解像感について

これはアニメ業界全般の傾向だと思うのですが、2014年現在の映像技術のグローバルな視点で見て、アニメの解像度はどうも低過ぎるように感じます。1.3〜1.6Kの横幅では、そろそろ‥‥というよりは、もはや限界に達していると思います。

私の取り組んでいる新しいアニメーション技法(2.5〜4K)を引き合いに出すまでもなく、現在の実写映画(2K〜)と比べても、フォーカスが全体的に甘く感じます。

アニメのキャラクターは、いわゆる「セル塗り」されたグラフィックである事から、実写に比べてエッジが格段にキツく、テレビ放映でのチラツキを除去する為に、多少のデフォーカスをおこなう必要があります。しかし客観的に見て、現在のアニメのフォーカスは「チラツキ防止」処理としては「過多」です。地デジ以降の現在のテレビの品質ならば、チラツキを防止する目的に対し、全体を大きくボカす必要はありません。「エッジのスタイリング」的な処理を、作品の作風に合わせて、ポスプロ直前の出力で「最低限」加味すれば良いのです。エッジのシャープ感を残したままでも、チラツキは防止できるんです。

しかし、この「ボケ」た状態は、チラツキ防止の処理上とは別の理由、解像度を低くする事で生産効率を向上させる「都合による弊害」とも感じられます。そうなってくると、簡単に解決できない問題です。単にコンポジットに用いるAfter Effects等の設定変更だけでは済まず、どんどんさかのぼって、下手をすると、描線に深く関わる動画工程にも及ぶ大問題だからです。

私も過去に劇場作品の撮影監督を担当してきたのでわかるのですが、「じゃあ、解像度を上げよう」と簡単に決着するものではないのです。「
解像度を上げる」事は、生産ライン全体の処理能力を向上させる事と同義なので、ソフトウェアの設定を変えて済む話ではありません。生産ラインが自社で完結している事例は稀で、大概は各社が作業を受発注しながら成立しているので、縦割りと横割りの両方のラインを能力向上(機材の買い換えによる高性能化など)させねばなりません。

さらに昨今の「極限まで圧縮された」撮影スケジュールでは、「フォーカスをどうこう」などと悠長な事は言ってられないのも事実です。少なくとも私は、現在のテレビのスケジュールでは「ハイクオリティな映像制作」なんて標榜できません。

でも‥‥です。どんな理由があろうと、周囲の映像作品に比べて、現アニメ作品のフォーカスがゆるくて不鮮明なのは事実です。映像作品は全て、同じ土俵の上に立たされるのです。

生粋の2Kや4K基準で作られる作品が増えるほどに、フォーカスボケ具合は際立って視聴者の目に映る事でしょう。また、フォーカスのクリアな新しいタイプのアニメーション作品群が姿を現した際に、1.3Kくらいで制作されているアニメは前時代的な品質に感じられる事でしょう。ちょうど、ブルーレイに慣れた目で、DVDを見て酷くボケて見えるのと同じように。

私は、超解像技術を用いれば、未来の4Kには、現業界のフローを維持したままでも2.5Kの作業で何とか対応できると考えていますが、それでも今のアニメ業界からすれば「スペックオーバー」で「無理な想定」なのかも知れません。
4Kを作るのなら、やっぱり3K以上、できれば4Kネイティブにしたいところなのに‥‥です。

私はインハウスのグレーディング(ラボの直前の工程)も作業し、ラボでのスクリーニングによるグレーディングに立ち会っており、1ピクセル単位の粒状や微細なエッジのフォーカスを扱っていますが、そうした日頃の視点から見ても、現アニメ制作の完成物のクオリティは、どんどん時代から遅れをとってズレてきているように思います。

こんな話を書くと気分を害される人もいるかも知れませんが、まさに「村人全員が竜宮城にいる」状態と言えます。


作風の話ではなく、映像技術面において、徐々にスペックアップしてクオリティを今日的なレベルに追随させないと、後で巻き返そうとしても「どうにも歯が立たない」事だってあり得ます。2000〜2005年が「アニメ業界のデジタルへの移行期だった」と振り返る人は多いとは思いますが、実はその期間は単なる「準備期間」であって、ホンモノの移行期はこれから先‥‥のような気がします。
 

