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入門にして傑作選『大江健三郎自選短篇』

大江健三郎自選短篇 つくづく恵まれている。

ノーベル賞作家が、自作ぜんぶを読み直し、選びなおし、加筆修訂した定本のベスト版、これが1500円で釣銭くるなんて。どれだけ日本って有り難いのだろう。中毒性の高い大江節を読みながら、嬉しさにまみれる。

 同時に、通して読むことで、時代性と普遍性のトレードオフが浮かび上がる。デビュー作『奇妙な仕事』や初期の『死者の奢り』『飼育』『セヴンティーン』を横断する、戦後日本の閉塞感やグロテスクな性のイメージが見える。面白いことに、この閉塞感やドロヘドロ感、もはや戦後ですらない現代にあてはめても伝わってくる。

 たとえば、初期作品に共通して出てくる「粘液質の膜」や「無関心の甲冑」という概念。何かに熱中したり、怒りを持続させることもなく、あいまいで、疲れやすい「僕」を包んでいるものとされる。生の現実に触れられないもどかしさと諦めを正当化するための「膜」だ。作品によって、外部から隔絶された療養所の壁だったり、やわらかい自意識を他者の視線から守る特攻服だったり、姿かたちを変えている。

 これはA.T.フィールドだね。自分を自分たらしめる排他的な精神境界で、エヴァなら防御壁も展開できる「膜」になる。そして、無関心の装甲は、外部から身を守る防具というよりも、膨れ上がる自意識を押さえ込むための拘束具になる。自我にひきこもり、リアルに到達できない息苦しさや焦燥感は、時代を超えてシンクロする。『セヴンティーン』なんてまさにそれ。イデオロギーを脱臭すると、性欲と反抗心の区別がつかない、ありふれた17歳がそこにいる。イマドキの高校生のほうが、もっとA.T.フィールドを発達させていると思うぞ(幸か不幸か別として)。

 そして、中後期の私小説「もどき」から得られる快楽は、音楽を聴く快感に似ていることに気づく。エッセイのような独白のような書きかたで、ストーリーラインは後ろに引っ込んで、ときおり浮かび上がる主旋律を追いかけるような体験だ。これは、外国文学の上手い翻訳を読まされているような感覚で、村上春樹の文を思い出す(ハッキリした物語性をもつ村上とは好対照なのに、なんとも不思議だ)。

 なかでも「レイン・ツリー」シリーズは白眉。ブレイクの詩から導かれる連想と、著者自身の子ども時代の回想と、知的障害を持つ長男をとりまく状況を結い合わせて、いわば三重奏の夜想曲のような構成をもつ。エピソードが切り替わるたびに、メインフレーズが引き継がれ、異なる解釈からイメージが膨らみ、転調し、次のエピソードにつながる。これらを物語にするつもりはないことは、連作の一つを読みきれば分かる。だから、話がどう転がっていくかは作者おまかせとなる。さらに、時制は「この短篇を書いている現在」で読ませているため、これは大江一流の"意識の流れ"ではないかと。

 ただし、ストーリーテラーとしての大江を期待するならば、長編なのかもしれぬ。中後期の短篇を見る限り、おおかたの作家と同じく、私小説の罠に陥っている。長編小説でネタを出し尽くしたのか、現実と非現実の境があいまいなのだ。語る(騙る)ものが無いから、過去の自作とからめたり、生活半径15メートル以内の家人に委ねることでシノいでいる。物語であれキャラクターであれ、あるいはレトリックとしての文学であれ、「騙るちから」は長編に期待しよう。

 あとがきにて、大江はこれらの短篇から、自分の生きた「時代の精神」を読み取りうることを願っている。その試みは確かに成し遂げられているが、スカしているなとも思う。あの時代の体臭を伝えたいのなら、右翼エネルギー満タンクの『政治少年死す』を載せるべきなのに。イデオロギーの嫌悪感を逆なでするようなドギツい描写に辟易するだろうが、「騙るちから」に満ちている。なぜかネットでしか見かけないので、黒歴史に入るのだろう。生きてるうちから神格化されつつあるお口直しにどうぞ→『政治少年死す』

 セックスとイデオロギー、祈りと救済。大江文学のエッセンスが凝縮された、入門にしてベスト短篇集が、一冊で読める。とかく日本は有り難い。

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