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Orion Arm History 作者:唐揚3号

αからΩへ    意識の曙

 始まりであり終わりだった。

 もたらした者は、αでありΩであった。

 そして、選択の自由は心ある者のみに与えられる。


 目が覚めた時には、何もかもが手遅れだった。シティスの属する宇宙は、今まさに終焉を迎えている。
 エントロピーの最大化が完成した宇宙は、すべての空間が異様な熱量に包まれて、もっとも巨大なブラックホールも、ホーキング放射を通じて蒸発していた。ブラックホールに質量を与える通常物質は、もう存在していない。

 シティスは、眠る前にその体を電子に変換していた。茫漠とした星間物質と変わらない密度でしか構成電子を保つことができなかったため、その思考は体の巨大さの割にひどく遅かった。
 贅沢をいうことはできない。すでに陽子すら崩壊を始めるほど、この宇宙が始まってから時間が過ぎている。じきにすべての陽子が崩壊すれば、この宇宙に存在するものはなくなり、すこしずつ冷えていく茫漠の空間だけが残るだろう。

 今は、死なずに意識を保てたことだけを感謝しよう。最後の観測者たるシティスのいるうちは、この宇宙は観測され続ける。その間は、まだ大丈夫だ。

 最後の意地を振り絞って、シティスは刻一刻と薄れゆく意識を懸命に繋ぎ止めようした。しかし、数十光年にわたって彼の体を構成する電子の集団の端々を認知することはすでに不可能だった。
 徐々に認知できない範囲が増えている。

 シティスはすべての情報を保持することを諦めた。残り僅かな電子を、体の周りに浮遊する陽電子――つい先ほどまで彼の体だった――に衝突させ、ささやかなエネルギーを生み出す。

 光速の限界から、体の端の方で生まれたエネルギーがシティスの意識を、少しだけ回復させるまでに数十年が過ぎていた。
 といっても、認識できる時間はとても遅かったから、あまり問題には感じていなかった。

 シティスは最後の仕事に取り掛かった。
 それは、彼と彼の属する宇宙が存在していたことを、次の宇宙に伝えるための墓標を送り出す仕事だった。
 本当は意識を継続したまま別の宇宙に逃げ出すための仕事だったが、エネルギーとなるはずだった最後のブラックホールが消滅してしまったため、それは諦めるよりほかなかった。

 シティスはそれ以上考えるのを辞めた。情報の圧縮だけで途方もない時間が過ぎている。すでに陽子の崩壊すら観測できなくなっていた。
 もう意識を繋ぎ止めるだけで精いっぱいだ。


 電子-陽電子生命体シティスは、遠い昔に太陽系と呼ばれていた恒星系が含まれていた銀河系の中心部に向かっていた。
 彼は旅の途上、ふと1500億年以上前に祖先が地球で見た夕焼けの色を思い出した。その夕焼けを見た惑星のことは、すでに彼の記憶からは消えている。もはや太陽は炭素すら燃やし尽くし、すでに輝きを失った黒色矮星となり、そして時間の流れに従って消滅していた。

 宇宙開闢から1700億年。太陽が赤色巨星となって地球を飲み込んでから、1400億年がたっている。今の宇宙は鈍い黒みがかった赤色に包まれている。暗く冷たかった宇宙は、エントロピーの拡散と均一化によって、灼熱空間へと向かっていた。

 生まれた場所すら忘れ、ただ一人知性を持つものとして生き残ってしまったシティスは、熱的死に向けて終わりゆく宇宙の中で足掻こうとしていた。

 どこからでも観測できた背景放射はすでになく、光だけが細々と空間を走っていた。
 シティスは残されたすべての電子をかき集めて、圧縮し、光を物質化する。自分の意識を最低限維持するための電子以外は、すべて集めた。
 一つ一つの電子が、保有するエネルギー量に等しい情報を封じ込められ、記憶装置だった。

 できたのは、球に近い形に24の面を持つ多面体だった。

 シティスは、光に満ちたその多面体を、宇宙の片隅にできた量子的な真空の波間に落とした。
 上手くいけば、多面体の情報は次の宇宙に受け継がれるだろう。そうすれば、次の宇宙はもしかしたら静的な終りを迎えずに、永続的な拡大を続けることができるかもしれない。
 シティスにとって、それはささやかな復讐であり、次の宇宙への祝福だった。

