倭面土国

目次

「翰苑」<倭伝>


付録11-6-2 倭面土国

 本文の「翰苑」<倭伝>()にある倭面上国は、「通典(北宋版)」<倭伝>()からもわかるように倭面土国の誤記または誤写であると思われる。つまり、7世紀の「翰苑」と11世紀の「通典(北宋版)」は同じ倭面土国の語句を記しているのである。
 倭面土国の読み方を探るのには、倭面の意味を知る事が重要である。中国史書には、倭に関連した記事の中に委面、黥面などの語句が見られる。
 先ずは、倭面土国の中国語音から調べてみよう。

1.倭面土の中国語音

 倭面土(国)の中国語音はいつの時代のものを調べたらよいのだろうか。
 「翰苑」の成立は
7世紀であるから中古音になるが、「通典(北宋版)」の作成は11世紀であるから中原音韻となる。しかし、7世紀に生まれた言葉がそのまま11世紀に受け継がれた、と理解するのが妥当であろうから、7世紀・唐代の中古音を調べなければならない。

 倭の字には2種の音がある。それらは日本人の理解する(ゐ)と(わ)にあたり、次の図表「委・倭の古代音」に示すとおりである。

「委・倭の古代音」

 倭の字は、一般的には倭国、倭人などのように(わ)と読まれるが、倭面土国の場合は(ゐ)の方の音を使っている。
 先に、「
付録11-6-1 大和と邪摩堆と邪馬台国」の「付録図表11-1・大和の古代音」で、大和、邪摩堆、邪馬台国の古代音の関係を示した。この図表に倭面土(国)の古代音を組み合わせて同時に示したのが下記図表である。

 「付録図表11-2・大和の古代音-2

    発音記号の部分は、滑w習研究社発行 藤堂明保編「学研漢和大字典」による

(注)仮名の(甲、乙)については<万葉仮名と借字>をご覧下さい。
(注)
赤字の部分は[やま乙と]を表している。青字の部分は[やま乙と]を表そうとして
  いるが表しきれていない事を示している。
(注)
[ua、わ]が頭子音などの後にくる場合は、 [a、あ]に、かなり近い音として聞
  こえる。
[][][ue][]の関係も同じことが言える。

 この図表を見る限り、邪摩堆、邪馬台(国)が明確に[やま乙と]を表しているのに比べると、倭面土(国)は、中古音では[ゐぇみぇ甲と]としか読めない。似てはいるが、やはり邪馬台(国)などの[やま乙と]とは少し違うのである。
 これだけを見ると、倭面土国は(やまと国)ではない、との意見が出てきても当然である。
 しかし、倭面土国という言葉の作成者は、
[やま乙と]を表すのに、どうしても倭面という文字を使いたかったのである。その理由は唐以前の中国史書に示されている。

 次を見てみよう。

2.委面の倭人

 後漢の人物班固(はんこ)は、西暦82年に「(前)漢書」を著したが、この史書に倭面土国の語句解釈に役立つ記事が載っている。

 次は「(前)漢書」<地理志倭人条>の原文である。

 「漢書」<地理志倭人条>(原文)

(本文)
 夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云

(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「
如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
    魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」

         台湾商務印書館発行 「百衲本二十四史 第2巻」漢書 より

 次は「(前)漢書」<地理志倭人条>(本文)の訳文である。

「漢書」<地理志倭人条>(本文)の訳

 楽浪郡付近の海域(の島々)に倭人が住んでいる。
 
(倭は)100余の国々からなっている。
 
年の変わり目、または季の節目には朝貢に来るという。

 「(前)漢書」<地理志倭人条>(注)は難解であるとされているが、先入観を入れないで読めば理解できる。次がその訳文である。

「漢書」<地理志倭人条>(注)の訳

 如淳の注
 (本文中の「倭人」の語句をみて)
  
入れ墨をしたような変な顔をした種族が、帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い
  所)
に住んでいる。

 の注
 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて)
  
「倭」というのは国名であって、入れ墨をしているという意味ではない。古くは
  これ
(倭)を委と言った。

 師古の注
 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて)
  
如淳は『入れ墨をしたような変な顔をした種族』と注をしているが、どうして、
  
(倭の)音は「委(ゐ)」の字だけしかないとするのか。(倭の音は)この(委
  
[]の字の)音ではない。「倭」の音は「一戈反(わ)」である。今でもなお
  「倭」という国はある。

  
(史書の)魏略に次の様に載っている。
  『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。
  海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』