クラシック3D

新しい作業環境や、After Effectsのバージョンアップで、ついつい見落としてしまうのが、「3Dレイヤーのレンダラー」の設定です。急いでいると特にネ。

After Effectsのコンポジション設定は、デフォルトで「レイトレース3D」になっていますが、環境やコンポジション内容によってはこの設定項目が重荷になって、べらぼうにレンダリング時間が長くなります。極端な例を言えば、1時間で済むレンダリングが、24時間とか。

レイトレース3Dの機能が不要の場合は、「クラシック3D」へとコンポジション設定を変更しておくのが、面倒無くて良いです。普通に2Dベースのアニメ制作をおこなう場合は、レイトレース3Dの出番はほぼありませんので、新しいマシンやバージョンアップしたAfter Effectsを初めて使う際には、忘れずに「クラシック3D」へ設定変更しておくと良いです。Adobeのデフォルトとは逆の状態、つまり、クラシック3Dをデフォルトにして、必要な時だけレイトレース3Dへと切り替えるほうが、少なくとも2Dのアニメーションには向いています。

‥‥と言ってる私が、よく設定変更を忘れるんですけどネ‥‥。

ありえないレンダリング予測時間がレンダーキューで表示されたら、一旦止めて、コンポジション設定の「高度>レンダラー」の設定を確認してみても良いかも‥‥です。

しかし何だ、重箱の隅突きですが、After Effects上の「クラシック3D」と「レイトレース 3D」という文字表示、なぜに「レイトレース 3D」のほうには「3D」の前に半角スペースが入ってるんだろう。

第1志望‥‥

就職の話題が聞こえてくるシーズンになってよく思うのは、新人・新卒の人は、第1志望の場所に行かないほうが、結果的に良いんじゃないか‥‥と言う事です。遅かれ早かれ、若年の頃の理想や夢なんていうのは、ブチ壊れるんだから、第1志望のところにストレートに進んで、そこで決定的な挫折をするよりも、キャリアをある程度蓄積してから第1志望だった「本質」にカブりついた方が良い結果になる‥‥と、色々な出来事を見ていて思うのです。

だってさ、第1志望のところに行ったって、幻滅や失望は必ずあるもん。

しかも、自分の目標を「第1志望に合格する」なんて設定しちゃうと、受かった時点で「終了」じゃないすか。‥‥なんて、寂しい事だろうか。

希望する会社に入れないと自分の夢は実現できない‥‥なんて、「会社を買いかぶり過ぎ」です。むしろ、枠にハメられて身動きができなくなって、辞めていく人間が多いんじゃなかろうか。もしくは自分の夢とは裏腹に、「それ専用」の人間としてしか生きていけなくなったり。

私はそれこそ、「吹けば飛ぶような新人のフリーアニメーター」として第一歩を踏み出しましたが、まずは「自分に作業依頼が絶え間なく来るように、上手くなる」のが目標でした。会社とか作品とか、全然関係無く‥‥です。強力なコネがあったわけでもなく、親類のツテを頼ったわけでもありません。「次もお願いします」と言われるように努めて作業しただけです。裏技も隠しアイテムもありません。

自分の作業結果が周囲の興味をそそるものであれば、いやでも「周囲から評価される」ので大丈夫です。‥‥逆に、第1志望の会社に入っても、評価されずに埋もれる人も沢山いるのです。第1志望のところに進んで枠組みに組み込まれて頭角も現せずに失望して辞めるのと、着実にキャリアを積んで名をあげて「かつて第1志望だったところの人たち」と一緒に仕事をするようになるとの、どっちが良いんでしょうか。

新人の頃は作業そのものがままならないわけですが、新人が基礎的な技量を取得するには、第1志望の会社である必然性も無いです。基礎を覚えたら、後は自分の技術の発展に尽力すれば、放っておいても「周りは目を向けて」くれるものです。「無視できない技量」を勝ち得れば、自ずと、です。

