ネオリベ経済学の正体

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 経済政策を理解するためには、その土台である経済理論を知る必要があります。需要重視の経済学であるケインズ経済学と新古典派理論を継承する主流派経済学がその代表です。しかし、昨今、こうしたステレオタイプな認識だけでは充分ではありません。実は主流派経済学も一枚岩ではなく分岐しております。それぞれの内容が若干相違しているため、経済政策の意味合いも違ったものになります。今回は、そうした主流派経済学の事情と経済学者の動向についてお話ししたいと思います。

主流派経済学者は病気に罹らない

 目的を達成するための最適な手段の選択は、ひとえに状況判断にかかっています。あらゆる病状に効く万能薬がないのと同様、適切な経済政策の手段も景気状況に応じて変わってくることは言うまでもありません。景気判断を誤れば、それは不適切な政策の発動につながりますから、実体経済を益々悪化させてしまいます。病状に応じた正しい処方箋が必要なのです。例えばケインズ的見地からすれば、デフレ不況期には拡張的財政政策を推進し総需要不足を補い、他方、景気過熱期には金融引き締めを行うのが経済政策の常道ということになります。
 ところが「景気動向に応じた政策の選択を」という一般常識は、新古典派経済学に依拠する主流派経済学者には通じません。彼等の経済観に「不況」という概念がないからです。かろうじてマネタリズムは長期均衡からの一時的乖離が発生する可能性について論及していますが(自然失業率仮説)、主流派を支配する「新しい古典派」の段階ではもはや経済過程は常に長期均衡の軌道上にあると考えられているのです(実物的景気循環論)。

 言うなれば、主流派経済学が想定する民間経済は完全無欠なのです。「市場の失敗」のケースはどうなのかと疑問に思われるかもしれませんが、主流派経済学者にとってそれは考慮の埒外です。そもそも市場の失敗とは、「市場メカニズムによって現実問題を解決できないケース」があることを指します。所得分配の不公正を社会は放置してよいのか、規模の利益によって発生する独占や寡占をどうするのか、地球環境汚染のような外部不経済によって我々はどうなってしまうのか等々。それらは全て現実社会を前提としたときに初めて生じる問題です。
ところが主流派経済学の分析対象は現実社会ではありません。「市場システム」という架空の場を前提とした議論なのです。現実など端から無視しています。歴史も文化も制度も何も考えておりません。それゆえ主流派学者にとって市場の失敗の問題は、正面から取り扱うべき主題ではなく単なるトピックスのひとつにすぎません。傍流の話です。「一応、現実的なことも考えています」というポーズをとるために多少論及しているだけです。
 市場の失敗があるからといって、彼等の主張は何ら変わりません。市場の失敗があったとしても、「政府の失敗」の方がもっと悪いといって誤魔化すのが常です。相討ち狙い。市場の失敗を考慮しないことを糊塗しているのです。彼等の主たる関心は、合理的ミクロ主体と整合的なマクロの長期均衡状態の分析にしかありません。
(参考:青木泰樹「経済社会学のすゝめ」

 主流派理論の想定する経済は常に最適資源配分の達成された理想状態にあるため、本来、政策論は存在しません。病気をしない人を想定しているので、処方箋を書く必要がないのです。敢えて挙げれば「自由放任主義(レッセ・フェール)」くらいでしょうか。政府は口を出すな、放っておくのが最善だと。たとえ政府の役割があったとしても、ミルトン・フリードマンの提示した「金融政策をルール化せよ(k%ルール)
くらいがせいぜいです。いずれにせよ主流派の経済観の下では、政府は民間経済へ極力介入してはならないとの結論が出てくるのです。
 しかしながら、一度も病気をせずに生涯を送れる人などいるはずもありません。経済過程もまた、統計資料を持ち出すまでもなく、常に順風満帆であったわけではないのです。逆なのです。歴史は景気変動こそが常態であったことを示しているのです。主流派理論は「経済は常に長期均衡にある」と言い、現実経済は逆の姿を呈しています。この理論と現実の超え難いギャップは、一体、何に起因しているのでしょうか。もちろん、責任の大半は経済学者の側にあるのです。
 

誰の顔も同じに見える眼鏡

 現実経済の動向に無関心な経済学者など、一部の訓詁学に専心している学説史家を除けばほとんどおりません。しかし、現実経済を見る(分析する)ためには、眼鏡(論理)が必要なのです。その眼鏡が経済学です。ただし経済学といっても一枚岩ではありません。それは多様な経済学説の集合体でありますので、眼鏡も複数個存在していることになります。色眼鏡や歪んだ眼鏡、ひびの入った眼鏡等いろいろあるのです。どの眼鏡を掛けるか、すなわち何れの学説に依拠するかによって、見える経済画面が異なってくるのです。

 現実に生起する同一の経済現象を見ているにもかかわらず、経済学者ごとに解釈が異なるのはこのためです。掛けている眼鏡が違うのです。ちなみに私は経済社会学という眼鏡を掛けています。この眼鏡でなければ現実が見えないと考えているからです。他方、大半の経済学者が掛けているのが、主流派経済学という眼鏡です。この眼鏡は度が強い。すなわち抽象度が高いので、見える範囲が極めて狭くなります。細かい差異は一切見えず、共通項しか見えない。したがって、それを「普遍性(一般妥当性)を見る眼」と考えることもできましょう。フレームこそ異なりますが、そのレンズは自然科学の眼鏡とよく似ています。しかし、それを使って見る対象は自然ではなく社会ということを忘れてはなりません。分子や原子の世界ではなく、人間社会を見るのです。果たして、うまく見えるのでしょうか。

 駅前の雑踏を歩く群衆をこの眼鏡でみると、全ての人が同じに見える。まるでクローン人間の集団行動のように見えるのです。さらに景色に目を転じると、何処もかしこも全て同じに見えてしまいます。おそらく海外旅行へ行って、この眼鏡を掛けたら、さぞつまらないことでしょう。自国と全く変わらない景色が広がるだけですから。
もちろん、眼鏡を外せば、いつも通りの現実が見えます。個性を持った様々な人達の姿が見えます。景色の違いも分かります。しかし、再び掛けると平板な同質的社会が姿を現すのです。この景色こそ時代や体制を問わない普遍的社会像、いわゆる「市場システム」です。さて、この眼鏡を掛けて現実を認識することは果たして適切でしょうか。私は不適切であると思います。多くの方も同じ意見ではないでしょうか。

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西部邁

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