特別連載 映画人生・岡田茂の決断
若き経営者に贈る岡田茂の遺産E

映画とテレビのすみ分けを明確に 「不良性感度」という考え方

 西条出身で東映名誉会長の岡田茂氏。激動の時代・昭和を生き抜いた「岡田茂」の自伝を振り返りながら氏の実像に迫り、私たちに残してくれた、大いなる遺産を確認する。


▲京都二条城で感謝パーティー開催…昭和35年

TV時代の到来

 戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長時代へと徐々に経済復興の兆しが見え始めた1953年、NHKがテレビ放送を始めました。当時、テレビは高価な電気製品であり、当初は街頭テレビに庶民が群がり、力道山のプロレスや巨人戦の野球中継に熱狂しました。1964年の東京オリンピックではテレビ中継の視聴率が平均で60%を超えており、テレビ時代の到来が現実のものとなりました。映画館入場者数が、1958年に11億2745万人に達したのをピークに減少を始め、大衆娯楽の王者「映画産業」が衰退を始めるのです。いわゆる「TV時代の到来」です。

 この流れをいち早く察知した岡田茂氏は、映画とテレビの住み分けを明確にしていきます。「不良性感度」という考え方です。「映画は元来、不良青年がつくるもの」という意味で、次のように発言しています。

 『従来の東宝、松竹などで作り上映される映画は、善良性の感度に基づく映画であるが、この種の「善良性感度」の映画はテレビに よってお茶の間に提供できるものである。テレビに対抗して映画館でお客に見せる映画、お客として映画館まで足を運ばせる映画はテレビで見られないもの、すなわち「不良性感度」の映画でなければならない。「やくざ映画」がまずその一ジャンルである。そしてそのほかでいえば「好色もの」があるというわけだ』と。

 そして、『私はつくる側としては珍しいほど館主と直接話をした。口ゲンカもたくさんしたが、そういう中で、ある種の大衆感覚が養われたと思う。映画というのは、大衆が支持しなきゃ駄目。自分一人がいいと思ったって、お客が入らなきゃどうにもならない。これをしみじみ感じたのは、私が企画した『わが一高時代の犯罪』が見事に外れてから。それから、中途半端なものは一切やめた。個人の趣味ではだめだ、と。大衆というのは、そんな甘っちょろいものじゃない。怖いマンモスだ』と言っています。

 岡田氏はこの「不良性感度」の考え方を徹底的に映画製作に貫いたことで、テレビ時代の到来から 東映並びに映画産業を守り、さらに発展させていったのです。

 1964年、東映は東急グループから分離し、従業員約7000人、系列企業40社というソフト産業としては破格の企業グループへと成長を遂げています。岡田氏の時代を読み取る先見性の根底にあったものは、常に大衆の動向が鋭く読み取られていたということです。常に時代の変遷とともに、大衆のうねりはどの方向に向かっているのか、大衆という大海原の本質を五体で感じ取っているからこそ、企業の方向性を誤ることなく引っ張っていくことができたのです。

 1968年5月、44歳の若さで岡田氏が製作の最高責任者・企画製作本部長兼京都撮影所長に就任。同年秋、製作から営業までを一貫して統括するべく新編成された映画本部長に就任。さらに1971年、テレビ本部長を兼務し映像製作部門の全権を掌握していく事になります。

(エッセイスト・千義久)


自伝「悔いなきわが映画人生」より
揉めにもめた京都撮影所の超合理化


「悔いなきわが映画人生 東映と共に歩んだ50年」
著/岡田茂
発行/株式会社 財界研究所
発売日/2001年6月
 岡田茂氏がすべてを語り尽くした。いま明かされる戦後日本映画史の裏面史。東映50年の劇場公開映画一覧と、東映の年表を収録。

 それから私は京都撮影所で超合理化を始めたのだった。一番の肝は人員を二千百人から一挙に九百人と半分以下に削減したことである。予想にたがわず、これは揉めにもめた。撮影所員も私もまさに血みどろの合理化だった。身に何が起きても不思議でない状況だったが私は「誰か来るならいつでもどこからでも来い」という気構えで腹を据えていた。

 しかし、私はただ首切りを行ったのではない。もちろん京都撮影所を去っていく人もいたのだが、東京撮影所や本社、東映動画(現東映アニメーション)、劇場など東映グループ内のあちらこちらに配置転換をしたのである。

 そして、昭和三十九年二月にテレビ用時代劇の制作を行う東映京都テレビ・プロダクションを設立した。幸い、テレビ映画が興隆期にあったからそちらに多くの人員を割り当てることができた。それは映画だけでは飯が食えない時代がやってきたことを意味していた。これには大川橋蔵さんが真っ先に賛同して人気テ レビ時代劇シリーズとなる『銭形平次』に出演してくれた。橋蔵さんの「京都撮影所を離れたくない。映画でなくてもここでやりましょう」という思いがスタッフの皆にも通じたのである。

 私も『大奥マル秘物語』のテレビ版を関西テレビと組んで制作したり、『水戸黄門』、『柳生武芸帳』などを制作したものだ。京都が時代劇の作品をつくれば、東京は『特別機動捜査隊』や『鉄道公安36号』など現代劇の作品をつくった。両撮影所のテレビプロダクションはそれぞれに両撮影所の得意分野で、劇場映画とは違った味のある作品を制作したのである。

 だが、当初は社員の給料水準が高いため、いくら制作しても利益が出る体質にはなかなかならなかった。そこで時間外の労働手当を払わなければならない旧東映社員からフリーのスタッフの比重を高めて、収益が上がるようにした。

 いずれにせよ、後にテレビ映画は劇場映画と共に東映の柱となる。全プロ二本立て興 行ならぬ、劇場用映画とテレビ映画の二本立てが完成していくのである。

 しかし、各映画会社ではテレビ映画に対する取り組みに温度差があった。東映は積極的にテレビ映画に乗り出したのだが、東宝は昭和四十三年頃に映画製作自体をやめて興行会社に徹するという声明を出した。製作は三船プロなどの独立プロと提携して任せようというのである。そして、興行も洋画を中心に行おうという戦略に転換したのだ。大映や日活も映画専門を打ち出して、テレビ映画は制作しない方針だった。象徴的だったのは、大映の永田雅一社長が「テレビは子供のおもちゃのようなものだ」と言い放ったことである。この発言に当時の映画会社のテレビへの感情が集約されているのではないだろうか。松竹はそもそも映画と劇場の二本立てだからテレビ映画には積極的ではなかった。

 漁夫の利ではないが、他社がテレビ映画の制作に熱心でないものだから一時、東映のシェアは五〇パーセントを占めるまでに至った。現在でも東映のシェアは四〇パーセント台であるが、このテレビ映画初期時代の姿勢の違いが後世まで影響し、大きな差になって現れたといえよう。

第十四から転載

バックナンバー

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ザ・ウィークリー・プレスネット 2014/5/24

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