第1志望か否か‥‥なんて、キャリアスタート時点の「お飾り」みたいなもんです。第1志望の会社に入れば、無条件に技量が上がるわけじゃないですし、要は当人次第なんです。

よく勘違いされる事ですが、「会社に入って、仲良しになれば仕事が来る」というのは大きな間違いです。どんなに仲良しでも技量が低ければ、仕事の依頼はありません。コネは「実技」によって形成されるのであって、「仲良しか否か」でコネができるのは「学生の頃」までです。だって、作品プロジェクトにおける責任職の人間が、単に仲が良いからと言って、重要な作業を依頼できるわけないじゃん? 技術を持ったもの同士が、お互いの技量を認め合う事によって、はじめて「コネ」が生まれるのです。

現場に入った事のない学生が、よりどころの1つとして「第1志望」を掲げるのは、状況としては理解できます。でも「決定的な要素では、まるでない」事も認識しておくべきです。‥‥何度も言いますが、第1志望に進んだからって、上手くいくとは「全く言えない」のですから。

私は「新卒で入社したまま、1つの部署で純粋培養される」事のほうが、「ものつくり」として危機感を感じます。その会社の流儀しか知らずに歳を重ねて、40〜50歳の頃にビッグウェーブが来たら、あまりにもツブしが効かずにパニック状態に陥るんじゃないか‥‥と。

そんなこんなを考えるに、アニメ作品制作のような「自分の芸を売る」のが根底にある職種は、最初から第1志望で思い詰めずに、むしろ遍歴を重ねたほうが、実は良いのではないか‥‥と、少なくとも私は思うのです。

バイク

前回、「20代の頃に色々な事を」みたいな内容を書いたのですが、色々な事をするには「足が長い」ほうが良い、つまり「移動手段の選択肢は広いほうが良い」のは、ちょっと想像すれば解ります。私は、周囲のフリーアニメーターの方々がバイクに乗っていた事に触発されて、22才くらい(20年以上前)の頃に初めて原付バイクの免許をとり、TLM50というバイクで走り回るようになりました。



「ギア付きなんて絶対無理」だと思っていた私が、TLM50のようなトライアル車にのるようになったのは、「当初買おうと思っていたビーウィズというオフロード寄りスクーターが生産中止だった」事と、「たまたまバイク屋に置いてあった」事の2つの理由です。
*2014年現在、ビーウィズ(BW'S)は新車としてラインアップに復活しております。

TLM50で本当に、色々なところに行きました。特に一緒に行動してたのは、故わたなべぢゅんいちさんで、ふたりとも金もないのに、毎週のようにバイクで遠方まで走り回っていました。ちなみにわたなべさんはKSR-IIというカワサキの80cc2スト小型バイクでした。遅い私のTLM50に、スピードを加減して走ってくれてました。

原付49ccで4.8馬力、山には弱いと言われる2ストエンジンのTLM50で、1日にいくつも峠を越え、イワナの塩焼きだけを食べて帰ってくる‥‥ような、およそ「観光」とは呼べないシロモノでしたが、逆にそれが良かったんですネ。観光にしてしまうと、情景が遠くなってしまってね‥‥。雑で乱暴で無計画だったからこそ、その土地ごとの光や空気をナマで体感できたと思います。また、バイクではなく乗用車だと、ガラス越しのスクリーン映写のようになってしまいますしネ。

峠道に入ると、木々が何十段もの「密着マルチ」(=用語が解らない人は「撮ま!」で調べてください)のPANのように変化し、独特の森林の空気に包まれます。日常の練馬区〜武蔵野市近辺では、決して体験できない情景です。走行途中でエンジンを切ると、風の音と車輪の空走する音だけになり、視界に飛び込むのは緑の木々のみ。長時間の走行でお尻は痛くなりましたが、かえがたい色々なものがありました。

その後、色々なバイクを乗り継ぎましたが、わたなべさんと一緒に走っていた頃、非力なTLM50で色んなところに行ってた頃が、一番充実して良かったのかも‥‥と思うことがあります。あの頃の体験〜記憶した情景の数々は、そのまま今でも様々な作業場面に反映されてます。

