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     井上浩郷 (こう ごう 歴史探偵 誕生由来



      
桂宮 宣仁(かつらのみや よしひと)誕生の秘話 と 実母 智枝との思い出

      <桂宮 宣仁 2014年(平成26年)6月8日 朝 聖霊降臨日 没>

     桂宮 宣仁は実母 智枝(杉浦重剛の孫、杉浦源六の三女)が出産した8番目の子女、

      7番目の男児として誕生した。 養父を除く我家は昭和21年夏に愛知県高浜町向山に

      移住した。2年後、1948年(昭和23年)の秋、母は三河湾に浮ぶ佐久島 東港船着き場

      すぐ前の奥まった民家に逗留し、産婆(助産婦)のお世話で出産した。

      宣仁の実父 井上朝良が迎えに来る間、しばらくこの島に滞在した或る日、南に向かっ

      て農道を4~5分歩くと突端付け根に20~30m四方の岩礁がある。

      この岩礁に降りて遊んでいた所、知らぬ間に潮が満ち、島に取り残された。慌てて引き

      上げる時、岩間に流れ込む潮に足場をすくわれ、乳児を手放し必死で泳いで足を掴み、

      事なきを得た。恐怖に満ちたこの現場に、母は養父 朝良にたのみ、石造観音を設置し、

      皇室に養子入りした我が子の無事を祈った。この恐怖の記憶と、宣仁の健康を偲んで

      母と何度も訪ねた。石造観音は波に流され、わずかに残っていた基礎コンクリートに手

      を当てた母を思い出す。


      堕胎用の劇薬で九死に一生を得、僕を出産後の10年間、背中やお腹のおできで苦しみ、

      それでも皇室の為に、次々と妊娠と出産を繰り返した。男児奇数を昭和天皇裕仁の養子

      に、偶数を父親朝良の戸籍にと、取り決めた密約は敗戦と共に混乱した。

      本来、宣仁は7番目の男児の為に昭和天皇裕仁の実子、三男である僕の弟、即ち四男と

      して養子入りしたはずであった。母が出産した8人の男児の内、父親朝良に最も良く似た

      のが宣仁であった。宣仁の命名は名古屋からやってきたプロテスタントの宣教師が専住坊

      (東本願寺)の門前で宣教していた事が家族で話題と成り、養父自身の朝良「とも よし」の

      「よし:宣」にヒントを得て命名した。


      宣仁が1988年(昭和63年)5月26日に意識不明で倒れ、手術した(急性硬膜下血腫とか、

      病名は未公開、8月に意識を回復、11月退院)と報道された頃から堕胎薬の胎児への影響

      を懸念し、さかんに僕の右目弱視眼と疾病との因果関係を気にかける様に成った。

      宣仁が2014年(平成26年)6月8日に心不全で急逝した朝、キリスト教会では聖霊降臨日

      (ペンテコステ)の礼拝、讃美歌を唄っていた。弟が不甲斐ない人生を終え、命名で宣教師

      「宣:よし」を採用した因縁で、聖霊に迎えられて天に凱旋した。


      6月17日の「斂葬(れんそう)の儀」は豊島岡墓地で営まれた。この朝、参列していた時、新聞

      記者、続いて報道関係者から “心情コメント” を求められた。

      “実母はもういいから・・・”と、一言のコメントをだし “詳しくはサイトを調べて報道してくれ”と。

      晩年、母は“女は生涯、泣いて生きる・・・”と、意味深長に、真実を語れない辛さを繰り返し

      吐露した。複雑な家族構成の中で母を支え、こよなく愛した母も親族や家族に対しては底知

      れぬ睨みを以って、一連の極秘情報を漏らすまいと、常に神経を張り巡らせた生涯であった。


         <2014年6月11日(梅雨入り)記載、桂宮宣仁の実母智枝 生誕100周年記念日>
         <2014年7月27日(聖日)追記、桂宮宣仁「墓所五十日祭の儀」>



         <浩郷 誕生秘話

      
 母 智枝 2009年(平成21年)7月25日没三回忌真実。

  
   かげりゆく戦況の大元帥陛下に
・・・実子を、との気運の中で受胎。

     「戦中、天皇 裕仁に活力を与える為、母方祖父 杉浦源六が画策し、母は妊娠、出産」 2014/2/22/掲載。

  
   母
・・・堕胎薬飲み、高熱(40℃)と激しい下痢 4ヶ月の末、右目 弱視眼の胎児出産

    
  小学6年生の身体測定、精密検査で
「万に一人の弱視眼」と診断。以来、養父朝良は脅え、悩んでいた
                                                              2014/5/8/記載           


     母智枝と養父井上朝良雉宮(大正天皇嘉仁 四男)の五番目の男子として誕生

  
  
