444−425 「八鹿高校解放研事件」

 1974(昭和49).11.18日、兵庫県の八鹿高校(養父郡八鹿)で、部落解放運動を廻る解放同盟と日共の対立の縮図のように持ち込まれた「八鹿高校『解放研』騒動」が発生している。これを「八鹿高校解放研事件」と称することにする。事件の存在そのものは広く流布されているが、真相が一向に見えてこないまま日共がこれを政治主義的にプロパガンダし続けている。「知らぬ者を誑(たぶら)かす」宮顕−不破論法がここでも満展開されており、れんだいこは座視し得ない。そういう気づきから、「八鹿高校解放研事件」を仔細に検証してみたい。何より正確に知ることが肝心である。

 「部落差別と八鹿高校」(高杉晋吾、三一書房、1975.7.31)を参照にしたが、他にも「凍った炎 八鹿高校差別教育事件 下」(兵庫解放教育研究会、明治図書出版、1975年)、「但馬の雪の下で 八鹿高校差別教育事件の背景」(全国解放教育研究会、明治図書出版、1976年)等々があるようである。インターネット上に「八鹿高校事件ホームページのために」
「【キチガイの】宝島社:同和利権の真相【妄言】 」でも貴重情報が公開されている。これらを受けて、以下れんだいこが日時順に追跡してみることにする。

 幸いなことに、れんだいこの「八鹿高校解放研事件考」が注目され始めているようなので、批判であれ御意であれ一層の検討資料として資するべく更に精緻に書き直した。

 2004.6.8日再編集 れんだいこ拝


【「八鹿高校解放研事件」発生の背景その一、解放同盟と日共の対立抗争激化
 「部落差別と八鹿高校」(高杉晋吾)に拠れば、事件の流れの端緒として1974.1.6日、「山田久差別文章事件」があるとのことである。これは、八鹿高校の女生徒が交際相手の親から「被差別部落の女性故に交際反対」を宣告され、その最中に生野高校の女生徒が同じ理由で失恋し家出後に奈良で凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生し、これらの衝撃が南但馬全体を揺るがせていた。

 これを受けて、解放同盟の行政と教育現場に対する闘争が強まっていた。こういう流れの中で、これから考察する「八鹿高校解放研事件」の主役達の動きを見ていく必要がある。

 解放同盟南但協議会はこれら一連の経過に対して確認会、糾弾会を開くなど闘争を強めていた。これに対し、日共系が糾弾会拒否闘争に入り対立を深めていた。日共系の指導者は兵庫県教組潮来支部長・橋本哲朗であった。日共系は、反解放同盟的講演会を開くなど解放同盟南但協議会との対立が激化していった。

 日共系のこの動きも見据えておかねばならない。ここでは、部落問題ないし解放運動を廻る解放同盟と日共の対立の理論的分析は差し控えるが、要するに日共系のそれは解放同盟の急進主義運動に対して「右」から掣肘するだけの極右的なものでしかない。そういう意味で、この時期に開催された日共系の「反解放同盟的講演会」なるものの実態が精査されねばならない。この考察は後日に期す。


【「八鹿高校解放研事件」発生の背景その二、八鹿高校における日共系による部落問題指導の穏和性
 八鹿高校は、日共系教職員の力が強いところであった。上部団体の「兵庫県高教組」が日共系であり、その影響を受ける八鹿高校教職員も又日共系という構図になる。「兵庫県高教組声明」は、自らを次のように自画自賛している。「結成以来二十数年、一貫して民主的な教育を推進してきた分会である。また、高校全入運動の中心となるなど、地域住民と提携し、その要求を自らのものとしてともに解決してきた分会である。生徒をよく理解し、親と生徒と学校の深いつながりの中で、差別のないホームルーム編成や生徒の自主活動を保障するなど、同校教師の実践は高い評価を得ている」。八鹿高校教職員が、この「兵庫県高教組声明」に添う活動をしていたことは疑いない。
(れんだいこ私論.私見)「八鹿高校における日共系による部落問題指導の穏和性」について

 この問題の在り処は次のことにある。日共系のいわゆる民主主義教育論はそれはそれで意義のあるものである。留意すべきは、この同じ理論下ながら、50年代半ばの「徳球系から宮顕系への党内宮廷政変」を経由して実態が極めて右傾化させられていったことにある。60年安保闘争前後に構造改革派を一掃し「我が世の春」的独裁的支配権を確立した宮顕派がそれまで潜めていた本来の地金を急速に露わし始め、60年代から70年にかけて急進主義運動から守旧的穏和主義運動への転換を暴力的に強行していった。

 つまり、日共が急速に右傾化(保守反動化)しつつあったことになるが、これに急進主義派が反発を強め、その対立も激化していくことになったのは首肯できるところである。部落解放運動を廻る対立もこれより派生していることに着目せねばならない。もっとも、解放同盟の対応を全て是であったとまでは云わないが。しかし、日共の保守反動路線よりはよほどまっとうな「左」的なそれであったであろう。


【「八鹿高校解放研事件」発生の背景その三、八鹿高校における「同和教育授業」の実態
 事件発生10年前に学校公認の「社会科学研究会」が設立されていたが、この会に加えて「部落問題研究会」が増設されたのではなく、「社会科学研究会」が「部落問題研究会」へと移行したようである。しかし、「設立以来6年が経過していたがおざなりの学習会に陥っていた」と云う。れんだいこ要約「部落解放理論を学ぶというよりは、解放同盟批判の学習、中傷宣伝を専らとし、部落の生徒が入部しない研究会になっており、民青同盟員の養成機関でしかないという状態であった」。れんだいこに云わせれば、これも宮顕指導の悪影響であり、それは何も部落解放運動にのみ現出した事態では無い。この当時あらゆる大衆運動がそのように捻じ曲げられていっていた。

 1971(昭和46)年、八鹿高校でいわゆる「同和教育授業」が始まっている。その内容は、部落の歴史や起源について知るというものであった。それは為されないよりは為された方が良いという程度のもので、「知る以上のものには発展させない制約下の同和教育授業」であった。つまり、当時の部落解放運動における日共系の穏和主義的指導に従っての授業が為されており、これをより詳しく学んで見ても「部落差別は一般差別に解消されるべきものであり、社会体制の変革が解決の道である。但し、体制変革は先進国革命論で漸次的に為すのが我が党の選ぶ道」なる観点に添った部落問題学習運動に過ぎなかったことになる。


(れんだいこ私論.私見) 【「事件当時の八鹿高校における同和教育授業」考
 「事件当時の八鹿高校における同和教育授業」につき、最高裁民事判決が、「少なくとも(解同が主張するような)部落差別を助長するような差別教育ではなかったことは明らか」と述べている。この判決文を根拠にして、「八鹿高校事件ホームページのために」掲示板で「もっこす」なる者が、「問題無しが認められた」なる見地を披瀝している。

