Fuzzy Logic

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【書評】「桐島、部活やめるってよ」――「逃げ場のない局地戦」と、「桐島」という主人公の不在

大丈夫、やり直せるよ。と桐島に言ってやろう。
お前は俺と違って、本気で立ち向かえるものに今まで立ち向かってきたんだから、そんなちっさなことで手放してしまったらもったいないって言ってやろう。
(菊池宏樹)


やり直せるって、なんだ。

ぼくが桐島だったら、菊池にそんな言葉を返したくなったかもしれない。俺は自分から望んで辞めたのに、どうしてやり直さなければならないのか。

やり直さなければならないのは、お前の方じゃないのか――




まぁ、レールがあるわけです。「一度足を踏み外したら致命傷」というレールが、いつの頃からか足元に敷かれている。それは「部活」かもしれないし、「友達」かもしれない。「成績」かもしれないし、くだらない自分の「夢」かもしれない。

いつ敷かれたのか、誰が敷いたのか、わからないけど、とにかくぼくらの足元にはレールがある。

そういうレールを自分の意思で外れた桐島には、この小説への出演権は与えられなかった。この「桐島、部活やめるってよ」という小説は、「自分が学校の中で果たすべき役割」というレールから外れてしまわないよう、必死でバランスを取り続ける脇役達の物語だからだ。


この小説と同時期に「教室内(スクール)カースト」という本が出版されている。要するに、教室内における、いじめまでは至らないヒエラルキー構造の話で、作中でもそういう表現が何度となく登場する。

なんで高校のクラスって、こうもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとまあそれ以外。ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。だってそういう子達って、なんだか制服の着方から持ち物から字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部が違う気がする。何度も触りたいと思ったくしゃくしゃの茶髪は、彼がいる階層以外の男子がやっても、湿気が強いの?って感じになってしまう。


少し短めの学ランも、少し太めのズボンも、細く鋭い眉毛も、少しだけ出した白いシャツも、手首のミサンガも、なんだか全部、彼らの特権のような気がする。
(沢島亜矢)

高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。


上か下か。


目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服でもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、染めていいし、大きな声で話していいし笑っていいし行事でも騒いでいい。目立たない人は、全部だめだ。
(前田涼也)

「宏樹超かっこよかった! サッカーもうまいんやね! てかやっぱ竜汰くんとか友弘くんとか、宏樹といつも一緒の男子ってかっこいいよね」


ふへへ、なんか地位が違うって感じー、と目を細めながら、沙奈はピンクのマフラーをあごを隠すように上げる。


(中略)


「でもなんかあの映画部? の人? めっちゃダサくて女子みんな爆笑やったんよーほんと! そんでそのあとみんなでダセーとか言っとったら近くにおってびっくりみたいな!」


(中略)


「てか映画作っとる時点でサッカー抜きでキモーい」


(中略)


だけど俺は、本当にたまに、だけど強烈に、沙奈をかわいそうだと思う。
(菊池宏樹)

まるでスクールカーストの教科書のようだけど、それは前提条件みたいなもので、本質ではない。この小説の各章の語り手である彼らに共通しているのは、学校という入れ物の中にあるそういうヒエラルキー構造を必ずしも心地いいとは感じていないことと、しかしそこから脱出しようというイメージを微塵も持てていないことだ。

その構造から積極的に抜け出すメリットが彼らにはない、ということも理由としてはある。役割さえ守っていれば、窮屈ではあれどある程度は快適に暮らしは保証されている。

しかし、やっぱり狭いものは狭い。学校に囚われる若者の視野の狭さ、みたいな話になることもあるけど、それ以外の選択肢が提示されていないからだろうと思う。「ここしかない」からこそ、その場所に居続けようと彼らは必死でバランスを取る。「学校内で自分に与えられた役割」というレールにそって。

(余談だけど、これはいわゆる「ブラック企業」の構造と似てる気がする。他に逃げ場がないからこそ劣悪な労働環境でも従業員は文句を言わず働く。他の、もっと条件の良い勤務先に移るという選択肢が取り得るものなら、ブラック企業は従業員に去られないために労働環境を改善せざるを得ないはず。学校などの一つの集団に固執しなければならないのも、他に選択肢がない(ように感じられる)からだ)

ここで冒頭に引用した菊池のモノローグに戻るんだけど、なぜ菊池は桐島が「部活」というレールに戻る(やり直す)ことを期待しているんだろうか。「アツいところがある」と仲間に評されるくらいの桐島だから、意識の低い部員たちと馴れ合いでバレーをするより、もっと必死になれる場所を選んだだけかもしれないのに。菊池には「学校の部活」というレールしか見えていないことの証左じゃないだろうか。

繰り返すけど、この小説に「桐島」は登場しないので、彼がどう考えているのか本当のところはわからない。でも、わからないからこそ、彼の考えていることを読者は好きに想像することが出来る。

なんとなくだけど、ぼくは希望的観測で、彼はそういう自分を狭いところに閉じ込めている「役割」というレールから抜け出したんじゃないか、と思いたい。レールから自分の意思で外れたからこそ、彼はこの小説の登場人物にはなりえなかったんじゃないか。

この小説は「自分が学校の中で果たすべき役割」というレールから外れてしまわないよう、必死でバランスを取り続ける脇役達の物語だ。筆者がそういう脇役たちにスポットを当てたのは、「桐島」というレールを外れた主人公を描くよりも共感が得られると考えたからじゃないか、とも思う。

さっさと銀行を辞めて転職する半沢直樹よりも、理不尽な組織から逃げずに戦う半沢直樹が大ヒットしたように、「逃げ場のない局地」で戦い続ける人を応援したくなる心理がどこかにあるような気がする。

それはぼくらの多くが、彼らと同じように「逃げ場のない局地戦」を戦っているからじゃないかと思うのです。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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教室内(スクール)カースト (光文社新書)

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