家族の誰かが病気になることで私たちがもがき苦しむのは、病気そのものだけではなく、それまで守ってきた家族のカタチが壊れることも大きな原因のひとつである、と社会起業家の田村亜紀子氏は語ります。息子の小児がんに寄り添う中で気づいた、家族が家族であり続けることの大切さを説くスピーチです。(TEDxSannomiyaより)
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家族のカタチ: 田村 亜紀子 at TEDxSannomiya
小児がんの再発
田村亜紀子氏:今から14年前、2000年11月に結人(ゆうと)は誕生しました。2歳までとても元気に育って、当たり前の生活を当たり前に過ごしていました。2歳9ヶ月の時に、小児がんを発病しました。とても厳しい状態で治療に臨んだんですけれども、1年間の闘病生活の末、無事元気になって、また幼稚園に通えるようになりました。
3年間とっても元気に過ごして、小学校一年生になりました。このまま結人は元気に生きていくんだという風に、私もお医者さんたちも皆思っていました。とっても元気だった小学校一年生の夏、ガンは再発しました。
再発してから2年、「もう来年の桜の花は見られないと思います」と主治医から言われました。その時に私が、主治医や他の病院のスタッフたちにお願いしたことがあります。それは「結人は2歳の頃から、病気と闘うんだ、怪獣をやっつけるんだと言って、ここにいます。なのでどうか先生たちも、最後まで病気と闘い続けてください。結人の前で決して死を思わせるような、そんな諦めるようなことはしないでください」そういうお願いをしました。
先生たちは私の意見を取り入れてくださって、最後まで闘志を見せてくれました。ただ結人の病状はどんどん悪化していって、ある日、呼吸器をつけなくてはいけないほど、呼吸が苦しくなりました。その時は私が家に帰っていて、夫が夜つき添っていたんですけど、夫はもしかしたら私が病院に行くまでに結人は息を引き取ってしまうと思ったそうです。
それで結人に、「母ちゃんに何か伝えておきたいことあるか?」と聞いたそうです。その時に結人が言った言葉が、「なんやそれ、意味わからん」と苦しげに怒って言ったそうです。夫はその言葉を聞いて、少しほっとしたと言っていました。私たち家族にとって、その時はまだ、まだ、お別れの時ではなかったんです。
息子に天国の話をする決断
呼吸器をつけてからも、結人は呼吸器から漏れる息で、私たちと一生懸命コミュニケーションを取ろうとしました。ただ、時にとても苦しそうな結人を見て、私は初めて、このまま結人を、病気との闘い、そこにあの子の気持ちを向けさせたままでいいのかなと思いました。それを結人のことをよく知ってくださっていた病院のスタッフの方に相談しました。
そしたらその方が、こう言ってくださいました。「以前、結人君と病院のお友達とで、行ってみたいところの話をしていました。他の子たちがディズニーランドとか、ユニバーサルと言う中で、結人君が『天国』と言いました。『でもずっと行ってたいとかじゃなくて、ちょっと見てみたい。だって天国ってめっちゃ良いところらしいで』結人君はそう言いました。だからお母さん、結人君にとって天国はとっても良いところのイメージのところのようです。」そのスタッフの方のお話を聞いて、私は結人に天国の話をしてみようと思いました。
まずは、夫に相談しました。そうしたら夫はこんな風に、私に言ってくれました。「結人が天国に行けば、家族のカタチは変わるかもしれない。でも、家族であり続ける事に変わりはない」その言葉を聞いて私は、結人と夫と3人で、これからも家族であり続けることを確認しようと思いました。
そして、結人にこう言いました。「結人、天国は皆が行くところやろ。母ちゃんが先に行くかもしれへんし、父ちゃんが先かもしれへん。でも、結人が一番に行くかもしれへん。誰が先に行っても、家族3人いっつも一緒やよ」いつも私が言うことに、何か反応していた結人だったんですけど、その時ばかりはピクリとも動きませんでした。じっと私の話に耳を傾けていました。その表情が私には、「あぁ、やっと母ちゃんも俺の天国行きを見送る、心の準備ができたんやな」そう言っているように思いました。
闘病生活の中でのたったひとつの後悔
これは結人が書いていた、漢字練習帳です。