ちなみに、今は「オフロードバイクの冬の時代」で機種の選択肢が乏しい状況です。国内メーカーでは、トライアル車の市販モデルなんて皆無、50ccオフロード車も全滅、中型のオフロード車すら危ういです。スズキにおいてはオフ車全滅状態(2014年現在)で、新車でオフっぽいのに乗りたい人は「バンバン200」に乗るしかありません。スズキのオフ車はバンバンが支えておるのです。

50ccのオフ車が全滅の今だと、125ccの「KLX125」「D-Tracker 125」あたりが維持費が安くて手頃なところでしょうか。実車を街中で見かけますが、すごくコンパクトで、初心者でも手の内に収めて乗れそうです。パワーは10馬力ととりあえずは間にあいそうですし、シート高もオフ車にしては低めです。



写真だと大きそうに見えますが、意外に実車は小さく、まさにKLXシリーズ末弟と呼べる車格です。

また、ホンダの「グロム」は生粋のオフ車とは呼べないものの、オフ走行もこなせそうな雰囲気です。小さな車体に10馬力あるので、無難に何でもカバーできそうです。KLXと同じく125ccなので維持費も安いですしネ。



でもまあ、グロムで良いのなら、「クロスカブ」(110cc)でも良さそうな気も。



‥‥と色々と紹介しましたが、私自身、今はバイクが腐った状態でしばらく走行しておりません。また、乗りたいと思う反面、20代の頃ほど自由が利く身でもないので、もうしばらく我慢‥‥といったところです。

バイクで駆け回って色々な情景に触れるのなら、やっぱり20代に‥‥ですネ。

20代の強み

このブログでよく「20代の若い頃に色々とやっとくのがイイ」と書いていますが、それは何処かからの受け売りでは全くなくて、しみじみとした実感なのです。‥‥で、このような人目に触れる場所で文字にして公言しているのは、20代の頃に色々な経験をした人材が未来に必要になると考えるから‥‥です。

20代の頃は、40代の3〜4倍の時間が与えられて入るんじゃないか‥‥とさえ思えます。体力、吸収力、社会的責任のある程度の免除(=若くして経営者にでもならなければ)‥‥など、色々な要素が加味されて、20代の頃は「実効的な時間」が多いのでしょう。‥‥なので、色んな事が出来るのです。

私は20代の頃、原画を描いて、一眼レフで写真を撮って、音楽を作って、バイクに乗って、コンピュータプログラムを覚えて‥‥と、少なくとも現在の3倍はバイタリティがあったなぁ‥‥と思います。今、あの頃のバイタリティがあれば‥‥と、何だか健康補助食品の宣伝文句みたいな事をよく考えます。

20代の頃って、「種まき」「植樹」が豊富にできる時期ですネ。自分の事を振り返っても、その頃に植えた若芽が30〜40代に成長して色々な収穫をもたらしているのが実感できます。逆に言えば、20代の頃に蒔かなかったものは、その後も芽を出さないし、収穫もありません。ただ、自分自身の過去を俯瞰視して興味深いのは、決して「先物買い」的な感覚で計画的に行動していたのではなく、「これは自分には必要だ」という必然性めいた何かに引き寄せられて行動していた事です。「無駄かどうか」「後で役に立つか」なんて、小器用な計算などせず、「今の自分に必要だと思う」ことをやっていただけでした。全く仕事には関係無い事でも、「今、触れて手にしておきたい」という事を、本業の合間で実践していました。

40代になってよく思うのは、「無駄は無駄ではなかった」「遠回りで巡った地は、実は穴場だらけだった」という事です。20代の頃から「無駄を省く」「できるだけ近道を選ぶ」ような行動をする人も多いでしょうけど、私が思うに「20代だったら、反って、無駄足を踏んどいた方が良い」と思うのです。だって、30代後半や40代、50代になったら、無駄足なんて状況的に許されなくなりますからネ。無駄足で得られる「様々なメタデータ」は、20代だからこそ得られるもの‥‥なのです。「近道」ばかり選択してたら、目的のもの「しか」得られず、偶発的な収穫なんて皆無ですよ。

