僕は今大学の4年生なんだけど、1年浪人しているので、同期には働いてるやつもいる(^_^;)
ある友人は教員免許持ってるんだけど、教師にはならなくてひたすら自動販売機に缶を詰める仕事をしてるって言ってた。今は学校現場で高くなった権利意識が全部教師に直撃してる状態だし、世論に叩かれて地位や給料も下がりそうだし、先生って本当大変そうだよね。
僕は地方の出身ということもあって、中学受験という概念はないようなものだった。それで市立の中学に通うことになったんだけど、そこの教員はほんとうに酷いものだった。僕が初めて社会みたいなものに対して「憤り」を覚えたのはその低俗なやつらが僕の教師であることに対してだった。直接何かされたというわけでもないが、なんでこんなクズ共が人を教える立場にいるんだ、と中学生らしいことを思っていた。高校はいちおう進学校っぽいところに行ったので快適だった。まあ後半は不登校みたいな感じだったけどw
今から評価すると、中学時代の教員たちも、まああんなもんだろうな、といった感じだ。子供相手に無条件に威張れるような立場にいれば嫌な人間になるのも無理はないし、DQNをずっと相手にしてればその人もDQN仕様になっていくのだろう。
当時まだ田舎には教師に謎の権威みたいなものがけっこう備わっていて、それはそれで上手く機能していたのかもしれない。でも今はそんなに簡単じゃない。子供やその親の権利意識が高まったり、みんなが色んな情報にアクセスできるようになるといつも威張ってはいられなくなる。僕が中学生のころに40代50代だったやつらは、今は退職しているか逃げ切る目前だろう。やっぱり若い人が損をかぶるのかよ、と言いたくなる。
欧米の場合は、先生は教科を教えるプロフェッショナルという立場だったりもするが、日本の学校は「メンバーシップ」なので、生活指導や行事やらも全部やる。「学校」と「企業」が成功しすぎた日本で述べたように、日本は一時期、学校というものが非常に上手く行っていた。貴戸理恵氏の主張だが、イギリスなんかでは工業化のニーズが最初にあって、民間が近代的な初等教育を推し進め、国家はそれを事後的になぞるようにして教育の制度化を行った。一方で日本では、まず教育ニーズが先にあって、国家が強権を発動して義務教育制度を敷き、その上で工業化が進められていった。要は上からの押し付けで教育を進めていったのだが、欧米にキャッチアップするには当時それ以外の手段がなかった。地方は情報も教育のノウハウも持っていないので、中央で決めたことを地方に従わせるという形で教育を普及させた。
教育も他の行政システムの例に漏れず中央集権的であり、また、江戸時代の封建制や軍事総動員体制の仕組みの延長から、クラスメイトやクラスの担任を決める「メンバーシップ制」の仕組みが強められてきた。
今、静岡で学力調査結果を公表する云々で揉めているみたいだけど、教員の「指導力不足」を指摘する声や、いじめ問題に対する対応など、教員の不甲斐なさを指摘する声は多い。
もっとも、みんなが教育に関しては好き勝手なことを言う。誰もが教育を受けて育ってきたわけだから、教育に関しては誰でも一家言ある。ある意味ではわかりやすい分野なので、みんなが自分なりの考えを持っているのだろう。テレビによく出る著名人なんか見てると、声を大にして自分の教育論を語ることはさぞかし気分がいいことなんだろうなあ、とも思うことはしばしばある。
教育に関して何か言いたい人はあまりにも多く、「とにかく競争させて学力を上げろ」とか「道徳を教えて立派な愛国心を」とか「おててつないでみんながなかよし」とか、その主張も色々ある。ただし、主張の違いはあれど、教育を語るときに共通していることは「上で決定したことは末端にいる教員が文句を言わず従う」という前提だ。これが日本らしいところで、かつては中央から地方への上意下達のシステムで成功をおさめ、その行政システムや現状認識が残り続けている。みんな教育を語るときに、中央集権的な枠組みを疑問に思うことがない。アメリカなんかは教育内容も地域社会で決めるという理念の国だから、全然システムが違うよね。