 宿命的には実父昭和天皇裕仁の三男 「実子 長男として誕生。

  
   風雲告げる大戦末期
両親と二男、四男の下で保護・養育。



  
   母出産
10人の内、「姉と兄二人、妹と弟三人の乳児」を次々と皇室
に渡し、想ひにふけた養父

    
  「天皇裕仁への男児、奇数偶数の養子縁組(極秘)は井上萬蔵(横井時雄)の希望、提案」 2014/5/8/掲載。

     母智枝の提案で三家族構成の辻褄合わせに長女-2歳、三男+2歳の年齢加減をした
                                                (2011/3/28:掲載。2012/6/208/14:追記

    
   <名前由来>


    
  浩郷(こうごう/ひろさと)命名:実父 昭和天皇裕仁密想。


     
「浩郷 こうごう」:実父
昭和天皇裕仁
(ひろひと
祖母
貞明皇后(こうごう、訓読み浩郷(ひろさと

    「浩」:実母
智枝と友人愛新覚羅溥傑の妻嵯峨浩(浩:ひろ・こう)同年齢


    「郷」:実父裕仁の乳母 川村花子父親川村純義母親春子西郷隆盛郷:ごう・さと)の妻姉妹


   
   
 母智枝、浩郷誕生記念
  
    
1歳の誕生日
 
   
小学校一年生 夏

   
小学校六年生 秋

                                                     (2012/6/26:写真掲載//2014/8/4:小六掲載)

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   伝 言

     <小林隆利牧師への伝言>

 
   一、先生は僕が4~5歳の頃から時々、シェパードに自転車を引かせて半田市より
      刈谷を経由し、来訪され、小学1年生(1951年)入学の春、
子供5~6人で遊ん
      でいた所に、来訪されたのが最後と成りましたネ。


  
  二、1996年5月14日(火)、44年ぶりにホテルオークラのパーティーで再会し、名刺
    
   交換した後、探しあぐねたこの偶然に驚き、元N皇宮警察監に調査依頼した先生
      は確認後、東京方面に来られた折には宿泊された事が懐かしい思い出です。


    
三、1996年12月6日(金)朝、元N皇宮警察監と三人で皇宮病院にお見舞いに出る
      寸前に現役責任者がストップをかけた時、すぐに状況を理解していました。
      この件以来、先生は来られなく成りましたネ。僕は幼少期からの事態を察知し、
      認識しています。
      ただ残念な事はあれ程、信義に篤かった先生が実効支配者に妥協した事です。
      その後も、今でも、いろいろ相談相手に成って戴きたかった事が残念です。
      ご連絡をお待ち致しております。
(2014年1月6日:記載)


          
<追記

   
  「僕が九州で病死したと、母に騙された。或は勘違いした。 K氏の書籍より


   
    ~ 今もなお 不逞の輩 知らぬふり 直き日本に 美しき世を ~
                                        (2014/1/20:掲載)

    
 「我々、皇統 遺伝子を引く者は国民に真実を語る責任があります
                                                 (2014/1/27:掲載)


    
  
<小林隆利牧師との因縁>

     実父
裕仁乳母川村花子
父親
川村純義母親春子西郷隆盛姉妹

     小林隆利牧師の母しのぶ「皇室御用の小林呉服店の妻」川村花子明治天皇の間に

      
 誕生川村花子迪宮裕仁乳母後、伯爵柳原義光と成婚。
 (2012/6/20:掲載



    
       養父 朝良49歳 (皇族の実父)母 智枝44歳 (皇族の実母浩郷14歳 中学3年生春
      
(写真背景は1959年(昭和34年)春:愛知県高浜町 大山公園にて)

     朝良13歳からの家族、叔父藤吉(人吉市)へ秋より養子入りし、実父裕仁の元に戻る・・・お別れ撮影。
     
母と姉(養女)の前で、養父が通達した時、母は悲痛な様相・・・
をしたが、
僕は承諾」 2014/5/6/追記


  
   
養子先事情(母が工作)
伊勢湾台風、養父病死で中断2012/6/11母生誕99年記念

                                                                          
     養父井上朝良:大正天皇嘉仁四男は1960年9月29日am2.00(50歳11ヶ月)に末期ガンで自然死。
     「姉に綾子、弟三笠宮崇仁の下に妹郁子、末の弟奎介は5歳で早世 (2013/8/19:史上初公開)

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多摩御陵の造営秘話
     
貞明皇后の
父 横井時雄&井上萬蔵婿「大正天皇の多摩御陵」を八王子城史跡
     八王子
の丘陵に八人子女記念して建築家 長男井上源八の監督下で完成。

          
      横井時雄&井上萬蔵                井上源八                  大正天皇 多摩御陵
        
                       (2013/10/5:史上初公開)歴史研究家 井上浩郷


 
   NHK大河ドラマ八重
    
    
主人公 八重の兄 山本覚馬の娘ミネ
      <我家 戸籍上の祖母 井上ミキ(ミネ)と一族の秘話>

       
2013年度、NHK大河ドラマ「八重の桜」がスタートした。
         主人公は江戸時代末期、幕末に於ける会津藩士 山本覚馬の妹八重である。
         八重は京都の同志社創立者 新島襄と再婚した新島八重である。
         兄 山本覚馬の娘ミネは熊本バンドのリーダー横井時雄と結婚し、井上ミキ
         と改名した。我家の戸籍上の祖母である。横井時雄は井上萬蔵と改名した。