20代の頃に、1つの作業工程に徹して他には目もくれず、仕事の合間や余暇はただ漠然と気晴らしをするような生活を送ってしまうと、その後の人生はその行動の通りにセットされてしまうように思います。20代の頃の行動は、その後の人生に大きな影響を及ぼす‥‥のでしょう。

ですので、20代の頃から何か1つの工程の「職人」を目指すのは、実はかなりの「大きな岐路」だったります。普遍的とも言える職種・工程ならば、早いうちから「職人の道」もアリでしょうが、アニメの場合はちょっと危険ですよね。実際、フィルム撮影台は消えてしまったし、セル用紙や絵具も消え、コンプレッサーとハンドピースも消えました。アニメ制作の「普遍的な工程」って保証されませんよネ。人類の歴史とともにある衣食住に関連する職種とは、大きく異なるわけです。

コンピュータベースで映像を作るのが、現在、そして未来です。映像作品を発表するには、コンピュータを避けて通れません。どんなに鉛筆と紙が好きでも、原画をそのまま、美術館に展示するのでもなければ、必ずコンピュータを経由する事になります。フィルムではなくコンピュータが基軸となっているわけですから、当然、今後のアニメの作り方もフィルム時代の慣習を抜け、徐々に変わっていくでしょう。そんな中で「普遍の工程」なんて考える方が空しいです。

ということは、「特定工程のプロフェッショナル」という立ち位置は、危うい事になります。変遷していく映像制作に対し、「自分はxx工程のプロだ、職人だ」と言っても、「その工程自体が無くなりました」という事態に対しては無力です。「今度はどんな作り方するの? ああ、そう。じゃあ、そんな感じで今回はいこか」と「自分の中身のフォーメーション」を変える事が多くなるでしょう。その際に、20代の頃の種まきや無駄足・回り道が活きてくるのです。

「特定工程の職人では、これから先、マズい」と事態を察知した時には、既に遅し‥‥かも知れません。特定以外の立ち回りができない人生を、今まで歩んできてしまったのですから。

30代、40代と歳を重ねるうちに、人はどんどん冷えて固まっていきます。どんなに歳を喰っても、また熱して柔らかくすれば‥‥と思いがちですが、その「熱源」・エネルギーはどこから調達するのでしょうか。また、周囲の人々は「ガッチリと固まっていて欲しい」と願うかも知れません。責任の羽交い締め‥‥です。‥‥やはり20代の頃の、エネルギー保有量(端的に言って体力‥‥ですネ)も大きく、周囲からも束縛されず、冷えて固まる前に、様々な要素を自身に取り込んでおいた方が「合理的」「効率的」なのです。

温かい液状のゼリーにはいくらでもフルーツを混ぜ込めますが、冷えて固まったゼリーの中にフルーツをブチ込むのは如何にも無茶です。やっぱり、仕込みに最適なタイミングはあるんだな‥‥と、40代の今だから振り返って客観視できます。

20代の貴重な時間を、ネットを巡回して暇つぶししている場合じゃありません。いくら、奇麗な写真をネットで閲覧しても、それはその写真を撮った人の主観経由の結果物であり、自分自身の経験にはなり得ません。自分自身のからだでその情景の中に立ち、様々な情報を体内に取り込む事で、まさに「体験」として蓄積されるのです。ネットで見た写真はすぐに忘れるかも知れませんが、自身の体に刻み込まれた情景はいつまでも残り、ある時に映像制作の「表現」として発露する事でしょう。

でもまあ、どんなことを言っても、動く奴は言われなくても行動し、動かない奴は言われても行動しない‥‥のが、世の常ではありますけどネ。

音楽環境の移行完了

覚悟はしておりましたが、やはり音楽環境の移行は中々手間取りました。難しくはないのですが、面倒で重かったです。

KORGとNIとIKの3社のソフトウェア音源を愛用しているのですが、3社ともアクティベーションの流儀が違うので、単純に面倒いです。NIとIKはアクティベーションマネージャー的なものがあるので、多少は手間が軽くはなりますが、KORGは1モジュールごとに「ロッキングコード」と「アクティベーションコード」を手動で取得する方式なので、地道に取得動作を繰り返して使用可能にせねばなりません。