 「当局のお墨付き」をこのように利用するのが日共支持者のオツムであることが分かる。左派運動内部の運動の進め方論の是非判断を、当局司法機関の最高権威、最高裁判決に依拠して己の論拠を正当化している。「当局のお墨付き」を以って論を正当化するその精神とはこれ如何に。全く馬脚を露呈しているというべきで、宮顕系日共はこういう体制べったり盲者によって支持されていることが分かり興味深い。

 この御仁は、次の最高裁見解もお気に入りのようである。「解放研は、人間的な触れ合いと全人格的な結びつきを基盤として、教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序が必要な学校教育において、その全てを根底から破壊しかねない重大な危険性を帯有しているのみならず、指導面でも、教師の指導を排除して、教育現場において関係者の総学習、総点検の実施を要求する解放同盟の指導を至上のものとしており、運動体的色彩の濃い生徒の集団であって、本来教師の指導、助言のもとに学習活動をすべきクラブ又は同好会とはまったく異質のものであった」。

 これによれば、解放研以前の八鹿高校教育は、「最高裁お墨付きの理想的なものであった」ということになる。最高裁見解をこのような得心する頭脳構造の者が宮顕系日共の熱烈支持者であることが分かり興味深い。


【「八鹿高校解放研事件」発生の背景その四、生徒の造反有理

 上述のような日共系の穏和指導に対して、当時の世相を反映して「造反有理」する生徒が生まれたとしてもむべなるかな。実際、解放同盟的見解に依拠しつつ「それは違う」と反発し始めた生徒が生まれた。部落問題研究会の一部メンバーが日共系指導に飽き足らず、部落解放同盟八鹿支部と連絡を取って新たに部落解放研究会(以下、「解放研」と云う)を作り、その公認を求めて学校当局に申し入れた。

 5.12日、「解放研」承認を要求する生徒が校長・教頭に話し合いを求める。

 6月、校長・教頭・分校教師らが開放同盟主催の研修会に参加する(日共系によれば、させられる)。これにつき、兵庫県高等学校教職員組合による「但馬の住民のみなさん、全県下県民のみなさん」パンフレットの中で次のように記されている。「研修会とは、部落差別に立ち上がる高校生の一泊研修会で、主催者は但馬同和教育協議会高校部会で、参加者は各高校の校長、教頭、同和主任、解同一部役員、部落出身高校生などで行われた。しかし、研修会とは名のみで、その中身は各学校の同和教育の点検という形で進められ、確認・糾弾会となりました」(東上高志同和教育著作集18「ドキュメント八鹿高校事件」、1974.2月、部落問題研究所所収「この無法、この蛮行−朝来事件の真相と背景−」)。

 7月、校長・教頭管理職の責任において「解放研」の発足が承認された。しかし、日共系教師がイニシアチブを執る同校職員会議では概要「『外部(解放同盟)の介入』を理由に、教頭の確認を認めない、教師個人が単独で顧問を引き受けない」を決議した。つまり、「解放研」の発足は校長・教頭が認めたが教職員がこれを否認するという「異例の事態」となった。これにより「校長・教頭約束」が宙に浮いたことになる。

 考えて見ればこれは奇妙なことである。爾来、校長・教頭管理職は当局側であり、教職員組合はこれに抗する側というのが左派運動の常態である。ところが、「八鹿高校解放研事件」では、急進主義派の「解放研」を当局側の校長・教頭管理職が認め、教職員組合が認めないという捻じれが生じている。

 これをどう読むべきか。れんだいこは、当局側に認めさせた急進主義派解放同盟の働きかけの奏功に対して、日共系が保守反動丸出しの精神で抵抗しているという図柄になる。日共が本来の左派運動の推進者であるならば、「解放研」運動を推進する側に立つべきところここでは当局側になっており、真性の当局側が解放同盟に威圧されいいなりにされているという逆転現象が起きていることになる。滑稽な構図ではあろう。

 7.16日、見かねて同校育友会(PTA)が間を取り持とうとし、八鹿高校の同和教育方針の説明を求めたが、共産党系ないしは党員と思われる片山正敏教諭らにより拒否された。「既に部落研があるのに新たに解放研はいらない」という理由であった。職員会議は概ねこれを支持していたようである。

 7.26日、職員会議に解放研メンバーや父兄との話し合いを求めたが、これも拒否された。この経過のポイントは、生徒の自主的な部落研活動の盛り上がりにこともあろうに日共がことごとく敵対している諸事実であろう。

 7.30日、ともかくも八鹿高校落解放研究会が公認された。実際には、教師達の反対の中で校長が職権によって認知するという難産であった。ところが、日共系の片山教諭らは「部室を与えず」という作戦に出るという徹底的な敵対に終始した。このような中での誕生となったこともあって、顧問を引き受ける教諭が居なく教頭がその任を引き受けることとなった。部落研にいた部落出身生徒は全員「解放研」に移籍した。全21名のメンバーのうち18名が該当し、部落研に残ったメンバーは全員非部落出身者という構図となった。

 この経緯につき、前述の兵庫県高等学校教職員組合による「但馬の住民のみなさん、全県下県民のみなさん」パンフレットの中で次のように記されている。「八鹿高校についていえば、『解放研をつくれ』という要求を参加していた教頭につきつけ、いくら『職員会議で決定しなくては私の一存では決められない』と言い続けても、認めるまで大多数の生徒・解同青年行動隊と一緒になって長時間せめつづけ、強引に認めさせました。けれども、この無茶苦茶なやり方で認めさせた解放研設置の要求は、今日に至っても職員会議の承認を受けずに校則のどこにもない方法−すなわち、校長独断で部室も与えられ、教頭が顧問になっています」(東上高志同和教育著作集18「ドキュメント八鹿高校事件」、1974.2月、部落問題研究所所収「この無法、この蛮行−朝来事件の真相と背景−」)。

 果たして、日共系のこの謂いに正当性が認められるだろうか。「逆転現象による滑稽な構図」では無かろうか。



【「橋本哲朗糾弾闘争(潮来町事件)」】
 その後、南但では潮来郡を中心として奇妙な事態が発生していた。解放同盟南但協議会による確認会が開かれていたが、この確認会の模様を誹謗する「潮来支部報」、「統一刷新但馬有志連ニュース」なるビラが大量にばら撒かれ始めた。ビラの内容は割愛するが、凡そ低俗な罵倒中傷で塗り固められている。

 9.8日、この配布の指揮をしているのが兵庫県教組潮来支部長・橋本哲朗であることが判明した。配布現場を同盟員により発見され明らかとなった。

 この時から「橋本哲朗糾弾闘争(潮来町事件)」が開始され、9月初旬から10月末に至るまで、解放同盟・共闘会議と日共・民青との抗争が繰り返されるようになった。10.20日から26日まで橋本氏に対する自宅前糾弾闘争が展開されている。糾弾デモ参加者は次第に膨れ上がり、10.20日、数百名、10.22日、約2千名、10.23日、約6千5百名、10.24日、約1万2千名、この時激突し双方に負傷者が発生している。10.25日、生野町で解放同盟・共闘会議と民青の数百名が激突し機動隊が出動。この衝突を頂点に各地で激突、恒常的乱闘状態に入る。