このような示唆を与えてくれる本が、新藤宗幸『教育委員会』だ。
新藤氏は教育家ではなく行政学の専門家で、本書では行政的な視点から教育制度の問題点を指摘する。『子どもたちや保護者、第一線の教員のおかれている状況を認識せずに、教育現場の日々の努力や苦悩とかけ離れた教育行政がなされている』というのが本書の主張だ。
中央が決めたことを地方がそのまま従う仕組みは、子供の人権意識が低く、地方にいる人達があまり情報を持っていなかった単純な時代には上手くいっていた。そのときは学校の「権威」も高かった。今はそのときにはなかったあらゆる問題が噴出しているのだが、上意下達のシステム自体は教育行政に依然として残り続けていて、教育を論じるのが好きな人達も「上が決めたことは現場の人もみんな従う」という前提でしか発想ができない。主張にはバリエーションがあるにしても、現場の実情を顧みずに中央集権的な発想で自分の考えを述べるという点では同じだ。つまり「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!」ということだ。
本書は「教育委員会」という組織について書かれてるんだけど、もともと教育委員会というのはGHQが持ってきて、市民の教育への参加、教育行政の一般行政からの分離、独立のための「民衆統制(レイマンコントロール)」を志向した制度だったんだけど、色々あって、結局は文科省が決めたことを下に伝えるだけの機関になってしまった、みたいなことが書いてある。テクニカルな記述が多めなのでここで詳細は紹介できないが、気になるなら読んでみてください。
物凄くざっくり言うと、教育委員会には都道府県の教育委員会と市町村の教育委員会があるんだけど、県のほうは教職員の人事権などを持ってるから市よりも権限は上になる。他にも、上にある機関は、採用、異動、研修、懲戒などの教員人事権や、施設、学区編成、学校管理規則、教科書採択などの権限で下に対して「優位」を持っている。タテの行政制度であり、文科省を頂点とした主従関係のようなものだ。下の奴らはどうやったってなぁ、上の意向には逆らえないようになってるんだよ…
つまり、文科省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会→市町村小中学校→現場の教員
_ 人 人 人 人 _
> 上意下達 <
 ̄Y^ Y^ Y^ Y ̄
ということになる。現場の実情をまったく無視したことが平然と上から命令されたり、上からやることをすべて決められるので、教員の意欲低下にもつながる。
例えば、現場の実情をまったく考えず、上から子供の学力をあげるインセンティブをもたせる政策が取られたときにどういうことになるのか。足立区教育委員会は、2005年に、小中学校の成績を1位から最下位まで順番に並べて公表し、学校の予算を学力テストの序列におうじて傾斜配分することにした。そして、ある区立の小学校は、前年72校あるなかで44位だったのが、翌年にみごと1位に踊りでた。
で、結局何やってたかというと、校長と教員がテスト中に机を回って、間違った答案があると正解を指で指して教えるという教員主導のカンニングをしてた。また、ほぼ同内容の前年のテストを反復練習させてたらしい。まあ、バレてしまったのは酷い例にしても、そりゃ予算かかってるからそういうこともするだろう。監視機関みたいなのつけたって、テストの事前対策なんていくらでもできるから条件は整わない。
子どもたちや現場の指導者の実情を考えないで上から押し付けをするとこういうことが起こりやすい。競争原理がむき出しになったあげく、自由に学区を選べないし人事権も持ってない公立小中学のレベルで「良い学校」や「悪い学校」が決められると、どれだけ子供や教員の心に傷がつくのか少しは考えるべきだと著者は主張する。