         横井時雄は熊本藩 宗像少右衛門家(200石)の12代目として誕生した。
         宗像家は熊本藩 宗像清兵衛景延(300石)を初代とし、豊前小倉藩より
         熊本藩への国替 筆頭奉行として後妻 四人息子に各家200石に分散した。
         三番目が宗像少右衛門 別名 松平伊豆守信綱の家系である。

         この四番目が宗像長五朗(150石+医師予定)で、天草の乱の天草四郎時貞
         である。この乱の為に廃籍と成った家を便宜活用する為に平家血筋で
         筆頭家老松井康之佐渡守と初代からの縁で横井姓に替えて活用していた。

         また井上家は幕末の横井時雄が4~5歳の時に父 横井小楠が江戸で遭遇
         した切り込み事件で士道忘却罪に問われ、危険と見た弟子の井上毅が井上家
         の相続を願い出て、養子に入った。

         既にこの段階で時雄は宗像家、横井家、井上家の継承権を兼ねていた。
         実は横井時雄は同志社英学校(神学校)時代から伝道実習の任地に先祖縁
         の四国今治城下の住民布教活動に出掛けていた。居住のお世話に成ったの
         が今治の豪商 柳瀬義富家であった。柳瀬家の13歳年下の五女で末娘トヨは
         時雄をお兄ちゃんと慕った。

         柳瀬トヨが神戸英和女学校に遊学している頃に横井時雄は山本ミネと結婚し、
         井上家の長男を産んだ。ミネの長男誕生後、柳瀬トヨは思春期の焦燥感から
      か妊娠し、横井家の長女悦子を出産した。

     
(この頃、名目を隠し、京都の山本覚馬家にお世話に成った様だ)
      
実はこの悦子が後の実祖母九條節子即ち貞明皇后である。


 
      
~ 時を得て つまびらかなる 真実の 史実を望む 祖霊に捧ぐ ~
                                   
(2013/1/21:掲載)

 
  
  山本覚馬の長女
  山本峰(ミネ)&
  井上ミキ


 
 
 横井小楠(吉田松陰)の長男
  横井時雄(伊勢時雄)&
  井上萬蔵(井上円了)


 
 
  柳瀬義富の五女
  柳瀬豊&横井豊&
  井上トヨ

  
   母 山本峰 長女
   清(キヨ)

 
 母 山本峰 長男
  井上源八


 http://t0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRga84t3HxiPF0lem9-ctiXs1DQeVkjRWrXYUn-5eYiIMv8Qw9H
  母 柳瀬豊 長女(貞明皇后
  横井悦子&井上筆&
  九條節子

  
   母 山本峰 次女
   浜(ハマ)

  「次女を朝良の養女に」

 
 
  母 山本峰 次男
  井上藤吉
 「朝良13歳からの家族」
 五反田 歯科医院を開業、
 戦後人吉に移住


 
  母 柳瀬豊 長男
  横井平馬&
  牛島謙七(養子)

  
  母 山本峰 三女
   勢(セイ)


 
  母 山本峰 三男
  井上武詞

  「朝良のご意見番を自認」
  五反田 トミタヤスポーツ店主
  母 柳瀬豊 次男
 井上 謙次
  台湾先住族
  の宣教で殉教

  (台湾の恩人)

                          (
2013/8/19/写真史上初公開。8/29/追加2014/5/6/記載

     
伊勢神宮式年遷宮
   
 祝 
2013年10月2日:内宮「遷御の儀」記念し史上初公開
   
 祖父 大正天皇 と 祖母 貞明皇后の離散した子女


  
   実父:大正天皇



 
 実母:貞明皇后



  
   第一子:長男
   昭和天皇裕仁


 
 第四子:長女
 綾子


 
 第七子:次女
 郁子

  
  第二子:次男

  秩父宮雍仁親王


 
 第五子:四男
 井上朝良

 第八子:六男
 井上 奎介
 五歳で早世

 
 
   第三子:三男
   高松宮
宣仁親王

 
 第六子:五男
 三笠宮崇仁親王

 
  左:郁子と右:綾子


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   <曾祖父横井時雄(ときお)の系譜宮本武蔵12世貞明皇后の実父
       
