日本は、「学校」と「企業」が似たようなシステムになっていて、この二つが一時期めざましく成功したことがあった。もちろん今はそれが足枷になっているので、これからうまい手を打てなければ後に「失敗」として記録されることになるのかもしれない。
日本における学校や企業の特徴は、そこに所属しているということが何よりも重要になる「メンバーシップ主義」であり、その枠組みから外れれば人生詰むことになりやすい。
これは何も人々の意識や感情の問題だけではなく、雇用の仕組みから賃金制度、社会保障などの部分がすべて「学校」と「企業」の「メンバーシップ」という仕組みの中で賄われていて、そこから外れた場合の公的なサポートが整備されていない。
本エントリーは、河出ブックス『平成史』に寄稿された貴戸理恵著『教育-子供・若者と「社会」の繋がりの変容』を参考にしている。だが、僕の曲解によってねじ曲げられているところが多分にあると思うので、従来の貴戸氏の主張とは異なる可能性があることに注意してね。
まず、メンバーシップ主義に特徴的なのは「クラスメイト」や「同期」などの中間集団だ。年齢や入社年度で区切り、クラス分けなどでグループが決められ、先輩後輩の意識も強い。
「メンバーシップを得る」ということは、組織の構成員としての権利や義務を担うだけでなく、こうした中間集団(クラスメイトや同期など)に埋め込まれることを意味する。その埋め込みは、長時間を過ごす生活空間においてなされる点で身体・生理的であり、忠誠心やコミットメントが求められる点で精神的であり、「何のために私はここにいるのか?」という自己省察をあらかじめ封じる点で完全性を持つ。すなわち、組織のメンバーになるとは、学校のクラスや会社の同期集団、配属された職場といった具体的な場のなかで、まるごとの存在を没入させるような競争と協調の求めに応じていくことにほかならない。(貴戸理恵『教育-子供・若者と「社会」の繋がりの変容』)
学校や企業に「所属」し、クラスや同期という中間集団に割り振られる。このようなやり方には相応のメリットがあった。均質性のある中間集団は、「平等」と「競争」という矛盾した二つの理論を同時に成り立たせることに成功した。
日本人は勤勉だとよく言われ、それはもちろん人によるのだろうが、たしかに海外の多くの国と比べると勤勉と言っていいところがあるように思える。「ガンバリズム」というやつだ。
ガンバリズムとは、じわる単語だが、要するにみんな頑張るということで、これはメンバーシップ主義と、クラスメイトや同期という中間集団が一役買っているところがある。日本のメンバーシップ制は、同じメンバーの中に限っては「誰でもやればできる」という意識をつくりやすく、さらに高校や大学進学後も細分化されたランク別の仕切りがあるので「それなりの競争」が維持される。かつてはレベルを問わず、学校ごとの成績優良者に希望企業の斡旋するというインセンティブ政策も取られてきた。
だから、能力が「高い」とされる者も「低い」とされる者も、同一の種族集団の中で皆がある程度頑張りやすい仕組みを整えることができた。欧米だとすぐに「勝者」と「敗者」が決まり、教育と職が結びついている場合は特に階層が固定化しがちだが、日本はそのような固定化は緩やかだった。
学校と企業の形態は、学校の延長上に企業があると言っていいくらい、非常に似ている。新卒一括採用であり、年功序列で基本的には年代が上がるにつれて賃金も高くなっていく。
「メンバーシップ主義」という共通点があったからこそ、学校から企業への人材の橋渡しも楽に行うことができた。1968年の「青少年の職業適応に関する国際比率調査」では、初職への入職経路が「学校の紹介」である者の割合が、アメリカでは8.4%、イギリスが9%であるのに対して、日本だと49.2%もある。学校と企業が一体になって入職時のマッチングを円滑にしていた。このようなスムーズな移行システムは1980年代まではすごく上手く機能した。1990年における15歳から25歳までの先進工業国における失業率は、アメリカ11.2%、イギリス10.1%、フランス19.1%に対して、日本は4.3%だった。
そして企業に入った後は、年功序列であり、その企業のメンバーである限りは安定していた。ちなみに、貴戸理恵も引用しているが、「メンバーシップ」というのは労働社会学者の濱口桂一郎の議論であり、僕もかつて日本の雇用は「身分制」というエントリーで詳しく書いた。日本型企業の正社員には、会社をやめると著しく損をするという拘束性と責任の重さと引き換えに、高い給料と企業による福祉が与えられてきた。日本には高齢者向け以外の福祉、特に子育てや教育に関する福祉がまったく充実していないが、男性正社員の給料を高くする(税金あまりとらない)かわりに、子育てや教育は家庭で金を出してやれということになった。だから教育費用は高く、正社員並みの給料がなければ子供を育てることが非常に難しくなる。