 10.26日、3万5千名に及ぶ総括集会が開かれ、この時も激突している。こうした抗争は潮来町ばかりでなく和田山町、養父町でも発生し、双方負傷者を出し機動隊が出動している。


【「八鹿高校解放研事件」発生の発端

 11.5日、「解放研」の発足を認めていた校長・教頭を排除すべく職員会議ならぬ「職員集会」が開催され、「解放研部室」の撤去を決議している。

 11.12日、解放研メンバーが同校同和対策室主任の高本教諭に話し合いの場をつくるよう求めた。

 11.16日、高本教諭はこれを職員会議に諮ったところ、「解放研との話し合いには応じない」を決議することとなった。その理由として、「@・何を、どういうことを話し合うのか。A・話し合いをどのように進めていくのか。B・時間設定はどうするのか。C・そういった点について充分に打ち合わせできていない」ということになった。高本教諭(ら3名)は、解放研の生徒たちにこの結論を伝えるため出向いていった。高本教諭と生徒側の遣り取りが続いている最中、約40名の教諭がやってきて高本教諭(ら3名)を連れ帰る。

 11.16日、教頭から「臨時職員会議の結果、解放研生徒との話し合いはしないことになった」という返事があった。このため生徒は、電話連絡により、連合解放研に支援を依頼し、3時半頃には20名の他校の「解放研」が応援にやって来た。「同和室3名の教員を罵倒し、他校の解放研20名近くが職員室入口にたむろし、帰ろうとする教師たちを妨害した」とある。

 この日、教師団はスクラム下校した。これ以降事件日の11.22日まで「一斉スクラム下校方式」が採られることになる。これにつき、判決が為されているようである。教師団の集団下校に対して、「落ち度なし」として教職員の態度・行動の正当性を認めて次のように述べている。「緊急事態に直面した原告らが、自らの身体の安全と八鹿高校の教育の自主性、主体性を守るため、非常手段として集団下校したことには無理からぬものがあり、むしろ緊急避難であったということができる」。日共系はこれをお墨付きとしているが、こうなると司法判決を水戸黄門の印籠的権威で認めようとする事大主義の虜であることが判明する。

 11.17日、この日は日曜日であったが、「解放研」の生徒が八鹿高校内の職員室をはじめ教師の机の中まで「差別教師糾弾」のポスターを貼っている。

 11.18日の朝、「八鹿高校教師の冷たい仕打ち」なるビラが八鹿高校前・養父・和田山・新井・生野の各駅前でまかれた。解放同盟の宣伝車6台が八鹿高校に入り、スピーカー演説が為された。休み時間にはシュプレヒコールが繰り返される騒然たる状態が続いた。

 11.18日、教職員組合の対応に憤慨した「解放研」の生徒全員21名(うち女子13名、他校生も一部参加している模様)が職員室前で座り込み闘争に入った。こうした中で「三項目要求」が出される。「三つの要求事項」とは、

@  解放研に3名の顧問をつけること。
 (日共系文書では、「但し、その人選は解放研の希望を受け入れること」が挿入されていた、と記している。れんだいこは、日共系はすり替え、歪曲、改竄名人である故に真偽不明として参考資料として紹介しておく)
A  解放研と教師達との話し合いを持つこと。
 (日共系文書では、「但し、但馬地区高等学校連合部落解放研究会並びに各役員を含むこと」が挿入されていた、と記している。れんだいこは、日共系はすり替え、歪曲、改竄名人である故に真偽不明として参考資料として紹介しておく)
B  現在の八鹿高校に於ける同和教育が部落解放に適切でないことを認めよ。

 日共系は、この要求に対して、「もし、こうした要求の一つでも飲めば、八鹿高校は、南但馬の各小中学校や行政と同じように、反社会的暴力利権集団としか言いようのない解同に蹂躙されることは火を見るより明らかでした」として、拒否回答したことを正当化している。例によって、判決も「解放研の性格と実態、解放研生徒の要求する『話し合い』の内実等を子細に検討すれば、右の指摘が果たして正鵠を射たものかどうか疑問なしとしない」として「その誤りを指摘している」と「お墨付き」している。繰り返すが、日共系にあっては、判決は水戸黄門の印籠的権威を持つようである。

 この日、教師団は、解放研の生徒全員の職員室前の座り込みを無視し続け、平常どおりの授業を続けている。

 昼過ぎ、マイクロバスで約40名の他校「解放研」生徒を引き連れて丸尾が乗り込み、3時40分頃、「八鹿高校教育正常化共闘会議の闘争宣言」をスピーカーで読み上げる。

 ちなみに、丸尾氏のプロフィールにつき、日共は、「許せぬ残虐なテロ--『解同』朝田・丸尾派による兵庫県八鹿高校事件の真相」なるパンフレットで次のように紹介している。「事件の首謀者丸尾良昭(33)は、朝来町在住、自動車修理工場を経営。独身時代から暴力ざたをおこすなど粗暴な性格の持ち主。1974.7月、『解同』沢支部長に就任しましたが、人望はなく、暴力と脅迫で町を制圧しました。町役場では町長以下が『丸尾先生』と下にもおかないもてなしぶりで増長するばかり。事件後は『糾弾(リンチ)もなければメシもまずい』と高言していました」とある。これが日共の正式の党文書であることを思えば何と扇情的な格調の低いものであることか。それはともかく丸尾氏の年齢、職業、社会的地位を知るにつき貴重なので収録した。

 11.18日、兵庫高教組八鹿高分会長・八鹿高職員会議長・橘謙名により、八鹿警察署長宛に「我々八鹿高校教職員は不測の事態の為、職員室、学校より出られない事態にありますのでこの状態を早く排除していただくよう要請します」なる要請文が提出されている。

 18日頃より連日、兵庫県高教組チャーターによる送迎バスが手配され、八鹿高校教師たちを集団で登下校させるようになった。そして、班編成され、豊岡、神鍋、城崎に分宿させられるようになった。「部落差別と八鹿高校」(高杉晋吾)に拠れば、この指導に当たったのが兵庫県高教組委員長・吉富、日共参議院議員・安武洋子ということである。

 11.19日、農業科の生徒を中心とした約130余名が座り込みに加わった。この異常事態の最中でも授業は何ごともなく続けられた。PTAや県教委が動き出し、教師達に話し合いを持つよう説得したが、教師団はこれを拒否し続けた。

 11.20日、「差別教育糾弾闘争」に発展した。他校の「解放研」生徒、青年行動隊によって職員室の出入りが自由にできない状態になる。さらにこの日から「約1200〜2700人が同市内で集会とデモを繰り返した」(「毎日新聞」)。

 同の夜、部落解放同盟、自治労、兵庫教組など労働組合・民主団体が「八鹿高校差別教育糾弾共闘会議」を結成するに至った。



【「解放研の生徒全員がハンガーストライキに突入」】

 11.21日、解放研の生徒全員21名が、午後4時から「三項目要求」の受け入れを求めてが断食闘争(ハンガーストライキ)に突入した。生徒会執行部は、教師達に「私たちは絶対に彼等を死なせてはならないのです。執行部は先生達にどうしても話し合いさしてほしい。絶対話し合いをしてほしいです」と悲痛な訴えを行った。

