[小沢一郎 妻からの離縁状](週刊文春 2012年6月21日号)



 「週刊文春」(6月21日号)が「小沢一郎 妻からの『離縁状』」とのタイトルで、民主党の小沢一郎元代表(70)の妻、和子氏(67)が支援者に宛てた手紙を全文公開した。そこには「(東日本大震災後、小沢氏は)放射能が怖いと逃げた」「国のためどころか害になる」などと衝撃的な内容が記されている。[ZAKZAK 2012/06/15]

 登録者:自称人民解放軍の司令官に相応しい人格だと思いました。



 政局がにわかに緊迫してきた。野田首相が政治生命を賭ける消費増税法案の採決が迫り、小沢グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は小沢氏の政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に宛てた悲痛な手紙を公開する![松田賢弥]

 まだ強い余震がある中、お変りございませんか。
 この度の大震災ではさぞご苦労があったと思います。ご家族・ご親類はご無事でいらっしゃつたでしょうか。何のお手伝いもできず申し訳けありません。故事の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情なく思っています。
 このような未曾有の大震災にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。
 八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰れでもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ」お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手つだっても、もらった覚えはない。何もしていないのに、うぬぽれるな」と言われました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
 その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になリ、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
 お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていたヾいたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙の時には、皆さんがご菅労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。
 隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。S.Pさんや秘書の手前、料理や洗濯は変らずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。
 それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をきすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。


■「なんですぐ岩手に帰らないのか!」

 ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。
 三月十一日、あの大東災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情なく仕方がありませんでした。
 そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書達を逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子きん達もどこか逃げる所を考えて下さい」と言うのです。
 福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの! なんですぐ岩手に返らないのかー 内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。
 川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われたからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
 国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖きに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのてす。
 私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げだすとは何事ですか」と怒鳴りまLた。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。 小沢は「じゃあしょうがない。食料の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。女性秘書達と川辺の家族は一ヶ月余り戻ってきませんでした。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。
 彼らに一緒に岩手に行こうと言われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
 三月十一日「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さい」と書生が言いに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に水道水を使います」と言いましたら、それなら先皇のご飯は僕達で作りますと断ってきました。
 それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。「東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。
 三月二十五日になってついに小沢は耐えられなくなったようで旅行力バンを持ってどこかに遂げだしました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。
 その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った? こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行ってません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜若手議員を集めて酒を飲みながら管内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが教射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいら首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。
 この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。
 本当に情なく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会長にまで相談していました。
 もう岩手のことは頭になかったのでしょう。


■放射能をおそれて魚や野菜を捨てた

 こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたかと思うと申し訳けなく恥づかしく思っています。
、更に五月たは長野の別荘地に土地を買い計画図を書いています。
 多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら充分でなく不自由な避難生活を送られている時に、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィス0という会社名義で土地を買いい、秘書の仲里が担当しているということでした。
 天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の観察と称して釣りに出かけました。
 千乗の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。
 かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。
 長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受けとったら岩手に義満金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。
 ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。
 七月には別の所に住所を移しました。
 ご家のご多幸を心より祈り上げております。
           小澤和子
(注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)



■松田賢弥『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』
 【小沢一郎の母・ 荒木ミチ】
 済州島出身の朝鮮労働党員、コリアン売春宿の女将。小沢一郎に実姉のスミ子、則子がいるが 養女という形。浅草の泥棒市で日本人の戸籍を入手。
 岩手出生としているが、住民は一郎が居たのは中学一年の一年間だけと言う。
 
 【小沢一郎の父親】
 小沢佐重喜は東京で自称弁護士 として北朝鮮の工作員として活動。
 戦後、岩手方面に進駐した「朝鮮進駐軍」の指導者となり拠点を作る。朝鮮進駐軍の小沢部隊、 戦後に日本人を虐殺していた朝鮮総連の武装テロリスト工作員の親玉。 




◇東日本大震災から1年3ヶ月:全員家族のもとに還したい
  行方不明者1200人以上を捜索する岩手県警の月命日

 十日、午前九時半。被災して現在は使われていない旧釜石署庁舎前に、百三十六人の警察官が集まった。東日本大震災の行方不明者摸索に際しての出動式だ。釜石暑からは五十人。他は、県警各署や全国からの応援出向警察官だ。
 未だ千二百人以上の行方が分からない岩手県では毎月、月命日に当たる十一日前後に、警察署員、海上保安署員による大がかりな捜索を行なっている。
 他地区に先駆けて十日から捜索を開始した釜石署員らは、まず鵜住居小学校のプールに向かった。重機を使って、プール内に溜まっているヘドロを掬い、その中を丹念に調べ上げる。あいにく朝から雨が降ったうえ、ヘドロからは強烈な異臭が漂う。しかし、隊員の士気は高いまま。
 続いて、近くに建つ釜石未申学校そばの沼に移動した。
 「ここを調べて欲しい、と住民から依頼がありました」
 彼らを突き動かすのは、全員を家族のもとに還したいという一念だ。地域に住む人が「ひょっとして」と感じる場所であれば、なおさら熟も入る。
 県南の大船渡署では、翌十一日から四十五人が陸前高田市沿岸部を摸索した。海上保安署員は、二艘の小舟を出して海上から。警察官は、危険な岩場を歩いて。
 「絆」「がんばろう日本」といったフレーズは、いつしか聞こえなくなってしまった。しかし被災地では、今なお地道な捜索が続けられていることを知っておきたい。(週刊文春 2012年6月21日号)