「学校」→「企業」→「ずっと同じ会社」というレールが出来上がっていて、「真っ当な人間」なら高卒で働くか大卒で企業に入社して、ずっとその企業の中で昇進していく。女性の場合、その「真っ当な人間」と結婚して子供を生むことが「真っ当な」生き方になる。そのレールの上にいれば、制度も整ってるし保障も手厚いけど、そこから外れた人は人生オワタ\(^o^)/となってしまう。労働人口が多くて経済が成長しているときは問題があっても顕在化することなく、ある程度うまくいっていた(ように見えた)。しかしやがて、破綻が見え始める。
まず、産業が高度化し、正社員と呼べる特権的な身分のパイが少なくなってきた。高卒求人が急激に減って、大学に行かないと仕事に就けなくなってきた。人権意識も高まって女性が社会に進出したが、制度が整っていないので子育てと両立できない。そして、労働人口の高齢化が進み、能力のわりには給料の高い人材を企業が多くかかえるようになった。平均寿命が伸び、老人にかかる社会保障の負担が増えた。
わかりやすい問題は若年層の失業率の増加という形であらわれ始めた。しかし、「学校と企業が成功しすぎた社会」が人々の意識の上でも自明のものとなっていたから、制度政策的課題としての位置づけが大幅に遅れた。西欧諸国では、若者の雇用の悪化が即座に失業手当の負担増という問題としてあらわれたから対策を急がざるを得なかった。日本の場合は若年層の保障システムがもともと手薄だったから、問題は顕在化しなかった。
日本の場合、非正規やアルバイトの賃金が非常に安いが、それは「正社員」をメインにして、学生や主婦を周辺労働力として使うからこそ可能だった(他の先進国では移民がやるような仕事を日本人は国内で賄っている)。つまり、稼ぎ頭がいるから安い賃金でもいいだろうという考えで、うまく経済の調整弁になった。しかし、その「稼ぎ頭」が正社員の身分になれなければ、周辺労働力として設定された賃金で働くことになるし、当然家庭を持てるだけの金なんて稼げない。
新卒で誰もが正社員になれるわけじゃないし、待遇の悪さや先の見えなさに会社をやめてしまう人も多くなってきた。「学校」→「企業」→「ずっと同じ会社」というレールは破綻してしまったが、社会保障などの福祉はそのレールの上にしか乗っかっていない。しかも政府はそういう福祉システムに手を付けることなく、新自由主義などの理論をつかって雇用の流動化だけやろうとした。
だから現状、学校や企業の「メンバーシップ」というシステムは機能不全に陥っているのに、そのときうまくいっていた枠組みや福祉システム、そして当時「得」をしてきた人達の現状認識は残り続けている。
「学校と企業が成功しすぎた社会」とは、たとえば、「意図せざる絶妙なもたれ合いの結果、なぜか二者で三人分の荷物を持ち得ていた状態」であったといえる。そんな二者が、時代の波に足を取られてバランスを崩し、全部の荷物を落としてしまったらどうか。「それは二人の仕事だ」と認識してきた周囲は、「ちゃんとやれ」と文句を言うばかりで助ける術を知らない。しかし一度バランスを崩した以上、三人分の荷物など持てない。いや、もたれ合いに慣れた体では、ひとりが一人分の荷物すら、持てないかもしれない。そうしたなか、ますます多くの若者が、「仕事をして自活し、パートナーを得て子どもを産み育てる」という人生の可能性から疎外されるようになっている。(貴戸理恵)
ここで貴戸が三人としているもう一人は、社会福祉である。日本ではまだまだ職業施設などは色物扱いだ。また、「メンバーシップ」という類似したシステムの上でベッタリと寄り添っていた学校と企業は、二つ切り離してしまえば一つのシステムとしてすらまともに機能しないのではないかと指摘している。
良い時代のシステムが崩壊し、利点が消えて欠点だけが残った。予測可能性が高かった時代に形成された人々の意識は、予測外の多様性への不寛容をもたらす。「組織の一員」になれることで得られる多くの権利保障は、「個人」としては無保証だということに裏返しで、強迫観念にまでなる。正社員という枠は狭くなったのに、そこから漏れ落ちることに対する恐怖は高まり続ける。