 こうした要請に対する教師達の解答は、@・解放研設立要求以前の5月時点に返すこと。A・解放同盟など外部団体と手を切ること。B・これを確認して後話し合うかどうか職員会議で決める、であった。


 この時の情況を、日共系は次のように述べている。「学校においては、解放研生徒の座り込み、断食に加えて、18日から他校解放研、青年行動隊、座りこんでいる生徒の父母、解同丸尾一派が出入りし、教師を威圧して、騒然たる有様であった。こうした中で教師たちは、身の安全を守るために18日から集団登下校を行い、授業を守り通してきたのであった。解同小西委員長は『授業を放棄してスクラムを組んで学校を逃げ出した』などと罵ったが、八鹿高校の全教職員は22日の襲撃の日まで、これほどまでに困難な状況にありながら、一人として職場を放棄していないのである」。

 部落解放同盟南但地区連絡協議会各支部は解放研の生徒たちを励まし支持する。他方、日共系教師達がこれを極端に嫌うという構図が現出し、膠着状態となった。

 ちなみに、八鹿高校事件前日11.21日、兵庫県高等学校教職員組合が、「但馬の住民のみなさん、全県下県民のみなさん」なる呼びかけ文を配布しているとのことである。(その内容の一部は既に取り込み紹介した)



【八鹿高校教師団の「本日の授業中止宣言」】
 11.22日、前日城崎温泉で一泊して会議を開いた教師団は貸しきりバスで出勤してきた。示し合わせた通り「ホーム・ルームを終えたのち、本日の授業は中止すると宣言」して、図書館に集まった。
(れんだいこ私論.私見) 「八鹿高校教師団の『本日の授業中止宣言』」について

 如何なる理由があれ、公教育の現場で、教師側からの「全校的授業中止措置」には問題があろう。奇妙なことに、平素あれほど手厳しい文部省当局がこれを等閑視している。れんだいこには、「八鹿高校事件」を廻る論争でこの点が問われていな過ぎるように思える。日共の教育理論にある「子供の学習権尊重」に照らして見ても、「一斉スクラム下校団」のこの時の対応は如何であろうか。教師団による「全校的授業中止措置」なる行動が許されるのか。為すべきは徹底した話し合いではなかったのか。自らを正義と思うなら、正義の側が逃げ隠れすることは無いではないか。


【「八鹿高校解放研事件」遂に衝突
 午前9時半、ハンスト中の生徒たちに目もくれず、約50名の教師が集団で下校し始めた。当日のこの動きは双方事前に察知していた模様である。この時、「解放研」のハンガーストライキの成り行きを心配しあるいはこれを支援する解放同盟側、教師団の対応を支援する日共側それぞれ数百名が駆けつけていた。日共側には民青同など数百名が関西一円から動員されていた。双方睨み合いしていたようで、この道中民青同側からの差別語が執拗に浴びせられ続けていた。

 「八鹿高校事件ホームページのために」で、 もっこすなる者が貴重書き込みしている。「22日に教職員のとった処置は、襲撃から生徒を守り、身の安全を守るために、ホームルームで事態の緊急性を伝えて生徒の下校を促し、そして年休届けを出して全員が校門を出ることだった。教師たちは、八鹿高校の校歌を歌いながら整然とスクラムを組んで校門を出ていった」とある。これによれば、当日「ホームルームで事態の緊急性を伝えて生徒の下校を促し、そして年休届けを出して全員が校門を出る」シナリオがあったことになる。

 下校し始めた教師団に対し、丸尾氏を先頭にして解放同盟側がこれを阻止しようとし始めた。かくて、実力連れ戻し行使が発生した。もみ合いとなり双方に負傷者が発生した。 

 この「衝突」経過には、日共系教員を指導する党中央機関の直接的介在が見え隠れしている。赤旗のタイミングの良いキャンペーンもこれを例証している。11.24日、赤旗は号外を出して、「法治国に許せぬ大暴力事件 『解同』朝田一派が」、「高校の先生70人に血の集団リンチ、危篤、重傷者29人、授業も不能に」なる見出しで、センセーショナルに事件報道している。記事内容も、概要「
1974年11月22日兵庫県八鹿町で、八鹿高校事件がおきた。部落解放同盟が自分たちの言いなりにならない教師を『差別教師』と決めつけて、まっ昼間に、八鹿高校の体育館で集団暴行をくわえるという、教育史上例をみない蛮行がひきおこされた」なる一方的な書き方でプロパガンダしている。文面には、「逆吊り」、「女教師を裸にしたすさまじいリンチ」、「血の海と化す流血の場」なる扇動記事が踊っており、故意におどろおどろしく報じられている。

 これに対し社会新報は、「女教師を裸にしたすさまじいリンチなどは無かった」、「教師に重傷を負わせる程の暴力は無かった」として「(負傷した教諭の)誇大な入院劇の演出」と報じたが、影響力が格段に違い、赤旗記事が信憑力を持って浸透していった。

 事件の見方は別として、暴行事実はどうであったのか。解放同盟側は、概要「あまりにもひどい一方的な発言、一方的な報道であり、よくまあそこまでデタラメを、と云わねばならぬハレンチぶりのデッチアゲ記事である」と批判している。被害の実態については、大阪の元党員が、「かすり傷ひとつない教師を共産党系病院に入院させ、重傷の診断書を書く」などの体験を出版しているほか「病院で談笑していた」等々多くの証言がある。

 こうなると、赤旗のフレームアップ責任が問われるべきであろう。それにしてもこの手法は権力犯罪の常套芸であり、宮顕系日共が好んでこれを使うのも胡散臭さを証左しているとも云えよう。
(れんだいこ私論.私見) 「赤旗と社会新報記述のこれほどの食い違い」について

 「赤旗と社会新報記述のこれほどの食い違い」につき、今(2004.9月現在の時点)からでも遅くない、決して曖昧にして良いことではない、当時の関係者一同の証言を寄せ再精査せよ。その上で、赤旗記述と社会新報記述のどちらが正確であったのか、を明らかにせねばならない。それが公党の責任であり、面子でもあろう。

 仮に社会新報の記述の方が正しかったとして、にも拘らず赤旗記述に対して抗議を為さなかった、少なくとも紙面論争にまで向うべきところこれを為さなかったとしたら、それが社会党の主義、責任、面子に賭ける意欲の弱さであったであろう。

 2004.9.10日 れんだいこ拝


【日共の告訴戦術、国会戦術】
 日共は、八鹿高校教諭や兵庫高教組名により部落解放同盟員を警察に告訴した。警察権力はこれを受けて部落解放同盟に大弾圧を行なった。この動きを素直に読み取れば、「又しても日共−警察の連係プレー」が登場したことになる。これにより、「八鹿高校差別教育糾弾闘争会議」議長・丸尾氏ら4名の第一次逮捕を始めとして、第二次7名、第三次7名という具合に解放同盟の青年達が逮捕されていった。丸尾良昭氏は主犯として、監禁(致傷)・強要・傷害の罪で起訴された。この一連の経過を「八鹿高校解放研事件」と云う。