<語句の説明>

(注の人物)
  如淳は
3世紀中頃の人物(魏)
  臣
34世紀の人物(西晋)
  師古は
7世紀前半の人物(唐)

(蓋…耳)「どうして…だけなのか」または「どうして…だけではないのか」の意味

(一戈反)音を表す「反切」という手法。AB反、またはAB切と書いた場合は、「A
  字の声母(頭子音)」+「B字の韻母(母音など)と四声」で
1字の音を表す。
  唐の頃は、「一」の音は
[・i]で声母は[]、「戈」の音は[kua]で韻母は
  
[ua]、したがって「一戈反」は[・ua]となり、「倭」の音[・ua、わ]を表して
  いる。

(魏略)3世紀の魚豢(ぎょかん)撰述の史書。逸文しか残っていない。「魏志倭人伝」
  は「魏略」を参考にしたといわれる。

 この中で重要なことを箇条書きにしてみよう。

(「漢書」<地理志倭人条>でわかること)
(1) (原文の注)で、如淳は「倭人」を指して「如墨委面」と言っている。彼は倭人の倭を(ゐ)と読み、「倭人=委人=委面の人」と理解したのである。そして、「墨(入れ墨)」と「委面」を結びつけ、訳文にあるように、倭人を「顔に入れ墨をした人」であるとした。
(2) <語句の説明>にあるように、如淳は3世紀の人物である。この頃から「倭人」は「委面」であるという認識があったことがわかる。
(3) 「師古の注」で、「倭の音は委(ゐ)だけではない。倭人の場合は(わ)の音である。」と言っている。つまり、「倭人」の倭を(わ)と読んだ場合は「倭国の人」という意味になるが、(ゐ)と読んだ場合は「委面の人(顔に入れ墨をした人)」という意味なることを示している。
(4) 「師古の注」を読んでから「臣の注」に戻って、もう一度読んでみると、臣も師古と同じ事を言っていることがわかる。つまり「臣の注」は、「倭は(わ)という国のことである。尤も、昔は倭の字の代わりに委(ゐ)の字を使ったこともあったから、如淳も間違えて倭を(ゐ)と読んだのだろう。」と解釈できる。(注;下線の部分は、金印文字「漢委奴国王」の委の字のことを指して言っているのかも知れない。)
(5)  <語句の説明>にあるように、師古は7世紀の人物である。この頃にも、倭は(わ)と読むのが正しいが、(ゐ)と読んだ場合は、倭=倭面(ゐ面)=委面(顔に入れ墨)という認識が続いていたことがわかる。

 もう一つの中国史書を見てみよう。

3.黥面文身の国

 もう一つの中国史書とは、おなじみの「魏志倭人伝」である。
 この史書の中で、邪馬台国連合の風俗を記述していると思われる箇所に、次の記述がある。(
「第2章第2節 5.大久米命」で既出)

 男子は大人も子供も、皆黥面(げいめん)文身(ぶんしん)している。

 黥面とは顔の入れ墨(刺青)、文身は体の入れ墨(刺青)のことである。
 このことから次のことがわかる。

(「魏志倭人伝」でわかること)
(6) 「魏志倭人伝」の選者・陳寿は3世紀の人物であり、「漢書」<地理志倭人条>(注)の如淳と同時代である。如淳が「顔に入れ墨」と「委面」を結びつけたのは、「倭人は顔に入れ墨をしている(黥面)」という知識を、あらかじめ持っていた為であることがわかる。
(7) もともと「委面」に「顔に入れ墨」という意味はなかったが、如淳が両者を結びつけてから「委面」に「顔に入れ墨」の意味が含まれるようになった、と考えられる。

4.倭面の国

 上記の(5)からもわかる様に、唐の頃は、倭人=倭面(ゐ面)=委面(顔に入れ墨)という認識があった。
 倭面(ゐ面)の音は
[ゐぇみぇ]であるが、この「倭面」をもじって「やまと国」を表すというのが、「倭面土国」という言葉を作成した者の意図であった。

【結論】

 「倭面土国」は、邪馬台国や邪摩堆と違って正確に[やま乙と]を表してはいないが、この言葉の作成者は、「倭面」に国土の「土」を付けて「顔に入れ墨をした人の国(やまと国)」ということを言いたかったのである。


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