特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産@
腕白大将は遊びのなかで、リーダーの資質開花
西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の実像に迫り、氏の自伝を振り返りながら、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。
▲京都撮影所所長室にて…昭和36年
初の決断 伯父の養子に
岡田茂氏は1924(大正13)年3月2日、広島市の東隣、東広島市西条町で、父・岡田唯市、母・ユミの次男として生まれました。1930(昭和6)年、尋常小学校1年の時、父方の叔父・岡田軍一の養子となっています。
地元の人たちは、実家を東の岡田といい、軍一の家を西の岡田と呼んでいました。西条町は江戸時代から酒造りが盛んな処でしたが、1907(明治40)年に東京の醸造試験場で開催された「第1回清酒品評会」で広島の酒が上位を独占したことによって、全国に酒どころとして知られるようになりました。
これは、賀茂郡安芸津町の三浦仙三郎氏が軟水醸造法を完成し、現在の吟醸酒の原型を生み出したことが大きな原動力となっているといえます。
そして、「広島の酒」を育てたもう一つの力は、世 界一の精米機メーカー「サタケ」の佐竹利市氏と木村酒造(後の賀茂鶴酒造)の木村和平氏との運命的な出会いでした。この二人の男の出会いが、「世界のサタケ」の一切の土台となる「佐竹金剛砂臼式精米麦機」を完成させたといっても間違いありません。
日本有数の酒蔵のど真ん中で、岡田茂は誕生しました。この故郷の酒が、岡田茂の人生に大きくかかわっていくことになります。父・岡田唯一は1905(明治38)年、広島県賀茂郡西条町大字910番地で酒類および石油の卸売商店を開業しています。
次男として生まれた岡田茂の人生初めての決断が、父方の叔父・軍一の養子になるという事でした。自伝にも「自分で決めた」と書いていますが、尋常小学校の1年生が、人生における重要な決断を自らが決めているのです。
叔父の家は実家とすぐ近く であったため、2軒の家と4人の親を持ったことになり、商売上手で裕福な養父のお蔭で、なに不自由なく、広島一中(現・県立国泰寺高校)と広島高校(現・広島大学)に進学することができたのです。
養子に行くことを決断していなかったとしたら、岡田茂の人生は大きく変わったものとなっていたに違いありません。父・唯市の落馬事故や病弱な兄のことを考えると、幼いながらも、叔父の家に養子にいくことを、自ら決断したことは、大きな意味を持っていたといえます。
昭和の初期は、大正ロマンの時代から、大不況のなかで、帝国主義時代へと大きく舵を切った時代でした。しかし、比較的穏やかで、地域のなかでは裕福な少年時代を過ごせたことは岡田茂にとって、大変に幸せなことでした。大柄で頑強な岡田少年は、常に腕白大将であり、遊びのなかで、リーダーたる資質を徐々に身に着けていったのでした。
(エッセイスト 千義久)
自伝「悔いなきわが映画人生」より
実の親元を離れ
養子入りを七歳で決断
「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。
昭和六年、私が西条尋常小学校に入学した七歳の時のことだが、私は養子に出たのである。西条の本通りを西に行くと西岡田という独立していた土地があり、そこに同じ商売をしていた父の弟である叔父、軍一・鈴代夫婦がいたのだが、子宝に恵まれない叔父が父に「茂を養子にくれないか」としきりに頼んだのである。叔父は「茂ちゃん、家にこないか。家にくれば好きなことをなんでもさせてあげるよ」と、私を説得するのだった。
最初は実の親元を離れるのをためらい、嫌がっていた私だったが、本家には跡継ぎの兄貴がいる。また、叔父は私が欲しがっていたおもちゃなどを買って与えるなど一生懸命に口説くものだから、叔父の家に養子入りすることにした。私は自分の意志で養子入りを決めたのである。
とはいえ、実父と養父の家は自転車でわずかな距離だ。養家からおかずをもって生家 に帰ったり、生家から養家に食事をしに来たりと、行ったり来たりの間柄だったので実家が二軒できた風だった。
養父は焼酎なども商い、商才は実父よりも長けていたようだ。その後、養父は広島の方へどんどん商圏を広げていったことからもそれは明らかだった。養家にはお手伝いさんがいたくらいで、商売はみな養父が一人でこなしていたのである。
西条尋常小学校では、東横映画に一緒に入社し、その後も長く付き合うことになる現・東映アニメーション特別顧問の今田智憲氏が同級生の一人だった。今田氏は大正十二年(一九二三年)七月二十日の生まれだから、今ならば私よりも一年上級生のはずだが、当時の小学校には同級に七歳組と八歳組とがあったのである。いまから考えるとおもしろいものだが、つまり、生まれ月によって進級する年にズレが生じるのだ。
だから、同じクラス同士でもこの違いから必ずしも仲が良くなかったように記憶している。しかも、四年生までは男女共学だったからその頃としては珍しい小学校だったといえよう。
四年生になり男組と女組と に別れるまでは、女の子の家に遊びに行ったりもした。当時の小学校は、わりと裕福な家庭の子供と、駅の下働きや荷役などをする労働者の家庭の子供とは学力差があるが、はっきりとクラス分けされていたわけではない。上級の学校を狙う広島一中に進学するのならば、四、五年生から準備をしなければ合格できない。大半の同級生は中学へは行かず、尋常高等科に進むのが普通で、いまでいう中卒で仕事に就いた頃だった。
小学校時代の私は、遊びや喧嘩に明け暮れていた。喧嘩が一番強く、ガキ大将だったのである。今田氏の実家は私の生家のすぐ近くで、私たちは近所の子供たちを集めてチャンバラ遊びをよくやったものだ。チャンバラをした近くの広場の横には、岡田家も大株主の朝日座という映画館があった。私も祖母、母に手を引かれてよく朝日座へ連れて行かれた。映画館だが、出し物には浪花節や時代劇もあった。映画では日活物もかけられたが、難しい内容だから西条では受けないものも多い。松竹の大船撮影所の初期のメロドラマや新興キネマ、大都映画の時代物を多く上映していた。それが私と映画との出会いである。
第一章から転載
ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/3/1
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