが、姓を使っている例は見られない。国史編さん委員会の研究編さん室長を務めた著者は、従来の研究成果を挙げ、新羅建国当時から存在していたといわれる朴・石・金の3姓氏もまた、後の時代にさかのぼって付けられたものと考えている。本貫は、高麗初期の10世紀半ば以降に現れた。そもそも本貫は、地域ごとに税金を賦課するといった政策実現のための道具だった。

 族譜の複雑な形態などを解説する前半第1部の説明が煩わしい読者は、第2部から読んでもよい。姓氏と族譜を通じ、韓国の歴史や社会の奥深くに存在する底流を振り返った一冊。408ページ、2万5000ウォン(約2560円)。

李漢洙(イ・ハンス)記者
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