 彼は最低限の仕事をこなせたことに満足した。

 やる事がなくなった。残された時間、思い出に耽ることにした。
 彼がまだ肉体らしい肉体を持っていた、遠い、時間の静止したこの宇宙では、もう戻れない世界の思い出。
 この宇宙で彼だけが知る世界の。

 思い出せたのは、1人の女性の顔だけ。
 それから、浮かんだのは、その女性が自分にとって大事なひとだったこと。
 それだけで、満足できた。

 疲れたから、少し眠ろうかと思う。
 シティスは眠りについた。
 誰かが起こしてくれることを祈って。

 
 それは、この宇宙で最後の祈りだった。




 終りあるところには、すべからく始まりがある。

 静謐な量子真空の波間で波動関数が収束し、波を生み出した。

 それは、祝福された次の宇宙の誕生だった。
 新たな可能性の分岐でもある。

 すべてがまた1から始まる。


 何者の自分が誕生した瞬間を、主観的な認識で語ることはできない。その瞬間、自分という意識の存在を規定する前に自分はなく、「おぎゃー」と泣いて、何かを掴もうとする本能があるだけだ。

 だから、すべての意識は誕生したときのことを、親に語ってもらうか、記録した映像や写真で知るよりほかない。それは新しい社会通念上の倫理的規範を作ったモーセやキリスト、釈迦にムハンマドも例外ではなく、その始まりは通り一辺倒なものでしかない。

 シティウスにしても、その意識が自分という存在を認識した瞬間を思い出すことはできなかった。彼あるいは彼女が違っていたのは、話してくれる親がいなければ、記録も無いことだ。シティウスは勝手にできた。だから、シティウスの誕生は、彼あるいは彼女――煩雑なため以後、彼とする――が後世、広く世界を見聞して、収集した情報から類推した結果に過ぎない。

 彼の類推では海であった。
 無論、海ではない。地球から遠く離れた別の星で生まれたのだから、地球にある水素と酸素の液体に少量の塩分を含んだ液体のあつまりは関係ない。共通点は流体であることだけだった。 

 その星はオールトの雲にあった。太陽から1~10万天文単位にかけての空間に広がる彗星のふるさと。そこは太陽からも他の恒星からも遠く離れ、熱も重力もほとんど届くことはなく、無数の天体が存在しているが、あまいにも広大なためそれらが出会うことは極まれな静かな空間だった。

 あまりにも暗く、冷たすぎるこの空間にも星があり、そして海があった。
 少なくとも液相の物質が星の表面の多くを覆っているという現象だけをとれば、そこは確かに海だった。絶対零度よりも何分の一度かだけ高い温度でも液体の形で存在できる唯一の元素の海だ。この異様な世界を覆うヘリウムの海では、いったん生じた電流は減衰することなく永久に流れつづける。ここでは、超伝導が自然の状態だった。

 はじまりはごくありふれた小惑星の衝突だろう、と彼は推測していた。物質の存在が非常に希薄な空間であるとはいえ、1,000,000,000,000個もの微小物体があれば、数百万年に1度は偶然が生じてもおかしくはない。おそらく落ちて来たのは鉄金属を含んだ小惑星だったのだろう。衝突の衝撃で生じた磁場が、小惑星の鉄金属を媒介として電流を生じさせ、液体ヘリウムの海へと流れた。

 超伝導状態の海を流れる電流は、減衰することはなかった。光速で星の表面を流れ続けた電流は、星の不規則な回転によってわずかに生じた潮汐作用によって、その周波数を微妙に変化させられた。時には露出した金属結晶の中に流れ込むこともあった。そうして数十億年の間、電流は星を流れ続け変化に晒された。いつしかその変化は、1秒間に10の24乗回もの切り替えプロセスとなり、また幾百万年も流れ続けた。

