企画特集【とっとり100人100通り】
北条ワイン代表 山田定広さん
◆激励信じ 醸したブーム
県内唯一のワイナリー「北条ワイン醸造所」(北栄町松神)。1944(昭和19)年創業の中国地方で最古のワイナリーだ。
代表者の山田定広さん(77)は2代目。ワイナリーは元銀行員だった父の定伝(じょうでん)さんが41歳の時に開いた。ワイン醸造の副産物の酒石酸が潜水艦のソナーの製造に必要だったことから、軍の命令が下り鳥取でのワイン造りが始まった。
だが、45年に終戦を迎えると、酒石酸の需要もなくなり、ワインをわざわざ買って飲む人も少なかった。定伝さんは、製材業など様々な商売を手掛けたが、ワイン造りはやめなかった。山田さんは「一度、酒造免許を手放すと、再び取るのが難しかったこともあったのでしょう」と振り返る。
山田さんは、地元の高校を卒業後、ワイン造りを学ぶため、当時東京都北区にあった国税庁の醸造試験所に研修生として入った。当時、日本にはワインについての研究書はほとんどなく、フランス語の文献を翻訳したもので学んだ。
その後、定伝さんが郷里に戻る前に働いていた愛知県や大阪府の酒造会社で酒造りや営業を学んだ。29歳の時に地元に戻り、父のもとで本格的にワイン造りに取り組むこととなった。
原料となったブドウは地元で広く作られていた「甲州」。山梨県発祥で、白ワインの原料として用いられる品種だ。だが、ワインは地元でも「酸っぱい」と不評だった。「鳥取市のデパートで一日中販売して1本しか売れない日もありました」
そんな中、今も心に残っている言葉がある。元陸軍将校が娘の嫁ぎ先が町内にあったことから戦後移り住み、ワイナリーをよく訪れた。戦前、フランス駐在の経験があり、当時の年配者には珍しくワインをたしなんだ。「これから日本でもワインが飲まれるようになる。頑張りなさい」と声を掛けられた。「あの言葉は私の心の励みになりました」
風向きが徐々に変わっていったのは70年の大阪万博以後だ。食生活の洋風化が進み、東京などの大都市を中心にワインが飲まれるようになっていった。
89年に定伝さんが亡くなり後を継いだ。90年代に入ると、赤ワインを中心としたワインブームが盛り上がるようになる。
メルロー、カベルネ・ソービニヨンなど欧州のワイン用品種も手掛けるようになり、現在は「ヴィンテージ」「砂丘」など約10種類年間7万本を造る。2011年からは「トットリスカイ」と名付けたスパークリングワインも造り始めた。「機会があればブランデーにも挑戦したい」と意欲を燃やす。
ワインは原料となるブドウが品質を左右する。現在は農協や古くから付き合いのある農家からブドウを仕入れるほか、4ヘクタールの農地で自家栽培している。今後、自家栽培の面積を増やしていく予定だ。
◇この人、この一言
常に上をめざし、より品質のよいワインを造っていきたい
◇その節は・・・
かつて長野県に勤務していた際にワインの取材をしたことがあり、鳥取にもワイナリーがあると聞き訪問しました。現在品切れになっているスパークリングワインは瓶内で2次発酵させるシャンパーニュ方式。新しい手法を採り入れると同時に原料は徹底して地元産にこだわる姿に感銘を受けました。今後も鳥取ならではのワイン造りを期待しています。(柳川迅)