興味を誘った英会話教材のネタ
この2週間ほどフィリピンで英語の英会話研修を受けてきた。レッスンは朝の八時半から午後の五時半までという昼休みⅠ時間を挟んで8時間ぶっ通しでマンツーマンの指導を受け、その後、宿舎に帰ってから夜遅くまで宿題をこなすという、かつての受験生並のハードなものだったが、意外や僕は大学受験の頃を思い出し楽しくこなしてしまった(これで語学力がアップしたかどうかは、不明)。その理由は教科書にある。一つのテーマが出されると、それについてまず思っていることをコメントし、次いでテキストを読み、語彙を学び、内容の確認をし、ここで使われているフレーズや文法が指導され、同様のテーマについてのリスニングを行い、最後にこれらを利用して再び先生とそのテーマについて議論するという進行。で、扱ったテーマが面白い。ちょっとあげてみよう。
ウィキリークス(情報開示はどの程度まで許されるのか)、広告(広告のサブリミナル的効果とは)、カルチャーショック(異文化で暮らし続けるとその文化への認識はどのように変わっていくか)、コミュニケーション(サッチャー、ケネディ、キング3人の演説の特徴比較)、長寿社会(いずれ平均寿命が90年を超える)、図書館の新しいアプローチ(書籍について語り合う図書館の効用)、セレブになるとどうなるか(エリン・ブロコビッチの場合)、カリスマ、社会正義、メディアからの隠遁者、犯罪、有罪判決になったらどうするかなどなど。ちょっと一つを取り上げると「メディアからの隠遁者」では、セレブになったにもかかわらずメディアとの接触を避けた人間3人が取り上げられ、彼らがそのようにした動機について議論するというもので、この3人はなんとシド・バレット、サリンジャー、そしてスタンリー・キューブリックだった。こりゃ、面白い!(ただし、これじゃあオッサン向けだど(笑))
で、これらについて必ず「賛成?反対?」というかたちで質問が生徒=僕に突きつけられ、それに基づいて会話が進行するのだ。教員と僕の意見はしばし食い違い、議論は白熱した。
日本の若者が社会教養を持たないのは必ずしも彼らのせいではない
おかげで英語の先生(フィリピン人)とはかなり積極的かつ楽しく話をすることができたのだが……ここで、ふとあることに気がついた。それは、
「なんで、日本ではこういった授業がないんだろう?」
ということ。
僕は、自分の学生たちとの会話を振り返ってみた。彼ら(偏差値50前後)と話して気がつくのはいわゆるボキャ貧、つまり語彙数が足りないこと、またこういった社会問題についての知識がきわめて貧困であることだ。だから、議論にならない。いわば議論をする資格がない。議論以前の知識が無いので脚切り状態になってしまう。で、その結果、こっちが説教を垂れるみたいなパターンになってしまうこともしばしば。
「こいつらなーんにも知らないんだな。困った連中だなぁ!」
と、彼らの不勉強をぼやくのはカンタンだ。でも、これは彼らの責任なんだろうか?いや、違う。これは教育、そして社会が作り上げた問題なのだ。なぜ、彼らがこういった話が出来ないのか?これは要するに、こういった社会問題に触れる機会を教育が提供してこなかったからに他ならないと、僕は考える。
で、考えたのが今回のタイトル。つまり「教育機関は社会問題についての授業を用意すべき」つまり、僕が語学研修で受けた授業の日本語バージョンを授業に取り入れるべきという提案だ。
所ジョージの名言~「考える考え方」を学ぶ
これはどういった効用が考えられるか?かつて所ジョージは原発問題について次のような発言をしたことがある。
「原発問題は難しいですねぇ~っ。何が難しいかって、まず「原発問題」ってなんだかわからない。だから「原発問題を考える考え方を学ぶ会」ってのがあったらいい!」
けだし名言。議論をしようにも議論の前提となる知識や語彙がなければその議論に加わることは出来ないのだから。
若者の社会力を養う
社会問題を扱う授業は、所ジョージの指摘するような「考え方」を学ぶ、言い換えれば議題設定の役割を果たす。つまり、若者たちが考えるにあたっての知識と考え方のバリエーション、要するに議論のコンテクストを提供し、さらに、そこから考える機会を提供するのだ。ちなみに、これは道徳教育とは一線を画するものでもある。同等教育はややもすると「かくあるべき」的な文脈が前面に表れる(ここがキナ臭いところなのだが)。だが、この授業では社会問題の事実のみがとりあえず取り上げられて、それに対しての賛否は生徒=学生に委ねられる。教員と生徒たちの見解が同じである必要は全くない。重要なのは議論の前提を共有すること、そして自分の意見を表明することだけ。
これまで、海外からの留学生がいろんなことについて意見を表明できるのに日本人が出来ないといったシチュエーションを僕はしばしば目にしてきたのだが(国際交流における議論がその典型。日本人若者がマトモに話が出来ない)、要するにこれは結局、「学校での社会問題教育実施の有無」に帰結する。だから、日本人の若者がバカで海外の若者はそうでないというのは間違い(議論以外の時には、どっちも精神年齢的には大してかわらない)。
で、こういった社会問題教育の導入は、社会化といった側面でもきわめて有効だ。つまり、若者たちは議論を通じて社会化のための知識と考え方を学んでいくことができるし、これを前提に実際に自分が社会に対してアクションを働きかけようとするためのモチベーションを形成することもできる(もちろん、彼らの間では、まず最初に知識を学ぼうとするモチベーションが形成されるのだけれど)。そして、こういった授業が小学校の高学年くらいから展開されれば、子どもたちの社会力、そして大学生の社会力もさぞかし向上するのではなかろうか。
まあ、もっともこれを教えることの出来る教員がいて、初めて成立するものではあるのだけれど……
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