戸籍上は祖父


    祝 高祖父横井小楠生誕200年記念1809年旧暦8月13日誕生日宮本武蔵11世。
   
      養父
朝良母親貞明皇后 、祖父横井時雄 、曽祖父横井小楠

      
横井小楠は合衆国大統領ジョージ・ワシントンに見習、自由・民主・平等を提唱
 
                                                 (2008/11/ 1:掲載)

    横井時雄の本姓は熊本藩系譜:初代 宗像清兵衛(号・宮本武蔵及び多種号を使用)の後妻系(三男)

    宗像少右衛門(松平伊豆守信綱)の男系で連綿と続く宗像清兵衛以来、10代目が宗像清左衛門(素八、

    号
横井松楠 初代)で一般に写真掲載されている人物である。

    実は11代目 宗像三右衛門(萬喜)は
吉田松陰と号し、安政の大獄の処刑カモフラージュの為に

    長州藩主毛利慶親に御前講義を成し、その存在記録を残した。

    実は毛利家4代目藩主以降は熊本藩宗像清左衛門(素八)とは藤原氏吉川一族系であり宗像清左衛門

    素八は
横井松楠と号した。

    その二男の宗像三右衛門万喜は長州藩の萩にいて父親の号
松楠を得て吉田松陰と号した。

    また三河出の杉浦清右衛門重文は師匠の号「
松楠」のを得て杉浦楠陰と号した。風雲告げる幕末を

    前に人材育成のシナリオを整えて行った。

    京都に於ける孝明天皇暗殺に連座して少年明治天皇の保護者に
吉田松陰杉浦楠陰が抜擢された。

    吉田の姓は一族の祖神社である京都大学地続きの吉田神社に由来し、多大な影響を受けたフルベッキ博士

    の誕生と同一年は偶然なのか。年齢を操作し、多様な号を使用する手法は先祖代々、活用した忍法である。

    宮本武蔵を号した一族中興の祖は実齢より9歳若くしていた。


 
    安政の大獄では危機一髪、ある人物(目下マル秘)の申し出にすり替え以後横井小楠(ジュニア)

    
襲名し、父親松楠は隠居。朋友 勝海舟と再会した時、幽霊かと驚愕したエピソードが伝わる。

    熊本の宗像家12代目は横井小楠の後妻が生んだ子息が横井時雄であり、その妹の美屋は同志社大学総長

    として名を馳せた海老名弾正の妻である。

    横井時雄は暴漢の目を回避する為に多様な姓名:日下部姓・伊勢姓・横井姓・井上姓、また友人 の綱島姓

    等々を使用した。

   

 

 
   44:日下部太郎は横井時雄の少年期で、この写真から遭難事故が発生し福井藩から米国留学中の八木

    八十八に藩主松平春嶽は横井時雄を守る為に日下部太郎の襲名を命じた。

    この写真以来、60歳の還暦まで一切、写真を残さなかった。同志社や教会に掲載されてきた全ての写真は

    替え玉である。  
(2011/2/22:掲載)

    熊本洋学校・東京開成学校・同志社英学校・東京大学・米国 エール大学大学院に学び、特に教育機関育成

    に多大に尽力した。小泉八雲や森鴎外と深くかかわり、従兄弟 徳冨蘇峰と徳冨蘆花兄弟とは家族同然の

    関係にあった。また神学者内村鑑三への経済的支援と二人三脚の伝道同行は先祖 沢庵和尚以来の禅説法

    ならぬ、福音メッセンジヤーとして聴衆を魅了した。

    政治的には明治天皇、西園寺公望のブレーン(知恵袋・党幹事長、外交官、
号 珍田捨己)として、また

    貞明皇后の実父
として明治 大正 昭和の建国に真摯に奉仕した。

    <ご参考:珍田捨己(横井時雄)は働きの多様化の都合で経歴、号名を工夫し、或る理由(今は保留)

    で6~7年程早く没した事にした。またネット写真は本人では無い>  
(2012/1/21:追記)

    横井小楠、横井時雄 父子はキリスト教布教、保護者と言う理由から熱心な神宮神信者の暴漢に突き狙わ

    れた。しかし史実は1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト宣教して以来、神宮神とキリスト神

    との比較検討した先祖はその結論として同一神と確定し、伊勢神宮:豊受大神宮(外宮)を造営再興した。

    その流れの中で子孫は江戸初期に伊勢神宮:皇大神宮(内宮)を造営し国家の中核的神宮とした。


     
幕末から明治維新に成って、キリスト教の風にさらされる中、長崎に渡来したグイド・フルベッキ宣教師

    (ユダヤ系プロテスタントのクリスチャン)は旧約聖書のヘブライ原語の堪能者であった。

    横井小楠 (靖国神社)と横井時雄父子が抱いていた共通の念願は先祖が残した伊勢神宮奉納書簡の

    解読であった。このテーマを明治天皇の後ろ盾を得てプロジェクトチームがスタートした。

    フルベッキ博士のユダヤ系人脈が世界からぞくぞくと召還され、のべ1000人を越えたと言われる。

    その研究結果はキリスト教もユダヤ教の神も神宮神と同一であると結論し、明治天皇(明治神宮)は

    伊勢神宮に参拝して世界平和を祈願した。  
(2010/4/30:掲載)


