特別連載 映画人生・岡田茂の決断 
若き経営者に贈る岡田茂の遺産A

襲いかかる人生の試練 悠然と男らしく乗り越える

 西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。


▲京都撮影所・俳優会館のまえで

15歳から自立生活

 1937(昭和12)年、岡田茂氏は広島県立第一中学校に入学。1897(明治30)年に創立された同校(5年制)は広島県のトップクラスの生徒が集まる男子校でした。この当時、尋常小学校の生徒は尋常高等学校(2年制)に進むのがほとんどで、この年、西条町の尋常小学校からは、岡田氏と酒だる屋の今田智憲氏など3人しか広島一中に入学していません。広島一中に入学できたことが、岡田茂の人生に大きな影響をもたらしたといえます。

 国鉄山陽本線西条駅から広島駅まで列車で約1時間、広島駅から国泰寺町にあった広島一中まで歩いて30分、通学に合計約1時間30分かかりました。結果的には、この約3年間にわたる通学が、岡田少年を心身ともに鍛え上げることになるのです。

 ガキ大将が、広島県一の中学校に合格できたのは、西条尋常小学校の桧高校長(当時)の教育指導のおかげでした。桧高校長は、進学を希望 する者のために、公民館を使用して、今でいう学習塾を開設したのです。岡田少年は、無料の学習塾で短期・集中的に勉強して、広島一中の合格を勝ち取ったということになります。

 広島一中時代の岡田氏は、自身にとって苦しくも貴重な経験をしています。中学3年の3学期の1月下旬、急性肺炎にかかったのです。家族の一心不乱の看病によって、九死に一生を得ましたが、肺浸潤(しんじゅん)にかかり、完治するのに約7カ月もかかってしまい、次年度2学期から復学しています。その間、大分の別府の温泉旅館に投宿して、親から離れ、一人で療養生活を送っています。そして復学した2学期からは、通学をやめ、学校のすぐ近くの大工の棟梁(とうりょう)の家で下宿を始めています。これは高等学校に入学してからも続き、一時寮生活をしましたが、また同じ下宿に帰っています。

 ということは15歳の時から、ずっと一人で自立して生 活したことになります。

 それに追い打ちをかけるように、広島高等学校1年の時に養父・軍一氏を亡くし、高校生の若き岡田茂は、わが生活だけでなく、遺産の管理などを含めて、養母のことなど、西の岡田家の総領としての責任を果たす立場になっていました。病気、勉学、父の死など、試練が次々と襲い掛かかったのですが、元来、楽観主義の岡田氏は、数々の試練を真正面から受けとめ、悠然と乗り越えていったのでした。

 当時、広島一中の教師たちのほとんどが旧帝大や高等師範学校出のエリートであり、情熱をもって教授するとともに、人間的にも大きな影響を与えています。そして広島高等学校文科甲一を首席で卒業し、東京帝国大学経済学部に入学しています。

 広島高等学校時代にもう一つ大きな出会いがありました。今の岡田茂夫人・彰子(あやこ)さんとの出会いです。初恋が、そのまま結婚につながったわけで、女性に対しては、純情一路ということが岡田氏の本質だったかもしれません。

〈エッセイスト・千義久〉

自伝「悔いなきわが映画人生」より
養父・軍一が他界し大黒柱の役割を


「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
 岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。

 父は西条で一番大きな病院、国立療養所に入院していた。膵臓(すいぞう)ガンで余命が長くないことは承知していたが、「なんとか助かる」と信じ、腕の一番良い医師に担当してもらっていた。だが、父はとうとう力尽き、あっけなく逝ってしまったのである。

 父・軍一の死を境に、私は普通の高校生より早く自立したように思う。父の残した財産はかなりのもので、その相続の手続きなど父亡き後の養家で私は父代わりの役割を果たさざるを得なかったからである。父に先立たれ、心細くなった母は何かと私に相談を持ちかけるようになった。

 「茂ちゃん、これだけの財産があるけどどうしよう」と聞かれれば、「これでお母さんは暮らしていけばいい。自分はそんなに使わないから」と財産の使途、配分を決めたのも私だったのである。だが父の遺産のおかげで私は楽々と大学まで卒業できたのだった。

 思い起こせば、養家の父・軍一と母・鈴代の私への教育は放任主義だった。何かを言っても、怒ってもきかん坊の私が言うことを聞かないことを知っていたからだろう。

 ガンボウ(喧嘩…けんか)で鳴らした私だったが、弱い者いじめやひと様に指を指されることは絶対にしなかったから自由にさせてくれていたのだと思う。もちろん私は普通の高校生以上の責任感を自覚していた。だから私が送金を頼めば、母はすぐにそうしてくれた。

 ただ一つ父からは「女の子と変なことをしてはいけんぞ。そんなことは大学に入ってからするものだ」と、念を押された。両親が心配するのはそちらの事だけだったようだ。

 高校時代は大阪やもっと遠くから広高に来ている寮生がたくさんいた。その寮生たちは夏休みや冬休みなどの長期の休暇に入るとき帰宅するが、その前に私の生家に「一 杯飲もうや」と集まっては騒ぐのが恒例行事になっていたのである。

 戦時中のことだから食糧を手に入れるのは至難の技だ。私は家の前の魚屋に酒を一本渡して特別に魚を手に入れたりした。酒と魚の物々交換である。魚に比べて、鳥肉は手に入りやすかった。その頃から西条にも養鶏場が出来始めたが、私と養鶏場の息子が仲の良い友人だったからである。

 ここでも酒と鳥肉の物々交換だ。絞めたばかりの鳥だから刺身でも食べることができるほど新鮮だ。刺身のほか、焼いたり、鍋にしたりで腹を空かせた私たちを鳥料理が満たした。皆で大酒を飲み、料理を平らげ、恒例行事を終えた友人たちは満足してそれぞれの家に帰っていったのである。

 寮とは集団生活のなかでお互いが切磋琢磨(せっさたくま)する場であった。寮生のなかにはいつもは勉強をしていないのに試験になると抜群の成績を取る人もいる。そういう出来る仲間からコツを学ぶ場でもあるわけだ。

第四章から転載

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>>@腕白大将は遊びのなかで、リーダーの資質開花

ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/3/15

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