 「解同の暴力糾弾の頂点を示した事件だが、解同タブーに支配された一般のマスコミは警察発表をごく簡単に伝えただけだった」との見解の披瀝も為されているが、それを埋めてなお余る赤旗によるキャンペーンが為されたのも事実だろう。特に、詳細資料が無いので記憶に基づくしかないが、日共はこの事件を国会で大々的に取り上げ、国会活動史上唯一と云って良い戦闘的な追及を為し、議事堂内をシーンと静粛にさせたのでは無かったか。

 12.24日、衆議院地方行政委員長会で八鹿高校事件に関する質疑が行われ、日共の金子満広が法務委員会や本会議で赤旗記事に基づく党利党略的なプロパガンダを為した。(これにつき資料を探索中。どなたか当時の記事を紹介して欲しい)


【日共の「八鹿高校解放研事件」観】
 日共系は今日、「八鹿高校解放研事件」について次のように概述している。
 概要「八鹿・朝来暴力事件」いうのは、1974.9月から11月にかけて発生した『解同』による集団暴力事件で、兵庫県南但馬地方に誕生したばかりの『解同』丸尾派がその勢力拡大のため、暴力主義と利権あさりの体質を露呈し、南但馬の自治体や学校教育現場をその支配下におさめるべくいわゆる『朝田理論』と『解放教育論』をふりかざして暴力と洞喝の限りをつくし、多くの住民をも震憾させた事件であり、起訴された事件だけでも8件、被害者数200余名にたっする一大暴力犯罪であった。

 八鹿高校事件は、そのなかでも最大の事件であり、同年11.22日、部落解放研究会(「解放研」)問題を口実に県立八鹿高校に対する教育介入をはかった『解同』が、これに抵抗する教職員集団(同校のほぼ全員)にたいし、これを校内に拉致監禁したうえ、『糾弾』と称する凶悪・凄惨・陰湿な集団リンチを加え、内48名に瀕死の重傷を含む傷害を与えた(入院も29名に達した)事件である。主犯丸尾良昭らが逮捕、監禁(致傷)、強要、傷害の罪で起訴された」。

(れんだいこ私論.私見)「日共の『八鹿高校解放研事件』観」について

 果たして、「日共の『八鹿高校解放研事件』観」が正確であろうか。原水協問題然り、善隣会館事件然りで日共の出向くところいつでもどこでも同様の独善的論理と行動で水を差してきた歴史がある。大混乱の挙句大衆運動そのものが沈静化されたが、それはれんだいこの見るところ日共側の思惑が貫徹されたことを意味する。

 運動にはその内部に論争と派閥、それなりの衝突が避けられない。これを運動全体の利益の観点から為すのか沈静化させる為に為すのかは混ざりあえない二股の道であろう。日共がどの見地から関与しているのか、その仕掛けを見破るべき頃では無かろうか。未だ「日共の聖像化」に拘っている者が見受けられるが、徳球−伊藤律系譜のそれに対してならいざ知らず宮顕−不破系のそれを聖像化するなど「いわく付きの同類の輩」以外には為しえないドン・キホーテでしかなかろう。

 部落解放運動然り、原水協問題然り、善隣会館事件然り、日ソ両共産党紛争然り、日中両共産党紛争然り、新日本文学問題然り、宮顕リンチ事件然り、「50年分裂問題」然り、常に宮顕−不破系論理とその対応を是とする盲者が居る。それらの連中は、仮に党内であっても極右派であることを自認しており、逆に云えば宮顕−不破系党中央はこの極右派に支えられていることが分かり興味深い。

 彼らにあっては、戦後合法化された日本左派運動が何故に却ってちぢこまっているのか、「70年代の遅くない時期までの民主連合政府樹立構想」の夢幻とその残影に対して党中央にはそれなりの責任があるのに何故免責されるのか等々について、この現象自体がむしろ好ましいことの如くである。従って、要するに「裏からの体制補完運動」しか為していないのではなかろうか、という疑問に付き、いやそうではない日共党中央はかくも有能にして正義にして清潔にして高邁であることを弁証する必要も義務も感じていない如くである。

 それならそれで、唯一の生命線である議会運動に対して、顕著な躍進振りを語ってくれねばなるまいに、それもどうでも良いことのようである。こういう支持者に支えられた党中央の行く末がどうなるか。れんだいこが託宣してしんぜよう。「後暫くで君達の運動が完遂されお望みの通りに霧消するであろう。お役目ご苦労さんであった」。しかしなぁ、人はいつまでも日共の口車に騙されるほどそう馬鹿ではないぞ。

 2004.6.7日 れんだいこ拝
 日共系は、「八鹿高校解放研事件」について次のようにも概述している。概要「解放研は解同という外郭団体の指導下組織であった。学校教育が『不当な支配を受けない』と言うのは、教育基本法で保障されています。解放研問題を口実として県立八鹿高校に解同丸尾派が教育介入を図ろうとしたのは明白です」。
(れんだいこ私論.私見)「日共の『八鹿高校解放研事件』観」について

 何と、日共は、ご都合主義で教育基本法を持ち出している。それを云うなら、「学校教育が『不当な支配を受けない』」のは正論として、「学校教育が不当な支配を受けていないそれまでの様子」を聞かせてくれ。果たして、それまで文部省行政は公正中立に教育指導してきていたのか。「兵庫県高教組」は非政治主義的に公正中立な教育指導してきていたのか。解放同盟のときになると途端に「教育介入批判」し始めるとはこれ如何に。

 要するに、問題をこじれさす前に話し合い、共同討議の余地はいくらでもあったのではないのか。それを避けてきたのはどちらの側なのか、ここが問われているのではなかろうか。「俺達は全て是、相手は全て非」なる論で煙に巻こうなんて人を馬鹿にしてやいないか。

 2004.6.7日 れんだいこ拝


事件の真相を廻っての質疑
 「さざ波通信」の「共産党の理論・政策・歴史」討論欄での「部落解放同盟の親戚」氏の2001.8.7日付け投稿文「日本共産党と全解連、八鹿高校事件など」によれば、次のようにある。
 「私が見れば貴方は部落解放同盟の誤った考えに洗脳されておられ、私は貴方から見れば日本共産党の誤った考えに洗脳されています、部落問題についてこれ以上論議しても、かみ合う事はなく平行線が続きます」。
 「ある人は、熱心な共産党員で、某大学の支部長でしたが、八鹿高校事件について調べるうちに『騙されていた』と気付き、離党しました。その人はいま、ある大学の教員で部落問題や世界の反差別運動を研究しています」。
 「百歩譲って貴方の述べておられる通りだとしても、暴力、女教師を裸にしたすさまじいリンチは許されるのでしょうか」。
 話し合いを拒否し、逃亡しようとした教師集団を実力で連れ戻し糾弾を行なった過程で、また解放同盟員に差別語を浴びせる民青との間に衝突があり、双方に負傷者は出ましたが、「女教師を裸にしたすさまじいリンチ」などは無かったのです。