それに比べれば、AdobeのCCは何だかんだいっても、楽ですよネ。ユーザアカウント単位で認証しとけば、後は欲しいソフトウェアをおもむろにクリックして終わりですもん。

‥‥で、「重かった」のは、音源データの容量のことで、限りあるMacBookのSSDの容量を、ごっそり100GB以上消費しました。Logicのライブラリデータをレガシー音源も含めてダウンロードしたのでそれでまず50GB、IKのSampleTank3が33GB、NIのもろもろが20GBくらいで、あとはKORGの音源に少々(昔のシンセのエミュレータなので容量が小さい)。PhotoshopやAfter Effectsのインストールとは違って、少ないディスク容量のノートPCにとっては、中々にパンチが効いております。

結果として、MacBook本体SSDの残り容量が80GBを切ってしまいました。ちょと不安‥‥。外部音声の録音などで高速ディスクの容量がどうしても必要な場合は、将来的にはThunderboltのSSDあたりを考えます。今はUSB3.0の2.5インチHDDでしのぎます。

しかしまあ、よくよく思い直せば、大楽団を薄いノートパソコンに詰め込めるんだから、100GBも致し方無しですネ。ぶっちゃけ、万単位もある楽器音なんて、全く把握できておりません。Logic Pro Xは、昔のライブラリ(Jam Packとか)も全部追加料金無しでダウンロードしてライブラリに追加できますし、IKのSampleTank3も猛烈な数の音源が揃っていますし、さらにはNIの個性的なシンセもフレキシブルこの上ないし(=膨大な音色が作れる)‥‥で、私が20代になりたての頃にRolandのMT-32やYAMAHAのTX-81Zの少ない発音数でやりくりしていたのが、遥か何万光年の彼方に思えます。

以下は最近バージョンアップしたSampleTank3のメーカーサンプルです。‥‥今は、このクラスの音がわんさか入って、2万円ちょいで買えちゃうんですよネェ‥‥(私はクロスグレードで100ユーロで買いました)。これらの音源は、Logic Pro Xはもちろん、Garagebandでも、「Audio Unit モジュール」として使えます。(旧い32bitの環境だと使えない場合もあるので注意‥‥です)

 

音楽環境の移行

私は現在のメインであるコンポジット&ビジュアルエフェクト・グレーディングの他に、私の原画マン時代を知る人からの原画作業依頼、さらには親しい人から頼まれた時のみ、音楽を引き受ける事にしております。音楽に関してはその他、権利上の問題や予算上の都合から、自分らで企画する作品のパイロットムービーに関しては自主制作します。国際法上の権利の切れた旧い作曲家の楽曲を使うにしても、市販CDの演奏を無許可で使うわけにはいかないので、やはり自主制作します。

たまに請け負うような作業スタイルで、調子がもとに戻るのか‥‥と自分でも心配になる事はありますが、実際に作業してみると、意外にも、2〜3時間でブランクは一気に取り戻せるものです。スポーツと違って、絵や音は「頭で作る」ものなので、頭の中の「ソフトウェア」を起動して、さらには現在からのフィードバックによる多少の「アップデート」を施せば、すぐにもとに戻ります。ビジュアルエフェクトやグレーディングをしてても、作画脳や音楽脳の基本プロセスは絶えずバックグラウンドでデーモン的に動いていて、日頃の作業に作用しているので、全くの休眠状態でも無いですしネ。

‥‥あ、でも、演奏は別ですネ。演奏は完全な「リアルタイム身体制御」なので、ブランクの影響はスゴいです。しかし、絵を描く動作や、音符を置いていく作業は、頭さえシャッキリしていれば、ブランクの影響はほとんどありません。むしろ、歳を重ねるほど、状態をクールに客観視できるので、若年の頃よりも洗練される傾向があります。まあ、若い頃の「無駄は多いけれど情熱的な」産物も、代え難い魅力に溢れているんですけどネ。

