内田樹(うちだたつる)って知ってる?ひょっとしたら、今最も「影響力」のある思想家かもしれない。神戸女学院大学の教授をしてて、現在は退職して「凱風館」という道場をかまえている。思想家であり、合気道を修める武道家でもある。
凱風館です。誰でも合気道を習えるみたい。
内田樹の考え方は、好き嫌いが別れると思う。というより、受けつける人は受けつけるし、受けつけない人はまったく受けつけない種類のものだ。内田樹は25歳のときからずっと合気道に打ち込んでいて、身体感覚に根ざした発想で話を展開する。切り口を変えながら、身体に染み込ませるように同じことを繰り返し言うので、読んでいると道場に通って武道の練習をしてる感じがしてくる。
内田樹を批判する人も多いが、そういう人の気持ちはわかる。内田樹は「科学的」とされる論の進め方をしていない。科学にとって大事なのは「反証可能性」で、理系だったら再実験して結果が同じになるか、再現性を確認できるかということになるし、文系だったら引用されてる文献やデータにあたって反論したり違った解釈の仕方を示せるということが重要になる。でも内田樹の思想は、そういった「科学的」な手法で捉えにくい部分、身体性とか感覚とか常識を扱ってる。誰でもアクセスできるデータではなく、自分の経験と身体性を担保にして語る啓蒙的なやり方だから、まあ宗教に近いと言えばそうなのかもしれない。
論に破綻や隙があるという以前に、まっとうに批判が成り立つ手順を書く側が踏んでいない。でも、学会に提出するわけでもないし、何かを主張するときに必ずしも「科学的」な手順を踏まなければいけないという決まりはない。レギュレーションを求めすぎると何もいえなくなったりする話題もあるし。
ただ、内田樹が批判を浴びるのは、その考えの射程があまりにも広いからだろう。武道の経験や身体性を重視の延長で、教育や政治や国際関係まで、かなり踏み込んで説得力のある形で(少なくとも多くの賛同者を集めるほど)上手く語れてしまうのだ。特定の人からすれば我慢ならないと思うし、場合によっては内田樹自身が的外れなことを言ってしまうこともあるだろう。(「時には間違ったことを言ってしまう」こと自体も、内田樹の思想の射程におさまってしまったりするのだが)
別に僕自身も政治的な部分では必ずしも内田樹の意見に賛同しない。
ただ、内田樹の思想は、彼に影響を受けた人や、影響を受けて行動する人が多くいるという意味で非常にパフォーマンスが高い。「それは学問的じゃない!」と叫んだり、揚げ足取りに躍起になったりする人は多いが、そういうことしたってあんまり生産的じゃない。
内田樹がこれほどまでの人気を集める理由はわかるような気がする。彼の考え方は現代という時代に疲れた僕たちの琴線に心地よく触れるのだ。「あまり無視しないようにしよう」とか「我慢するのは身体に悪い」とか「人には礼儀正しく」みたいな「当たり前」のことを言ってるだけなんだけど、そこがすごいところで、あらゆる話題を扱いながら、内田樹の語り口調で内田樹の解答を導き出している。
内田樹らしい文章を以下に引用する。
内田百閒先生に教えて頂いたことですが、同じものを食べ続けていると「味が決まる」ということがあります。
百閒先生は、ある時期、昼食にそばを食されることを習慣とされていた。同じ蕎麦屋から毎日同じもり蕎麦を取る。別にうまい品ではない。でも、毎日食べていると「味が決まってくる」。食物を待望する胃袋と嚥下される食物の質量が過不足なくジャストフィットすると、たかがもり蕎麦がいかなる天下の珍味も及ばぬ、極上の滋味と感じられる。たまたま出先で自分ときを迎えたりすると、もういつもの蕎麦が食べたくて我慢できない。先方が気を利かしたつもりで「鰻丼」など取ると、百閒先生はこれを固辞されたそうです。
快楽はある種の反復性のうちに存ずる。これを洞見と言わずして、何と言いましょう。「同じものばかり求めるファンは怠慢だ」という人がいますけど、それは筋違いですよ。ファンほど快楽の追求に貪欲な存在はありませんから。それこそが「正しいファン」のあり方なんです。(疲れすぎて眠れぬ夜のために)
これは内田樹が誰かのファンになるということについて語った文章だが、当の内田樹自身が最もここで書いたようなファンの受け手になっていると思う。内田樹の思想は毎日同じものを食べるような思想なのだ。
説明するのは難しいので、一度彼の書いたものを読んでみればいいと思う内田樹の研究室というブログをされている。ブログに書いたものを再編集して書籍をつくることが多く、主要な論は大方ウェブでも見られると思う。1999年からやってる超古参のブロガーなんだよね。尊敬します。
僕は内田樹の本は、単著として出版されたものなら9割方読んでる。彼のファンが多いということ自体は、喜ばしいことだと思ってる。それだけ「気分の良い人」が多いということでもある。考えは今の時流にマッチしているし、重要な示唆を多く与えてくれる。
ただ、それでも何か「違う」と感じる部分もなくはない。内田樹的な考え方が重要だと感じながらも、それは僕が感じているリアリティと相容れない部分もあって、その二つが退っ引きならなくぶつかったとき、「内田樹の思想」はどれだけ使い出があるのか、というのは結構面白い問題だと思うんだよね。
僕は90年代生まれだけど、それほど内田樹の考えが若い人のリアリティに即しているとも思えない。もちろん、いくら女子大生で教鞭をとっていたと言っても、もう60過ぎなんだから当たり前だ。だから、わりと若い人の視点から、内田樹のパフォーマンスを点検して、その限界と使いやすい部分を示すという試みは、ひょっとしたら生産的なものになり得るかもしれない。
内田樹の語り口はあまりにも明解なんだけど、あえて内田樹の「解説書」を作ってみるとか面白いかもね。
そうだな。タイトルは「もしブラック企業の幹部社員が内田樹の『こんな日本でよかったね』を読んだら」みたいな感じでどうでしょうか。
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