これは単なる私見だが、過去に成功していたシステムは幻想だったんだけど、その幻想を引きずっているのは老害とされる人だけじゃなく、僕たちだってそうだ。「企業」の「メンバーシップ」が崩壊しつつあるのはわかるが、「学校」のそれは多分に残っているどころか、ある意味では強化されてすらいるかもしれない。
「クラスメイト」「部活の同期」「先輩後輩」などの中間集団が作り上げてきた意識は、まだ若い世代にも十分受け継がれているように思える。「平等」と「競争」という矛盾する要素を同時に抱え、逃げ場なく長時間を共に過ごす様々な経験や思いが混ざり合っているわけで、そこから生まれてくるものはどう考えるかというのは、一筋縄ではいかない問題だろう。
少しアニメやライトノベルなどの作品を見渡してみると、「学校」というものにどれだけの憧憬がつぎ込まれているのかがわかると思う。主な受け手が学生ということも関係しているのだろうが、あまりにも「学校」「学校」「学校」すぎる。
朝井リョウ原作の「桐島部活やめるってよ」を見たんだけど、そのクオリティの高さというか、込められてる思いの熱量に怖くなった。「どんだけ学校が好き(嫌い?)なんだよ!!」って。
あと、AKBなんかのアイドルグループだって「同期」や「先輩後輩」という中間集団の仕組みをうまく組み込んでいるからこそヒットしたところもあるだろう。
そこには、明解に示せないにしても、日本の「美徳」とされるようなものもあるんだと思う。だからこそ、上手くいった時代が終わった後も、僕たちは「所属」や「集団」からはじかれると目の前が真っ暗になり、何かを失ってしまいそうな恐怖にとらわれる。
とある自活できてない非正規社員のこれまで
読んだ。今や非正社員の57%が「自活」できずに家族と同居しているらしい。このエントリーを書いた方も、正社員というレールから落ちてしまって、"今までの選択がすべて間違っていた"と感じていた。
もちろん、そんなわけない。正社員になって「自活」しないと一人前じゃないというのは、労働人口が多い理想的な人口比率で、女性の人権が著しく低くて、わかりやすい仕事がたくさんあって、スライドを使ったプレゼンや簡単な表計算が専門技能とされていたような時代の話だ。その恩恵をうけたおっさん達は、たしかに一生懸命働いたのかもしれないが、大した能力もないのに一人前のプライドを持てる働き方ができたということ自体が今から見ればかなり運のいいことなのだ。
そういう奴らの言葉って一切無視でいいと思うんだよね。そいつらはただ運がよかっただけなんだから。でも金と発言力は持ってるし、何か言ってくるのが親族とかだったりしたらもうどうしようもない。
これから世の中がどうなっていくのかわからないし、メンバーシップ制を緩和していくとしても、劇的な解決策なんてないだろう。どうすればいいかというと、どうしようもないんだけど、運が良かった奴らの価値観を真に受けて嫌な気分になったり塞ぎこんじゃったりするようなことはないようにしたい。
わたし個人の例が、誰かに何かを考えさせるきっかけになればいいな。
痛みを感じながら、そう強く願いつつ書いたエントリです。
とブログ主の方は最後に書かれていた。僕はこのエントリーが十分ブログとしての役割を果たしていると思う。こういう事例は、怒りにしたって言い訳にしたっていい。個人のブログが何かパフォーマンスを発揮できるとしたら、耐用年数の切れた糞みたいな価値観に切り込みを入れていくことはその一つだ。
傷ついた魂ははてなに引き寄せられればいいし、みんな開き直って親や社会に寄生しながらご飯を美味しく食べればいいじゃない。どうしようもない場合はどうしようもないんだから。
ただ、今述べた問題とバーターになっている「美徳」の部分として、僕たちは開き直って自分さえよければいいと考える人は好きになれないはずだ。それでも、「考えが甘い!」とか「努力が足りない!」と横から言ってくるおっさんとか、そういうのに洗脳されたブラックソルジャーの言葉は無視していい。
漫画やアニメなんかで強化され続ける「学校」とその中間集団、そういった日本的なものから僕たちが「良い」と感じる部分だって、ブラック企業の経営者が手軽に振り回せるような、そんな安っぽくてくだらないものじゃないはずだ。
会社や組織に所属してなくなって何も引け目を感じることはないし、不登校でも学園モノのアニメを楽しめばいい。働かざる者食うべからずとか嘘だし、働かなきゃいけない時がきて仕事があったら働けばいいわけで、働かずにご飯が食べられるのなら嫌なことは考えずに美味しく食べるべきなのだ。
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