で、近々、また音楽に関わる可能性が高くなってきたので、旧くなった音楽環境を、ちょうど渡航絡みでi7・16GBメモリのMacBookも調達した事だし、全面的にアップグレードする事にしました。ほとんど電源を入れなくなった2008年のMacProから、処理能力が高い最新のMacBookへと、音楽環境を移行するのです。

業界ではProToolsがよく使われているようですが、私はあくまでLogic派。ドイツ生まれのLogic(ジョブズ時代にAppleがドイツEmagic社を買収して取り込んだのです)に昔から愛着があり、どうせファイナルミックスも含めてスタンドアロンの環境で仕上げる事だし、特に業界標準に環境を合わせる必要は無いのです。エンバイロメントの組み合わせで色んな事ができるLogicの構造に惚れ込んでおるのです。

現在発売されているMacの処理能力ならば、Logicのエンバイロメントオブジェクトを駆使して、日本の住宅事情では収まらないような壮大なマルチトラック音楽環境が、外部音響機器・外部音源を一切使用せずに実現できます。私は数年前にYAMAHAやROLAND、KORGなどのシンセ音源モジュール、長年親しんだコンプや48トラックミキサーなどを全て倉庫に保管して、代わりに、Apple、IKやNI、KORGのレガシーコレクションなどのソフトウェア音源だけで構成するようになりました。入力用にはミニ鍵盤の61鍵タイプを使っているので、さらにコンパクト。

ただ、ソフトウェアオンリーの環境とはいえ、音源を豊富に蓄えた旧環境を新しいMacで再現するのは、中々に手間のかかる作業ではあります。インストーラやシリアル番号はサーバに保管してありますが、それがそのまま現在使えるとは限らないので、手探りでの環境移行になります。音源のライブラリデータ量はかなりのギガバイト数なので、新たにメーカーサイトからダウンロードするのも時間がかかりますしネ。

でもまあ、移行作業さえ乗り切れば、Book型で軽量だけど内容は重厚な音楽環境が作れるので、メゲずに頑張ろうと思います。

ちなみに、Logic Proは今日的なソフトなので当然といえば当然、ムービーを取り込んで再生しながら音楽を作れます。Logicを買うのが金銭的にキツい学生さんは、MacさえあればオマケソフトのGaragebandでも似たよう事ができますので、NIやIKなどで公開されている宣伝用のフリー音源(これがまた良い音出すんですヨ)を付け足して、そこそこ充実した環境を出費ゼロ円で構築できます。その環境で、絵スタートの2秒前(フィルムの3フィート分)の無音の余白を挿入して作業すれば良いです。

‥‥なので、もし入学とかでパソコンを買ってもらえそうなら、映像制作を志す人はMac Book ProかiMacにしておくと(メモリは16GB以上でネ)無難です。何かとMacのオマケ部分が重宝します。‥‥だって、マルチバンドコンプなどのDSPがシステムにプリインストールされてるんですから。WIndowsは分業制の現場では多く導入されていますが、プライベートではMacを使っているプロの人が多いです。少なくとも私の周りは、監督も含めて、Mac率が高いです。‥‥もちろん、私があっせんしたわけではなく、いつのまにやら自然と周りはMacだらけ。ちまたではブランドイメージでApple製品を選択する人も多いかも知れませんが、プロとして長らく映像制作に携わっている人間が、単にアップルマークのためだけにMacを使うわけもなく、使うにはそれなりの「理由」があるんですヨ。

ソフトがあったからって音楽が作れるわけではないですが、ソフトがあれば気軽に音楽制作に触れられるのも事実です。2014年現在は、ムービーサウンドトラック系の管弦楽の祖とも言えるショスタコーヴィチやシェーンベルク、ストラヴィンスキーなどの近代作曲家の作品が徐々にパブリックドメインへと移行していますので、オーケストラスコアも無料もしくは安価に入手が容易、自己研究もしやすくなっています。巨大な編成を持つワーグナーマーラー、リヒャルト・シュトラウスなどのスコアもペーパーバックで安く簡単に手に入る事もあります。トリスタンなんかはKindle版まであります。