 共産党が、「部落解放同盟の暴力」をしばしばでっちあげることは、さまざまな証言があります。大阪の元党員が、「かすり傷ひとつない教師を共産党系病院に入院させ、重傷の診断書を書く」などの体験を出版していますし、他にも多くの証言があります。八鹿事件でも、教師たちはけがなどなく、病院で談笑していたのが事実です。
 「8月1日付けの貴方の投稿に反論します。あの八鹿高校事件においては、教師に重傷を負わせる程の暴力がふるわれたのであり、どんな意見の違いがあるにせよ許されることではありません」。

 「教師に重傷を負わせる程の暴力」は無かったのです。また、共産党教師の側の挑発により起こされた事件であり、負傷者が出たとしても責任は共産党教師の側にあると思います。

 「当時解同タブーの中で、一般マスコミや警察が不介入の中、赤旗のみがこの事件を報道したのです。又全学連を中心に防衛隊が組織され、私の同僚も参加しました。こうした結果蛮行した者達は起訴され、確か有罪判決を受けた筈です」。
 「蛮行」はありませんでした。司法は、この事件の本質的責任のありかを無視し、不当な有罪判決を下しましたが、糾弾権は認めました。人民の闘いには、権力の弾圧や有罪判決はつきものだと思います。意見の違いがあるにせよ、闘う人民を権力に告訴し、不当な有罪判決をこれみよがしに宣伝するのは、左翼政党としての最低限の資格を疑わせる行為です。


神戸地裁一審判決 
 1983.12.14日、神戸地裁が判決を言い渡した。「糾弾の手段方法は社会的に相当と認められる程度を明らかに越え、被害結果も甚大で、法秩序全体からみて可罰的違法を優に肯定出来る」として、有罪判決が為され、主犯丸尾良昭に対する懲役3年、執行猶予4年の刑を最高とする全被告人、全事件有罪の判決となった。

 被告「解同」側は「有罪」を不服とし、検察側は「量刑不当」を理由として双方が控訴した。


控訴審裁判の判決
 1988(昭和63).3.29日、刑事裁判2審で、大阪高裁(石田裁判長)が控訴審裁判の判決を言い渡し、解同の丸尾良昭被告人らに対し、1審に続いて有罪を宣告した。 これに対して被告「解同」側は上告申立をし、検察側は上告理由が見当たらないとして上告を見送った。

 この時、糾弾闘争の評価を廻って、概要
「今日なお部落差別の実態には極めて深刻かつ重大なるものがあるにもかかわらず、差別事象に対する法的規制もしくは救済の制度は、現行法上は充分であるとはいいがたい。この糾弾は、実定法上認められた権利ではないが、憲法第14条の平等の原理を実質的に実効あらしめる一種の自救行為として是認できる余地があるし、また、それは、差別に対する人間として耐え難い情念から発するものだけに、かなりの厳しさを帯有することも許されるものと考える」と、その意義を認め、これまでの判決以上に踏み込んだ判断を示している。

 
「さざ波通信」の「共産党の理論・政策・歴史」討論欄での「部落解放同盟の親戚」氏の2001.8.7日付け投稿文「日本共産党と全解連、八鹿高校事件など」によれば、次のように書かれている。「司法は、この事件の本質的責任のありかを無視し、不当な有罪判決を下しましたが、糾弾権は認めました。人民の闘いには、権力の弾圧や有罪判決はつきものだと思います。意見の違いがあるにせよ、闘う人民を権力に告訴し、不当な有罪判決をこれみよがしに宣伝するのは、左翼政党としての最低限の資格を疑わせる行為です」。


【損害賠償請求の民事裁判1審判決】
 1990(平成2)年.3.28日、八鹿高校事件の損害賠償請求の民事裁判で、1審の神戸地裁豊岡支部が16年ぶりに、解同の丸尾良昭被告らに対して約3000万円の罰金の支払いを命じた。判決では「糾弾権は実定法上何ら根拠なし」と言明された。「糾弾権」法的根拠を廻っての新見解が出されたことになる。


【最高裁判決】(八鹿高校事件有罪確定―最高裁の上告棄却と「糾弾権」路線の破綻―】より抜粋。

 1990(平成2).11.28日、最高裁(第1小法廷、角田禮次郎裁判長)は、八鹿高校事件を頂点とするいわゆる「八鹿・朝来暴力事件」について大阪高裁の有罪判決を支持し、主犯丸尾良昭ら部落解放同盟(「解同」)側被告人13名からの上告申立に対し、適法な上告理由がないとして、これをいずれも棄却する決定をくだした。この結果、1983.12.14日神戸地裁が言い渡した、主犯丸尾良昭に対する懲役3年、執行猶予4年の刑を最高とする全被告人、全事件有罪の一審判決が確定した。 

 今回の最高裁の上告棄却決定により、一連の事件発生以来、被害者側の告訴、告発を受けて「長年月の裁判に耐えうる証拠の確実な事件、被告人に絞って起訴した(捜査主任検事の言明)とされる日本の教育史上前例のない、あるいは裁判史上有数とされるこの一大刑事事件は、その後の神戸地裁の一審有罪判決、それにたいする「有罪」を不服とする被告「解同」側と「量刑不当」を理由とする検察側の双方の控訴、これにたいする1988.3.29日の大阪高裁における双方の控訴を棄却する判決、さらにこれにたいする被告「解同」側の上告申立(検察側は上告理由が見当たらないとして上告を見送った)という流れを経て、刑事事件としては丸16年ぶりに決着をみたことになる。

 この事件の有罪確定により、「解同」の凶悪な集団暴力犯罪が明確に断罪されるとともに、「解同」の運動論の中心に位置してきたいわゆる「糾弾権」なるものも、社会的にはもとより法的にも完全に否定されたことになる、とある。

(れんだいこ私論.私見)【八鹿高校事件有罪確定―最高裁の上告棄却と「糾弾権」路線の破綻―】筆者の論理について

 上記文の出典、執筆者名が明示されていないが、赤旗論評ではないかと推測される。となると、この記事にある「この事件の有罪確定により、『解同』の凶悪な集団暴力犯罪が明確に断罪されるとともに、『解同』の運動論の中心に位置してきたいわゆる『糾弾権』なるものも、社会的にはもとより法的にも完全に否定されたことになる」も迂闊には信用できない。

 あくまで判決文に目を通し、具体的にどういう法理が展開されたのか見ておく必要があるが、該当判決文が入手出来ない。なお、糾弾権に対して最高裁判決を何の疑いも無く受け入れていることが分かり興味深い。

 「八鹿高校解放研事件」に見せた日共の対応は、左翼政党としての品格と見識を疑わせるに充分な事件であったことは相違無い。ところが、この党は最高裁判決文を印籠の如くにして更に政治主義的に利用していく経過を見せている。もはや日共には漬ける薬が無いというところであろう。


