特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産C

周囲の反対押し切り映画化 初プロデュース作が大ヒット

 西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。


▲「任侠柔一代」に出演の村田英雄の断髪式でハサミを入れる(昭和41年)

プロデューサーへの道

 黒川渉三氏の家に今田智憲氏に連れて行かれ、マキノ光雄や根岸寛一などと飲んでいる時に、著名な映画プロデューサーであったマキノ光雄から映画で何をやりたいのか、監督になりたいのかと問われ、映画をやるんだったらプロデューサーになりたいと言い切っています。このときの一言が、映画界に入った岡田茂氏の立ち位置を決めてしまったといえます。

 1947年に東横映画に入社した岡田氏は、いきなり京都撮影所に配属されました。寮に住み、そこにいた俳優、製作、企画、照明、美術など現場の人たちと一緒に生活する中で、映画製作に要するすべてを肌で感じとったといえます。重たい照明器具を担いだり、気の荒い美術係の大工たちの仕事を手伝ったりと、現場の下働きでしたが、弁当運びや進行係などに真剣に取り組んでいます。東大出のインテリ青年が蓮田の中に放り込まれ、泥だらけになりながら、映画作りそのものを吸収していったのです。それも、「我慢して」とか、「いやい やながら」とかで仕事をしたということはまったくなく、当時を知る誰の口からも聞かされていません。そして売られたけんかは必ず買ったと本人が述べていますが、大柄で柔道4段で、東大出の美少年が、いつの間にか京都撮影所の注目を浴び、人気者になっていったのは当然のことでした。

 このころの東横映画には満州映画帰りが多くいましたが、根岸寛一、マキノ光雄、内田吐夢などは、満州映画協会理事長だった甘粕正彦が育てた人たちでした。 1948年、京都撮影所で岡田氏を一躍有名人にした事件が起きました。その事件とは、進行係の初の仕事になった、マキノ正博監督の「金色夜叉」の撮影現場でおきたトラブルを、ものの見事に解決したのです。

 エキストラを総入れ替えさせられた口入れ屋との揉め事でした。マキノ監督の指示で、大勢の踊り子のエキストラが演技上使えないということになり、近くのダンスホールの踊り子を代役で使ったこ とが原因でした。ヤクザまがいの口入れ屋とのトラブルを見事に解決した岡田氏の噂は、当時の映画界に知れ渡ったといいます。

 1950年、24歳で製作主任となり、初めてプロデュースしたのが「はるかなる山河に」でした。当事、ベストセラーになった、「きけわだつみのこえ」の映画化です。

 日本戦没学生手記編集委員会が全国から遺稿を集め、出版したもので、その中心メンバーは東京大学全日本学生自治会総連合の急先鋒で、わだつみ会の会長だった氏家齊一郎氏(日本テレビ元会長・故人)や、副会長だった渡邉恒雄氏(読売新聞グループ本社会長)でした。

 大物俳優片岡千恵蔵をはじめ、役員たちのほとんどが反対したようですが、若き岡田茂の情熱と揺るがぬ決心が実り、結果的に映画は大ヒットしました。「プロデューサー岡田茂」の誕生です。

(エッセイスト・千義久)

自伝「悔いなきわが映画人生」より
映画を観た五島慶太翁が良い作品だと涙して…


「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
 岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。

 私はこの映画(日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声)の作品としての出来には自信を持っていた。五島慶太翁はわざわざ京都撮影所に試写を観るために訪れて下さった。慶太翁はブーゲンビルで戦死した次男・進さんのことを思い出したのだろう、映画を観ている最中から人目を憚(はばか)らずに号泣されたのだった。

 素晴らしい映画を作った、と感激した慶太翁からは報奨金までいただいた。私はこの映画は当たる、という自信を深め、運命の日である封切日六月十五日を心待ちにした。そして、当日は大ヒットか惨敗か、と矢も楯もたまらず観客の入りを確かめるために都内の映画館を回ったのだった。

 私の心配をよそに、浅草の常盤座では観客が映画館を十重二十重と取り囲んでいた。これは、最近の邦画でいうとアニメーション映画『もののけ姫』級の大ヒットである。生みの苦労が多いこともあったのだろうが、観客が映画館を取り巻いた光景を見た私は達成感と充実感を身体一杯に 感じた。これが、私が映画製作が成功した恍惚感を覚えた瞬間だったのだ。

 だが、好事魔多しである。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』は予想をはるかに超えるヒット作となったにもかかわらず、配給元の大映チェーン側はいざ精算してみると観客の入りは大したことはないと報告した。新聞各紙も記録的な大ヒットと書きたてたのだが、蓋を開けると収入は二千万円にしかならなかったのである。配給網を持たざる者の弱味である。この時の興行収入については東横映画と大映の間で揉めにもめることになった。そして、昭和二十四年十月には配収のピンハネを回避するために東京映画配給が設立されたのだが、この映画が両社が配給で縁を切る遠因ともなったのだった。

 ところで、昭和二十五年頃には東横映画の借金は十一億円にまで膨らんでいた。現在のお金に換算すると二百億円ぐらいになろうか。慶太翁は「東急グループの旭海運が所有する船を一隻沈めたつもり で…」と撮影所で演説するのだが、コスト意識を持ち合わせていない映画製作のスタッフたちはきょとんとして何を言っているのか、と聞いているだけだったのである。

 これではいつまでたっても借金が減らないと慶太翁が出した解決策が東横映画、東京映画配給、大泉映画の三社合併だった。東横映画は製作、東京映画配給は配給、大泉映画は吉本興業系で練馬の大泉にスタジオを所有していた会社である。大泉映画の社長は吉本興業を創業し女今太閤といわれた吉本せいさんの実弟・林正之助氏の弟で立教ボーイの林弘高氏だった。林弘高氏は合併後、東映専務に就任した。大泉のスタジオはその後、東映の東京撮影所となった。

 昭和二十六年三月三十一日、三社が合併した東映は資本金二千万円、負債十一億円で新しいスタートを切り、社長には東急専務から東映に送り込まれた経理のプロと言われた大川博氏が就任した。これにより、日本の映画界は東映、松竹、東宝、大映、新東宝の五社体制に入ったのである。

 東映の本社は東京の港区田村町の飛行館東映劇場内に置かれた。京都撮影所と東京撮影所の東西両撮影所が東映の傘下に入ることとなった。

第九章から転載

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ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/4/19

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