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不思議


    1988年(昭和63年)7月19日(43歳11ヶ月)の朝、不思議な夢を見た。夢の情景は萩市の松下村塾か

    ら吉田松陰の住んだ杉家に
向かう道すがらに山吹雪調の石碑が在った。

    数歩通り越して、ふと碑の文面が気にかかり、戻ってこの文面を読んだ。


    「江戸の終わりに義に生きた一人の罪不明の男が死に処せられた」と書き記されていた。私の胸が急に

    わななき慰めの言葉を捜した。


    「この人の様に一人の罪なき男が十字架に処せられた、その名を主イエスと言う」夢から覚めたときバス

    タオルを巻いた枕がぐしょ濡れであった。 


    一晩中、私の体を通して
涙した祖霊を認めざるを得なかった。

    驚いていると隣に寝ていた息子(8歳)が「お父さん・・・怖いよう・・・」とすがりついて来た。

   
 「どうしたんだ!」  

    「甲冑を被った侍が馬に乗り剣で闘って・・・怖いよう」。

    今日と、明日の生活に負われ欧米に憧れる世相の中で、日本の古き時代にタイムスリップした夢に困惑した。


    枕元にあった紙面に夢の顕現をメモッタとき
「江戸の終わり」の隣に息子の夢では「江戸の始め」にも何か

    秘密が・・・
ふと思いめぐらして記録した。  (2007/3/吉日:掲載) 

    1988年(昭和63年)7月19日以来、戦国末期、江戸初期を中心に一族の系譜探索を開始した。(戸籍上

    の系譜)戦国末期、江戸初期、多くの日本人が関心を抱く「宮本武蔵と後水尾天皇」、「お福と春日局」密使。

    幕末、明治維新「横井時雄と明治天皇」密史。系統的血筋をたぐり寄せながら新たな発見と史実との誤謬性

    を裏付ける調査や現場検証に途方もなく時間が流れ、本業の合間を縫う様に史跡研究を重ねてきた。

    「瞑想と祖霊と血筋が三位一体と成り、歴史的DNA二重螺旋構造を描きながら、時空を超えて今に甦る。
                                                            (2008/10/8:掲載)


      不思議 追跡24周年記念 公開


    江戸の終わり
の人物は高祖父孝明天皇統仁(おさひと)

     
「江戸の始め」の人物は祖母貞明皇后の先祖で藤原南家中興の祖
宮本武蔵

    
養父藤堂高虎 戦死後、養祖父の支持で
藤堂高虎二代目を襲名。

    実質的には江戸260年間、太平の世を布石した史上最大級の人物 (多種号を駆使)。

    
[御参考] 藤堂高虎二代目では初代の誕生日を起源とし又、二世代情報を重ねている。

    詳細情報
には検討の余地あり。然し重要なのは肖像画は本人で、
還暦祝の宮本武蔵の姿である。


    「一晩中、私の体を通して涙した祖霊を認めざるを得なかった」人物は実父昭和天皇裕仁                         

                                                           (2012/1/23:旧暦元旦 公開)    


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     史実 戦国密史プロローグ


  「市川歌舞伎の源流 市川元宮本武蔵

   市川元教は藤原鎌足より31代目、小鼓・能舞・唄の名手で市川歌舞伎は32代目が創設

     「市川元教は父親に殺害され
た!」と語られているが、 史実は小早川隆景軍が羽柴秀吉軍に追われ瀬戸内

     を敗走中、頼りとし、逃げ込む先の山口市:高嶺城城代(城主は父親・市川伊豆守経好)として市川元教が

     九州の覇者:大友宗麟と連携し、挟み撃ちにされる「懸念と不安」を日本海側から京都に向かって進軍する

     兄・吉川元春と、甥で総大将の毛利輝元に秘密書簡を送った。


     この戦闘は本能寺の変で回避したが秘密書簡は善処されぬまま疑念
を信じて謀られた事故であった。

     市川元教は家族の 「生命保全担保」と、自害のはなむけに城下住民公開を要求し、家族の面前で 「一世

    一代の能舞台」を公開し、神妙な演技の最終に自害してはてた。


     (御参考)「後に、武蔵・左甚五郎・等伯・山楽・探幽と多種号を駆使し戦国を終局。江戸太平の道を創世し

     た宮本武蔵は満5歳であった」 。

     このとき、元教の父・市川伊豆守経好は遠隔地の出雲:月山富田城に呼び寄せられ、強要した「告白文」

     を根拠に 「自害承諾書」を歴史的証拠に残させた。


     かって、市川元教がまだ少年の頃、祖父と父親は先祖が営々と築き上げた吉川家と全遺産を譲渡し、

     戦国 乱世の争そいを平和裏に回避した。しかして不退転の平和主義者は国を離れ、流浪の旅に出た。


    (御参考)「日本民族の根幹を成す、重要目的の為!?