文科省は毎年都道府県の学力順位を発表してるが、トップが秋田、福井、石川の順で、ワーストが沖縄、北海道らしい。経済的、社会的、地理的要因を一切無視した上で、対して有意差の出るわけでない一律テストの平均正答率で「頭の良い県」と「頭の悪い県」をランクづけし、それをメディアなどで報道するのはいかがなものかと著者は言うが、確かにあまり有意義な試みだとは思えない。
教員の「指導力不足」を責める声は多いが、その仕事内容をどうやって評価するかは難しい。現状では、教員を評価するにあたってまず目標が設定されるのだが「自ら学び、みんなで学力向上」とか「元気はつらつ、未来に羽ばたく学校」とかいう目標の体をなしてないもので、教員はこれを念頭に置きつつ、定められた自己評価シートをもちいて達成する自己目標を設定する。そして、年度末になるとその自己評価をA〜Dランクで記入する。(県によって仕組みが若干違う場合もある)
そして、その自己評価をもとに面談などを行い、教頭が一次評価をして、さらに校長が最終評価を入れる。つまり、自分で自分の評価をして、されにそれについて他者にあれこれ言われながら評価が定まるというわけだ。学校現場の教員は、『教科の準備、クラス指導、部活指導、児童、生徒の成績判定などは多忙であっても「やりがい」があるが、自己評価の名による成績判定ほど憂鬱なものはない』と語るらしい。そりゃそうだろう。こういう種類の評価システムのつらさは就職活動などを経験すればわかるが、こんな茶番みたいなことをして現場の教員の労力を削いでいるのだ。
常識的に頭を働かせれば、人事異動も頻繁にある一人の教員の授業や活動が、地域や家庭環境や個性の異なる生徒の成績にどれだけ寄与したかなんて定量的に計れるわけがない。企業ですら自己評価による業績判定の限界を認識しているのだ。それでもまだ営業なんかの仕事だと、販売目標という数値がでるので、その数値に照らし合わせながら自己評価もやっていけばいい。でも同じ仕組みを教員に導入するのは明らかに無理がある。
だからこそ、バウチャー制度と言って、子供や親に学校や教員を選ばせるという形で評価しようという声もあるが、現在の日本の教育システムにすぐに適用できるものでは到底ないだろう。まず猛反発が想定されるなかで制度を変えるのが大変だし、メリットよりもデメリットのほうが大きい。ほとんどの教員を「いまでしょ!」の下位互換として位置づけてしまうような非人道的なことはするべきではない。
現場の実状を無視した上からの一方的な指示が事態を悪くしているという構造は色んな所で見られるのかもしれないが、日本は江戸時代の封建制から戦時動員体制を経て、行動経済成長あたりまでそういうやり方でもそこそこ上手くいっていた国だ。だからこそ、いまだに行政の構造は変わってないし認識も残っている。
昔はまだ糞みたいな奴らにも根拠のない権力が付随してたのだ。それはそれで問題があったにしても、まあまだ学校はそれなりに機能していた。でも今は完全にベールが剥がれてしまっている。
あるいは、教師の権力が高かった時代に学生生活を送っていた人も、当時「うまくいっていた」とは微塵も思っていないのかもしれない。僕が中学生のときに憤っていたみたいに、なんでこんな奴らが俺を指導する立場にいるんだ!とずっと思ってきたのかもしれない。教育現場に口を出せるような知識人や企業人、政治家ほど、そういう反骨精神を持って学生生活を送ってきた割合が多かったりするかもしれない。「このときをずっと待っていた、人の上に立つときが来た今、俺がこの国の教育を変えてやるっ!!」みたいな熱情に燃えているのだろうか。しかし上意下達のシステム自体がすでにオワコンなのだ。
今、教員は叩かれやすい立場にあると思う。ただでさえ公務員という「身分」だし、他人の子供を教育するという、このご時世では正統性の持ちにくい立場にいる。