こんな幸運な状況の中、手元にLogicやGaragebandがあるのなら、「やらない手はない」ですよネ。

追記)シェーンベルクストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチなどの戦後まで存命していた作曲家はビミョーに2014年現在だとパブリックドメインに属さない楽曲もあるので、楽譜のネット入手にはくれぐれもご注意ください。グレーな場合は、大人しく安価な市販のスコアを買いましょう。
 

中割りについて

ペンタブレットの作画とか、アニメ作画ソフトの話題とかを、端から眺めていて思うのは、何で皆、「中割り」で動きを捉えるんだろう‥‥ということです。中など割らずに、そのままアニメーターが絵を動かせばいいじゃん‥‥と単純に思いますし、私の考えている技法も「中割り」は一切ありません。

「でも、アニメーターが絵を動かすには、中割りが必要じゃん」‥‥と思うのならば、すっかり、思考の根本が「原画・動画」のスタイルに染まり切っているのだと思います。‥‥いや、ごくシンプルに、「絵を動かす方法」を「コンピュータと一緒に考え」れば良いのです。

「じゃあ、3D?」‥‥と思う人もこれまた多いかも知れませんが、3Dのアニメは「3Dモデルを動かして2Dグラフィックスとして演算・出力したもの」なので、「絵を動かす技法」とは別のジャンルです。描き絵にこだわっている人は、あくまで「絵を動かしたい」んですよネ?

中割りする事もなく、3Dモデルを組む事もなく、ただ単に「描いた絵をコンピュータで動かせば良い」んです。思考の根本を、中割りや3Dから切り離して、素の状態から「動かす事」を考え直せば良いだけです。

思考の根本を問い直す‥‥という体験は、昔、音楽をやっていた頃に似たような事がありました。ポップスやロックは、基本的に「旋律と伴奏」で構造を作りますし、イントロ・1番・2番・間奏・3番・エンド(コーダ)‥‥のような編成上の「無言のお約束」みたいなものがありましたが、高校生の頃、「その形式や思考しか許されないのか?」と不思議に思ったのです。「ロックは自由だ」とか言いながら、随分と不自由な形式に束縛されているんだな‥‥とも思いました。温故知新とはよく言いますが、バッハ等の多声楽・ポリフォニーに傾倒していったのは、自由に見えて実はとても不自由なポップス・ロックへの反発だったのかも知れません。

話をアニメに戻して。‥‥本当に不思議に思うのは、なぜ、「中割り」を基軸に考えるんだろう‥‥という事です。動きの「キーポイント」で動きの流れを把握し制御する事と、中割りする事は同義ではないじゃん? ‥‥少なくとも、私の考える技法は、動きのポイントからポイントへの「経緯」であって、「中を割る」という意識は全く無いのです。

つくずく、新しい何かを作るという事は「発明」なんだな‥‥と思います。例えば、「もっと高速に移動する」という欲求があった時、「足のメカニズムに着目し、歩行運動をどれだけ速くできるかを考える」人と、「移動そのものに着目し、車輪を発案する」人の、2タイプがいるように。‥‥同じように、アニメ制作を考える際、「中割りをどうするか」と考える人と、「絵を動かすこと」を考える人の、2タイプがいるのでしょう。

「中割り」「中枚数」「動画枚数」「枚数が多いのはリッチな作品」‥‥という思考や価値観は根強いと思いますし、その延長線上でコンピュータを使う人が多いのは成り行きとして解りますが、その思考が永続的に有効であるかは甚だ疑問です。私は既に「中枚数」なんてどうでも良い‥‥とすら思うのです。決め絵・キーポイントの各々を経緯していく動きは、浮動小数点の演算に任しておけば良いです。

何だか「アニメ時代の幕末」にも似た今、準備段階として、新しい考えに基づく、新しいアニメ作品を志す「海援隊」みたいなコミュニティを作る時期が、そろそろ近づいている‥‥のかも知れませんネ。


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