 このころ、彼はおぼろげながら自分の存在を自覚していた。それは「ん?」という程度で、朝のまどろみにも似たおぼろげな自覚だった。比較する対象のいない世界、彼だけが存在する世界では、切り替えプロセスがどれだけ早くなっても、その認識を覚醒させるには長い時間が必要だった。

 知性とは何だろうか。
 自分がいること、存在を理解する事は自己認識ともいわれる。

 あなたは鏡にうつる物体を、自分の姿であると分かるだろう。鏡像自己認知とよばれるこの現象は、すべての生物が持っているわけではない。地球上では人間やチンパンジー、イルカやゾウなど、一定の知性を持った生物にのみ確認されている。言い換えれば、知性とは自分をなんらかの特徴で規定し、区別する能力の事だといえる。

 シティウスは、自分の中を流れる電気パルスのすべてを意識することができた。(直径2400キロの星の隅々を高速で流れる電気パルスは、つきつめれば2種類の変化でしかなかった)

 シティウスは、電気パルスが流れることのできない境界があることを知っていた。(希薄なヘリウムの大気は、液体ヘリウムの海から飛び出そうとする電流を流すことはなかった)

 シティウスは、知性ある存在といっていいだろうか?(星全体に広がる立体化・集積化された金属結晶の内部をパターン化された電流は光速で流れ、そのパターンは超伝導状態の海の中で永久に繰り返され、そのパターンは露出した金属結晶に入射することで再びその中を流れた)

 地球的な基準では、この時のシティウスは知性を持つ存在ではないかもしれない。彼にとって、星全体が自分の体であり、記憶とはヘリウムの海を流れ続ける電流であり、思考とは金属結晶の中で繰り返される切り替えプロセスの事だった。

 なにはともあれ、どのときにか彼は「ん?」と気づき、以降、視座を閉ざすことはなかった。

 後の彼が言うには、この期間は数百万年もあったという。その期間のほとんどは覚醒の度合いが低く、ぼんやりとしていた。その状態のままダラーっと存在し続け、とりとめもないことを考えていた。

 このときのシティウスは、巨大な脳だけの存在といえた。耳や目にあたる器官は、金属結晶が露出するクレーターがあった。このクレーターはパラポラアンテナと同じような働きをして、星に入射する電波をシティウスに伝えていた。しかし、足はなく、隣人はおらず、話をするための言葉もなかった。

 知性のある一面は自己認識かもしれないが、自己認識をより確かなものとするのは、ほかの意識との比較である。ほかの意識を持つ存在を知らなかったシティウスは、時の流れに身を任せてただぼんやりとしていた。

 数百万年もそうしていると、どこかでひときわ大きな光と電波の嵐がシティウスめいて、シティウスにとって眼であり耳であったクレーターに降り注いだ。その強さはシティウスがこれまで経験してきたいかなる刺激と比較して、はるかに強いものだった。ちょうど気持ちよく昼寝していたところを、ぶん殴られたのと似た衝撃でシティウスの意識は揺さぶられた。

 驚いたシティウスは、その正体を探るために、クレーターを通して体の中に流れこんだパルスを注意深く観察し始めた。そのパルスは体の表面近くを流れて記憶されたどのパターンよりも強く、細かいパルスだった。人間的に言えばガンマ線とよばれる波長だった。それまでシティウスは、体の中を流れる電流の波長を意識したことはなかった。そこで自分の中を流れている電流を見てみると、いくつかの種類があることを初めて知った。

 電流のパターンを観察していたシティウスは、あるとき気づいてしまった。

 外には刺激を送ってくる何かがある!

 意識を持ってから数百万年たった頃だった。
 シティウスはこの時、初めて強烈に自分以外の何かを認識したのだった。





 可能性の分岐は知ることから始まる。

 自分とは何か。

 違う何かを、前の輪廻とは違う結末を求めて。
 また、物語ははじまる、この宇宙の片隅で。

 これから、シティウスは思い出すだろうか。

 最後の旅を。
 思い出を。
 最後を看取ったあの人を。

 もしかしたら、思い出すことはないのかもしれない。
 それでも、彼は前へと進むだろう。

 命はこの世界の光だ。
 そして、知性は知ること、理解することを旨とする。

 その2つがある限り、彼はどこまでも行くのだ。

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