特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産B
人生を決めた出会いと決断 「鶏口となるも牛後となるなかれ」
西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。
▲「あゝ同期の桜」に出演したとき、鶴田浩二(左)と撮影(昭和42年)
映画の魅力と力
岡田茂氏は1944(昭和19)年9月、広島高等学校文科甲一を主席で繰り上げ卒業すると、東京帝国大学経済学部に入学。文京区台町(本郷5丁目)にあった北辰館での下宿生活が始まりました。東京帝国大学に入学したことは、岡田氏の人生にとって大きな意味を持っています。波乱に富んだ映画人生の中で、彼の大きな力となった幅広い人脈の中核は東大人脈でした。当時、官界、政界、民間を問わずそのリーダーたちはほとんど東大卒であり、現在でもその傾向は残っています。岡田茂にとって東大を卒業したことは、有形無形の力となったことは間違いのないことです。
当時は太平洋戦争の真っただ中であり、勉学に励むどころか、学徒勤労動員によって、全学生の69%が軍需産業や食料生産に動員されていました。岡田氏も岩沼陸軍航空隊(現在の仙台空港)に配属され、戦闘機の整備の任務についていました。この年の6月には、日本で初めて、九州の小倉市がBー29による爆撃を受けており、このころすでに、米国に制空権を奪われ始めていました。11月24日、マリアナ群島のサイパン米軍基地から発進したBー 29大型爆撃機が東京を初めて空襲。1945(昭和20)年1月3日にはBー29爆撃機78機が名古屋市と大阪市を空襲してから、連日のように日本本土が空襲され、都市部を中心に焦土と化したのです。地方都市もほとんどが空襲を受けましたが、原爆が8月6日広島市に、9日に長崎市に投下され、8月15日、ついに終戦を迎えることになったのです。岡田氏は岩沼陸軍航空隊が空爆され、現在の宮城県大崎市の小学校へ疎開しており、そこで終戦の玉音放送を聴きました。
東京帝国大学は懐徳館(旧前田邸)が消失しましたが、そのほかの施設はほとんど被害を受けず、終戦後すぐに開学しています。復学した岡田氏は、戦前・戦中の中心的な経済学であったドイツ統制経済学(難波田春夫教授)を学ぶとともに、戦後復活した自由経済学(矢内原忠雄教授、大河内一男教授)などを学ぶことができたことは存外に幸せなことであったと述懐しています。崩壊した帝国主義社会から欧米の推奨する自由主義社会へと突然転換した日本社会は、進駐軍の統治の下、戦後の大混乱期を経て、徐々に落ち着きを取り戻していきまし た。
1947(昭和22)年、岡田氏は人生最大の決断をしています。故郷の大先輩で、東急の専務だった黒川渉三氏が社長となった東横映画に就職したのです。黒川氏は「鶏口となるも牛後となるなかれ」といって説得したといいます。岡田氏とともに東映で働くことになる、竹馬の友・今田智憲氏が黒川氏のところへ連れて行ったことが、大きな決断の誘因になったことは確かなことですが、決断を促した大きな原因は、もっとほかの力が働いたように思います。
幼少期から映画を見るのが好きだった岡田氏は、映画の持つ魅力や多くの民衆を引き付ける映画の力を知っていたのではないでしょうか。映画は、戦時中の言論統制の中で、国民に対する有力な政府広報の手段として活用されていました。その映画を、尊敬する故郷の先輩から仕事にしてはどうかといわれ、別の世界のこととしてみていた映画が、自分とつながったことに対して、若干の戸惑いはあったとしても、決断するまでにはそんなに時間はかからなかったのではないでしょうか。この出会いと決断が岡田茂の人生の本舞台を決定することになったのです。
〈エッセイスト・千義久〉
自伝「悔いなきわが映画人生」より
養父・軍一が他界し大黒柱の役割を
「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。
東横映画(現東映)に入社した私は京都撮影所に配属され、映画製作の進行係を任された。それまで撮影所すら知らなかった私が入社早々、最前線の現場に回されたのであった。幼なじみの今田智憲さんは東京本社(東京・田村町の飛行館)の営業部に配属されていた。
当時の撮影所の雰囲気は一種独特なものがあった。若いチンピラやヤクザ者もいれば、監督やシナリオ作家といった文化人たちもいて、皆が〈映画〉というキーワードを中心に集まる玉石入り混じった一風変わった世界だった。
私は性格が図太かったからだろうが、撮影所のうるさ方であるチンピラやヤクザ者を怖がるということはなかった。だから向こうも気が合うとみて、すぐに私を頼りにしてくれた。
入社翌日だったと思うが、知らない男が「これをやってくれ」と私に仕事を頼んでくる。「私の仕事がありますから」と断ると翌日も「ヤミ屋でラッキーストライクでもキャメルでもいいから外国たばこを買ってきてくれ」と言う。
私は、おかしいぞ、この人もヤクザだなと思ったが、「お金をくださいよ」と私が言うと、向こう は「俺が銭を払うのか!」とすごむのだった。私が、「当たり前だろう」と言って、押し問答になった時にマキノ光雄・京都撮影所長がその場に現れた。そして「岡田君、言うとおりにしなさい」と私を説得するのだった。私はこういうやりとりを経て撮影所のしきたりを覚えて、次第に撮影所になじんでいったのである。
当時、京都撮影所では、昭和二十三年の正月映画『金色夜叉』を製作していた。主人公の間寛一の役は上原謙、裏切る相手役のお宮は轟夕起子、お宮が嫁ぐ資産家は古川緑波が演じていた。
進行係を仰せつかった私は弁当運びから女優に下駄(げた)を履かせることまで撮影所の雑用は何でもこなしていった。しかも撮影は殺人的な強行軍で行われていた。東大出で弁当運びか、と思われる人もいるだろうが、撮影所のざっくばらんで活気に満ちた空気が私の性に合っていたのである。だから雑用でも苦にならなかったのだろう。そんな生活が始まる入社前のあわただしい十月十三日に私は妻・彰子と結婚式を挙げたのである。
当時の私の直属の上司は掘保治製作課長だった。マキノ所長の奥さんの星怜子さんの兄、辻野公晴 さんは製作主任だったが、肺病を患っていたため、私は自分が製作主任だ、という意気込みで仕事をしていたのである。
その時、私とコンビを組んで同じ進行役だったのは寺川千秋さんである。実は寺川さんは酔っぱらってコップ酒の中に一物を入れて五島慶太翁に飲めと差し出したことのある剛の者である。
撮影現場は満映(満州映画協会)帰りの人が多く、私よりも随分と年上の人ばかりだった。松竹下賀茂撮影所から引き抜いた西川鶴三さんを中心とした照明係、満映帰りの大道具係の人たちは徒弟制的な上下関係があり、一癖ある人が多かった。満映帰りのスタッフたちは撮影所の脇に掘っ建て小屋を建ててそこで寝起きしていたのだから、今では想像もつかないだろう。
私を大学出の文学青年ぐらいに思っていたのだろうが、若い照明係が仕事のことで言いがかりをつけてきたので喧嘩(けんか)になったこともあった。私は売られた喧嘩は絶対に買っていたのである。
大道具の連中には棟梁(とうりょう)以下、随分お世話になった。安い制作費ながら無理を聞いてくれ、なんとか頑張ってくれた。私もどぶろくを差し入れしたり何かと気を使ったものだった。そうこうしているうちに喧嘩をした照明の連中ともすぐに仲良くなっていったのである。
第八章から転載
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