【最高裁上告審判決
 1996(平成8).2.8日、.最高裁(第一小法廷、井嶋一友裁判長)は、いわゆる「八鹿高校事件」で、負傷した当時の高校教諭らが丸尾良昭・八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議議長(54)ら同盟員側に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決を下し、解放同盟側の上告を棄却し、丸尾議長らに約3千万円の支払いを命じた一、二審判決を支持し、同盟員側の上告を棄却した。教諭側の勝訴が確定した。

 一、二審判決によると、49年11月22日、学校近くに待機していた解放同盟員が、下校する教職員らを体育館などに連れ戻し、自己批判書を書くまで約13時間にわたり殴るけるなどし、48人に2カ月〜1週間のけがをさせた。



【諸氏の見解
 「さざ波通信」投稿者「部落解放同盟の親戚」氏は、「日本共産党と部落解放同盟の対立の原因が共産党の『大衆団体ベルト論』にあったとしてもひとつぐらい解放同盟に批判的な団体があってもよいのではないのでしょうか。(保守系の全日本同和会が解放同盟と合同するとの噂もあります)」という意見に対し、次のように述べている。

 「解放同盟を批判することは自由です。しかし、共産党のように、解放運動を潰すために分裂組織を作ったり、解放同盟に対してデマ宣伝をしたりということが許されるのでしょうか。残念ながら、解放同盟指導部が右傾化し、ヒロヒト死去の際に弔旗を掲げたり、自民党や公明党を選挙で推薦したりということが起こっており、それに対して広島県連を始めとして解放運動の基本を裏切るものだと批判が起こっています。そういう中で『全日本同和会が解放同盟と合同するとの噂』が流れても仕方がないと思います。解放運動の基本を堅持する県連や支部を支援していかなければならないと思います。

 しかし共産党と『全解連』は、解放同盟中傷以外に何をやっているのでしょうか。『全解連』の大会では、『解放運動卒業』が公然と議論されています。『部落差別は消滅しつつある』という共産党と『全解連』の立場からすれば、解放運動はいらないというのは当然の帰結でしょう。また、『国民融合会議』を結成して『全日本同和会』などと共同(『保守との共同』のさきがけ)してきたのは、どこの誰なのでしょうか。共産党と『全解連』が、たとえ右傾化しているとは言え解放同盟を批判するのは天に唾するものです」。


 なお、同じく「さざ波通信」で、2002/3/22日付け風早泉氏投稿文は次のように書いている。
 「『部落解放同盟の親戚』さんがあのような認識を持つにいたった原因はマスコミにあると私は考える。部落解放同盟を批判する者は日本共産党と全国部落解放運動連合会(全解連)以外にないと言ってもいい。しかし、部落解放同盟にシンパシーを持つ人は日本共産党や全解連が批判しても耳を貸さない。そしてマスコミは何も報道しない。これではどうしようもない。脱常識の部落問題(かもがわ出版)に八鹿高校事件を何故マスコミは報道しなかったのかを現役の朝日新聞記者が書いている。八鹿高校事件の時には学生であったこの記者は事件から20年以上が経って先輩の記者たちになぜ書かなかったのかを質問した。帰ってきた答えは『事実を書くと差別をあおり立てる』というものだったらしい。読売や毎日や産経の記者は八鹿高校事件についてどう思っているのかをぜひ伺いたいと思っている」。


【「マスコミの事件報道の及び腰」について
 事件発生当時、「八鹿高校事件」を報じたマスコミは、翌日の東京の各紙に限って言えば赤旗を除いて一行も報道されなかった。地元の兵庫や関西でさえ、全く報じなかった社もあり、取り上げた新聞でさえ事件の性質から見て扱いが小さい上、その内容は「八鹿高教諭らと解同系もみあい」、「教師団と共闘会議側とトラブル」と報じるのみで抑制されていた。これに対し、日共系盲者は、「集団リンチという凶悪な犯罪が行われた事件の真相を伝えるにはほど遠いものでした」と憤懣している。

 朝日新聞記者・上丸洋一氏は、「なぜ新聞は書かなかったのか」ということについて次のように述べている。
 「発生当時新聞は、この事件を兵庫県内の読者に向けて地方版に小さく報道しただけであった。なぜ社会面に書かなかったのか。事件から20年あまり経った95年、取材にあたった元新聞記者たちを訪ね歩き、話を聞いた。ある元部長は電話口でこう言った。『はっきりゆうたら逃げたんですよ。あまり関わりたくないという意識がありましたな』。ところが、その後じかに会ったとき、彼は『部落差別は深刻だ。被差別者の立場に立って・・・』と何かを警戒しているかのように、固い口調で繰り返した。その変わり様は不可解だった。別の元記者はこの事件の報道を再検討すること自体、けしからんことだ、といった口調だった。『部落解放のための糾弾を普通の暴力事件のように書けば、解放同盟が暴力集団のように見られてしまう懸念があった。だからできるだけ抑えた』と語る元支局部長もいた。(中略)

 天声人語の筆者深代惇郎は、八鹿町を管轄する豊岡支局に電話をかけ、『なぜ、もっと書かないんだ』と若い支局員をしかったという。新聞は自らの主体的な判断で、事実は事実としてしかるべき紙面にきちんと書くべきだった。それが新聞の役割であり、書かないのは暴力の黙認に等しかった。いや、当時の記者にもその意識はあったに違いない。実際、多くの関係者が『いま思えば、もっと書くべきであった』と振り返った」。
(れんだいこ私論.私見)「上丸氏の論調」について

 上丸氏は、「一般新聞社が、当時何故に赤旗のように事件を詳細に報じなかったのか」を問うている。ジャーナル精神としてもっともなことである。上丸氏よ今からでも遅くない、れんだいこの「八鹿高校解放研事件考」を踏まえながらあるいは批判するなりで事件を正確に暴きだせ。あなたはそれを為さねばならない。


「八鹿高校解放研事件後の驚くべき事態」「教育労働運動の「死」−神戸高塚高校・女子生徒圧死事件A」より)
 1974年の八鹿高校事件を契機にして高教組は生徒統制の立場を明確に取った。1975年、教育委員会は学校秩序の維持、強化を図る管理主義方向を一段と強化した。こうして両者は事実上一体となって「体感指導」に邁進していった。そしてそれは、小中学校にもひろがり、それと共に教師による生徒に対する暴力的制裁が頻発し、教師が傷害容疑で起訴される事件が多発した。86・87年には、教育委員会が相次いで「体罰禁止の徹底について」という指導文書を出さざるを得ない所までに至る。

