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ブドウが兵器 2 years ago
ブドウが兵器

ネットを見ていると、
日本でブドウが兵器の原料として栽培されていたとか。

電探の部品として利用された。

酒石酸カリウムという物質があり、これは圧力や振動をくわえると、電池のように電極が生じる「圧電効果」をもっています。

この性質を利用し、潜水艦に取り付ければ、敵潜水艦の音を器械に取り込むことができる。

別に潜水艦のソナーに限ったことではなく、スピーカーなども似た構造を持っている。

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柏原ぶどうの由来

柏原ぶどうは、一名「河内ぶどう」あるいは、「堅下ぶどう」と呼ばれています。

栽培は古く、今から280年前(宝永3年)と言われており、明治20年頃までは、家屋の日陰樹として、わずかに栽培されていました。

現在栽培されている甲州ぶどうは、明治11年頃に、大阪府が沢田村(現藤井寺市)に設けた指導園で育成した苗木を、堅下村平野(現柏原市)の中野喜平氏が栽培に成功したのがきっかけになって普及しました。

大正時代は、第1次世界大戦後に好景気が続きぶどうの需要が増大しました。
当時は、交通事情が悪かったので、他府県産ぶどうの入荷量が少なく高価に販売されたので大増殖しましたが、その結果、生産過剰になったため、大正10年に出荷組合を設立して他府県へ貨車で出荷販売し、昭和3年~10年には大阪府は全国で第1位のぶどう産地に発展しました。

その後第2次世界大戦中、食糧難や労力、肥料など生産資料が不足したため、減反したが、ぶどうは電波兵器に必要な酒石酸製造のため栽培されました。

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更に検索すると、

ワインと酒石酸

ぶどう酒から取れる「ロッシェル塩」には圧電現象があり、これが潜水艦や魚雷の発する音波をキャッチする水中聴音機の素材として、昭和17年以降、急速に需要が高まった。

贅沢品とみなされたブドウやぶどう酒を作るぶどう園が食糧増産で潰されかかっていたが、酒石酸の需要が高まり、多くのぶどう園が助かった。

酒石酸には、”石(いし)”の字が入っているので、興味を持ち、ぶどう酒からつくれることも初めて知った。
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酒石酸の歴史

これと言って大きな化学産業がなかった18世紀まで、醸造業は、化学の発展に大きな関わりをもっていた。ぶどう酒醸造の際の副生物である酒石酸は、当時、大量に純粋なものが得られる数少ない物質の1つであった。

1655年   セニエット      仏の港町ラ・ロシェがロッシェル塩調製
1769年   K.W.シェーレ   酒石酸発見
1822年   ケストナ       酒石酸の異性体ブドウ酸発見
1848年   L.パスツール    酒石酸に右・左旋性があること発見
1874年   ファント・ホフ    炭素正四面体で酒石酸の立方異体を説明
1880年   キュリー兄弟     ロッシェル塩の圧電気現象を発見
1951年   バイフィート     酒石酸の絶対立体配置の決定に成功
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ブドウは兵器だ

昭和17年5月、某海軍技術大佐が、イ号潜水艦でドイツから帰国した。大佐の使命は、ドイツで開発した秘密兵器を製造するための情報収集であった。

昭和18年1月、海軍軍需工場から、サドヤに、「酒石酸加里ソーダが軍事上必要になった。できるだけ、大量に集めて欲しい。」旨の申し入れがあった。

5月ごろ、日本全国のぶどう酒醸造業者が酒石の結晶体の採集をはじめ、サドヤに集め、精製した。

地上より水中のほうが早く伝わる音波を探知する兵器は、昭和17年はじめから、各地の軍需工場で量産する段階に入った。

昭和19年、陸軍からも、南海の孤島で戦う守備隊が、海水から真水を作る脱塩剤の主原料となる酒石酸の大量注文があった。

酒石酸は、ぶどう酒の中に0.5~0.7%の微量しか含まれていない。酒石酸の結晶は、酒樽の内側にこびり付いているので、タガを外して分解し、結晶を削り取って採集した。

ロッシェル塩の精製事業は、甲府大空襲でサドヤが焼ける昭和20年7月6日まで続き、この間精製したロッシェル塩は、20数トンに達したと言われている。

参考文献

1)山梨日日新聞社編:ぶどう酒物語,山梨日日新聞社,昭和53年

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ブドウと酒石酸を探しますと、
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株式会社はこだてわいんの歴史に

1865年頃より函館及び七飯町周辺において西洋式農業の導入が始まり、明治初期には同地においてワイン用葡萄栽培が試みられました(ガルトネル農事試験場、後の七重官園が設置され、当時ワイン、ブランデー等が試験製造されていたという記録が残っています)。

そして昭和4年、七飯町を一望に望む駒ケ岳の大噴火の後、駒ヶ岳近郊の森町において山葡萄が勢いよく芽吹き、それを契機として駒ケ岳山麓に葡萄果樹園が設置され、同時に葡萄酒醸造がはじまりました(望月農場)。その後小原商店(現株式会社小原)がその醸造免許を昭和7年(1932)に取得し、本格的にこの地にてワイン造りがはじまりました。

当時は主に自生の山葡萄を原料にしたワインを製造し、「ホワイトベア」「白熊葡萄酒」というブランド名で第二次世界大戦前までには、北は樺太や千島まで販路を広めたと言われています。

戦争中は電波兵器の原料として酒石酸を多量に供出し、職員も戦地に赴くなど不安定な状態が続いたものの、戦前戦後の一時期にはウイスキーやスパークリングワインなども製造していました。
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その他から
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国産ワインの需要も少なく各地で細々とつくられているだけであったが、

第二次世界大戦中にワイン製造の際の副次品である酒石酸から生成されるロッシェル塩結晶が兵器(音波探知)の部品になるとして、国内でぶどう酒醸造が奨励され、大増産された経緯もある。

ところがこれはあくまでも軍事兵站上の需要であり、飲用を主目的としたものではなかった。

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菱沼中央醸造