     数年に渡る旅先に、祖父:吉川伊豆守経世、父子三人に、再三に渡って帰国を懇願した毛利元就親子は

     今は忙い。
戦国乱世の平和を希求し、日本民族の誇りと理想を貫いた親子三代は信義に厚く、超一流の

     剣豪(剣聖)で文化人であった。 


     <戦国末期から江戸初期を立ち上げた元祖の系譜は複雑に操作されている>(2007/4/5掲載)


     伊勢神宮 外宮造営の秘話


   
  「重要目的の為!?」とは伊勢神宮 外宮豊受神社造営の為。
  

    伊勢神宮 外宮(豊受神社)を造営し、吉川経世、市川経好、市川元教

    は完成に際 し、敷地内に祖父・父・子を象徴する
瓢箪池を残した。

    
<2013年10月5日 伊勢神宮 外宮式年遷宮記念 史上初公開 



    
 
伊勢神宮 内宮造営の秘話


   
 伊勢神宮 内宮造営と20年刻みの遷宮方式は「宮本武蔵&

    藤堂高虎二世&宗像清兵衛」等と多種号を駆使し、江戸幕府体制

    を構築した市川元教の実子長男に由る。

    宗像清兵衛とは祖母 貞明皇后の実父 横井時雄&井上萬蔵の始祖

    宗像大社80代大宮司であり、熊本藩 宗像家初代。


    <2013年10月2日伊勢神宮 内宮式
年遷宮記念 史上初公開>

                                    

      (
2013/10/6:記載)
   (2013/10/6:歴史研究家 井上浩郷)


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      智枝(ちえ)の略歴皇族の実母


   「2009年7月25日早朝没 95歳2ヶ月:母は10人の
子宝を出産」

 
   母 智枝(血液O型)は父母 杉浦源六と八重の次女として1914年(大正3年)6月11日に現:韓国ソウル市

    南大門隣接地で誕生。
「両親共なる姉衣枝と異母長女杉一(謎)を日本に置いて渡韓。2014/5/14/記載」

    
小学校入学(注意:初等教育は「数え歳」で入学)の早春に愛知県高浜に移住し高取小学校より旧制・

    刈谷女学校に入学。短距離選手として小学校碧海郡大会で優勝。

    女学校愛知県大会で2年連続、銅メダル。卒業後、芸術大学進学を希望するも時代が赦さず、父親源六の

    事業活動拠点「東京都葛飾区」に呼ばれ、各種のお稽古事をし、一年後に東京瓦斯電機(現・日立製作所)

    に勤務していた朝良(22歳7ヶ月)と1932年(昭和7年)春、17歳11ヶ月で結婚し、次々と子宝にめぐまれ、

    朝良は戦中には軍需工場 生産隊隊長(隊員5,000人)として働き終戦後、現・日立製作所を退社した。

    1年程の尾山台での生活浪人中、愛知県高浜産の練炭コンロをトラックいっぱい仕入れ、庭に積み上げた

    がそこに雨が降り一変で台無しに成った。やがて家族を1946年(昭和21年)夏に母の郷里三河に移住させ、

    自身は東京の下町工場で技能労働に携わり、独立事業を模索した。

    行ったりきたりの中で母が手織りした反物が東京で売れたのを切っ掛けに、1950年(昭和25年)秋より愛知

    県高浜に小規模な織物工場を新築し織機二基と管巻き機を設備して翌年1951年(昭和26年)、浩郷が小学

    校に入学した春頃より井上産業織物工場が稼動した。

    本格的に生産が軌道に乗ると「問屋、ふとん店」の開拓に全国に出張し、母は右腕として家業と工場運営に

    才能を発揮した。かたわら趣味の茶道:表千家と華道:池坊の修練に情熱をかけ才能を開花させ、その道

    を極めていった。


 
   1960年(昭和35年)9月29日午前2時頃、養父は母に看取られ末期癌で没した。

    <手術しないで入院3ヶ月間、母とすごし安らかに自然死した>

    母は残された家族、従業員と一致団結して家業を守り以後、時代に翻弄されるも、ご縁に添い毛布から布

    団袋に、そして下着類の縫製業へと変遷。やがて自営業を廃業して茶道、華道の生徒指導に専念する傍ら、

    浩郷が1975年(昭和50年)春に横浜で創業した自然化粧医学会の自然化粧品と健康食品の普及を応援した。

    又、茶道:表千家では高浜市営の茶道会を設立し、当時、神谷市長に提案して市営・茶道施設を造営、完成

    すると初代会長に就任。運営会則では会長2年交代制を確立。茶道:表千家(梵天)及び華道:池坊(家督)