たしかに、メディアでは今だに酷いのが目立ったりするし、多くの人が酷い教師を目の当たりにしてきた経験があるからこそ、それが怠慢なことをしていると考える怒りが沸いてくるのだろう。しかし、「デモシカ先生(教員にでもなるか、教員しか就職の道がない)」という蔑称も今は当てはまらないし、日教組の組織率も減り続けている。当時の教師に復讐しようと、権力を得てから教師をいじめたり待遇を過酷にしようとしたって、その対象になるべきやつらはもう退職している。
今では教員たちの精神疾患が教育現場で大きな問題になっている。多くの教員は、日々学校内で処理しきれない業務を家庭に持ち帰って真摯にこなしているのが実情だという。
もう時代は変わっている。縦割りの発想で、「上から一方的にやり方を押し付ければ現場も思い通りに動いてうまく行く」という考え方は、どういうイデオロギーであれ理想であれ失敗しやすい。
2009年に橋本市長が「クソ教育委員会」と言った事件がある。彼の場合は、国(文科省)の指導を否定して、市で独自の教育政策をやりたいということなんだけど、これは今まで述べた「教育を現場にまかせる」とは真逆の発想だ。もちろん「国」よりは「市」のほうが一般市民との距離は近いのだけれど、橋本氏の場合は「トップが決定すれば末端を思い通りに動かせる」という考え方が、むしろ文科省よりも縦割り行政的なものだった。
結局は「国」であれ「市」であれ、上から決めたことを一方的に現場に押し付けようという発想形態自体はまったく同じで、文科省と橋本市長では主張の内容が違うだけで根本のところはまったく変わらない。
誰でも教育を語りたがるし、色んな意見があるのは当たり前で、「国家主義」や「自由主義」などもメリットデメリットあるんだけど、それが上意下達というシステムをとってる時点ですでにパフォーマンスが悪い。それよりも、行政システム自体を見なおして、現場にいる職員にある程度の裁量を与える「現場主義」が、どちらかと言えばまだマシな方法なんじゃないか。もともと民主統制の理念ってそういうものだし。というようなことを著者は主張しているのだと思う。
しかし、教育の自主性にまかせるというやり方も、それはそれで怖いような気がする。上から押し付けるということが、まだ均質性と平等性をしていた側面がある。急に仕組みを変えるなんてことはできない。日本の学校はメンバーシップ制ということでずっとやってきたから、欧米みたいに教員は専門の科目だけ教えろというシステムへの移行だって非常に難しいだろう。
地方自治の理念でやってきたアメリカは、学校とかも自分たちの裁量でやって、その結果格差が開いて、人気のない町から人がいなくなったり、金持ちが自分たちで州を作ったりしてる。日本は今まで上意下達でずっとやってきたわけで、それをいまさら裁量を与えても、その教員や地域の市民に独立してやっていくノウハウがあるのか、彼らが大きく失敗したらどうするのかという問題がある。裁量を与えすぎたら、学力日本一を目指して桜の木を植えて3日徹夜で勉強させたり、日の丸掲げて一人一殺のためにボウガンの練習をさせたり、侵略戦争謝罪ツアーを修学旅行にしちゃったりするところが出てくるかもしれない。
そういう場合について、新藤氏はナショナルミニマム(厳格に順守される指定基準)を定め、選べる教科書の種類とか最低授業時間とかそういう大枠は文科省が決めて、後は、できるだけ現場の職員の裁量を大きくするように主張している。たしかに、馬鹿な教師というか、馬鹿な人間はたくさんいるので、裁量を大きくしすぎるのは危険だと思う。それでも、競争とか道徳とかを上から押し付けるやり方よりは、まだ現場の裁量にまかせたほうががマシなんじゃないかというのは、一つの重要な視点であることに間違いはないと思う。
縦割り行政を前提にした大きな理念よりも、細分化した現場の裁量にまかせるというのは、一つの時代の潮流なのかもしれない。ただ、それ以前のごく常識的な態度として、ドヤ顔で教育理念とか語っちゃうような奴を支持するべきではないよね。
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