   

   




「小沢は放射能怖くて逃げた」週刊誌報道に驚き
                       2012/06/15:産経

 発売中の週刊文春(6月21日号)に載った「小沢一郎 妻からの離縁状全文公開」には驚いた。「小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。…岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」。地元・岩手の有力支援者に宛てた妻和子さんの手紙では、東日本大震災直後の小沢氏はかなり狼狽していたようだ。
 和子さんが「私は逃げません」と激怒すると「じゃあしょうがない。食料の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と書生に命じ、その後は鍵をかけて全く外出しなかった、との記述もある。震災直後、なぜ小沢氏が被災地に駆けつけないのかと思ったが、「そういう事情か」と謎が解けたような感じだ。
 かつては、ときの総理大臣より権勢を誇り、いまも影響力を持つ小沢氏だが、和子さんの記述通りだすれば虚像と実像の落差はあまりにも大きい。「国民生活が第一」と口では言いながら、国民の生命、財産を守る国会議員としての使命はどこへやら、ということになる。 
 長い間一番身近にいた妻に、人には絶対知られたくない部分をここまで暴かれると、ふつうの男なら立ち直れないかもしれない。それでも、小沢氏はグループの親分としては消費税政局が大詰めのいま、増税法案が採決に突入した場合、造反し除籍覚悟で神輿を担いでくれる議員たちの手前“虚勢”を張り続けなければならない。 
 しかし、その数は30人にも満たないとの見方もある上、この醜聞では“宮入り”前に神輿は放り出されかねない。かつての「剛腕」もいまや哀愁さえ感じる。「愛人」「隠し子」まで出る刺激的な記事を一言で表せば「面白うて、やがて哀しき…」ではないか。



原発事故で出動の福島県警警察官:小林良樹慶応大教授(社会安全政策)の調査
  「死の恐怖」68%「任務放棄考えた」41%
        産経2013/03/08

 一昨年3月の東京電力福島第1原発事故で、原子炉建屋の爆発直後に住民の救出や避難誘導に当たった福島県警の警察官は、68%が死の恐怖を感じ、41%は任務の放棄も考えた。
 任務放棄の気持ちが生じたのは、ほとんどが自分や家族の安全を心配したことが理由。ただ実際に現場を離れた人はおらず、「任務を継続できたのはなぜか」の問い(複数回答)には、92%が「仲間との連帯感があった」、85%が「使命感や誇り」と答えた。
 小林教授は「素晴らしい頑張りだったが、彼らをヒーロー視するのではなく、連帯感や使命感を育む組織づくりや幹部のリーダーシップ養成、家族の安否を確認できるシステム構築を進め、首都直下地震など想定される危機への冷静な備えが必要」と提言している。
 建屋が爆発した23年3月12〜14日、原発周辺に出動した管轄の双葉署員と機動隊員ら計125人に書面でアンケート。うち11人は面談して聞き取り調査した。
 調査結果によると「死の恐怖を含め放射線の危険に強く懸念を感じた」(85人、68%)「一定の懸念を感じた」(30人、24%)と、合わせて9割以上が不安を抱えながら行動。自由回答では「原発から上がる煙を見て死を覚悟した」などの記述があった。
 任務放棄の気持ちが「強く」「多少は」生じたと答えたのは52人(41%)。「逃げたかったが、誰かがこの仕事をやらなければならない」「辞職も考えた」と苦悩した胸の内が明かされた。任務放棄の気持ちが「生じなかった」は70人(56%)だった。


 ■産経:「日本有数の技術屋だ」 吉田氏高く評価。2014/08/18
 「吉田調書」では現場の作業員について、「日本有数の技術屋」「危険な現場に自ら率先して行こうとすることに本当に感動した」と、高く評価する。調書からは「フクシマ・フィフティーズ」と世界が称賛した勇敢な姿だけでなく、現場の作業員の有事での工夫と判断力で事故の被害を最小限に抑えられたことが浮かび上がる。
 平成23年3月11日に全交流電源喪失後、2号機では原子炉隔離時冷却系が動いているか確認できない状況が続いていた。12日午前2時55分に冷却系の運転を確認したが、バッテリーが8時間しか持たないことから、電源の選別が迫られた。
 この時の状況について、吉田氏は「うちの連中は、車のバッテリーを外したり、ものすごい知恵を働かせてやれることを全部やった」「不要な負荷を全部切ったのは現場の判断。私がそこまで言っていない。私はそこまで分からないというか、逆によくやってくれたなと思っている」と、現場が瞬時に状況判断したことを評価した。
 さらに、事故直後に専門技能を持つ協力企業もいないなかで、ケーブルや給水ラインの調達、接続ができたことについても言及。「口幅ったいようだが、ここの発電所の発電員、補修員は優秀だ。今までトラブルも経験し、肌身で作業してきた経験があるから、これだけのことができたと思う」と評価した。
 そのうえで、「私が指揮官として合格だったかどうか、私は全然できませんけども、部下たちはそういう意味では、日本で有数の手が動く技術屋だった」と絶賛した。
 3号機爆発直後は、高線量のがれき撤去や注水のためのホース交換をしなければならず、作業員を危険な現場に送り出さざるを得なかった。吉田氏は「注水の準備に即応してくれと、頭を下げて頼んだ。本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」と、危険を顧みずに職務を全うしようとする姿をたたえた。


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