いつも新しい漢字を習っては、最後のノートの文章にとっても面白いことを書いていたんです。小学生らしい面白い文章をどう考えるか、というのが結人の楽しみでした。でもこの時はちょっと違いました。「幸せを神様にねがってもぜんぜんこない」「天国にもうちょっとしたら着く」私はこれを、結人が亡くなってから見ました。
そしてもし、結人がすこしでも、自分が天国に行くことを意識していたのであれば、あの時に結人と一緒に天国の話ができて良かったと思いました。そして天国の話をした数日後、結人は本当に安らかに天国に旅立ちました。
私が結人との闘病生活を通して、ただひとつ、自分自身に対してとっても後悔していることがあります。それは結人が一番つらかった時に、一緒にいてあげることができなかったということです。呼吸器をつけてから、私と夫は二人とも、結人を病院に一人残して夜、家に帰っていました。病院の規則とか、親の精神的安定とか、いろんな理由があってその時は一番いいと思い、家に帰っていました。
でもある日、朝病室に戻った時に、結人が呼吸器から漏れる声で、私にこう言いました。「母ちゃん、しんどかった。」どうしてそばにいてあげなかったんだろうと思いました。つらい時こそ一緒にいるのが家族じゃないか。そういう風にずっと思ってきたのに、一緒にいてあげることができなかった。大事なことを守ることができなかったんです。
がん治療中でも家族が一緒に住むことができる「家」のような病院を作りたい
小児がんの子共たちは、治療以外のことで本当にいろいろなことを我慢しています。小児がんになると、抗がん剤の副作用に耐えないといけない、これからの人生を病気と付き合い続けないといけない、それだけで、充分につらいんです。それが今は病院で、このような狭い環境で、家族と一緒に過ごすこともできない。兄弟に会うこともできない。友達に会うこともできない。そんな家族のカタチは、あってはならないと思いました。
そのために、小児がんになっても、 抗がん剤治療中でも、家族が一緒に住むことができる、家のような病院を作ろう。そう思って私と同じような経験をした家族や、それをずっと見守り続けてくださった医療関係者の方々や、いろんな方々の力で、8年前から活動を始めました。たくさんの方々のご支援のおかげで、2013年日本で初めての小児がん専門施設、「チャイルド・ケモ・ハウス」がこの神戸に誕生しました。
「チャイルド・ケモ・ハウス」は家族が家族らしくあり続けることができる、それを大切にしています。家族が家族らしく、とはどういうことでしょうか? 皆さんも一緒に考えていただければと思います。親がいつでも気兼ねなく、子供のそばにいることができる、兄弟に会える、お友達に会える。そのために私たちは、付き添い家族もゆったりと眠ることができるベッドを用意し、それぞれの家族がプライバシーを守られて過ごせるような個室を用意しました。
大きな声で笑える、泣ける、遊ぶことができる、お料理ができる、ゆっくり子供とお風呂に入ることができる。そのために私たちは各お部屋に、キッチン、バス、トイレを付けました。
家族のために働いて帰ってきてくれるお父さんが、気兼ねなく子供と家族のお部屋に入ることができる。ただいま、おかえり、という家族らしい会話が生まれる。そのために私たちは、外から入ってこられるドアを各お部屋に付けました。
「家族のカタチ」は変わっても、家族が家族らしくあり続けることが大切
当たり前ですが今までにできていなかったこと、家族みんなが本当に欲しかった幸せ、それがこの「チャイルド・ケモ・ハウス」にはいっぱい詰まっています。
私たちは時に、病気、災害、事故、私たちの力ではコントロールできない様々な困難にぶち当たります。その困難の中で私たちが本当にもがき苦しむのは、病気そのものだけにあるのではなくて、これまで作ってきた家族のカタチが、音を立てて壊れてしまうこと。守りたいものが守れなくなることと。そのことこそにあるのだと思います。
「チャイルド・ケモ・ハウス」はそんな家族の苦しみや不安を真正面から受け止めて、家族が家族らしくあり続けることを、支えていきます。そうすれば、もし家族のカタチが壊れてしまっても、また新しい家族のカタチを作っていくことができる。もし一度絶望に陥っても、また幸せになりたいと思うことができるのです。結人が天国に行ってから2年後、弟の順平が生まれました。
これからの世界と、この子の人生が、順調で平和でありますように。そういう思いを込めて名付けました。その名の通り、順調に、平和に、やんちゃに育っています。私はこれからも結人と共に、新しい家族のカタチを作っていきたいと思っています。今日は本当に、ありがとうございました。