    として日本の伝統と文化を愛し、多くの弟子を育てた。

    また俳句・短歌と墨彩画では多くの作品を生み、両者共に愛知県知事賞を受賞。唯一の弟子 「墨彩画家

    井上浩郷 」 は世界的評価を得る。  
(2008/1/4:掲載、10/14: 修正)


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母方祖父 杉浦源六(げんろく)の系譜> 


    杉浦家は母の曾祖父が酒井家(源氏新田一族系)より分家した初代:杉浦清右衛門を襲名した事に始まる。

    曾祖父 杉浦清右衛門(重文、号
杉浦楠)は数学・物理学に優れ、養父 井上朝良の母方(貞明皇后)

    高祖父宗像清左衛門(素八、号
横井松楠)の引き立てを得て熊本藩砲術指南役(300石)に抜擢された。

    熊本藩 宗像家は宮本武蔵を号した祖師を初代とし、江戸幕府四代目将軍以来、歴代の御三家・三公卿・

    全国藩主一族系の統括本家である。

 
   杉浦源六(1882年4月1日生:血液O型)は杉浦源吉(重剛)(1855年:安政2年3月3日生)と酒井まん

    (1858年:安政5年9月6日生)を父母とし、母智枝からは「~曾祖父源吉は祖父源六誕生後、すぐに病

    死した~と、お婆さんが言っていた」と嘯
(うそぶ)いた。

    しかし墓地の存在も無く、少年の頃から疑問を抱いていた。子供の頃に実情を知る友人の母がニャ~と笑

    っては「~お前さんのオッカさんのお婆(祖母まん)さんは~」とか「~お前さんのお爺さんは~」と何か意味

    ありげに言いだしては口を閉じた。この小母さんはエグイさんと呼んだ高齢の父親がいて、養子をとっていた。

    今、思えば広い屋敷の一角に庭園付きの別邸が在り、曾祖父源吉(杉浦重剛)と親しかった様な気がする。

    またお爺さん(源六)の秘密に20歳6ケ月の頃、恋人との間に子女(杉一、8歳8ヶ月で没)がいた。

    やもめ暮らしで実直な曾祖母(まん)の戸籍上の子女にしていた。母(智枝)は小学校3年生の時に碧南の

    結核療養所で母親(八重)を亡くし、父兄とは東京と別居し、曾祖母が母親がわりで女学校4年間、卒業し

    た昭和6年4月12日に亡くなるまで二人で生活した。母智枝は敬愛する曾祖母の戸籍偽装を常々、怒って

    いた。

    杉浦重剛(しげたけ)は留学先のヨーロッパ(ロンドン)で病を患い3年を区切りに帰国した。

    養生を誕生の地、滋賀県大津(熊本、萩)に帰らず、父親の杉浦清右衛門(杉浦重文、号 楠陰)の郷里、

    愛知県三河で静養した。

    我が家の隣には大津屋敷に似た二男源吉(重剛)の屋敷が在った。その家で酒井まんとの間に誕生したのが

    杉浦源六である。3年間の静養生活を終え、息子源六を託し天下国家の為に召還されて単身東京に出た。

    後に重剛は東京で伯爵令嬢と結婚し家族を得る。

    <晩年の祖父源六と母智枝の目付きは曾祖父重剛とうり二つである>
 (2011/2/24:記載)

    杉浦源六は愛知教員養成所(現・愛知教育大学)より東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業し、理系

    大学進学塾の研数学館で数学と物理の教師として7~8年間携わった頃、国家機関に召還されて朝鮮・満州

    鉄道布敷設計技師、責任者として勤務、傍ら大陸:日本人会会長に就任した。


 
   満州事変で友人の張作霖が暗殺され身の危険を思い、家族を郷里:愛知県三河に帰還し、身辺整理、

    引継ぎをして一年後に帰国した。

    しばらくして源六は上京し、東京都葛飾区で様ざまな事業を興し、下町界隈の億万長者として成功裡に

    その生涯を終えた。

    また郷里の為に碧南と安城を挟む「油ヶ渕」より碧南と高浜を流れ三河湾(衣浦湾)に貫ける灌漑運河を

    発案し設計施工運営に着手し、郡と県の事業として完成。常襲的な洪水防災と農業・工業繁栄に貢献した。


    
                                           (2008/1/4:掲載、10/13:修正)



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    <養父井上朝良(ともよし)の系譜皇族の実父


    祝養父井上朝良生誕100年記念1909年(明治42年)11月3日誕生日(明治天皇と同日:実際は12日)。

      「
養父朝良 父親大正天皇祖父明治天皇曽祖父孝明天皇」 (2008/11/ 1:掲載)