 神戸高塚高校の女子生徒圧死事件の背景にこうした流れがある。全日本教職員組合協議会(全教)の第2回定期大会において、兵庫県高等学校教職員組合の西本書記長は、「今回の事件は、学校で教員が加えた力で一人の生徒を死なせた事件です。指導する『形』だけにとらわれ、結果として、生徒を「物」としてしか扱っていなかったのです」云々と自己批判している。新学期が始まった9月1日。兵庫高教組の神戸高塚高校分会は、「生命の尊重、主権者としての人格の形成という教育の原点に立ち返り、深く反省して、今後の教育活動に反映させる」とした「おわびと決意」の声明を発表した。女子生徒圧死事件に際して、当該の分会や組合の責任者が、自己批判とも言える発言をしなければならない背景には、兵庫高教組自身が、「体感指導」という名の生徒に対する暴力的制裁に積極的に手をかしてきたという経緯がある。

 全ての教師が「体感指導」派であるというわけではない。しかし、「教育熱心」という美名の陰に隠れて、生徒を自分の実績を挙げるための道具としてのみとらえ、暴力的制裁をちらつかせながら生徒を管理している教師は数多くおり、職場でこれを正面きって批判することは、かなり勇気のいる状況もある。つまり、「体感指導」が生徒指導の主流を占めているわけである。

 兵庫高教組が「日教組の右転落」と「日教組の反臨教審闘争の放棄」を叫んで全教に参加した時に、自らが、現行の差別的な教育体制を支えてきた事実が暴露された事は、その存立基盤すら崩壊させかねない。自らが推進してきた「管理教育」打破を叫ばざるを得ない、危機の状況に陥っているのである。 しかし、このような事態は、兵庫県が特殊な事例という事ではない。教職員組合全体に共通して起こっている事態である。


 進行する地域「戒厳令」体制の確立

 川崎市における「問題生徒」への対し方は、基本的には「選別と排除」の原則に立っているといっても過言ではない。各学校には生徒指導担当教諭(略して生担)が置かれ、彼の仕事は日常的に生徒の悩みの相談にのったり、問題行動を取り締まったりするだけではなく、かなり重要な業務として、警察の少年課との連絡調整がある。生担は、定期的に少年課へ出向き、自校の生徒が補導されていたり犯罪に関わっていないかチェックする。そして該当者があれば、家庭も含めて「指導」し、警察・裁判所の指導に従うように勧告する。また、中学校の学区を一単位として、学校と警察とが相互に定期的に協議する場として、学校・警察連絡協議会(略して学警連)があり、ここでは「青少年の犯罪動向」なるものが警察の方から知らされ、それへの学校の対応の仕方が要請される。また、生担の方からは、各学校の生徒の状況が詳しく報告され、警察の対応の仕方が要請される。

 この会合を核にして、地域の青少年指導員や保護司・民生委員・町内会役員等が子供の生活指導をめぐって協議する場や、小中高の各学校が、中学校の学区を一単位として定期的に生徒の動向を連絡・協議する場も設けられているのである。さらにこの協議に基づいて、夏休み中の帰宅時刻や、盛り場などへの出入り、外出や旅行についての決まりなどが決められ、生徒の行動は、学校の中だけでなく、家庭に帰ってからも規制されているのである。

 この学校・警察・裁判所・地域を貫いた管理体制を基礎にして、学校PTAや地域PTA協議会を地域ボスが牛耳ることを通じて、生徒を一貫して管理する体制は、地域・家庭をもおおいつくしている。さらに、これに加えて川崎市教職員組合は、地域の教育力を高めるためと称して、校区教育懇談会なるものを提起し、以上の各組織や個人と学校・教師は密接に協議して生徒指導・教育にはげむものとしているのである。

 このシステムの下においては、「問題生徒」の抱えている心の痛みを共有するという優れて教育的営みは後景に退き、「手におえない生徒は警察におまかせする」指導がまかりとおることになる。まさに、選別と排除の体制にほかならない。このような管理システムを何故教職員組合は容認し推進しているのであろうか。背景をたどっていくと、川崎市教職員組合が主流派として所属している神奈川県教職員組合の、「経営協議」という名の労使癒着構造に行きつく。

 4. 教育労働運動の「死」

 1959年に成立した「勤務評定神奈川方式」においては、勤務評定実施にあたって、次の3項目が労使で確認された。1)教育は直接「国民」に対する責任を負ってその期待に答える。2)教育行政者は、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を任務として「教師の自発的・自主的教育活動意欲を高める」こと。3)教師はその使命を自覚して「全体の奉仕者」として努めること。

 ここに述べられている精神こそ、後に日教組によって提唱された「国民教育運動論」や「教師専門職論」、それをより純化した共産党による「教師聖職論」の源流をなしていることは、一見して明らかであろう。この時成立した勤評神奈川方式は同年の教育委員会総辞職によって反故となり、60年に成立した第2次神奈川方式によって、勤務評定としてはほとんど意味をなさないものになったが、ここで成立した労使協調の精神は、以後両者の間に引き継がれることとなった。

 つまり、教育委員会と教職員組合は「民間の労使関係とは異なり、教育の質を高め、教育効果の向上を図るため、公教育の有り方について、労働側というより教育の専門家・教師集団の代表者としての立場で話し合い」(1976年主任制交渉時の教育委員会の発言)、「教育行政を担当するものと現場で実践にたずさわる者が、上下関係とか支配と被支配の関係にはない、独自の任務を持ちながら、一緒に力を合わせてやることによって、教育の効果は期待できる」(同じ交渉時の組合の発言)という精神である。

 現行の公教育が、体制イデオロギーの注入と、親の所属階級・階層を「能力」の差に固定化して、子供達を差別選別してしまう体制であること。そして、ここにおける教師の立場は、このイデオロギー注入と選別の業務執行者であり、児童・生徒の前には、教師個人の資質・考え方には関わりなく、管理者・差別者として立っている現実を視野に入れて見る時、教育委員会と組合とが「教育効果の向上」のために協力することの意味は明白である。

 兵庫高教組が「体感指導」をもって生徒統制・教育秩序の維持の立場に立ったことは、以上のような神奈川県教組の立場と全く同質である。一方は日教組の反主流派であり、日教組の連合加盟にあたって「日教組の右転落」を叫んで、これにかわる全教の結成に参画した組合であり、他方は日教組の主流派として、日教組の連合加盟を推進した組合である。しかし、そのどちらも、現行の学校教育体制の容認につながる「教育秩序の維持」「教育効果の向上」という全く同じ立場に立っていたのである。

 この立場に立った時、教職員組合は教育専門家の職能集団と化し、国家の教育政策を忠実に実行するかわりに、専門的な高い賃金を要求するものとなる。これを児童・生徒の立場から見れば、教職員組合が、抑圧された者の解放のために闘う組織ではなく、抑圧者・差別者の集団と化したに等しい。この意味で、教育労働運動は死んだと言える。

 このような傾向の源流はすでに50年代の闘いにおいて生まれていたとはいえ、全面開花してくるのは、60年代の後半から70年代の前半である。帝国主義の危機の構造が見えてきた時、教職員組合もその本質を明らかにしたと言えよう。(以下次号にて、70年代の日教組運動の総括的スケッチを試みつつ、今後の教育労働運動の新しい方向を探る)





(私論.私見)