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「翰苑」<倭伝> |
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本文の
「翰苑」<倭伝>(サ)にある倭面上国は、「通典(北宋版)」<倭伝>(ツ)からもわかるように倭面土国の誤記または誤写であると思われる。つまり、7世紀の「翰苑」と11世紀の「通典(北宋版)」は同じ倭面土国の語句を記しているのである。 倭面土(国)の中国語音はいつの時代のものを調べたらよいのだろうか。
「翰苑」の成立は
倭の字には
2種の音がある。それらは日本人の理解する(ゐ)と(わ)にあたり、次の図表「委・倭の古代音」に示すとおりである。
「委・倭の古代音」 |
倭の字は、一般的には倭国、倭人などのように(わ)と読まれるが、倭面土国の場合は(ゐ)の方の音を使っている。
先に、「
「付録図表 11-2・大和の古代音-2」発音記号の部分は、滑w習研究社発行 藤堂明保編「学研漢和大字典」による |
(注)仮名の(甲、乙)については< 万葉仮名と借字>をご覧下さい。(注)赤字の部分は[やま乙と]を表している。青字の部分は[やま乙と]を表そうとして いるが表しきれていない事を示している。 (注)[ua、わ]が頭子音などの後にくる場合は、 [a、あ]に、かなり近い音として聞 こえる。[u |
この図表を見る限り、邪摩堆、邪馬台(国)が明確に
[やま乙と]を表しているのに比べると、倭面土(国)は、中古音では[ゐぇみぇ甲と]としか読めない。似てはいるが、やはり邪馬台(国)などの[やま乙と]とは少し違うのである。 次を見てみよう。
後漢の人物班固(はんこ)は、西暦
82年に「(前)漢書」を著したが、この史書に倭面土国の語句解釈に役立つ記事が載っている。次は「(前)漢書」<地理志倭人条>の原文である。
「漢書」<地理志倭人条>(原文) (本文) (注) 台湾商務印書館発行 「百衲本二十四史 第2巻」漢書 より |
次は「(前)漢書」<地理志倭人条>(本文)の訳文である。
「漢書」<地理志倭人条>(本文)の訳 楽浪郡付近の海域(の島々)に倭人が住んでいる。 (倭は)100余の国々からなっている。 年の変わり目、または季の節目には朝貢に来るという。 |
「(前)漢書」<地理志倭人条>(注)は難解であるとされているが、先入観を入れないで読めば理解できる。次がその訳文である。
「漢書」<地理志倭人条>(注)の訳 如淳の注 (本文中の「倭人」の語句をみて) 入れ墨をしたような変な顔をした種族が、帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い 所)に住んでいる。 臣 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて) 「倭」というのは国名であって、入れ墨をしているという意味ではない。古くは これ(倭)を委と言った。 師古の注 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて) 如淳は『入れ墨をしたような変な顔をした種族』と注をしているが、どうして、 (倭の)音は「委(ゐ)」の字だけしかないとするのか。(倭の音は)この(委 [ゐ]の字の)音ではない。「倭」の音は「一戈反(わ)」である。今でもなお 「倭」という国はある。 (史書の)魏略に次の様に載っている。 『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。 海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』 |
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<語句の説明> (注の人物) 臣 師古は7世紀前半の人物(唐) (蓋…耳)「どうして…だけなのか」または「どうして…だけではないのか」の意味 (一戈反)音を表す「反切」という手法。AB反、またはAB切と書いた場合は、「A 唐の頃は、「一」の音は[・i [ua]、したがって「一戈反」は[・ua]となり、「倭」の音[・ua、わ]を表して いる。 (魏略) 3世紀の魚豢(ぎょかん)撰述の史書。逸文しか残っていない。「魏志倭人伝」は「魏略」を参考にしたといわれる。 |
この中で重要なことを箇条書きにしてみよう。
(「漢書」<地理志倭人条>でわかること)
もう一つの中国史書を見てみよう。
もう一つの中国史書とは、おなじみの「魏志倭人伝」である。
この史書の中で、邪馬台国連合の風俗を記述していると思われる箇所に、次の記述がある。(
男子は大人も子供も、皆黥面(げいめん)文身(ぶんしん)している。 |
黥面とは顔の入れ墨(刺青)、文身は体の入れ墨(刺青)のことである。
このことから次のことがわかる。
(「魏志倭人伝」でわかること)
上記の
(5)からもわかる様に、唐の頃は、倭人=倭面(ゐ面)=委面(顔に入れ墨)という認識があった。【結論】
「倭面土国」は、邪馬台国や邪摩堆と違って正確に
[やま乙と]を表してはいないが、この言葉の作成者は、「倭面」に国土の「土」を付けて「顔に入れ墨をした人の国(やまと国)」ということを言いたかったのである。「翰苑」<倭伝> へ |
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