    
<姉に綾子、弟三笠宮崇仁の下に妹郁子、末弟奎介は5歳で早世:史上初公開 (2013/8/19:記載)

    養父 朝良(血液O型)は藤原系母:貞明皇后と朝廷系父:大正天皇の四男として誕生し、面がまえは父系

    祖父:明治天皇似であった。

    実は養父 朝良の満12歳誕生日の翌日、原 敬 首相 暗殺事件に連座して母方系祖父:横井時雄(井上家)

    の六男として入籍し隠遁生活に入る。

    祖父:横井時雄が井上姓を襲名した経緯は5歳の時に横井小楠が江戸で密談中、刺客に襲われ闘わずし

    てその場から身をかわし逃亡:士道忘却罪(武士道)に問われた。<阪本龍馬も弟子と伝わる>

    その父親 横井小楠の窮地の中で一人息子の保護亡命の為に井上家(一族系)の跡目養子に入った。

    現在の熊本駅より南熊本駅一帯の田畑と花岡山一帯で、義兄には明治憲法草案者井上毅、弟の鉄道王

    井上勝兄弟は横井松楠と吉田松陰(横井小楠)の弟子であった。

    実は横井時雄と号井上円了とは同一人物である。

    1909年大日本製糖疑獄事件に巻き込まれた井上円了は創立した哲学館大学と長女貞明皇后の名誉を守

    るために学長を穏便に辞退し刑に服した。そして刑務所で木工家具技術を身につけて、才能を発揮し、大正

    家具ブームの先駆けと成った。

    横井時雄が60~61歳の時、中国大連市で号井上円了は病死を名目に葬儀を執り行った。

    実際は時雄の長男源八の子息 英一が大連市留学先に於ける悲しい急病死(多分インフルエンザ)であった。

    この葬儀を号井上円了60~61歳没の名目的葬儀とし、東京に墓を造営した。

    次に大分県別府市で号横井時雄が没した・・・!?

    ・・・実は米国エール大学へ共に留学した2歳年下の某親友が脳梗塞で倒れ、10年間病んだ末の病死を号

    横井時雄70歳の葬儀とした。実祭は最後の最後まで様々な活動の末、熊本県人吉市で79歳9ヶ月、初秋に

    母(智枝)が半年間看護し、臨終に看取られて息を引き取った。

    三回目は身内でしめやかに葬儀をした秘密の多い風雪の曾祖父(戸籍上は祖父)であった。

    養父 朝良の両祖父「横井時雄と明治天皇」は両者の父「横井小楠と孝明天皇」共通の教訓(暗殺)と危機管

    理即ち両者内意による皇統孫保全策の為に養父 朝良を隠遁亡命させた。<養父はこの真意を見事に遂行した>


 
   養父の母方系 異母(先妻)叔父で戸籍上・四男の兄、歯科医師井上藤吉の家族として生活を共にした。

 
   日本には100年程前は現・東京歯科大学<当時・高山歯科医学院>しか無かった。二番目に現・日本歯

    科大学<当時・共立歯科医学校>が新設された。この新設大学の第一期で特待入学した井上藤吉、妻と娘

    信子の家族として、また東京五反田で開業した歯科医院で助手を勤めた。


   
      早稲田大学野球部時代 前列左より7人目「右より2人目」 (2011/1/13:掲載)



  

      現・日立製作所野球部時代
中列左より5人目「右より5人目」 (2011/1/13:掲載)

    最終学歴は1927年(昭和2年)春に早稲田大学 理工学部 機械工学科に入学し、血気盛んな青春期に叔父

    の下に何時までも世話に成る気まずさからか、大学3年生より理工学部の昼間授業を辞退し、1929年(昭和

    4年)春より生活共に自立を志し開校二年目、夜間授業の早稲田高等工学校の授業を選択し、1931年(昭和

    6年)春 早稲田大学 第二部機械工学科の卒業証書を授与された。(注意:初等教育は「数え歳」で入学)就職

    は東京瓦斯電機(現・日立製作所)に入社し、学生と会社時代を通して野球部に所属し、ピッチャーで活躍した。

 
   1932年(昭和7年)5月2日に母(杉浦智枝)と品川区五反田の雉子神社(雉子宮)で結婚した。

    ~ 秘かな事情から翌年1933年(昭和8年)初秋に婚姻届をしている ~

    結婚当初、まだ学生服で会社に勤務していた養父は母と一緒に出掛けた時、「チョッと待っていて!」と言って、

    暫くしてスーツ姿で現れ「質屋で交換してきた!」・・・と。実の両親(天皇 皇后)とは特殊な情況に置かれ、

    孤独に耐えた少年期。赤貧手洗う如き貧乏学生時代を忍んだ一徹な養父のエピソードだ。


                                      (2008/11/1:掲載
2010/10/7: 追記)


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